Episode9~私を視て~その7~
「???」
壁に埋まったルシウス当人ですら、己の身に何が起きたのか、まるで理解が追いついていなかった。
中庭の端から、事の元凶を見返す。
アサギは腕を組み、仁王立ちのまま、そこに佇んでいた。
「ふん!」
と、鼻息ひとつ吐き出すと、少女はゆっくりとルシウスの方へ歩き出す。
あまりの奇行に、フローラたちは互いに顔を見合わせたまま固まっている。サイードに至っては、衝撃のあまり、腕にかけていた術式を解いてしまっていた。
聖書の一頁のごとく、人垣が左右へ勝手に分かたれていく。その真ん中を抜けて、やがてアサギはルシウスの前へと辿り着いた。
混乱の冷めやらぬ頭で、少年は赤髪の少女を見つめ返す。
文句のひとつでも言ってやらねば気が済まない。そうして口を開きかけたところで、アサギがぽつり、ぽつりと、先に語り出した。
「大丈夫。かろうじて戦える程度には、手加減してぶっ飛ばしたから。
君ならきっと、すぐにでも起き上がって戦えるよ」
——なぜ、殴ったのか。
仮にあの一撃を、ルシウスが決めていたとしても。あの体だ、打ち込んだ反動で気を失い、その場で戦闘不能——脱落と判定されていた。だから、その前に、飛ばした。
彼女の言葉には、そういう計算が、確かに透けていた。
「ルシウスくん。魔導具を封じられて、領域型術式も扱えない今の君は——サイードくんを、ほんのわずか出し抜くことはできても。フローラさんを加えた、二人に勝つことは、絶対にできない」
軽く動かした手足の感覚は、鈍い。鈍いが、しかし彼女の言う通り、潰れきってはいなかった。
「どうしてか、わかる?」
アサギは、ひたと少年を見据える。
「それは、君が弱いから。勝てないのは、君のせい。……前にも、似たようなこと言った気がするな。何故って、君は聞き返してきたよね。答えは、簡単なことだよ」
何を言っているんだ、と頭を抱えたくなる。
だがその眼差しの真剣さが、拒絶の言葉を喉の奥で押し留めた。
ぐっと身を寄せ、アサギの柔らかな手が、ルシウスの頬を包み込む。
「ルシウスくん。ちゃんと、私を見て」
どこかで聞いた覚えのある台詞に、ルシウスの視線が俯きがちに沈む。
——が。
「私だけじゃない。サイードくんを。フローラちゃんを。ここにいる、みんなを。
ちゃんと見て。
大丈夫。私はちゃんと、君を見ているから」
次に少女の口からこぼれた一言で、ルシウスはハッと視線を持ち上げた。
真剣な眼差しが、望月色の眼を、まっすぐに射抜く。
「ルシウスくん。君にとって、今の私は何? 学園の問題児? 同じ寮の生徒? それとも——君を害する、敵?」
「……」
「私にとってルシウスくんは、この先も寝食を共にする仲間で、友人。……希望的観測だけど。きっと、かけがえのない関係を築く予定になってる人。
じゃあ、君は? 君にとって、私は何?」
「……俺にとって、お前は……」
「ちゃんと、見て」
逸らされかけた顔を、両の手が引き寄せる。
もはや、吐息を肌に感じるほどの近さだった。
「……わからない」
絞り出すように、ルシウスは言った。
「どうして?」
「……お前を、知らないから」
その答えを、アサギは笑わなかった。
呆れも、落胆もしなかった。ただ、ぱちりと一度だけ瞬いて。それから、いつものおどけた笑みとは違う、ひどく静かな笑みを浮かべた。
「知らない、か」
口の中で転がすように、彼女は繰り返す。
「うん。それなら、いいよ。ぜんぜん、いい」
——何が、いいのか。
訝る少年に、アサギは続けた。
「だって『知らない』は、『嫌い』じゃないもの。『敵』でも、ない。ただ、まだ真っ白なだけ。何も書き込まれていない、まっさらなページってだけの話」
だからね、と彼女は少しだけ身を引き、
「そのページを埋めるには、続きがいる。さぁ……ルシウスくん、立って、勝って、帰ろう。
それから、ゆっくり知ればいい。私のことも、みんなのことも」
立って、勝って、帰る。
その素っ気ない順序が、ルシウスの胸の奥で、奇妙に反響した。
——ルシウス、俺はお前に期待している。
いつか、兄がそう言った。たった一言だけを頼りに、何年も立ってきた。
思えば、その言葉をくれたのは、兄ただ一人だった。
父は、とうに自分を見限っていた。出来損ないと断じ、期待という眼差しを、早々に取り下げた人だ。
だからこそ、兄のくれた「期待している」は、暗がりに差したただ一条の光になった。それを失えば、自分にはもう、立っている理由すら残らない——いつしか、そう思い込むようになっていた。
けれど……あの一言の本当の意味を、自分は確かめようとしたことが、一度でもあっただろうか。ただ、見限られるのが怖くて、勝手に息を詰めていただけではないのか。
父の眼は、自分を値踏みして、切り捨てた。
兄の眼は、自分を測り、その先で認めようとした。
どちらにせよ——向けられる眼は、いつだって何かの物差しで、自分の価値を量るものだった。
しかし。
目の前の少女は、違った。
裏表を感じさせない屈託のない笑みを浮かべ、情熱をその身に体現したかのような少女。その瞳には、他人を値踏みする物差しなど、はじめから存在しなかった。
測ってなどいない。品定めもしていない。
見返りも、条件も、そこにはない。
ただ、今、此処にいる自分を、真っ直ぐに見ている。
それだけのことが、どんな拳よりも深く、ルシウスの奥を揺さぶった。
意味が、分からなかった。
どうして、この少女はそんな目で自分を見るのか。
何ひとつ分からないのに、それでも——眼を、逸らすことができなかった。
「……」
アサギが、すっと手を差し出した。
所々に擦り傷が散見する、それでいてまっすぐな手だった。
「ほら」
ルシウスは、その掌を見下ろす。
——握るな。
本能が、そう囁く。誰にも手出しはさせない。ついさっき、自分でそう吐き捨てたばかりだ。
差し出された施しを、これまで一度だって受け取ったことはない。一人で立つこと。それだけが、自分に許された生き方だと信じてきた。
だが——、
伸ばされたその手を、ルシウスは取った。
手の温もりでも、屈服でもない。名前のつかない、何か。ただ、生まれて初めて、他人の手に引かれて立つという経験だけが、そこにあった。
「……勘違いするな」
立ち上がりざま、彼は低く言った。
「勝つためだ。それ以外に、意味はない」
「うん」
アサギは、あっさりと頷く。
「それでいいよ。今は、それで」
いつもの、へらりとした笑み。追及もしない、要求もしない。ただ、隣に立っている。
ルシウスは横腹を庇いながら、視線だけを中庭の中央へと戻した。
♦︎
小休止は、向こう側にも等しく訪れていた。
サイードは片膝をつき、罅割れた鋼の腕を握り直しながら、荒い呼吸を整えている。その傍らで、フローラが弾幕の密度を細く絞り、乱れた術式を編み直していた。
「立った、のですか……」
フローラの視線が、遠く、ルシウスの方へ縫い留められる。
相方の手を借りて、立ち上がる少年。断罪すべき、失敗作。そのはずなのに——決闘が始まった頃の彼と、今の彼とでは、何かが違って見える。
どこが、と問われても、答えられない。
ただ、そのつかみどころのなさが、フローラの胸を、ざらりと逆撫でした。
「……面白えじゃねえか」
サイードが、口の端を歪めて笑う。
強がりだった。それでも、その眼の奥では、火がまだ消えずにいる。
観覧席では、レオニスがひとつ、詰めていた息を吐いた。
その隣。レグルスの深海めいた碧の瞳だけが、何を映すでもなく——ただ静かに、末の弟の姿を捉え続けていた。
どちらの陣営にも、もう、言葉はいらなかった。
傷ついた四つの影が、それぞれの足で、中庭の中央へと歩を進めていく。
審判の合図を待つ者は、もう、どこにもいない。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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