Episode7~災難~その5
「レグルス、お兄様………?」
掠れた声。その名を呼んだのは自分自身であるはずなのに、まるで遠くから聞こえた他人の声のように感じられる。
つい先程まで、ルシウスの胸中を占めていたのは絶望にも似た感情だった。
観られた。観られてしまった。
何より観られたくなかった相手に。期待を寄せてくれた兄に。
カルデンソフィアの名を背負う者として、最も晒したくなかった醜態を。
その事実だけで息が詰まりそうだったというのに、今度は、そのすべての始まりとも言える存在が目の前へ姿を現した。
ゆっくりと——けれど確かな足取りで、長身の男はルシウスへ向かって歩み出る。
白銀の髪が冬光のように輝き、蒼い瞳には深海の静けさが宿っている。端正な容貌は神話の一頁を切り取ったようだった。
ただただ美しい男だった。
しかし、その場にいた者たちの胸を最初に打ったのは、そうした表面的な美ではない。
———濃い。
誰もが言葉にならないまま抱いた感想は、きっと同じだった。
纏う神秘の濃度が、この場の誰とも違う。
魔術師として積み重ねた研鑽が、その魂に刻まれた核そのものが——根本から異なっている。
男が一歩進むたび、ざわめきが遠ざかる。
男が吐息を漏らすたび、誰もが無意識のうちに背筋を正す。
威圧しているわけではない。支配しようとしてすらいない。
それでもなお、人はただちに理解してしまうのだ——この男が、自分たちとは異なる高みに立つ存在であることを。
レグルス・C・アストランティア。
カルデンソフィア家の次期当主。魔術師協会が誇る若き至宝。
そして、ルシウスが幼い頃から追いかけ続けてきた背中だった。
「……はぁ」
予想できた光景に、レオニスは小さく肩を竦める。
失念していたわけではない。むしろ、考えないようにしていたかもしれない。
人払いをして衆目を避け、ルシウスには兄へ近づかぬようキツく言いつけた。だがルシウスが近づかずとも、レグルスの方から出向くことだって十分あり得た——そして今、その懸念は最悪の形で現実になっている。
案の定だった。
兄の姿をその望月色の瞳に映した瞬間、ルシウスは弾かれたように背筋を伸ばす。
乱れた呼吸を整え、制服の皺を正し、次の瞬間には片膝をついていた。
その動作に迷いはない。それどころか、長年繰り返してきた祈りのような自然ささえあった。
「お久しぶりでございます。レグルスお兄様」
深く垂れた頭。恭しく差し出された言葉。
それは敬礼であり、服従であり、信頼でもあった。誰よりも誇り高く、誰よりも反骨心の強い少年が、自ら膝を折って敬服する。
その光景に周囲は息を呑む。
しかし、レグルスは何も言わない。ただ静かに弟を見下ろしていた。
沈黙の中で、ほんのわずかに眉が動く。
あまりにも些細な変化で、周囲の誰一人としてそれには気づかない。
それは確かに感情の揺らぎだった。
やがて、規則正しく響いていた足音が途絶える。
不自然な静寂が降りた、その刹那——ルシウスが咄嗟に顔を上げるよりも早く、二人の間に一つの人影が割り込んでいた。
ブロンドの髪。細い背中。
先程まで背後にいたはずの少女が、いつの間にかレグルスの正面へ歩み出ていたのだ。
「お初にお目にかかります。カルデンソフィア家次期当主——レグルス様」
凛と張り詰めた声が上がる。
「控えろ! リヴィエール!」
ルシウスは即座に手を伸ばし、フローラの肩を掴んでその矮躯を強引に引き寄せた。
その背後で空間がわずかに揺らいだ気がした——怒りか、焦りか、あるいはそれらが入り混じった、別の何かの屹立。
それでも、ルシウスは腕を離さない。
張り詰めた空気が極限まで高まる。
周囲の生徒たちが固唾を飲む中、レグルスはただ一言だけ告げた。
「ルシウス」
静謐な声音だった。そこに怒気はなく、威圧する意図も感じられない。
それなのに——いや、そうだからこそ。
たったそれだけで、彼には十分だった。
「……失礼しました」
ルシウスは即座に手を離し、再び恭しく頭を垂れる。
先程まで背後から立ち昇っていた鋭い殺気も、雪解けのように霧散した。
その光景の渦中にいて、フローラはたまらず息を呑んだ。褐色肌の少年も、周囲の生徒たちも。誰もが呼吸さえも失ってしまうほどだった。
それほどまでに絶対的だった——レグルスという存在が。
……その一言が。
レグルスからフローラへ、静かに視線が向けられる。続きを促されているのだと理解するまで、彼女には数秒を要した。
暴れる鼓動を抑え込みながら、少女は改めて背筋を伸ばす。
「……先ほど、弟君より紹介されました通り、わたしはフローラ・リヴィエールと申します」
「……そうか、リヴィエール」
レグルスはわずかに目を細めた。
「記憶では、フランス革命時に興った霊薬術の家系だったはずだ」
「仰る通りでございます」
「歴史こそ浅いが、優秀な成果を協会へもたらしていると耳にしたことがある」
「次代の魔術界を担われる御方より、そのようなお言葉を賜れますとは……、父もさぞかし喜びましょう」
模範的な貴族同士の礼節の応酬。
しかしそれでもなお、レグルスの瞳だけは、最初から何一つ変わっていなかった。
彼女の奥底を見透かすように。その魂のあり方を測るように。
氷河の如き眼で、しんしんと見つめ続けている。
「君の瞳は何かを望み、欲するもののそれだ」
穏やかに流れつつあった時間を、レグルスの一言が静かに断ち切る。
「——リヴィエール嬢。貴殿は俺に何を望む?」
ルシウスの瞳が鋭く細められる。褐色肌の少年もまた重心を落とす。中庭全体が息を潜めているかのような中、フローラだけは真っ直ぐにレグルスを見上げていた。
恐怖の色は瞳の影に覗いている。目を凝らせば、膝はいまだ細かく揺れていた。
それでも、彼女は目を逸らさない。
「わたしは——今、この場で、貴方様の弟君との決闘を望みます」
その瞬間、誰もが耳を疑った。
なぜそんな帰結になるのか。抑えきれない困惑が、ひそひそと、そこかしこで漏れ始める。
「その立会人を引き受けてはいただけないでしょうか」
続く言葉に、ざわめきはさらに広がった。
頭の理解が追いつかない中、それでも確かに聞こえてきた「決闘」の二文字が、中庭の空気をじわじわと塗り替えていく。
二人の沈黙が、三拍続いた。
そして、
「……いいだろう」
レグルスは淡々と、ただそれだけを告げた。
その瞬間——中庭は水を打ったように静まり返った。
それから、間もなく。
「決闘!?」
「あのリヴィエールがステラフォルと?」
「学年開始早々、最高の幕開けじゃねえか!」
堰を切ったように、熱狂が溢れ出す。
喧騒が波のように広がっていく中、レグルスはすでにフローラから視線を外していた。
踵を返し、廊下の角で待っていたレオニスの元へと歩み去る。その背中は何事もなかったかのように静謐としていて、周囲の熱狂など初めから届いていないかのようだった。
「〜〜〜」
「——!」
耳打ちされた兄の言葉を受け、レオニスは盛大なため息をこぼす。
レグルスの迫力を全身で受け止めていたフローラは、肩で息をしながらサイードに抱き止められていた。
その空気にはわずかな安堵が滲んでいる。
他の生徒たちも同じだ。先刻までの緊迫感はすでに記憶の彼方へ押し流され、今は目先の『決闘』というお祭り騒ぎに目を奪われている。
そうして、中庭全体が次の熱狂へと流れ始めた。
——ただ、一人を除いて。
ルシウスだけが、その喧騒の只中に取り残されたまま、遠ざかるレグルスの背中と、その場に立つフローラの背中を、呆然と一つの視界の中に収めていた。
動かない。声も出ない。
生気を失った望月色の瞳が、ただそこに据えられている。
レオニスは、弟のその横顔をしばらく黙って見つめた。
なんだっていい。なにか言うべきだと分かっていた。
だが、どれほど言葉を探しても、今の弟に差し出せるものが見当たらない。
結局、レオニスは何も言えないまま視線を切った。
兄から耳打ちされた仕事がある。感傷に浸るのは、それを片付けてからでいい。
——そう自分に言い聞かせながら、男は静かに足を踏み出した。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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