Episode7~災難~その3
中庭にむき出しになった廊下、陽光の届かない影の奥。そこにヤツはいた。
標的を捉えた安堵も束の間、ルシウスの表情が凍りつく。
視界の右端。一人の女子生徒が何も知らぬまま、その影へ向かって歩いていた。
距離が近い。近すぎる。
確実にあれは、ヤツの領域に踏み込んでしまっている。
ヤツも接近を感知したのか、わずかに影の歪みが少女の方へ寄っていくのが見えた。
今から警告したのでは、まず間に合わない。
やむを得ない。
逡巡を捨て、ルシウスがそう判断した時、
「え、何が?」
胸の高さから、疑問符に満ちた声が上がる。自分の肩越しにルシウスが標的を定めたことなどつゆ知らず、未だ状況を追いきれていないフレイは、たじろぎながら尋ねた。
だが、返事は返らない。
どころか、その瞬間からフレイは身体が蝶のように浮き上がる感覚を覚えた。
ルシウスが自身の襟元を掴んでいると理解した時には、すでに遅かった。
視界が反転する。
フレイはルシウスの背後へ向かって放り投げられていた。
遍く理解も説明も、そこへ置き去りにしたまま、小さな身体が宙を舞う。
「えええええええええぇぇぇ!!!」
パチクリとしたその視界に映る彼の背中は、一度たりとも振り返らない。
ただ何かに追い立てられるかの如く、真逆の方向へと駆け出していた。
「……間に合えよ」
と吐き捨て、ルシウスは腰元から垂れたチェーンへ指を走らせ、その中の一つを引き抜く。
深緑の宝玉を頂いた銀の指輪。
拳へ握り込まれたそれは、流し込む魔力に呼応して淡く燐光を帯びた。
鳩尾から指先へ、色の無い魔力が血流にも似た勢いで駆け巡る。
特定の魔術系統に属さない系統外術式。その中でも最も普及した術式の一つ。
——自己加速術式。
指輪全体に刻印された術式が起動した瞬間、ワイヤーで引き上げられたかのように、ルシウスの足元はわずかに重みを忘れる。
領域型術式を扱えないというハンデを感じさえないほどの効力。
踏み込んだ右足が、大地に沈む。
靴裏が芝生を抉ったと同時に、その姿は数十メートル先へと弾き出されていた。
視界の両端が流れ落ちる。景色そのものを置き去りにするような感覚だった。
「……っ!」
女子生徒と、不快な気配を放つ何か。両者の距離が致命的なまでに縮まっているのを見て、ルシウスは即座に判断を下す。
フレイと同じように投げ飛ばすのでは、まず間に合わない。相手の領域に足を踏み入れてしまっている分、取るべき行動はシンプルな方がいい。
未だ素性の知れない存在を直接殴りつけるのは、無視しきれないほどのリスクを伴うが、今のルシウスに、それを勘定へ含めるだけの精神的猶予は残されていない。
ルシウスは最速を維持したまま、女子生徒の進路へ飛び込んだ。
「な、何っ!?」
小さな悲鳴が横から上がるが、気にしない。
割り込むと同時に振り上げた拳は、すでに振り抜かれていた。
少女の制動距離は、辛うじてその手前で尽きる。鼻先を掠める風圧に目を見開く少女を無視して、その拳は影の奥へ突き刺さった。
鈍い手応え。直後、空間に溶け込んでいた迷彩が砕け散った。
影の奥から姿を現したのは、淡い桃色をしたクラゲの形を模った異形。見た目こそ別物だが、存在の核となる部分が同一であると、魔力波を介して指先から伝わってくる。
異形はビクビクと痙攣したかと思えば、そのまま触手が力なく垂れ下がった。
確実に、生命の息吹きは途絶えている。
仕留め切った——そうルシウスが確信した矢先のことだった。
「……クソッ! 死んでもなお動きやがるのか!」
突如、死骸となったはずの肉体が、不自然な速度で周囲の神秘のエネルギーを吸引し始める。
幸か不幸か。
幸いの方、ルシウスにはその挙動に見覚えがあった。宵星館へ落とされる以前、校舎損壊事件の現場で目にした光景だ。
故に異形が何をしようとしているのか、それを察するのは造作もなかった。
だが、不幸だったのは、このクラゲの領域内にいるのが自分一人ではないということ。
自分一人だけ回避するなら容易い。
だが——視界の端には、少女の姿。その表情は恐怖と混乱に染まっている。
迷いが生じた、その刹那。
異形の中心に灯った光の輪が爆発的な輝きを放つ。
そして、
「——!!」
耳を擘く轟音と共に、臨界を迎えた膨大な神秘エネルギーが一気に解放される。
制御を失った力は互いに反発し合いながら急激な膨張を繰り返し——白銀の燐光を撒き散らしながら、中庭を蹂躙した。続いて到来した衝撃波が芝生を薙ぎ払い、木々の枝葉を激しくかき鳴らす。吹き荒れる暴風に視界も体勢も奪われ、中庭は瞬く間に混乱の坩堝と化した。
爆心地には瓦礫の粒子が舞い上がり、一メートル先の視認すら難しいほどの分厚い幕が垂れ込めていた。
やがて粉塵の嵐も勢いを失い、その帳が薄れてゆく。すると、爆心地から数メートル離れた場所で、片膝をついたルシウスの姿が徐々に浮かび上がってきた。
「……はぁ、はぁ」
肩で息をしながら、寸前を振り返る。神秘解放の直前、なんとか受け身を取ることに成功し、些細な裂傷や打ち身程度にダメージを抑えることができた。
結局ルシウスは自身を優先した。いや、あの状況ならそれしか手はなかった。
しかし。
であるならば、彼女の方は?
顔を上げた先に広がる光景を目の当たりにして、ルシウスは愕然と固まる。
少女はぐったりとした様子で廊下の上に横たわっていた。そして、うっすらと片目を開き、唇をぴくぴくと動かしながら、かろうじて意識が残っていることを伝えている。
「————————」
ルシウスの眼が大きく見開かれた。
だが、その瞳は少女を見ているようで見ていない。
ふと気がつけば、舌に鉄の味が滲むほど、ルシウスはキツく唇を噛み付けていた。
それは、今朝の予知夢と寸分違わぬ結末だった。
廊下の石畳に赤色が広がっている。
少女の額には出血が見られ、床に小さな溜まり場を形成していた。
まるで、動画を巻き戻してから再生し直したかのような光景。
(……防げなかった。今回もまた、俺はお兄様たちの期待を裏切ったのか……!?)
ルシウスが家から与えられた使命はなんだったか。
破滅の因子を含んだ災厄の未来を知り、未然に退けること。
だが、現実はどうだ?
失敗作。
災厄を招き寄せる、災禍の星。
いつかに聞いた父親の言葉が、ルシウスの理性を激しく揺さぶる。
一瞬、赤毛の少女の声が脳裏を掠める。だが今は——その言葉が根を下ろす場所など、ここにはどこにもありはしなかった。
重暗い感情が胸の中を支配する。
けれど、
「……っ!」
胸を苛む責念はひとまず脇へ追いやる。後悔に浸る時間があるのなら、自ら招いた悲劇の後始末に費やすべきだった。
兄たちに、これ以上失望されるわけにはいかなかった。
ルシウスは軋む膝に鞭を打って立ち上がる。
一刻も早く少女の手当てをしようと、その身を前へ投げ出した——その時だった。
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