Episode6~歩み寄る影~その4
「気になるか?」
レオニスとしては、何気ない問いかけだったのだろう。
しかし、問われた瞬間、ルシウスが首がもげそうな勢いで頷くものだから、苦笑まじりにレオニスは口を開いた。
「……つい五日ほど前の出来事だ。この校舎にオレの研究に必要な資料の一部が、眠っていると分かってな」
「……」
「学園に問い合わせたところ、厄介なことにそれが『禁帯指定』を受けていて、手元に取り寄せることができなかった。だから、仕方なくこちらから工房を移転する運びになったんだ」
「それは……その。貴重な資料であるのだと推測いたしますが、それにしても、随分と早急な決定のように思えますが……」
「発見から間もなく有用性を知る者が少ないのなら、その好機を逃す理由はない、と兄さんの助言を受けたのでな。即決した」
「そうでしたか……、流石レグルスお兄様。実に見事な慧眼ですね」
素直な賞賛に、レオニスは短く、苦くもない笑みを漏らした。
「そんなわけで、兄さんの意向もあって移転作業には、顧問として付き添っていただくことになっている」
「それは心強いですね」
「まったく、お前の言う通りだ」
言いながら、レオニスは僅かに言葉を止めた。
そして、今度は少しだけ声色を改める。
「それで、だ。兄さんの訪問を喜んでいるところ悪いが、お前に一つ頼みがある」
それを口にした途端、これまでとはまた違った緊張感が二人の間を駆け抜けた。
「いや……、命令と言っても差し支えないかも知れない」
命令という強い言葉を使ったにしては、どこか憂慮するような響きを湛えていた。
未だ核心に触れない兄を前に、もどかしさだけが募っていく。
「いいか、ルシウス」
たった一言。いつものように名前を呼ばれただけなのに。
何故だろう、繋ぐ言葉に耳を塞ぎたくてたまらない。
レオニスは一度だけ目を伏せ、それから、言葉を選ぶように続けた。
「本日、お前がレグルス兄さんの前に姿を現すことは、このオレが断じて許さない」
「———」
一瞬で、この世界から心臓の鼓動以外の音が、一つ残らず消え去った。
ルシウスは瞬きすら忘れて兄を見つめる。
「え……」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
思わず口を突いて出た困惑が、雄弁にそれを語っていた。
許さない。たったそれだけの言葉だった。
それだけのはずなのに、胸の奥へ冷たい杭を打ち込まれたような感覚があった。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
どうにか絞り出した声は、自分でも情けなくなるほどよれて、萎れていた。
レオニスはすぐには答えない。
目を伏せ、右手で目元を摘んでいる。
その仕草はまるで、出来損ないを前にした時のようなそれに近しい。
あぁ、自分は呆れられているのだと。
燻っていた不安の種が、すとんと胸に落ちた気がした。
「今のお前の姿を兄さんが目にして、どう思われると思う?」
「……」
その問いかけに、ルシウスは息を呑む。
答えられない。いや、答えなど最初から決まっている。
期待を裏切った愚弟。家名に泥を塗った失敗作。
失望するだろう。呆れるかもしれない。あるいは――憐れむか。
レグルスが何を思うのかなど、想像に難くない。
沈黙が降りる。
窓のない部屋であるはずなのに、どこか陽が翳ったような気がした。
コルレオニス・C・ヴェルミナス。
カルデンソフィア家次男。幼少期より側仕えとして、長男レグルスの補佐を務めてきた男。
兄の思考を最も深く理解している男がそう断じたのだから、それはきっと正しいのだろう。
この兄が間違えるなんてこと、あるはずがない。
いつだって間違っているのは自分の方——ならば受け入れるしかない。
受け入れなければならないのだ。
「かしこまり、ました」
舌の根に言葉が引っかかる。本当ならもっと流暢に応答できたはずだったのに。
その声は震えてしまっていた。
これ以上情けない姿を晒すわけにはいかないのに、どうしても、止まってはくれない。
「それがレオニスお兄様のお望みであるのなら、このルシウス、謹んで拝命いたします」
返答を聞き終えたレオニスは、わずかに瞼を伏せた。
その表情が何を意味するのか、ルシウスには分からない。
ただ、自分を見る兄の眼差しが先ほどより遠くなったような気がして、それ以上視線を合わせることはできなかった。
「理解したならそれでいい」
レオニスは短くそう告げて、ルシウスから視線を切り上げた。
「話はこれまでだ。さぁ、もう直ぐ講義が始まる時間だ」
促されるまま腕時計へ目を向ければ、確かに残された時間は多くない。
「御三家の一員が自国を守れないとあっては示しがつかない。
速やかに、指定の教室に向かいなさい」
遅刻を案じての言葉なのだろう。
それは理解できる。
理解できるのだが、今のルシウスにはまるで早く退出するよう命じられているようにも聞こえてしまう。
「はい。それではレオニスお兄様……失礼します」
「ああ、またの機会を心待ちにしている」
そうして一礼し、部屋を後にする。
最後、廊下へ出る直前、兄の瞳は何を映していたのだろうか。
知りたくもあったけれど、それ以上に知ってしまうのが恐ろしくてたまらなかった。
ただ扉の足元を見つめるばかりで、この視界が再び兄の姿を映すことは決してなかった。
閉ざされた扉が壁の中へ溶けるように消えていくのを見届けながら、ルシウスは知らず唇を噛む。
「……示さねば」
零れ落ちた呟きは、誰に向けたものでもない。
ただ胸の奥で燻り続ける焦燥だけが、靴音よりも早く彼を先へと急かし立てていた。
頭は真っ直ぐ前を向いているのに、その瞳だけはどこか遠い場所を見つめているようだった。
証明しなくてはならない。
カルデンソフィア家の子息として、あるべき姿を。
かつて父が自分に重ねた理想の姿を。
今こそ、体現するのだ。
幸か不幸か。
今朝目にした破滅の未来は、そのために与えられた最後の機会なのかもしれない。
まずは、これを覆す。これを退ける。
そうすればきっと——いや。
そうしてようやく自分はカルデンソフィア家の一員に返り咲く、その一歩を得る。
家に、兄たちに必要とされなくなった自分など、一秒たりともこの世界に存在していいわけがない。
誰でもない——自分自身の存在理由のために。
証明しなくては……。
証明するのだ——いますぐに。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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