Episode6~歩み寄る影~その2
あの後すぐに宵星館を出たルシウスは、始業時刻より一時間以上も早く、学園の敷地内を歩いていた。
余計な火の粉が降りかかる前に距離を取っておきたい——それも確かな本音である。
だが、今の彼にとっては、そんなものは些細な理由に過ぎなかった。
「ここも違うか……」
夢で見たそれとは異なる景色を前に、ルシウスは小さく舌打ちすると、即座に踵を返した。
ただでさえ高等部の敷地だけでも、サッカーコート28面分にも及ぶ広さがある。その長大な校舎の廊下を、ルシウスは険しい表情のまま、半ば駆け足で突き進んでいた。
あの予知夢が、いつ現実になるのかは定かではない。
明日以降かもしれないし、今日の可能性だって十分にあり得る。
しかし、時間帯だけは違った。
夢の中では、昼の鐘が鳴って間もなく、何らかの異変が起きていた。
つまり、早ければ今日の正午。
その頃には、誰かが血を流すような事件が発生する。
単なる裂傷程度なら、まだいい。
けれど、ルシウスは知っている。
流血で終わらなかった未来を。
取り返しのつかない破滅へと連なった結末を。
幾度となくこの目に写しては、その奥に焼き付けてきた。
早い段階で打った一手が、のちに大きな意味を持つこともある。
それは経験として、あるいは一種のトラウマとして、骨の髄まで刻み込まれている。
だからこそルシウスは今、夢の中で見た“あの場所”を探していた。
高等部には、中庭と呼べる空間だけでも二十を超える。
先ほどので、ようやく五つ目。
しかし、ルシウスが捜索範囲を高等部に限定しているのには理由があった。
夢の中で見た校舎の壁面——そこに刻まれていた紋章について。
イルカが鍵と戯れる様子を描いたレリーフ。
そして、その三隅を囲うように、並べられた三つの多角形——四角形、五芒星、六芒星——いずれも円環の上へ重ねるように刻まれた構図をしている。
前者は〈学会〉傘下の教育機関たる〈学園〉を示す紋章であり、後者の三つは学年を示す意匠だ。角が増えるごとに学年が繰り上がっていき、また、外周の円環の有無によって低学年か高学年かが判別される。
入学と同時に学園から支給される銀製の懐中時計は、学生証を兼ねる——現にルシウスが腰のベルトからぶら下げるそれの表面には、学園の紋章とともに、高等部一年を示す円環に四角形の紋様が刻印されている。
ゆえに、初等部や中等部の可能性は初めから切り捨て、ルシウスは捜索範囲を高等部の中庭に絞ることができたのである。
次の中庭までおよそ徒歩十分。
早足で進んでいるため実際にはもっと短いはずだが、今のルシウスには、それ以上に長い道のりに感じられた。
そんな道中のことだった。
「——レオニスお兄様……?」
廊下の隅に、見覚えのある人影を発見し——ルシウスの足が、ぴたりと止まった。
その白髪は、アルプスの残雪を切り取って編み上げたかのようでいて。濁りひとつない白銀は、整った容貌へ神秘的な気配を与えている。
そして、その双眸に宿る青は、山脈の奥底を流れる清冽な水脈そのもの。静かに揺れるたび、見る者に凍てつくような透明感を印象付ける。
背を壁へ預けるその人物をまじまじと見つめ、やはりとルシウスは内心で息巻いた。
それは紛れもなく、自分の兄だった。
次の瞬間には、居ても立ってもいられず、駆け出していた。
「お久しぶりです! レオニスお兄様!」
弾んだ声を上げながら駆け寄ってくる黒髪の少年を認め、レオニスは一瞬だけ意外そうに目を見開いた。
だが、すぐ穏やかに身体の向きを整える。
「ん? あぁ、ルシウスか。久しぶりだな。息災か?」
「はい。お兄様もご健勝そうで何よりです」
「ありがとう。前に顔を合わせたのはいつだったか……」
「去年、〈学園〉への転入が決まった際に一度」
「ああ思い出した。そうだったな、あの日以来か……」
懐かしむように目を細めながら、レオニスは弟の姿を見渡した。
「少し、背が伸びたんじゃないか?」
「はい。三センチほど。お兄様方のような、カルデンソフィア家を背負っていける立派な魔術師になれるよう、日々精進しております」
「そうか。それは何よりだ」
弟の飾り気のない言葉に、レオニスはわずかに口許を綻ばせた。
その後、周囲を軽く見回すと、声を落として尋ねる。
「……ところでルシウス。一限の開始時刻に変わりはないな?」
質問の意図を考えるより先に、ルシウスは反射的に答えていた。
「お兄様が在籍しておられた頃から変更はないと思います」
「そうか。なら少し付き合いなさい。話がある」
そう言うと、レオニスは背後の壁へそっと手を添えた——瞬間。
触れた箇所が水面の如く歪み、壁の内側から一枚の扉が浮かび上がってくる。
「これは……!?」
見間違いでなければ、ほんの数瞬、兄と壁との間で確かに魔力のやり取りが行われていた。
それはまさしく、学園の校舎に秘められた神秘。
「……工房、ですか」
「ああ」
弟の推測へ、レオニスは率直に頷いた。
学園の校舎には、表向きの教室群とは別に、特定の条件によってのみ姿を現す“裏側”の空間が存在する。
工房とは、その裏側に属する移ろう部屋の総称だ。校舎内を巡る魔力の流れに沿って位置を変え、一定の場所には留まらない。基本的には波長の近い術者の前に姿を現すが、発見者が設けた鍵や合言葉によっては、他者の出入りを許可することも可能となる。
その機密性の高さから、学生に限らず多くの魔術師が、研究拠点として利用しているのは周知の事実だった。
兄の工房——その響きだけで、心臓が徐々に高鳴っていくのを全身から感じていた。だが、
「期待しているところ悪いが、ルシウス。ここに、お前が考えているようなものはないぞ?」
まるで思考を傍聴されていたかのような鋭い指摘が、横合いから飛んでくる。
そこで初めて、ルシウスは自分の口許が微かに緩んでいたことへ気がつく。
慌てて表情を引き締める弟を横目に、レオニスは静かな足取りで部屋へ入っていった。
「ここは、オレが学生だった頃に見つけた部屋だ。
息抜きに使うばかりで、魔術工房として利用したことは一度もない」
「そ、そうでしたか……」
小さく肩を落としながらも、兄の手招きに従い、ルシウスは素直に扉を潜った。
「私物を持ち込んでは、卒業まで勝手に占有していた。発見者が自由に扱うのは暗黙の了解なのだが……」
旧懐の色を滲ませた視線を巡らせながら、レオニスは短く息を吐く。
「それにしても、今日まで誰の目にも留まらず、当時のまま残っていたとはな……。
久しぶりに足を踏み入れた時は、少々驚いたよ」
「それはお兄様が、他の術者より遥かに優秀で魅力的だったが故に、部屋の方がお兄様の帰還を待ち望んでいたのだと思います」
「それは……身に余る評価だな」
「滅相もありません」
「そこのソファなんかは、実家から密かに運び出したものだ。あれならお前も見覚えがあるだろう」
指し示された先には、赤茶色のアンティーク調ソファが息を潜めて佇んでいた。
「四年も放置していたのでな。多少埃は積もっていたが、つい先ほど軽く掃除しておいた」
雑談を交えながら、部屋の奥へと歩を進めたふたり。
レオニスは、話題に上がった席へ座るようルシウスに促す。
「遠慮はいらない。好きなように使いなさい」
「お気遣いありがとうございます」
ルシウスはどこか恐縮した様子で腰を下ろした。
それを見届けてから、レオニスも対面へ腰掛ける。
しばし静寂が流れたあと、やがて、レオニスは重たげに口を開く。
「さて……何から話したものか」
「……」
「そうだな。まずはこれからにしよう」
独りでに頷き、レオニスは群青の瞳で弟を真っ直ぐ見据えた。
「学園からすでに通知は受けている。
……ルシウス、宵星館に転寮したらしいじゃないか」
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