Episode4~そうやって、あなたは眼を逸らす~
九月十五日。
早朝。
まだ太陽も起きてこない時間に、ルシウスはミュンヘンの街中を走り込んでいる。
肺を灼く冷気を吸い込みながら、石畳を一定の速度で蹴り続ける。
ランニングの最中、ルシウスの脳裏では、昨晩の出来事が何度も再生されていた。
宵星館。あの騒々しい空間。
そして——寮母から突きつけられた条件。
『お前を元の寮へ戻してやる代わりに——こいつら全員、更生させて宵星館から叩き出せ』
不快なほど鮮明に蘇る声音へ、ルシウスは眉間へ皺を寄せた。
だが、条件自体に異論はない。
むしろ、宵星館から脱出できる道筋が提示された時点で、ルシウスに拒否権など存在しなかった。
問題は方法だ。
あの問題児どもを、どう制御し、どう誘導し、どう更生へ持ち込むか。
走りながら、ルシウスは頭の中で幾度も思考を組み立てていた。
一通り汗を流し終える頃には、東の空がわずかに茜色へ染まり始めていた。
乱れた呼吸を整えつつ、ルシウスは来た道を引き返す。
出る時には真っ暗だった宵星館の談話室も、戻る頃にはすでに灯りが点いていた。
玄関扉を開ける。カラン、と軽いベルの音。
談話室へ足を踏み入れた瞬間、焼けたパンと湯気混じりの香りが鼻腔を掠めた。
キッチンの奥では、フレイが朝食の準備をしている最中だった。
「お帰り、ルシウス君。随分と朝早いんだね」
振り返ったフレイは、昨晩と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべている。
「毎日走ってるの?」
「日課だ」
短く返す。
それだけで会話を終わらせるつもりだったが、フレイは気にした様子もなく続けた。
「今から朝ごはん作るんだけど、ルシウス君は何がいい?」
パン? シリアル? それともお米?
まるで最初から、ルシウスの分まで用意するのが当然であるかのような口ぶりだった。
昨晩の様子からしても、この宵星館の調理場を実質的に取り仕切っているのは彼なのだろう。
差し出される善意。
だが、ルシウスは首を横へ振る。
「朝食は自分で用意してある。その手を煩わせる必要はない」
ぶっきらぼうに言い残し、そのまま二階への階段へ足をかける。
一瞬だけ、背後の空気が止まった。
束の間の動揺。それから遅れて、横合いからフレイの声が追いかける。
「え、でも——」
ルシウスは振り返らない。そのまま階段を上がり、自室の奥へ姿を消した。
宵星館の個室には、それぞれシャワールームが備え付けられている。ルシウスはそこで汗を洗い流し、手早く身支度を整えた。
普段と変わらぬ黄色のパーカー。その上から、〈学園〉指定の黒いローブを羽織る。
姿見で皺の有無を確認したあと、隣接した机の引き出しを開いた。中には、同じパッケージのプロテインバーが隙間なく詰め込まれている。
他にも、筆記用具、薬瓶、小型工具。
必要最低限の実用品のみが、整然と収められていた。
ルシウスはその中から一本を抜き取り、包装を開ける。
支度を終えると、そのまま淀みない足取りで部屋を出た。
階段を降りながらプロテインバーを口へ運ぶ。
その光景を見た瞬間、
「えっ!? ルシウス君、今朝それだけ!?」
キッチンから、再びフレイの声が飛んだ。
それに触発されるように、カウンター席に座っていた桃髪と青髪が同時に揺れる。
どうやら身支度の途中で起きてきたらしい。二人は一瞬だけルシウスへ視線を向けると、すぐ何事もなかったように食事へ意識を戻した。
その反応に、特別思うところはない。ルシウスは視線をフレイへ戻し、淡々と言葉を返す。
「先ほども言ったが、俺に構う必要はない。あんたは自分のことに専念していればいい」
苦笑するフレイの表情を背中で受けながら、ルシウスは宵星館を後にした。
♦︎
「——『結界術』を制するものは、『魔術』を制する』」
講義も終盤に差しかかった頃。
教壇へ立つ初老の男は、教室全体へ向けてそう断言した。
「魔術は主に二つの体系へ分かれている。『自己領域内干渉型魔術方式』と『自己領域外刻印型魔術方式』だ。通称、『領域型術式』と『刻印型術式』。諸君らも耳に胼胝ができるほど聞かされているとは思うが——このうち、『結界術』を根幹とするのが『領域型術式』だ!」
教室の座席は、その大半がすでに埋まっている。
もっとも、生徒たちの反応は講義内容そのものより、この先に続くであろう演説を予期したものだった。
呆れ半分。諦め半分。
そんな渋面が、教室のあちこちへ浮かんでいる。
「現状、『刻印型術式』は『領域型術式』を超える汎用性を持ち合わせていない。つまり——」
案の定だった。そこから先、初老の男の口調はますます熱を帯びていく。
『刻印型術式』への痛烈な批判。
『領域型術式』絶対主義の喧伝。
もはや講義というより、思想の発表会に近い。
だが、それも決して、ここでは珍しい光景ではなかった。
世界最大にして、地球最古の西洋魔術研究機関——【学会】。
その統括下には、四つの研究機関と、唯一の教育機関たる〈学園〉が存在している。
学園に所属する教員の大半は、それら研究機関から派遣された研究員たちだ。
結果として、生徒たちは高度な魔術教育を受ける一方、水面下で蠢く研究機関同士の人材争奪へ半ば巻き込まれることになる。
知識だけではない。彼らの掲げる思想まで、講義と共に流し込まれるのだ。
もっとも——そんなものは、今さら問題視するような話でもない。
この学園の生徒なら、初等部の頃には既に、適度に受け流す術を身につけている。
実際、教室の空気もどこか弛緩していた。「また始まった」とでも言いたげな倦怠感が、そこかしこへ漂っている。
ルシウスもまた、その例外ではない。
『結界術の歴史』の講義を、半ば意識の外へ追いやりながら聞き流していた。
——いや。
正確には、あんなものへ意識を割く余裕など、今の彼にはなかったと言うべきか。
この時のルシウスの頭の中は、昨晩のことで埋め尽くされていた。
『お前を元の寮へ戻してやる代わりに——こいつら全員、更生させて宵星館から叩き出せ』
あの時の寮母の言葉が、何度も脳裏で反響する。
家の名に誓った以上、ルシウスは本気で彼らを更生させるつもりでいた。
昨晩。
寮生たちが眠りについたあと、乾いた喉を潤そうと一階へ降りた際——偶然にも、カウンターで独り晩酌していたヴィルヘルムと遭遇した。
見つかったが最後、半ば強引に酒席へ付き合わされる羽目になったが、決して無駄な時間ではなかった。
一体どういう風の吹き回しか。
ヴィルヘルムは唐突に、他の寮生たちのプロフィールを語り始めたのである。
途中、ルシウスの質問にも当たり障りのない範囲で返答していたが、少なくとも、終始嘘を吐いているようには見えなかった。
理由を問えば、
『今のままじゃ、勝負にならなそうだからな。追加のハンデだ』
とのこと。
十中八九、別れ際に放った挑発への意趣返しだろうが、それでも利用できるものは利用する。
合間合間に差し込まれる煽り文句へ耐えながら、ルシウスは寮母との会談へ付き合った。
(……取り敢えず、だらしないあの寮母の話を整理するか)
昨晩の記憶を辿りながら、ルシウスは思考を回転させる。
最初に浮かんだのは、ニヴルナ・エーヴィヒネーベルタール。
自由奔放にして短絡的。感情優先の獣然とした性格。
御しやすいかと問われれば疑問だが、少なくとも思考回路自体は単純だ。
扱いさえ誤らなければ、最も誘導しやすい部類の人間だろう。
次に、イリス・セイズルハイム。
人間と悪魔の混血種——ハーフサキュバス。
ヴィルヘルム曰く、淫魔特有の神秘をある程度制御下へ置いているらしいが、暴発例も少なくないらしい。
厄介なのは魅了の魔術。加えて、本人の性格まで悪いときた。
暴発と聞くが、無自覚ではなく、意図的に周囲をかき乱す手合い——そんな印象を受ける。
続いて、フレイ。
成績優秀・品行方正。これまでの面々とは反対に、欠点らしい欠点が見当たらない。
あの宵星館の中では、むしろ異物と言っていい。
実際、ヴィルヘルムも彼についてだけは妙に口を濁していた。非公認のファンクラブがあるなどと、眉唾なことを吐くばかりで、殆ど質疑応答は成立しなかった。
結論——情報不足。
だが、不確定要素を除けば、宵星館脱出へ最も近い人材であることは間違いない。
そして、ダイナー・アズレイ。
一言で言って、彼は天才だ。同時に、生粋の狂人でもある。
この年齢にして、学会の研究機関三つから勧誘を受けるほどの才覚を持ちながら、校舎の至る所で爆発騒ぎを起こして回る危険人物。
昨日の体験からして、正直、真っ当に会話が成立する未来が見えない。
そして——。
そこで、ルシウスの思考が止まる。
脳裏に浮かぶのは、赤毛の少女。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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