第十話 蓬莱③
正后へ若返りの薬を贈るなどということになりかけたのは如何なる理由か。小文は言葉を慎重に選び、いったん息を整えた。
「まず、今回の贈り物を発注したのは秋蓉という名の侍女です。名前からして華国の者でしょう」
紫妃は黙って頷き、先を促す。
「秋蓉が交易司に出向き、倭国の商人に正后様への品を注文した。そのやりとりは華国語で行われたはずです」
「ええ、そこまでは自然ね」
「ですが、後宮で使われる言葉は華国語でも少し特殊です。『正后』が誰のことを指すのか、倭国人には分からない場合もあるでしょう」
後宮と長い付き合いのある業者であればともかく、経験の浅い商人であれば十分に起こり得る話だ。小文はそこで一拍置いた。
「倭国の商人がこのように尋ねた可能性はないでしょうか? 正后とはどのようなお方ですか、と」
紫妃は静かに眉をひそめる。
「そこで秋蓉は分かりやすい平易な言葉に置き換え筆談でこのように書きます――『皇帝的老婆』と」
華国語に不慣れな者は会話よりも筆談を好む。だがこの言葉のように、同じ文字でも意味が異なる場合もあるのだ。
「華国語で『老婆』は『妻』という意味ですが、倭国では年老いた女性、つまり『おばあさん』という意味になります」
ようやく話の筋が見えたからか、司長が大きく息を吐いた。
「……商人が『皇帝の祖母への贈り物を用意せよ』というご用命だと、勘違いしたというわけか」
「そうです。悪意はなく、言葉の意味を取り違えたことによる誤解――これが今回の事件の顛末だと考えています」
紫妃は考え込むように目を伏せ、やがて小さく息を吐いた。
「……なるほどね。それなら確かに筋が通るわ」
『老婆』の解釈違い――そう結論付け、紫妃は納得したように頷いた。
そして小文に手を伸ばし、布に包まれたその薬を受け取る。
「いずれにせよ、正后様に贈るのは失礼極まりないわ。焼いてしまいましょう」
「焼く……ですか?」
小文が首を傾げると、紫妃は口元に笑みを浮かべた。
「布に包まれ運ばれて来た薬……『包来薬』なら、富士の頂で焼くのがいいわ」
「ああ、確かに」
小文もつられて笑ったが、何が「確か」なのか、司長には分からず首を傾げる。
その丸薬は結局、和子が作られた小さな山の上に置かれると、紫妃が呼んだ侍女に火を点けられて焼かれてしまった。
「小文。これは一体どういう……」
「え? ああ、これはとある倭国の物語になぞらえたのです」
小文はその辺りに落ちていた小枝を拾うと、地面に文字を書き始めた。
「先ほど紫妃様が言われた『包来』は、倭国の読み方だと『ほうらい』、つまり『蓬莱』と同じ読みになります」
その物語では「蓬莱」という不老不死の薬が出てくる。紫妃はそれになぞらえて山の頂で焼くことを提案したのだ。
紫妃の諧謔ともなれば、馬鹿にするわけにもいくまい。司長は神妙な面持ちで薬が燃えゆく様を見届けた。
こうして事件は幕を閉じた。正体不明の薬は焼かれ、問題は解決したかのように思われた。だが司長は気になったことがあるのか、渋い顔のまま、帰り道に小文に尋ねた。
「小文の話は確かに筋が通っている。だがそれなら、どうしてその秋蓉という侍女を連れてきて話を聞かなかった?」
なぜ確認をすることなく、紫妃は小文の話をそのまま信じたのであろうか。小文は歩みを止めず、その問いに答えもしない。
「それにお前はあのとき『妄想の一つ』と言ったな。こういった言い回しは確かに華国ではよく使われる。文字にすれば『妄想之一』となり、四文字で収まりがいいからな」
通倭司の司長として、語学に長けている自負はある。彼は追及を止めない。
「だが俺の知る限り、倭国の者はあまりそのような言い回しをしない。そのように言うときは大抵――」
司長は言葉を一度切り、小文を見る。
「『二つ目』があるときだ」
一瞬の沈黙の後、小文は驚いたように目を瞬かせ、それからくすりと笑った。
「そういうところですよ、司長様」
その妙に勘の鋭いところが癇に障る……とまでは言われなかったが、今日自分が言った台詞をそのまま返され、彼は理解せざるを得なかった。
小文はもう一つ、別の筋を考えている。そしてそれが、紫妃が望む回答ではないことも理解している。
だから小文は妄想の一つを語り、証拠となる薬は焼かれて消された。
それが紫妃の望むことであれば、司長として口を挟む必要は何もない。
後宮という場所では、語られぬまま処理される真実があることを、彼は、彼らは嫌というほどに知っていたからである。
紫妃は、薬に火を点けるため呼びつけた侍女へと声をかけた。
「ご苦労様、秋蓉。もうこの件はこれで終わりよ」
秋蓉という侍女は身体を震わせている。顔は白磁であるかのように青ざめ、自分に訪れる処遇にただ恐怖していた。
「話は聞こえていたかしら?」
紫妃は穏やかな声で続ける。
「あなたが商人に発注した際、少しだけ失敗をしてしまった――彼女はそのように言っていたわね」
秋蓉を慰めるかのように、紫妃は彼女を抱きしめる。
「でも構わないわ。失敗なんて誰にでもあることだもの。ましてやそれが倭国語の誤訳となれば、尚更ね」
背中をさすり、秋蓉の震えが収まるまでそっと撫で続ける。
「紫妃様、わ、私は……」
言葉にならない声を、紫妃は黙って受け止める。
秋蓉が何故このようなことをしでかしたのか、紫妃は完全には把握していない。
東和宮の侍女としての暮らしに何か不満があるのか、それとも彼女に強い恨みを買ってしまったのか。
あるいは何者かが金銭でそそのかしたのか、彼女の家族を人質にして、無理やり命令を聞かせたのか。いずれにせよ、それを暴く必要はない。
ここで彼女の首を切るのは簡単である。しかしそのようなことばかりしていれば后妃としての評判に障る。それよりはこうして正后の贈り物に若返りの薬を混ぜた首謀者を、味方へと引き入れた方がいい。
これが紫妃が外で言われる「優しさ」の正体であった。
「大丈夫よ、秋蓉。悪いことはもう何も起こらないわ。何も心配しないで、今日はもう休みなさい」
紫妃は秋蓉を離すと、微笑みを浮かべて彼女を下がらせた。
「秋蓉、何かあったらこれからは相談に乗るわ。心配事があったら教えてね」
最後にそのように優しく声をかけたが、果たして秋蓉の心に届いているか。秋蓉の姿が見えなくなったのを見計らうと、紫妃は今度は別の下女を呼んだ。
「小鳥、いるかしら?」
そう呼ばれた下女は、何処からともなく姿を現した。
普段下女として炊事洗濯などの下働きをしている彼女に、紫妃はそっと命じる。
「……秋蓉の様子を監視して。どこの誰と連絡を取っているのか、どの后妃の者が彼女に近づいているのか。分かったらまた連絡してちょうだい」
「承知! 紫妃様よりのお言葉、確かに拝命いたしました!」
小鳥は一礼し、音もなく去っていった。
「……さてと」
先ほどから続く真面目な話に退屈そうにしている和子を抱きかかえると、紫妃は彼に声をかけた。
「心配しなくてもいいわ。あなたが成長するまでは、何も起こさせないから」
紫妃は和子に優しく微笑んだ。
「……他の后妃との確執も、倭国との戦もね」




