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第十一話 宝玉①

 春の訪れと共に日差しが温かみを増し、後宮に柔らかな風が吹くようになると、通倭司は否応なく忙しさを増す。


 倭国との往来は季節と切り離せない。冬の荒波が収まり、南回り航路での航海が容易になるにつれ、貿易は活発さを取り戻す。事実、交易司を通る貿易品は日に日に数を増しており、それに関わる翻訳の業務もまた増加の一途をたどっていた。


 通倭司の司官たちは、筆を手にしながらも、どこか落ち着きを欠いているように見えた。なぜなら――例年なら春先に来るはずの倭国の朝貢船が、今なお到着していないからである。


 無論、潮の流れや風向きで到着が遅れることは珍しくない。あるいは、不幸にも沈んでしまったということもある。だが、春の中頃になった今も音沙汰がないのはやはり想定外であった。


 宮内では「倭国が朝貢を取りやめた」という噂がまことしやかに囁かれている。


「春風と噂はこうも早く広がるものか」


 通倭司の長である陸子衡は、落ち着きのない司官たちを見渡してそう嘆いた。


「朝貢は今まで慣例的に行われていたものだ。途絶えたからといって、即座に帝が戦に踏み切るわけではない。事実、倭国との貿易は続いており、これほどの仕事があるではないか」


 そう言って司長は書類の束を机にどさりと置き、動揺する司官たちを諭した。


 倭国の朝貢はこれまで慣例的に行われてきたものであり、それを守らなければ即開戦というほど単純な話ではない。


――だが司長自身、自分の言葉を信じているわけではなかった。


 結局のところ、その判断を下すのは皇帝である。朝貢の滞りを侮辱と捉え、倭国との戦に踏み切らないという保証はどこにもない。


 もし戦になり倭国との関係が断たれれば通倭司は役目を失う。我々は職を失い、そして――


 司長の視線が、末席で墨を磨る者に向けられる。


 倭国の人質として送られた少女は、今も淡々と墨を磨り続けているが、もし戦となれば、彼女の命そのものが危うい。


「……どうされました? 墨の質ならばさほど悪くはないかと思いますが」


 ただし、その本人は至って冷静であり、いつもと変わらぬ、可もなく不可もない仕事ぶりであった。


「……季節柄、墨が扱いやすくなる時期だが水はまだ硬い。丁重に扱うように」


 そう指示する司長の声は、どこか上の空であった。



 そんな折、思いがけない一人目の来訪者が通倭司を訪れた。


「内廷中書官の裴慎之と申します。司長の陸子衡殿はおられますかな?」


 その名が響いた瞬間、部屋の空気がより一段重くなった。


 中書官とは、皇帝の意向を文書に整える役目の官である。故に皇帝に近く、また通倭司とも関わりが深い。


 他の司官が平伏するのを見て、小文も墨を置き、静かに頭を下げた。


「私ならここに。中書官殿が、かような所に何用でございましょう?」


 司長が深い藍色の官服であるのに対し、中書官は黒の差し色が入った藍色の官服を着ている。これは文官として中書官の方が格上であることを示している。


 しかし中書官は、司長に対し終始敬語を用い、礼を失することはなかった。


「急な訪問、誠に申し訳ございません。実は折り入ってご相談したく……」


 格上の者が頭を下げ願い事をするなど、あまりいい話ではないと言っているようなものである。


 司長は中書官を奥の部屋へと招き入れ、一礼してから口を開いた。


「相談とは、どのような?」


 あえて声色は平静を保つ。だが内容にはおおよそ察しがついていた。


「無論、倭国の朝貢の件にございます」


 しばし沈黙する中書官が再び話し始めるのを司長は待つ。


「……率直に申せば、帝はあまり愉快に思われておりませぬ」


 その言い方は控えめでありながらも重みがあり、司長としても一瞬言葉が詰まるほどであった。


「……そうであろうな。宮内でもすでに噂になっている。帝としても何もせぬわけにもいくまい」


 倭国からの朝貢がない。それ自体は慣例の揺らぎにすぎないとはいえ、噂がどう広まるかは誰にも予想がつかない。


 皇帝が沈黙を守れば、それは弱腰と受け取られかねない。いや、それ以前に皇帝の気質を鑑みれば、何らかの行動に出ると考える方が自然であった。


 それに、かねてより朝廷と後宮の間に溝が生じている現状では、朝廷側の口実として使われぬとも限らない。


 中書官は一度姿勢を正すと、言葉を選ぶようにして続けた。


「そこで、お願いがあるのですが」


 中書官は一拍置き、慎重に言葉を紡ぐ。


「ひとまずは通倭司の司長の名において、事の経緯を問う公書を倭国へ送ることはできないでしょうか?」


 司長がその提案を反芻する中、中書官はすぐに補足する。


「帝の名で国書を送ったとして、返信がなければ沽券に関わりまする。今は司長の名で様子を窺うのが最良かと」


 その言葉には皇帝の威信を損なわないための配慮と、事を荒立てぬための現実的な判断が込められていた。


 司長は静かに息を吐き、やがて頷く。


「なるほど、しかと承りました。しかし中書官殿は、それで事が解決するとお思いでしょうか?」


 中書官はわずかに視線を伏せ、思案の末に口を開く。


「今の倭国は、内部で争いがあると聞き及んでおります」


 内乱の噂は、通倭司にも断片的に届いている。国が割れ政が定まらぬ時期では、外に余力を割くのは難しい。


 だが一方で、ならばこそ華国を敵に回すのは得策ではないという見当もつく。


「正味、形ばかりでよいのです」


 その言葉に、司長は眉を動かした。


「磨いた石でも送ってくれれば、華国としては宝玉の朝貢があったとして、体裁を保てまする」


 その言葉の裏にある意味を司長は悟る。


「ふむ。その辺りが落としどころであると、中書官殿は申されるのですな」


 中書官の言は単なる推測ではない。皇帝の胸中を踏まえたうえでの進言であると受け取るべきである。


 すなわち、形ばかりでも朝貢さえあれば皇帝は事を荒立てない。それであれば、通倭司としてどのような公書を送るべきかは、すでに決まっていた。


「では通倭司の司長として、倭国に朝貢『していただけるよう』、懇意に説明する公書を書かせていただきましょう」


 内々の事情を説明して、穏便に事が運ぶよう筆を走らせれば、事態は丸く収まるかもしれない。


 決して威圧することなく、友好的な文面を書けばいい。方針を定めた司長は部屋を出ると、再び通倭司の広間に戻って、概要を皆に伝えた。


「これより倭国の真意を問う公書を送ることとなった。通倭司の名において信書を送り、朝貢の意があるか否かを、懇ろに問い質す」


 司官たちへの説明としてはこれで十分に伝わった。彼らの間に安堵が広がる。


「小文、墨を持て。倭国の存亡に関わる書状ゆえ、より丁寧に墨を磨るのだ」


 司長が席に着き、隣に中書官が立つ中、小文がいつもより時間をかけて磨った墨の入った硯を運ぶ。


 あとは倭国に対し、礼を尽くして依頼をする文面を整えるのみである。


 中書官の話した倭国の事情を鑑みても、おそらくこれで問題は解決するであろうと……司長はそう楽観していた。


 この日、思いがけない二人目の来訪者が現れるまでは。


「筆持ちが妙な動きをしていると知って後をつけてみれば……どうやら主人の意を測り損ねた真似をしているようだな」


 黒色に染められた御衣をまとい、沈黙と共に場を支配する影がある。このような後宮の隅に到底現れるはずはないであろう者が、入口の前に立つ。


 現皇帝――靖帝(ジンディー)(倭読:せいてい)陛下、その人であった。

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