第十三話 宝玉③
仏の教えとは、華国より山を一つ隔てた西にある国から伝えられたものである。
人の生死や苦楽を説き、王や政のための教えというよりも、民の心を鎮めるためのものとして受け入れられてきた。
「……それ故に、帝王学として学ばれてはおりませぬ」
中書官はその歴史を簡潔に述べた後で、結論としては皇帝は仏の教えにそこまで詳しくないだろうと小文に説明した。
所詮は外来の思想。華国こそ華やかなる中央の国と考える我が国において、仏の教えはただの外来の書籍にすぎない。
敬虔な仏教徒ならまだしも、皇帝が学ぶべき教養と呼べるほどの規模には至っていなかった。
「しかし、仏の教えがいったい何と関係があるというのです?」
「教えの一節を記し慈悲を乞うとでもいうのか? だがそれでは言い逃れができぬではないか」
中書官の疑問に対し、司長が半信半疑に答える。
仏の教えの一節を記せば、確かに皇帝には一見気づかれぬかもしれない。しかし「この一文はどういう意味だ?」と皇帝に問われれば、それで終いである。
だが小文には考えがあった。それは万全を期するほどのものではない。せいぜい零の可能性を一にするくらいの、綱渡りのようなものである。
それでも何もしないよりかはいい。倭国の読み手がその意図に気づくことを切に願うばかりであるが、かすかに希望が残るという点ではこの方法しかないと小文は思っていた。
「仏の教えの言葉に『方便』という便利なものがあるのです」
小文はちょっと得意げに言ったが、意味に気づかない中書官と司長は首を傾げるばかりだ。
「……とりあえず、定型的な朝貢を促す文章を書いてください。そしてその最後の一文に『与人方便、自己方便』と記すのです」
『与人方便、自己方便』。
他人に便宜を図っておけば、最後には巡り巡って自分の便宜になるという意味である。
しかしそれでは「華国に朝貢をすれば、いずれは自分にも益があろう」という意にしかならない。
司長は首を捻る。
「どういうことだ? これでは因果応報であると伝えるだけではないか」
確かに弱腰の文面ではなく、皇帝の条件は満たしている。しかしこの強気の文言では、倭国側が形ばかりの朝貢をすればいいとは考えないだろう。
「文の末尾を『与人方便、自己方便』で締めることは通常ありません。もし倭国の者がそれに気づけば、この文の真意を考えようとするでしょう」
「真意……ですか?」
首を捻る中書官に小文は説明を続ける。
本来「方便」とは、仏の悟りに到達するための正しい手立てを指す言葉である。
しかし倭国では、この語はいつしか意味を変え、「場を取り繕うための便宜」「とりあえずの措置」といった軽い響きで使われるようになっていた。
『与人方便、自己方便』の元の意味ではなく、『方便』が二回使われていることに着目すれば……。
「これは方便ですと、大事なことなので二回言ったことになります」
つまり、以下のように解釈される。
倭国より朝貢がなければ、戦も辞さない覚悟である……しかしこれは方便です。
格調高い文章で整えようとも、その真意はこのように伝わる。倭国において方便とは、建前、形だけといった意味合いで使われているのだ。
「だから、帝が仏の教えに詳しくないか気にしていたのか」
ようやく合点のいった司長が言う。
「確かにそのように伝われば、倭国の者も、形ばかりの朝貢だけはしておこうかと考えるかもしれぬ。……とはいえ、薄氷を踏むような薄い可能性ではあるな」
小文の意図を理解した司長だが、一方でその可能性が薄いことも同時に把握していた。
「その言い回しであれば、帝の出された条件も満たしているな。あとはそうだな……薄い確率を、少しでも高める努力をさせてもらおうか」
司長は小文の言う通りに、倭国に朝貢を促す文章の案に『与人方便、自己方便』を付け加えて書き上げると、急ぎ通倭司より出かけていった。
それから一ヶ月あまりが過ぎた。
春も終わりかけの頃、港に倭国からの貿易船が姿を現したとの報せが通倭司までもたらされた。そこには朝貢品が積まれているという。
積まれていた荷は少なく、朝貢品と呼ぶにはあまりに控えめだったが、それでも形ばかりは整えられていた。
ここに至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。小文が示した「方便」が伝わるよう、司長はできる限りの画策をした。
まずは国書を送る使節団に、通倭司の者を入れていただけるよう願い出た。
原則として皇帝直属の使節団による持参が基本であると跳ね退けられると、次は倭国の貿易商たちに頼み事をした。
皇帝の目が届く国書には書けなくとも、商人の口から「ただの世間話」として噂を流すことはできる。
国書を受け取った倭国の者が、いざ朝貢をすべきかどうか悩んだとき、商人たちから華国の実情について聞いておこうと考える可能性を考慮したのであった。
極めつけは、司長は私財を投じ、通倭司の名で倭国の王へ贈り物を送ったことである。通倭司として公書を送るのは禁じられたが、贈り物をすることを禁じられたわけではない。
これはあくまで私的な交流であると言い訳するつもりであったが、幸いにも今のところ、皇帝から詰問されるような事態にはなっていなかった。
そうした甲斐もあってか、朝貢品は到着した。その中身はともかく、この事実は疑いようのないことであった。
なお、その貿易船による朝貢品の中には「倭国の姫」に宛てられた品が一つ紛れ込んでいた。
小さな箱に入ったそれを、司長は悩んだ末に小文のところに持っていった。彼女が箱を開けて、中に入っていた石を取り出すと、くすりと笑みを浮かべた。
「これは……狐石ですね」
その名前を司長は知らなかったが、小文曰く、翡翠に似た紛い物の石の総称だという。
「もしかしたら『方便』で送ってくれたのかもしれません」
倭国の者の諧謔と思われるそれを、小文は宝玉のように愛しげに見つめていた。
一方その頃、朝廷の一角では宰相たちによる密談が交わされていた。議題は無論倭国の貿易船による朝貢についてである。
「朝貢船は押さえていたというのに、まさか貿易船で朝貢品を運んでくるとはな」
思惑が外れ、宰相は唇を歪めた。
その点について彼は皇帝にも詰め寄ったが、「倭国の金印が押された書状と共に朝貢品が届けられた。これを朝貢と呼ばずに何と言う」と一蹴されてしまった。
「しかしまぁ……裏を返せば、金印さえ押されていれば、倭国の正式な書状として受け取られるということ。これ、準備はできておるか?」
宰相が手を叩くと、その場に姿を現したのは、倭国の装束服に身を固めた一人の少女であった。倭国より奴隷として買い付けた少女である。
「ふむ……着こなしがまるで駄目だな。これでは到底使者には見えぬ」
そう言うなり、宰相は手元の茶碗を投げつけた。碗の砕ける音と共に少女の悲鳴が部屋に響く。倭国語で発せられたその声に耳を傾ける者は誰もいなかった。
「心配せずともよい。役目を果たせば、その身の安全は保証される。倭国の使者としての役目さえ果たしてくれればな」
宰相の言葉を、側近が倭国語に通訳して彼女に伝え、彼女はどうにか落ち着きを取り戻す。
「もうしばらく教養を身につけさせよ。必死になれば、使者にもなれよう」
宰相はそう言い捨てると、興味を失ったように目を背け、再び仲間たちと計画を練り始めた。




