第85話 最悪上司の終焉②
「ベヒーモス……」
フロストーレ様の叫びを受けて、私も呆然と繰り返す。
もちろん実物を見たことなどない。
でも、名前だけなら聞いたことがある。たしか古い記録や伝承の中に登場する、神話級のモンスターだったはず。
けど、それがまさか……。
「そんな馬鹿な……」
隣で旦那様も否定するように呟いた。
しかし町の中に立つ魔獣は、伝承で語られる姿とあまりにもよく似ている。神話という言葉さえ、この巨体を前にすれば大げさには聞こえなかった。
「あれが本当にベヒーモスなら、一体出現しただけでも国に甚大な被害をもたらすと伝えられるほどの化け物だ。だが、なぜそんなものがアルグレイン領の町中へ突然現れる……?」
旦那様が剣を握りしめながら、険しい表情で続ける。
「僕にも分からない。《冥禍の笛》がいかに危険な禁具でも、ベヒーモスほど強大なモンスターを呼び出す力はないはずだ」
フレット様もベヒーモスを見上げたまま首を横に振った。
「あの笛によって生み出せるモンスターの強さは、使用者が注いだ魔力に左右される。並の人間程度の魔力量なら、先ほどの黒いモンスターを大量に呼び出すことはできても、こんな強大な存在まで形作れるとは思えない」
けれどどれだけ否定したくても、眼前の巨体は決して幻やまやかしの類ではない。
「グオオオオオオオッ!」
再び上がった咆哮に、町を囲む建物の窓が一斉に震えた。
「うぅ……!」
「なんて馬鹿でけぇ声なんだ……!」
「全身にビリビリきやがる……!」
通りに残されていた屋台もぎしぎしと軋み、私は思わず両手で耳を塞いで身をすくめる。周りの団員さんたちも風圧に耐えるように身体を縮めて踏ん張っていた。
それから咆哮が止み、私はようやく顔を上げた。
「でも、だとするとなぜこんな……」
「恐らくは、ガルドが笛を飲み込んだせいじゃろうな」
答えてくれたのはフロストーレ様だった。その隣では、アグニール様も難しい顔でベヒーモスを見つめている。
「本来、《冥禍の笛》は外から魔力を注ぎ、その力を使ってモンスターを形作る品だ。だが、体内へ取り込まれたことで、本来とは異なる現象が起きた可能性が高い」
異なる現象……?
「ああ。笛が使用者の魔力だけでなく、その肉体まで触媒として利用したのかもしれん」
「もっと言えば、この場合は“生贄”の方がふさわしいかもしれんのぅ」
アグニール様の言葉を、フロストーレ様が引き取る。
「生贄……」
私はもう一度、巨大な魔獣へ目を向ける。
「では、ガルドはどうなったんですか?」
「それはワシにもわからん。なんせこの巨体に体毛、それにまとわりつく濃い瘴気じゃ。中の様子など確認できん」
「そもそも、あんな危険な代物を飲み込むなどという馬鹿げた行為、他の誰も試したことなどないはずだからな。何百年と生きているオレたちとて聞いたことがない」
そんな、お二人の大妖精でも知らない現象なんて……。
「では、魔力切れによって消滅するという可能性もないのでしょうか?」
そう尋ねたのは、傍で話を聞いていたレオルーシェ様だ。
「何とも言えんな。あれが笛の効果で召喚されただけならあり得るかもしれんが、もし笛の暴走によりあの男自身がベヒーモスへ変化したのであれば……」
「消えずにいつまでも残り続ける可能性もある、と」
「うむ」
そ、そんな……。それじゃああのバケモノを倒さないと、この状況は終わらないってこと?
そのとき、ベヒーモスが太い脚を持ち上げた。
「危ない! 全員、衝撃に備えろ!」
旦那様が叫ぶ。直後、石畳へ勢いよく足の裏が叩きつけられる。
ズドオオオンッ!
町中に轟音が響き、砕けた石畳が周囲へ飛び散った。衝撃は離れた門の外まで伝わり、私たちの立つ地面さえ激しく揺れる。
「きゃっ……!」
「アイカ!」
よろめいた身体を、旦那様が片腕で支えてくれた。
ベヒーモスは低く唸ると、巨大な角を振り上げ、こちらへ向かってゆっくりと歩き始める。
「くっ……! とりあえず、正体を考えるのは後だ!」
旦那様がすぐに声を張り上げた。
「誰でもいい! 避難している領民たちをさらに遠くへ移動させろ! 残りは俺たちとここで食い止める!」
旦那様の指示を受け、すぐさま騎士団のメンバーが走る。
ムルウジさんは隊を弓兵とその護衛に分け、迎撃態勢を整える。伝令役の団員さんたちは、すぐさま領民の避難している丘へ向かって馬を飛ばした。
一方、騎士団以外の面々も各々動き出す。
「よーし、相わかった。ワシらも行くぞ、アグニール!」
「ふん、誰に向かって指図している?」
アグニール様は不機嫌そうに言い返したものの、すぐにベヒーモスへ両手を向けた。
「だが、こんな怪物を野放しにするわけにもいかん。世界の均衡を保つ大妖精として、ここで跡形もなく焼き尽くしてくれる」
二人が同時に宙へ飛び出す。
まずフロストーレ様の冷気が地面を走り、ベヒーモスの脚元を一気に凍りつかせた。間を置かず、アグニール様の放った炎が巨体へ直撃する。
「全隊、精霊魔法を一点へ集中させろ!」
「弓兵も続け! 奴の足を止めるのだ!」
レオルーシェ様とラッセル様の指示に従い、エルフの兵団も一斉に魔法と矢を放つ。ドワーフ陣営も「オレたちも続くぞ!」と、地面に落ちていた石や瓦礫を拾い上げて投擲する。
さらに残っていた騎士団員さんたちも、遠距離から攻撃を重ねていった。
まさにその場にある総力を結集しての攻撃。
しかし。
「グオオオオオオオッ!」
ベヒーモスは脚を覆う氷を力任せに踏み砕き、炎を浴びてもわずかに身体をのけぞらせるだけで、魔法や矢などを受けても怯む様子すら見せない。
これだけの攻撃を重ねているのに、まるでそよ風でも浴びているかのようだった。
「う、ウソだろ……!」
「全然効いてねぇ……」
その圧倒的なパワーを前に、これまでアルグレイン領を守ってきた屈強な団員さんたちも怯んでしまう。
だが、旦那様は諦めずに剣を握り直す。
「まだだ。俺がなんとかする」
「でも旦那様、その剣はもう……」
手にしているのは、愛剣を失ったあとから使っている予備の剣だ。
先ほどまでの戦闘で酷使された刀身には、いくつもの刃こぼれがあり、細い亀裂も走っている。
「ああ。分かっている」
旦那様も一度だけ剣へ目を落とした。
「それでも、領民や仲間が危険に晒されているんだ。手をこまねいて見ているわけにはいかない」
「旦那様……」
「アイカはここにいてくれ」
それだけ告げると、旦那様はベヒーモスへ向かって駆け出した。
巨大な前脚が振り下ろされる。旦那様はそれを紙一重でかわし、そのまま巨体の懐へ潜り込んだ。
「はあああっ!」
石畳を蹴り、高く跳び上がる。全力で振り抜かれた剣が、ベヒーモスの胸元へ叩き込まれた。
しかし刃は分厚い皮膚と筋肉に阻まれ、浅く食い込んだところで止まる。それどころか――。
キィインッ……!
「なっ……!」
高い音を立てて刀身が折れた。
銀色の刃が宙を舞い、石畳の上を何度か跳ねて転がっていく。
「団長の剣が……!」
「そんな……!」
周囲の団員さんたちから動揺の声が上がる。
言うまでもなく、旦那様はアルグレイン騎士団にとって絶対的な中心。加えて、その実力はエルフやドワーフも知るところ。
そんな旦那様の全力の攻撃が通じず、あまつさえ武器まで失われた。
戦っていた皆さんの動きが、ほんの一瞬止まる。
「旦那様!」
ベヒーモスがその隙を逃さず、長い尾を振り回した。
「えぇい!」
「やらせん!」
フロストーレ様とアグニール様が同時に魔法をぶつける。氷と炎によってわずかに勢いが鈍った隙に、旦那様たちは辛うじて攻撃範囲から逃れた。
直後、尾が石畳を薙ぎ払う。地面は大きく抉れ、広場の端に残されていた屋台がまとめて吹き飛ばされた。
その威力をまともに受けていたら、いくら旦那様でも無事では済まなかっただろう。
「ち、ちくしょう……」
「こんなヤツ、いったいどうすれば……」
「もうダメだ……」
フロストーレ様とアグニール様。
エルフにドワーフ。
そしてアルグレイン騎士団。
誰もが心のどこかで、「きっとなんとかなるはずだ」と考えていたはず。みんなの力を合わせれば、敵がどれほど強大だろうと勝てるはずだと。
でも、彼らが総出で戦ってなお、ベヒーモスを町の外へ出さないよう食い止めるだけで精いっぱいだった。
こうなったらもう、なにも打つ手がないのでは――。
「まだだ!」
そんな考えを遮ったのは、旦那様の声だった。
折れた剣を支えにして立ち上がり、動揺する団員さんたちへ向き直る。
「諦めるな! ここで諦めれば、避難している領民や周辺の町まで危険に晒される! たとえいくら武器が折られようと、心まで折られるな!」
その檄を受け、みんなは顔を上げて再び武器を構え直す。
「そうだ! 団長はまだ立っているぞ!」
「なんとしてもヤツを倒すんだ!」
「今こそ俺たちの底力を見せるときだ!」
消えかけた士気が再び回復する。
「でも実際問題、どうやってアイツを倒せば……」
……そのとおりだ。
現状、ベヒーモスを倒す方法はまだ何一つ見つかっていない。このまま闇雲に戦い続けても、いずれジリ貧になってしまう。
最悪の場合、全滅だって――。
そのときだった。
「うおおおおおお!」
町の一角から、ひときわ大きな叫び声が響いた。
何事かと全員が振り返ると、一人の男性がこちらに向かって全速力で駆けてきていた。あっちはたしか、ドワーフの工房がある方角で――。
「ガルガン様……?」
走ってきた人物の姿を見て、私が呟く。
そしてその両腕には、布で厳重にグルグル巻きにされた一本の長い包みが抱えられていた。
ガルガンさんは息を切らしながらも足を止めず、ベヒーモスの前に立つ旦那様へ向かって、その包みを高く掲げた。
「待たせたな、リスティンの旦那! こいつがようやく完成した――あんたの“剣”だ!」




