第83話 一方その頃、かつての職場は……⑫
――遡ること数刻前。
ガルドは建物のやや高所の陰に身を潜めながら、収穫祭でにぎわうアルグレイン領の繁華街を見下ろしていた。
帝国側へ入り込む際に使ったのは、正規の国境ではない。以前現れた黒づくめの男から教えられた、人目につきにくい山中の抜け道だった。
今回は《金の盾》も、ギルドの職員も連れてきていない。
ドワーフごときに揃って返り討ちにされた三人にも、少し不利になれば責任を放り出して逃げる職員たちにも、もはや何かを任せる気にはなれなかった。
(結局、頼りになるのはワシ自身だけということだ)
一人でアルグレイン領を混乱させ、その隙にアイカを奪う。
余計な足手まといがいない分、むしろ今回の方が確実に動けるとガルドは考えていた。
眼下の通りには屋台が立ち並び、大勢の領民が祭りを楽しんでいる。
子どもたちは白や桃色の綿菓子を手に走り回り、大人たちは酒や料理を片手に笑い合っていた。領主であるリスティンにも気安く声をかけ、そのたびにあちこちから楽しそうな声が上がる。
「フン。その平和面がいつまで続くかな」
ガルドは吐き捨てるように呟いた。やがて人波の中に、見覚えのある灰色の髪を見つける。
アイカだった。
リスティンと並んで祭りの通りを歩き、領民から声をかけられるたびに笑顔で応じている。
王国ではギルドの雑用係にすぎなかった女が、今では帝国の領主と肩を並べ、さも自分の居場所であるかのように笑っていた。
「ハッ、今のうちにせいぜい楽しんでおくがいい。しかし、所詮お前はただの雑用女よ。最後に笑うのはこのワシだ」
ガルドは懐へ手を差し入れる。取り出したのは、獣の骨を削ったような黒い笛だった。
その名は、《冥禍の笛》。
闇の世界でも恐れられる禁具であり、吹けば冥府の底から闇のモンスターを呼び出すことができる。
まさしくこの世に災いを振りまくためだけに生み出された、危険なマジックアイテムである。
そしてこれこそが、例の黒づくめの男から譲り受けた包みの中身だった。
「さて、楽しい楽しい祭りの時間は終わりだ。……いや、少し違うか。これより始まるのは、新しい祭りだ。ワシから貴様らに送る、“絶望”と言う名のな!」
ガルドは笛の吹き口を唇へ当て、大きく息を吹き込む。
ピィイイイイイ――。
低く耳障りな音が、祭りの音楽と人々の声に紛れて広がっていった。
大半の者は気づかない。けれど、会場の外れにある路地裏では、地面から滲み出した闇が次第に獣の形を作っていた。
背中に硬い棘を並べた、狼型のモンスター。
一匹、二匹と数を増やしていく彼らは、赤黒い涎を垂らしながら通りへ顔を向ける。
ちなみに冥禍の笛で呼び出したモンスターには、笛の音を通して使用者の大まかな意思を伝えることができる。
細かな動きの制御は無理だが、人の多い場所へ向かわせたり、特定の相手を避けさせたりする程度なら問題ない。
その上で、ガルドが念じた命令はただ一つ――。
(さあ行け! 『弱い者から狙え!』)
直後、モンスターたちは路地から飛び出した。
向かった先にいるのは、武器を持った騎士ではない。屋台の近くにいた女性や子ども、年老いた領民たちだった。
ほどなくして、祭りの会場から甲高い悲鳴が上がる。
「ククッ……。そうだ、それでいい」
事態はすぐに動き始めた。
リスティンはすぐに騒ぎへ気づき、襲われかけていた領民を救った。警備に当たっていた騎士たちも集まり、避難誘導とモンスターの討伐を始める。
だが、それこそガルドの望んだ展開だった。
領主であるリスティンが、領民を見捨てられるはずがない。
一か所で騒ぎを起こすだけでは足りないが、町の各所へモンスターを出現させれば、必ず戦力を分散させる。
ガルドは再び笛を吹いた。
別の通りに。
屋台の陰に。
人が密集する広場の近くに。
次々と黒い影が形を取り、会場へなだれ込んでいく。
どんどんと増え続ける悲鳴の数。祭りを楽しんでいた人々が逃げ惑い、屋台が倒れ、料理や工芸品が道へ散らばっていく。
騎士たちは領民を守りながら戦わねばならず、思うようにモンスターを仕留められない。
「フハハハハハッ! 素晴らしい……さすが《冥禍の笛》だ!」
笛に操られたモンスターたちは、深手を負っても逃げようとはしない。
これも冥禍の笛というアイテムの特徴。無から生まれたモンスターに帰巣本能などなく、絶命するまで命令を実行し、人間を襲い続ける。
防衛の手が少しずつ広がり、薄くなっていく。
その先には、アイカがいる。
「そうだ、そのまま崩れろ……!」
ガルドはもう一度、冥禍の笛へ魔力を注いだ。
あと少し……あと少し混乱を広げれば、リスティンの手が届かない場所へアイカを追い込める。
そうして孤立したところを、自分が現れて力ずくで連れ去る。
ガルドには、すでに成功が目前まで迫っているように見えていた。
「やったぞ……! これでようやく……!」
――しかし、その直後だった。
領民へ飛びかかろうとしていた一匹が、突然動きを止めた。
「……なんだ?」
足元から広がった白い霜が、瞬く間にモンスターの全身を覆う。巨体は飛びかかる姿勢のまま凍りつき、巨大な氷塊へと変わった。
さらに別の通りでは炎が走り、屋台や領民を避けながら何匹ものモンスターだけをまとめて焼き払っていく。
「ど、どういうことだ? 誰の仕業だ……?」
建物の陰から目を凝らす。
戦場の上空には、小さな人影が二つ浮かんでいた。一方は冷気を操り、もう一方は炎を放っている。
「あれは……妖精、なのか?」
しかも、ただの妖精ではない。その力は離れた場所にいるガルドにも嫌というほど伝わってくるほどで、しかもどことなく見覚えがある。
そう。あれはたしか、いつぞや読んだ童話の挿絵だ。
「ば、馬鹿な!? 大妖精だと!?」
予想外の事態はなおも続く。
続いて町の入口側から駆け込んできたのは、戦斧やハンマーを手にした一団だった。
小柄ながら分厚い体格を持つ彼らは、現れたモンスターを正面から殴り飛ばし、騎士たちの防衛線へ加わっていった。
さらに屋根の上には、弓や杖を構えた者たちの姿も。こちらはいずれも見目麗しい容姿をしており、なによりすらりと尖った耳が特徴的だった。
「ど、ドワーフに……エルフ……」
氷と炎が群れを削り、ドワーフが正面から押し返す。その後方から、エルフたちの矢と魔法が次々と放たれていく。
そこへアルグレイン騎士団が加わり、崩れかけていた防衛線を瞬く間に立て直していった。
「なぜだ……! なぜ妖精や亜人種どもが、人間に肩入れしている……!」
ガルドには理解できなかった。
妖精もドワーフもエルフも、人間とは異なる種族である。
何の利益もないのに、なぜ危険を冒してまでリスティンたちを助けるのか。どうして遠くから大勢の兵を連れ、ただ一つの領地を守るために駆けつけるのか。
だが、今は理由など考えている暇などない。
「か、数だ……。こうなったら、もっと数を増やして圧倒するしかない!」
ガルドは冥禍の笛を強く握り、再び口へ当てようとした。
だが、そこでガルドの身体に異変が起きる。
「ぐっ……!」
足元がぐらりとふらつく。
笛を握る手が震え、呼吸も苦しくなる。視界の端が白く霞み、建物の壁へ手をつかなければ立っていることすら難しい。
「はぁ……! はぁ……!」
言うまでもなく、マジックアイテムの動力源は使用者の魔力である。
無計画に使い続ければ、やがて魔力が底を突き、身体を動かす力すら失われるのは必然のこと。
つまりは――。
(げ、限界……だと言うのか……!)
歪んだ視界の先では、残ったモンスターたちが大妖精の魔法によってまとめて倒されていた。
残った個体もドワーフと騎士団に押さえ込まれ、エルフの弓で仕留められていく。
このままでは計画が失敗に終わってしまう。立て直すには、もっと多くのモンスターを呼び出さなければならない。
だがこれ以上魔力を消費すれば、たとえアイカを孤立させられても、連れ去るだけの余力は残らない。
それどころか、自身の命も危うい。
(こんなことなら、《金の盾》や部下どもを連れてくればよかった……)
事ここに至って、ガルドは己の判断が間違っていたことを悟った。
「くそっ……くそぉ……」
ガルドは震える腕で、再び笛を口元へ押し当てた。しかし、そこへ吹き込む息すらもう続かない。
ほどなくして、遠くから武器を掲げる騎士たちの歓声が聞こえてきた。モンスターの唸り声は消え、代わりに町を守り切った者たちの声が広がっていく。
それはひとえに、ガルドの敗北を意味した。
「つ、次だ……」
ガルドは壁にもたれたまま、掠れた声で呟いた。
「次こそは……。次こそは必ず、あの小僧もアイカも……!」
「――申し訳ないが、そうはいかないよ」
「っ!?」
背後からかけられた声に、ガルドは弾かれたように振り返った。
そこには、帝国文官の制服を纏った男が立っていた。
色素の薄い髪と翡翠色の瞳を持つ若い男。その後ろには、武装した私兵が数名控えている。
「僕の名はフレット・グロリアント。ガルド・バルディオス、あなたを拘束する」
「な、なぜ……」
ガルドは目を見開いた。
「なぜ帝国の文官がここにいる……! ワシがこの国へ入ったことは、誰も知らないはずだぞ!」
「ああ。国境を越えるところまではね」
「なに!?」
フレットは淡々と答えた。
「あなたが帝国領内に足を踏み入れた後だ。峠を下りて麓の村で宿屋を利用しただろう。そこで目撃情報が入ったんだ」
「目撃情報……?」
「以前のこともあったからね。正規の検問だけでなく、王国寄りにある宿場町や街道沿いなど、あなたが利用しそうな場所に私財を使って協力者を用意しておいた」
以前のこと――というのは無論、ガルドがアイカを連れ去ろうとした事件である。
すべては、いずれガルドが復讐に来るであろうことを見越してのこと。
「それで急いで中央から馬を飛ばし、ついさっき到着したというわけさ」
「馬鹿な……!」
ガルドは急いで踵を返し、建物の階段へ向かおうとした。だが、踏み出した足には力が入らない。すぐに膝から崩れ落ちて床へ手をつく。
その拍子に、握っていた黒い笛が指の間からこぼれた。
「しまった……!」
笛は硬い音を立てながら、フレットの足元近くまで転がっていく。
「これは……」
ひと目見ただけで、フレットは全てを察した。
到着した町に溢れていたモンスター。異形のマジックアイテム。そして目の前のガルド。
「そうか。やはり、この混乱を引き起こしたのは……!」
穏やかだった声が、鋭く変わる。
「その笛を回収しろ! そして直ちにガルド・バルディオスを逮捕するんだ!」
「はっ!」
「や、やめろ!」
私兵の一人がガルドの腕を背中へ回し、床へ押さえつけた。もう一人は黒い笛を拾い上げ、直接触れないよう布で包んでいく。
「離せ! ワシに触るんじゃない! 貴様ら、誰に手を出しているのか分かっているのか! ワシは王国の重鎮だぞ! こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
ガルドは必死にもがいた。だが、力が入らない。
腕を振りほどこうとしても、わずかに肩が動くだけだった。声にもいつもの迫力はなく、荒い息の合間から掠れた怒鳴り声が漏れるばかりである。
その間にも、兵士たちは素早く両腕を縄で縛っていく。
「くそっ……! 離せと言っているだろうが! 離せぇえええええ!」
振り絞られた叫び声は、なおも広場から轟く歓声にかき消された。
こうしてアルグレイン領を混乱へ陥れ、その隙にアイカを奪おうとしたガルドの計画は、完全な失敗に終わった。




