第81話 雑用令嬢、未曾有の危機に直面する②
「きゃああああああっ!」
祭りの会場から、甲高い悲鳴が上がった。
旦那様と私は揃って声のした方へ振り返る。
祭りの賑わいに紛れて聞き間違えた――とは、とても思えない。続けて遠くから何かが倒れるような音が響き、人々のざわめきが急速に広がっていく。
「……行くぞ、アイカ!」
「はい!」
旦那様が弾かれたように立ち上がり、私も杯を置いてそのあとを追う。
私たちはそのまま石段を駆け下りた。
声がしたのは、広場から少し奥へ入った通りの方だ。逃げてくる人たちの流れに逆らって進むと、果物を売っていた屋台が横倒しになり、色とりどりの実が地面いっぱいに散らばっていた。
そして、そのすぐ前。
「ひ、ひぃっ……!」
尻もちをついた女性へ、黒い影が飛びかかろうとしている。
狼によく似た四足歩行のモンスターだった。
ただし普通の狼よりも一回り大きく、背中には硬そうな棘が並んでいる。大きく裂けた口からは鋭い牙が覗き、赤黒い涎が糸を引いていた。
「なんだ、あのモンスターは……?」
旦那様も初めて見るらしく、わずかに眉を寄せる。
けれど足は一瞬も止まらない。モンスターが振り下ろした前脚と女性の間へ割って入り、剣の腹で鋭い爪を外側へ受け流す。
「はあっ!」
続けざまに銀光が走った。
刃はモンスターの胴を深く斬り裂き、その巨体を屋台の残骸ごと地面へ叩き落とす。
「大丈夫ですか!?」
私はすぐに倒れていた女性へ駆け寄った。
「は、はい……腰が抜けただけで、怪我は……」
「よかった……。そちらの方、この人を人通りの少ないところまでお願いします!」
近くで立ち尽くしていた人たちへ声をかけると、二人が慌てて女性の身体を支えた。
モンスターが倒れたことで、騒然としていた周囲から安堵の声が漏れる。
けれど、それもほんの一瞬だった。
「た、助けてくれぇっ!」
今度は別の通りから悲鳴が上がる。
ほとんど同時に、反対側の屋台の陰からも二匹――先ほどと同じモンスターが飛び出してきた。
旦那様が即座に近い方へ駆け出し、警備に当たっていた騎士団員がもう一匹との間へ割って入った。
「中心部を離れて町の外まで移動しろ! 敵がどこから飛び出してくるかわからん! なるべく見晴らしのいい場所まで、子どもと怪我人を優先して避難させるんだ!」
「はっ!」
旦那様の指示に、周囲の団員さんたちも一斉に動き出す。
しかし次の瞬間には、さらに奥から何人もの領民が雪崩れ込むように逃げてきた。
「向こうにもいるぞ!」
「裏の通りにもモンスターが!」
「誰か、助けてくれ!」
こ、これは……。
「くっ! いったい何匹いるんだ、こいつらは……!」
目の前の一体を薙ぎ払いつつ、旦那様が呟く。
通りの奥から。路地の陰から。屋台と屋台の隙間から。
謎の狼型モンスターの襲撃は収まるどころか、むしろその数はどんどん増えているようだった。
つい先ほどまで楽しそうに行き交っていた人たちが一斉に逃げ出し、あちこちで屋台が押し倒される。
料理やお酒、工芸品が路上へ散らばり、楽器の音も呼び込みの声も、今や悲鳴と怒号にかき消されていた。
「皆さん、押さないでください! 広場ではなく、こちらの道へ! 先導する騎士についていってください!」
私も逃げてくる人たちへ声を張り上げる。
中央へ人が集中すれば、かえって身動きが取れなくなる。近くの団員さんと一緒に道を空け、転んだ子どもや年配の人を先に通していく。
そんな中、人波を掻き分けるように副団長のムルウジさんたちが駆けつけた。
「団長!」
「ムルウジ、状況は!?」
旦那様は襲いかかってきたモンスターを一太刀で斬り伏せながら問いかける。
「会場中で同じ化け物が出てやがる! だが外周から侵入されたって報告は一つもねえ!」
「警備はどうなっていた?」
「予定どおり交代で兵を置いてた。群れが押し寄せてきたなら、見逃すはずがねえ!」
「!」
ムルウジさんの報告内容を受け、旦那様が驚いた表情で背後を見渡す。
「ならば、こいつらはいったいどこから現れた……?」
……たしかに妙だわ。
町を守る警備が突破されたわけではない。それなのに、モンスターは会場のあちこちで出没している。
地上を移動するタイプだけに、まさか空から飛来したわけでもないだろうし……。
しかし、現状でその問いに答えられる人はいない。
「分からねえ。だが、今はとにかく領民を守るしかねえ」
ムルウジさんはすぐに後ろを振り返った。
「お前らは西の通りへ行け! 残りは俺と広場を押さえるぞ!」
「了解!」
団員さんたちが二手に分かれ、悲鳴の聞こえる方角へ走っていく。
……そうね。今は悩んでいても仕方ない。とにかくみんなの無事を優先しないと。
その直後だった。
二匹のモンスターが私たちのほうへ襲いかかってくる。旦那様は一匹目の脇腹を斬り上げ、返す刃でもう一匹の前脚を切り裂いた。
即死にこそ至らなかったが、致命傷には充分なほどの手傷のはず……なのに。
「グルルル……!」
倒れたモンスターは傷口から大量の血を流しながら、それでも身体を引きずり、なおも変わらぬ敵意を向けてくる。
その姿に、私はちょっとした違和感を覚えた。
「…………」
一般的に、獣型のモンスターが人里を襲うこと自体は珍しくない。餌を求めている場合もあれば、自分たちの縄張りを広げようとしていることもある。
でも一方で、逆にどんなに獰猛なモンスターであっても、自分の命を守ろうとする本能も当然備わっている。
これほど深い傷を負えば、普通は怯むか逃げようとするはずだ。なのに、目の前の彼らにはその気配がまったくない。
まるで自分が死ぬことなど、最初からどうでもいいかのように――。
加えて、違和感はもう一つ。
「マズい! こっちへ来るぞ!」
「ちくしょう! あいつ、なんで急に反転して……!」
近くで声が上がる。
見ると、離れた場所で騎士団員と戦っていたモンスターが、その耳をぴくりと動かしていた。
それだけではない。
広場の向こう側にいる個体も、路地の手前で人を追っていた個体も、ほとんど同時に耳を動かす。
そして次の瞬間、それぞれが傷も目の前の敵も無視し、近くにいる戦闘力のない一般市民へ向かって一斉に駆け出した。
「……耳?」
もしかして彼らは、何かを聞いている?
そういえば、さっき旦那様が笛のような音が聞こえたとおっしゃっていたような……。
しかし、考えている間にもモンスターは暴れ続けている。
「ムルウジ! こいつらは手傷を負わせただけでは止まらん! 通常の獣型と同じ反応を期待せず、確実に仕留めろ!」
「了解だ! 聞いたな、お前ら! 無理に一人で相手をするな! 三人一組で連携してトドメを刺せ!」
旦那様の指示で、団員さんたちはすぐに隊列を組み直した。
二人が前でモンスターを押さえ、その隙にもう一人が急所を狙う。倒れた個体にも油断せず、完全に動かなくなったことを確認してから次へ向かう。
対応を変えたことで、周辺のモンスターは次々と倒されていった。
しかし、それでも対応は追いつかない。
「東の通りに新手だ!」
「広場の裏にも三匹!」
「誰か来てくれ! こっちは人が多すぎる!」
一方を片づけたと思えば、今度は別の場所から悲鳴が上がる。
団員さんたちは戦いながら領民の逃げ道を確保しなければならず、全員が戦闘だけに集中できるわけではない。
数人がかりで一匹を抑えている間に、別の個体がその横をすり抜けていく。
「しまった!!」
突然、団員さんの一人が叫んだ。
「やめろ、そっちは……!」
広場の一角で組まれていた防衛線が崩れ、そこから一匹のモンスターが飛び出してきたのだ。
その先には、避難の順番を待っていた領民たちがいる。けれど、人が密集していてすぐには動けない。
「きゃあああっ!」
「逃げろ!」
旦那様は助けに向かおうとしたものの、横から現れた三匹のモンスターが行く手を阻む。ムルウジさんたちも、それぞれ別の敵を相手にしていた。
誰も間に合わない。
「ガアアアアアッ!」
そんな……。
「やめてぇ!」
私が叫んだ直後。
領民たちへ迫っていたモンスターの足元から、白い霜が広がった。
「グルッ――」
冷気は一息に四本の脚を覆い、そのまま胴体から頭までを駆け上がっていく。
モンスターは飛びかかろうと前脚を上げた姿勢のまま動きを止め、次の瞬間には巨大な氷の塊へ変わっていた。
「え……?」
戦場に、冷たい空気が流れ込む。
そして聞き覚えのある二つの声が、混乱する会場の上から響いた。
「やれやれ。せっかくの祭りになんと無粋な奴らじゃ」
「ああ、まったくだな」




