第80話 雑用令嬢、未曾有の危機に直面する①
屋台を離れて通りへ出ると、これまで内側から眺めていたときよりも祭りの賑わいがずっと近く感じられた。
「領主様、いつも街を守ってくださりありがとうございます!」
「ぜひうちの屋台にも寄っていってください! サービスしますよ!」
少し歩くたびに知り合いの領民から声をかけられ、旦那様はその都度足を止めて挨拶を返していた。
「アイカちゃんも、綿あめおいしかったよ! 子どもがもう一度作りたいって聞かなくて!」
「ありがとうございます。まだしばらく屋台は開いていますので、ぜひまたいらしてください」
私もそう返しながら、旦那様と並んで人波の中を進んでいく。
やがて香ばしい匂いに誘われて足を止めたのは、収穫したばかりのトウモロコシを炭火で焼いている屋台だった。
網の上には実の詰まったトウモロコシが何本も並び、店主が刷毛で甘辛いタレを塗るたび、じゅうっと音を立てて白い煙が立ち昇る。
「いい匂いだな」
「そうですね。とってもおいしそうです」
一本ずつ買い、熱々のうちに端からかじる。
「うむ、うまい! 採れたてだからか、実が甘くて瑞々しいな。そこにこの醤油ベースのタレもよく合っている」
「ほんとですね! 焦げたタレの塩気と香ばしさで、よりトウモロコシの甘さが引き立ってます!」
あっという間に食べ終えた旦那様は、すぐさま屋台へ振り返った。
「よし、もう十本買ってこよう」
え。
「お、お待ちを、旦那様。さすがに一本はまだしも、十本は買い過ぎでは……。まだ他にもたくさん屋台がありますよ」
「む……」
名残惜しそうに網の上のトウモロコシを見つめる旦那様。
「そうだ。一通り回って、それでもまだ食べたかったら戻ってくるのはどうですか?」
「おお、たしかに。そのルートでいこう」
どうやら戻ってくること自体は決定事項らしい。
再び歩き出すと、今度は食べ物ではなく、大勢の歓声が上がっている屋台が見えてきた。
店先に並んでいるのは、高さや太さの違う木の棒。その手前から木製の輪を投げ、棒へ通せれば景品がもらえるとのこと。
どうやら前世でいう“輪投げ”とほぼ同種の遊びと言って差し支えなさそう。
「せっかくだ。やってみるか?」
「いいですね」
店主へ代金を渡し、まずは私から輪を受け取る。
近くで見れば簡単そうなのに、実際に投げてみるとこれが意外と難しい。一投目は勢いが足りず、一番手前の棒に届く前に地面へ落ちてしまった。
「あら……」
「もう少し上へ向けて投げるといいかもしれないな」
「やってみます」
旦那様の助言どおり少し角度をつけて投げると、二投目は手前の棒へ当たり、くるりと回って引っかかった。
「入りました!」
「おお、やったな!」
私と旦那様は思わず両手をつないで喜びを分かち合う。が、すぐに旦那様はハッとした様子で手を離した。
「どうかされましたか、旦那様?」
「……いや、なんでも。じょ、上手だったぞ」
「?」
そう口元を隠しながら呟く旦那様のお顔は、心なしか赤くなっているようにも見えた。
「ありがとうございます。では、お次は旦那様も」
「お、おお、そうだな」
ちなみに景品は小さな焼き菓子だった。可愛らしい包みで、歩きながらつまむのにちょうどいいサイズ。
ともあれ私は結果に満足して場所を譲ると、旦那様は受け取った輪を手のひらの上で軽く転がしながら並んでいる棒をじっと眺めた。
そして、最初の一投。
輪は綺麗な弧を描き、少し離れた棒へすっぽりと収まる。
「おおっ!」
周囲から声が上がった。
続く二投目も、その次も成功。旦那様は力任せに投げるのではなく、距離や輪の動きを確かめながら、狙った棒へ次々と通していく。
最後に残ったのは、もっとも奥にある細い棒だった。
旦那様が放った輪は、高く浮かび上がったあと、吸い込まれるように小さな的へ収まった。
「お見事!」「すっげぇ!」「パーフェクトだ!」
周囲から歓声と拍手が湧き起こる。
それに応えるように、旦那様は軽く手を上げた。
「まあこれくらいはな。むしろまだまだ行けるぞ」
「いやいや、領主様に本気を出されちゃ商売になりませんよ!」
屋台の店主さんが笑いながら景品の小袋を差し出す。私がもらったものより、少し大きな焼き菓子が入っているようだ。
「アイカ、半分ずつにしよう」
「ありがとうございます。では、こちらも半分お渡ししますね」
互いに小袋を一つずつ持ち、笑いながら屋台を離れる。
その後も工芸品を眺めたり、広場の演奏へ足を止めたりしながら歩いていると、いつの間にか随分と時間が経っていた。
「少し喉が渇かないか?」
「そうですね。何か飲みましょうか」
旦那様が見つけたのは、透明な瓶の中に色とりどりの果物や香草が浮かぶ屋台だった。
領内で採れた柑橘や香草を水へ漬け、蜂蜜でほのかに甘くした果実水らしい。氷の入った大きな容器に瓶ごと冷やされており、見ているだけでも涼しげだった。
二杯分を買い、私たちは人通りの多い広場から少し離れた噴水脇の石段へ腰を下ろした。
冷えた果実水をひと口飲むと、柑橘の爽やかな香りと酸味が広がり、そのあとを蜂蜜のやわらかな甘さが追いかけてくる。
「はぁ……おいしい」
「ああ。歩いたあとの身体に染みるな」
ひと息ついて顔を上げれば、祭りの様子が少し離れた場所からよく見渡せた。
綿あめを手に走っていく子どもたち。
今日だけは無礼講とばかりに、屋台の近くにあるテラス席で酒を飲んでいる農家の人たち。
工芸品を手に取りながら、楽しそうに話す職人たち。
楽器の音と笑い声は途切れることなく続き、誰もが今日という一日を楽しんでいる。
そうした光景を眺めているうちに、ふとアルグレイン領へ来た日のことを思い出した。
あの山道でタイラントベアに襲われ、護衛の人たちに置き去りにされたこと。そして、もう助からないと思ったところへ旦那様が現れたこと。
もしあのとき助けてもらえなければ、私は今ここにはいない。このお祭りへ屋台を出すことも、知り合った人たちと笑い合うこともなかった。
そんなことを考えていたら、私の中で自然と一つの感情が湧き上がってきた。
「……あの、旦那様」
「ん?」
私は果実水の杯を膝の上へ置き、隣へ座る旦那様へ向き直った。
「ありがとうございました」
「え」
いきなりの感謝の言葉に、旦那様は少し驚いたように目を瞬かせた。
「どうしたんだ、アイカ。急に改まって」
「いえ、ただどうしてもお伝えしたくなって。旦那様には、本当にたくさん助けていただいてばかりでしたから」
あの出会いのときだけじゃない。
その後に使用人としてお屋敷に招いてくれたことや、戦いになると真っ先に私を庇うよう立ちはだかってくれること。
そして以前、私を連れ戻しに来たガルドたちから守ってくれたことも。
旦那様はいつだって私を助けてくれた。
「それと、両親のことも……」
王国に残してきた両親についても、旦那様はずっと動いてくれていた。
安全な連絡経路を確保し、必要な手続きを進めてくれたおかげで、来月には二人もアルグレイン領へ移住できる予定になっている。
「つまり私にとって旦那様はもう、私だけじゃなくて私たち家族にとっての命の恩人なんです。だから本当に、ありがとうございます」
そう告げて頭を下げると、旦那様は困ったように笑った。
「それを言うなら、礼を言わなければならないのは俺も同じだ」
「旦那様が……私にですか?」
「ああ。アイカが来てから、騎士団の力は大きく上がった。怪我や疲労からの復帰も早くなり、領地の防衛体制は以前よりずっと強固になっている」
それだけではなく、騎士団には以前以上の活気が生まれたという。
「今やアイカは、このアルグレイン領に欠かすことのできない存在だ」
「でも私は、あくまで後ろから支えているだけです。実際に戦っている旦那様や騎士団の皆さんには――」
「そんなことはない。それぞれ役割が違うだけだ」
旦那様は即座に否定すると、少しだけ口元を緩めた。
「何より、皆もうアイカの料理なしでは生きていけない体になってしまったからな。もしいなくなられでもしたら、全員しなびた干し肉のような顔で卒倒するだろう」
「あはは……」
それはそれで大丈夫なんでしょうか……。
けれどそうして愉快そうに笑っていた旦那様だが、やがて少し真剣さを帯びた瞳で再び祭りの通りへ視線を向けた。
「それに今だから言うが……実のところアイカがここへ来る直前まで、俺はずっと焦っていたんだ」
「焦っていた?」
「ああ。当時の俺は、とにかく一刻も早く領地を安定させなければならないと躍起になっていたんだ」
領内へ流れ込むモンスターを倒し、被害が出る前に町や村を守る。
けれど一体倒しても、すぐに別の場所から報告が届く。そうすればまた出向いて討伐する。その繰り返し。
「無論、それ自体は領主としての責務であり、果たさねばならない役目だ。しかしそんな日々を過ごすうち、いつの間にか心から余裕が消えていたのも事実だ」
そしてその感覚は、ある程度時間が経って領内が落ち着きを見せ始めた後も抜けなかった。
もしかしたらどこかで急にモンスターが出没して領民が被害に遭うかも――そんな不安が抜けなかったのだという。
「言ってしまえば、ある種の職業病だな」
旦那様はそう苦笑した。
「けれどアイカが来てから、モンスターを倒すことに別の理由ができた」
「別の理由?」
「ああ。討伐したあと、皆で“美味しく食べる”という理由がな」
ただ倒して終わりではなく、倒したらどんな料理になるのだろう?
そう考えられるようになったことで、気持ちがだいぶ軽くなったらしい。
「おかげで以前は張り詰めていた任務へ向かう道中にも、団員の笑い声が増えた。俺自身も、今日は何を作ってもらえるのかと考えるだけで、毎日がずっと楽しくなった」
そこで旦那様は私へ向き直った。
「だから俺も、アイカにはとても感謝しているんだ」
「!」
私はすぐには返事ができず、手元の杯を両手で包んだ。
……そっか。助けられてばかりだと思っていたけれど、私のしてきたこともまた、旦那様たちの日々を少しは変えられていたんだ。
私はなんだか無性に嬉しくなり、自分の頬が緩むのを抑えられなかった。
――ただその一方で、ふと気になったことも。
「でも、当時の旦那様はどうしてそこまで焦っていたんですか? 躍起に……とおっしゃっていましたけど、そこまで切羽詰まらなければならないような状況だったのでしょうか?」
そう、そこだけが少し不思議だった。
もともと使命感や責任感の強い旦那様だ。領民を守るために全力を尽くそうとすること自体にはなんら違和感はない。
でもさっきの言い方にはこう、なにか他の……それこそ特別な背景や事情のようなものを感じたのだ。
「…………」
……旦那様?
私の質問に、旦那様はすぐに答えなかった。何かを逡巡するように、手にした杯を見つめている。
それからややあって、ようやくおもむろに祭りの人波へ目を向けた。
「……そうだな。これはあくまで俺の個人的な話で、ムルウジたちも知らないことなんだが」
そこで一度言葉を切り、こちらへ顔を向ける。
「でもアイカになら……いや、アイカだからこそ知っていてもらいたい」
旦那様の表情は真剣だった。
なんだろう……私だからこそ?
私も自然と背筋を伸ばし、続く言葉を待つ。
「実は、俺の本当の――」
しかし、その言葉が最後まで続くことはなかった。
旦那様が不意に顔を上げ、周囲を見回す。
「旦那様?」
「……今、何か変な音がしなかったか?」
「音、ですか?」
「ああ。笛のような……だが、ひどく耳障りな音だった」
耳を澄ませてみる。
聞こえてくるのは、祭りの音楽と人々の話し声。それから屋台の店主たちの呼び込みだけ。
「いえ、私は何も――」
気のせいではないかと続けようとした、その直後。
「きゃああああああっ!」
祭りの会場から、甲高い悲鳴が上がった。




