第9話 元婚約者の来訪
査察官が帰ってから、十日ほどたった昼下がり。
「ご領主様。……クロフォード家の馬車です」
窓の外を見ていたゴードンの声が、いつになく低い。
私もペンを置いて、窓辺に立ちました。
門の前には黒塗りの立派な馬車が止まっていて、その扉には、三年間毎日のように目にしてきたクロフォード伯爵家の紋章がついています。後ろには、剣を下げた供の男が四人ついていました。
馬車の扉が開いて降りてきたのが、よりにもよってダリウス様だったので、私は思わずため息をつきました。
村の方から、人が集まってくるのが見えました。クロフォード家の馬車がこの土地に来るのは、兵が倉を焼いたあの騒ぎ以来なのでしょう。先頭を走ってくるのは、トマスでした。
「クロフォードの若様か……!」
トマスは、ダリウス様の供に止められて門の外で足を止めると、こぶしを握りしめたまま、館の方をにらんでいます。
その目が、私の立っている窓の方へ向いたような気がしました。
「お通ししてください。応接間に」
「よろしいのですか」
「追い返しても、また来るだけです。あの人は、そういう人ですから」
*
応接間のソファに、ダリウス様はどかりと腰を下ろしました。
部屋の中を見回して、鼻で笑います。
「ずいぶん貧乏くさい館だな。お前にはお似合いだ」
「ご用件は何でしょう。遠いところを、わざわざ嫌味を言いにいらしたわけではないと思いますが」
「相変わらず、口の減らない女だ」
ダリウス様は懐から一通の手紙を取り出すと、机の上にぽんと放りました。
封はすでに切られていて、宛名はクロフォード伯爵様、差出人は王都の査察官です。
やはり、そういうことですか。
「王都の役人から、父上宛てに届いたものだ。読んでみろ」
「内容なら存じております」
「だろうな。お前に、婚約取り消しの償いとして金をいくら渡したか、だとさ。笑わせる。伯爵家がお前に渡したのは、この田舎の領地だけだ。金なんぞ、銅貨一枚だって渡しちゃいない」
ダリウス様は、身を乗り出しました。
「俺がそのまま返事を書けば、お前は終わりだ。査察官に嘘をついた領主。しかも王都じゃ、ミルフィールドが禁令を破って帝国に品物を流しているって噂まで立っている。役人がもう一度来たら、今度は帳簿じゃ済まないだろうな」
「伯爵様は、この手紙をご覧になったのですか」
「父上は忙しい。こういう面倒は、俺が片づけることになっている」
つまり、伯爵様は何もご存じない。
この人は、父親に黙ってここへ来たのです。
「それで、何がお望みですか」
「話が早くて助かる」
ダリウス様は、にやりと笑いました。
「返事は俺が書いてやる。伯爵家が償いとして金を渡した、とな。そうすれば、お前の嘘は嘘じゃなくなる」
「その代わりに?」
「ミルフィールドを返せ」
やっぱり、そういうことでしたか。
この人が、わざわざ馬車に揺られてこんな国境の田舎まで来た理由は、それしかありません。
暴動ばかりの厄介な土地だと笑って喜んで手放した領地が、王都の噂になるほどお金を生んでいると知って、惜しくなったのでしょう。
帳簿を一度も開かなかったこの人は、ミルフィールドにどれほどの値打ちがあるのか、今になってようやく気づいたのです。
「お断りします」
「まあ、聞け。何も、お前を追い出そうって言うんじゃない」
ダリウス様は、ソファの背にもたれて足を組みました。
「俺ともう一度婚約しろ。そうすれば、領地ごとクロフォード家に戻ってこられる。領地の仕事は、今までどおりお前に任せてやる。帳簿も、お前がつければいい」
一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。
「……もう一度、婚約を?」
「悪い話じゃないだろう。実家に見放された女が、ひとりで田舎の領主なんぞやっていけるものか。俺の後ろで数字を数えているのが、お前にはいちばんいい」
そして、ダリウス様はあの言葉を口にしました。
「お前には、それくらいがちょうどいい」
三年間、何度聞かされたか分からない言葉でした。
報告書を取り上げられるたびに、手柄を横取りされるたびに、この人はこの言葉で私の値打ちを決めてきたのです。
ふと、殿下の顔が浮かびました。
――その領地ごと君がほしい。
同じ「領地ごと」でも、ずいぶん違うものですね。
殿下が欲しいのが領地だったとしても、あの方は私に「それくらいがちょうどいい」とは一度も言いませんでした。
「お断りします」
私は、もう一度はっきりと言いました。
「……何だと」
「ミルフィールドは返しません。あなたと婚約し直すつもりもありません。伯爵家への問い合わせには、どうぞ本当のことをお書きください」
「正気か? 嘘がばれれば、お前は」
「ダリウス様」
私は、ダリウス様の言葉をさえぎりました。
「私が伯爵家を出るとき、何を持って出たか覚えていらっしゃいますか」
「……衣装箱だろう。それがどうした」
「衣装箱がひとつと、鞄がひとつ。鞄の中身は、クロフォード伯爵家の三年分の帳簿の写しです」
ダリウス様の顔から、笑みが消えました。
「査察官は、帳簿を読むのがとてもお上手な方でした。私の帳簿を、一冊残らず、指でたどりながら読んでいかれました。クロフォード家の帳簿の写しも、あの方にお見せしましょうか。伯爵家のお金の流れを、三年分」
脅したつもりでした。
伯爵家の帳簿を他人に見られるのは、名家にとって恥です。そのくらいの揺さぶりにはなるだろう、と。
けれど、ダリウス様の反応は、私が思っていたよりずっと大きいものでした。
みるみる顔が白くなっていき、組んでいた足をほどいて膝の上で握ったこぶしが、小さく震えています。
夜会で賭博場の受け取りを突きつけたときでさえ、この人はここまで青ざめませんでした。
「……あの写しを、まだ持っているのか」
「はい」
「誰かに見せたのか」
「いいえ。まだ」
ダリウス様は、しばらく黙っていました。
それから、ひどくゆっくりと立ち上がりました。
何かがおかしい、と思いました。賭博と宝飾品の使い込みなら、夜会でとっくに明るみに出ていて、今さら帳簿の写しを怖がる理由はないはずです。あの帳簿には、まだ何かがあるのでしょう。
ふと、伯爵家の執務室で、夜遅くまで数字を合わせていたころのことを思い出しました。
鎮圧の費用、修繕の費用、買い上げの運び賃。毎日届く紙の山の中で、確かめる時間がないまま、いくつか合わない数字が残っていたのです。もしかすると、ダリウス様が怖がっているのは、あの数字なのかもしれません。
*
「……後悔させてやる」
ダリウス様は、手紙を懐にしまいながら吐き捨てました。
「王都には、俺の声に耳を貸してくださる方々が大勢いるんだ。こんな田舎の小娘ひとり、どうにでもできる」
そう言うと、ダリウス様は荒々しく応接間の扉を開けました。
廊下に控えていた供の男たちが、あとに続きます。そのうちのひとりが、腹いせのように、ゴードンの肩を乱暴に押しのけました。
ゴードンがよろけて、壁に手をつきます。
「何をするのですか!」
思わず声を上げた私の方へ、その男が振り向き、腰の剣に手をかけました。
そのとき、廊下の奥から、足音もなく三人の男が現れました。商人のような地味な服を着ていますが、背筋の伸び方がまるで違います。三人は何も言わずに私の後ろに並ぶと、ダリウス様の供をじっと見据えました。
剣を抜くどころか柄に手をかけてさえいないのに、三人がそこに立っているだけで、供の男の手は剣から離れました。
「……何だ、こいつらは」
ダリウス様の声が、わずかに上ずっています。
「領地の見回りに雇っている者たちです。このあたりは物騒ですので」
私は、できるだけ平気な顔で答えました。
殿下が約束どおりに寄越してくれた、傭兵たちです。この館の近くに身を潜めて、何かあれば出てくる手はずになっていました。まさか、こんなに早く出番が来るとは思いませんでしたけれど。
ダリウス様は三人をにらみつけると、舌打ちをひとつして、足音も荒く玄関を出ていきました。
門の外では、トマスたち領民が、黙って馬車を見送っていました。
馬車が見えなくなると、トマスが館の方へ向き直ります。
「……領主様。あいつに、何か取られたのか」
「いいえ。何も渡していません」
「そうか」
トマスはそれだけ言って、村の方へ帰っていきました。
その背中が、少しだけ安心したように見えたのは、私の気のせいでしょうか。
*
その夜、私は書斎の隠し棚から、古い鞄を取り出しました。
伯爵家を出るときに持ってきた、帳簿の写しの鞄です。
燭台の明かりの下で、去年のミルフィールドの分を開きます。鎮圧に出た兵の手当、壊された倉の修繕費、そして王国の買い上げの書類が並んでいます。
ダリウス様があれほど青ざめた理由は、この中のどこかにあるはずです。あのとき合わなかった数字を、一つずつ探していきました。
ページをめくりながら、ふと、窓の外に目をやりました。
月の明るい夜で、放牧地の向こうの丘の道には、誰の姿もありません。
そういえば、契約を結んだあの夜から、殿下は一度もこの館に来ていないのです。
三日と空けずに通ってきたころはあれほど鬱陶しかったのに、来なければ来ないで、なんだか静かすぎる気がして、私はもう一度、帳簿に目を落としました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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