第8話 契約
冬の初めの、まだ暗い朝のこと。
「ご領主様。お休みのところ、申し訳ございません」
寝室の扉の向こうから、ゴードンの声がする。ゴードンが夜明け前に私を起こしに来るなんて、この館に来てから初めてです。
上着を羽織って扉を開けると、燭台を手にしたゴードンが、いつもより硬い顔で立っていました。
「昨夜出た荷馬車のうち一台が、国境へ向かう街道で止められました」
「止められた? 誰にですか」
「王国の役人です。街道にいつの間にか検問が置かれていたそうです。御者は荷馬車を捨てて森へ逃げ、先ほど裏口に知らせに来ました」
「荷は」
「チーズとバターの樽が荷台に積まれたままだそうです」
樽には、どこの品かを示す印は何も入れていないので、そこから辿ることはできないはず。けれど、このあたりで、あれだけの量を用意できる土地は、ミルフィールドしかない。
「近いうちに、必ず調べに来るでしょうね」
「……はい」
「ゴードン。帳簿を書き直します。手伝ってください」
それから三日間、私は書斎にこもりきり。
殿下との取引を隠すために、数字がすべて合う帳簿を、この秋の分だけ作り直したのです。
問題は、本当の帳簿をどこに隠すか。机の上に広げたまま、私は頭を抱えていました。
「ご領主様。それでしたら、こちらに」
ゴードンが指さしたのは、書斎の壁の棚。百年分の古い帳簿が並んでいる、あの棚です。
ゴードンはその中から、数冊の帳簿をまとめて抜き出し始めました。
「そこに置いておくのですか?」
私が聞くと、ゴードンは首を横に振ります。
そして、空いた棚の奥の板に手をかけて、ぐっと押しこんだ瞬間。
ガコッ。
音を立てて壁がへこみ、へこんだ部分を横へずらすと、その奥にぽっかりと空洞が現れたのです。
こんな場所があるなんて、今まで少しも気づきませんでした。
「こちらなら、おそらく見つからないかと」
「……ありがとう、ゴードン」
ゴードンは本当の帳簿を受け取って空洞へ置くと、音も立てずに壁を元に戻してみせました。
これなら、そう簡単には見つからないでしょう。
*
王都から査察官が来たのは、四日目の昼。
灰色の外套を着た、四十ほどの男で、後ろには兵が六人ついています。
査察官は玄関で私を見るなり、書類を広げて読み上げました。
「ミルフィールド領主、セレスティア・ハートレイ殿。禁令を破り、この領地の品物を帝国に流した疑いにより、帳簿と倉を改めさせていただく」
「どうぞ。何もお隠しすることはありません」
私が頭を下げても、査察官は眉ひとつ動かさずにうなずくだけ。
兵たちは、館の倉から村の倉まで、一つずつ開けていきます。
倉の中は、どこも空っぽ。当然です。帝国に渡した品物は、とうに国境の向こうなのですから。
「空だな」
「はい」
「この秋、この領地で採れたものは、どこへやった」
「王都の商会が、ひどい値しか出してくださらなかったので、売らずにおきました。傷んだものは捨て、残りは領民に配っています。今年の冬の食べ物にさせるためです」
「なるほど」
査察官はそれ以上は聞かず、書斎へ案内するように言いました。
書斎の机に、書き直した帳簿を並べます。
査察官は椅子に座ると、帳簿を一冊ずつ、ゆっくりとめくっていく。数字を指でたどっては、ときどき手を止めて質問をしてくる。
辻褄が合うように書いた数字です。見破られなければいいのですが。
査察官が一枚めくるたびに、背中にじわりと汗がにじむのが分かりました。
最後の一冊を閉じると、査察官は顔を上げました。
「よくできた帳簿だ」
「ありがとうございます」
「ほめたのではない」
査察官は外套の内側から、紙の束を取り出しました。
「帳簿に書いていないことを、いくつか聞かせてもらおう」
*
一枚目の紙が、机の上に置かれます。
石材の数と値、職人の手間賃が並んだ書きつけ。見覚えのある数字でした。
「この秋から、この領地では倉を建て直し、柵を直し、畑を元に戻している。石は隣の領地から買い、職人も隣の村から呼んだ。その費用がこれだ」
「……どこでそれを?」
「隣の村から来た石工に、口数の多い男がいただろう。半月ほど前に、親が倒れたと言って仕事をやめた男だ」
思い当たる人がいます。石を積むのが速くて、昼の休みには領民たちと一緒にパンをかじっていた人。やめると聞いたときは、気の毒に、としか思わなかったのに。
「あれは、私の部下だ」
査察官はそれだけ言うと、書きつけの一番下の数字を指でたたきました。
「王都の商会とは、この秋、一つも取引をしていない。売る物がないはずの領地が、これだけの金をどこから出した」
「私の持参金で耐えているだけですよ」
声が震えないように、ゆっくりと答えます。
「実家には見放されましたが、婚約を取り消したとき、クロフォード伯爵家から償いを受け取りました。それを使っています」
「クロフォード家からか」
「はい」
「では、クロフォード家に問い合わせよう。いくら渡したのか、向こうに聞けばすぐに分かるだろう」
「……お好きにどうぞ」
伯爵家から受け取ったのは、この領地だけ。問い合わせられたら、嘘はすぐにばれてしまいます。
ばれる前に、なんとかしなければなりませんね。
二枚目の紙には、細かい字で人の言葉が書きつけてありました。
査察官が、それを読み上げます。
「今年の冬は越せそうだ。どこに売ったのかは知らないがご領主様が高く売ってくれた。と……酒に酔った領民が、何人も同じことを言っている」
私は、心の中で目を閉じました。
値が漏れないよう、農家に払う額は抑えたつもりです。それでも、今までの値よりずっと多い額。冬を越せると分かってうれしくなった人が、酒場で口にするのを止められないことは分かっていたけれど、見つかるのが思ったよりも早い。
「高く売ってくれた、とはどういう意味だ。帳簿にもそれらしい記述はない。売らずにおいたのではなかったのか」
「言葉のとおりです。私は領民から品物を買い取りました。王都の商会の値より高い値で」
「買い取った品物は」
「先ほど申し上げたとおりです。傷んだものは捨て、残りは冬の食べ物として、領民に戻しています」
「自分で高く買い取ったものを、また領民にただで配ったと」
「はい。領民が冬を越せなければ、来年の品物も採れませんので」
査察官は、しばらく黙って私を見ていました。
それから、三枚目の紙。
日付が、ずらりと並んでいます。
「この秋からこの館に男が通ってきていると聞く。金髪で、背が高く、牛の買い付け人だと名乗っているそうだ。来た日を数えたら、この数だそうだ」
「……」
「牛の買い付け人が、売ってもらえない領地になぜこれほど通う」
殿下の笑顔が浮かびます。
だから言ったのです。目立たないように、と。
「ルシアンさんのことでしたら、確かに牛を買いに来られる方です。ですが、禁令がある限り、この領地の牛は売れません。何度来られても、そのたびにお断りしています」
「断られても、三日と空けずに来ると?」
「はい」
「なぜだ」
少しだけ迷ってから、私は嘘ではないことを答えました。
「……私に、求婚しておられるのです」
後ろに控えていた兵のひとりが、小さく吹き出しました。
査察官はその兵をじろりとにらみ、それから、初めて少しだけ表情を崩しました。
「求婚、か」
「はい。お断りしていますが、あきらめてくださらないのです。正直に申し上げて、鬱陶しいと思っておりました」
これも、嘘ではありません。
*
査察官は三枚の紙を重ねると、机の上で指を組みました。
「最後だ。四日前の夜明け、国境へ向かう街道で荷馬車が一台あった。御者は逃げたが、荷台には大量のチーズとバターの樽が積まれていた。このあたりで、あれだけの量を一度に用意できる土地は、ここしかない」
「その樽に、ミルフィールドの品だという印でもあったのですか」
「ない」
「でしたら、どこの品かは分からないはずです」
「そうだな。だから、聞いている」
私は、用意しておいた答えを口にします。
「この秋、村の倉から品物が盗まれたことが何度かございました。見張りを立てていなかった私の落ち度です。その品かもしれません」
査察官は答えません。
長いあいだ、ただ黙って私を見ていました。
「これほど証拠が揃っているのだ。領主殿、私はあなたを黒だと思っている」
「……」
「ただ、帳簿は合っている。倉は空だ。樽に印はない。今日のところは、あなたを連れていく証拠がないのは事実」
査察官は立ち上がって、外套を羽織りました。
「今日は引き上げることにしよう。だが、これから見張りを付けさせていただく。街道にも、国境の森にも人を置く。荷馬車一台国境へ向かわせてみろ。次は逃げられないと思いなさい」
*
査察官たちの馬が見えなくなったとたん、私は玄関の石段に座りこんでしまいました。
膝に、まるで力が入らない。
ゴードンが、黙って肩に外套をかけてくれます。
「……クロフォード家に問い合わせると言っていましたね」
「はい」
「嘘は、すぐに分かります。そうなれば、あの人たちはまた来ます」
ゴードンは、何も言いませんでした。
隠し通すことはできた。けれど、これでもう、同じやり方で取引を続けることはできません。街道にも森にも、見張りが立つのですから。
かといって取引をやめれば、この冬、領民はまた飢えることになる。
もう、覚悟を決めるしかない。
私には、後戻りする道なんて残っていないのです。
「ゴードン。殿下に、知らせを届けられますか」
「昔から、この土地の者しか知らない森の抜け道がございます。見張りが立つ前の、今夜のうちでしたら」
「お願いします」
*
殿下が来たのは、二日後の真夜中。
いつもの外套も帽子もなく、黒い服を着て、裏口からそっと入ってきました。
「セレス。大丈夫だったか?」
「大丈夫ではありません。ですから、お呼びしました」
書斎の机に、一枚の紙を置きます。査察官が帰った夜に書いた、契約の案です。
「正式に、契約を結ばせてください」
殿下は紙を手に取って、読み始めました。
そこに書かれているのは、帝国がミルフィールド領を守ること。
その一文を読んだところで、殿下が顔を上げました。
「……本気か?これは、王国に弓を引くも同じだぞ。分かって書いてるのか?」
「分かっています」
「セレス、それなら」
「帝国に寝返るつもりはありません。この領地は王国の領地で、私は王国の領主です。これは、あくまで契約です。領主が、自分の領地と領民を守るために結ぶ、ただの契約です。もし、私がこの領地から離れれば、あなた方に物を売ることはできなくなります。それでは困りましょう?」
屁理屈なのは、自分でも分かっています。
今回ばかりは、一つ間違えば戦争の引き金にもなりかねない。
王国から見れば、隣の国の兵を呼びこむ約束をした領主です。反逆だと言われれば、言い返す言葉なんてありません。
それでも、帝国の一部になるのとは違う。この土地を誰かに渡すつもりは、私には少しもないのです。
「わかった。しかし、派兵をすれば戦争を引き起こす。あくまで傭兵として、そちらに雇われたことにしてくれ」
私は思わず顔を上げました。
「傭兵を、ですか」
「護衛としてだ。領内についての一切の権限は君にあるはずだ。もし役人が武力を行使することになったときに君を守る人が必要になるだろう」
「あくまで王国の中での問題とするわけですね」
「そうだ。それであれば帝国との全面戦争には発展しない」
殿下は、まっすぐに私を見ていました。
いつもの笑顔は、どこにもありません。
「条件が二つあります。一つ、どんなことがあっても王国の民に剣を向けないこと。一つ、この領地の中では、領主である私の指図に従うこと」
「王国の兵が相手でも、か?」
「民というのは、この国で暮らしている人たちのことです。剣を持ってこの領地に来る兵は含みません」
「いいだろう。二つとも約束する」
殿下は契約の案の余白に、その二つを自分の手で書き足しました。
それから、契約書の下に名前を。私が思っていたよりずっと長い、帝国の皇子としての名前でした。
「この領地は、帝国が守る。約束しよう」
私も、その横に名前を書きます。
ペンを置いてから、ずっと聞けずにいたことを口にしました。
「殿下。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「なんだ」
「どうして皇子殿下ご自身が、ここまでなさるのですか。こんな契約に名前を書けば、殿下のお立場も危うくなるはずです」
殿下は、すぐには答えませんでした。
「帝国には、この土地の食べ物が必要。ただ、それだけだ」
それだけ、ですか。
「……やはり、殿下が欲しいのは、この領地だったのですね」
口に出してみると、思っていたより冷たい声になっていました。
殿下は何か言いかけて、やめました。
殿下の求婚が、この領地の食べ物のためだったとしても、驚くことではありません。むしろ、筋が通っています。
それなのに、少しだけ胸が痛む。どうして痛むのかは、考えないことにしましょう。
ただ、ひとつだけ、自分でも分かっていることがあります。
私はこの契約書を、殿下を信じて書いたのです。
隣の国の兵を領地に入れる約束なんて、信じていない相手とは決して結べません。兵が約束を破って王国の民に剣を向ければ、この領地は本当に帝国に奪われてしまう。
それでも、この方なら約束を守ると思った。
殿下が欲しいのが領地だったとしても、かまいません。
それでも、私はこの方を信用すると決めたのです。
これで、王国の中に私の逃げ場はなくなりました。
*
同じころ、王都のクロフォード伯爵家には、査察官からの問い合わせの手紙が届いていました。
――ミルフィールド領主セレスティア・ハートレイ殿に、婚約取り消しの償いとして、いかほどの金品を渡されたか。
その手紙を最初に読んだのは、伯爵様ではなかったのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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