第7話 皇子と弟
国境の砦に戻ったのは、日が落ちてからだった。
門をくぐって馬を降りると、明かりの下でラウルが腕を組んで待っていた。
俺がミルフィールドへ行った日は、必ずこうして待っている。
「お帰りなさいませ、殿下」
「ただいま。報告を聞こうか」
「先に、申し上げたいことがあります」
「小言なら後にしてくれ」
「後にすると、殿下はお聞きになりません」
ラウルは表情を変えずにそう言うと、俺の外套を受け取った。
「三日と空けずにお通いになるのはおやめください」
「わかってるよ。セレスにも同じことを言われた」
「ご領主様のほうが、殿下よりよほど分別がおありです」
返す言葉がなかったので、俺は黙って砦の中へ入った。
*
執務室の机には、報告書が積んであった。
ミルフィールドから運んだ品物は、国境に近い町から順に配っている。配り終えた町では、先月に比べて、飢えで死ぬ者の数が目に見えて減り始めていた。
数字を追っていくと、どうしても目が止まる所がある。まだ品物が届いていない北の町では、今月も子どもが何人も死んでいた。
「次の荷は、北の三つの町へ回してくれ」
「かしこまりました。……殿下、もうひとつ」
「まだあるのか」
「今日、ご領主様に求婚なさったそうですね。お供の者から聞きました」
俺は報告書から顔を上げた。ラウルはまっすぐにこちらを見ていた。
「……ああ。断られたけどね」
「なぜ、今なのですか」
ごまかしても無駄なのは分かっていた。ラウルは、俺が子どもの頃からそばにいる。
「テオの軍が国境を越えれば、真っ先に踏みつぶされるのはあの土地だ。国境のすぐそばで、帝国がいちばん欲しいものが全部そろっている」
「はい」
「でも、あの土地の領主が俺の妃になる人なら話が変わる。帝国は、妃になる人とその領地を守るという名目で、あの土地に兵を置ける。攻めるためじゃなく、守るための兵をだ。テオも、兄の妃の領地を荒らそうとは思わないだろう」
ラウルは少し黙ってから言った。
「理屈は分かります。ですが、それだけですか」
「……それだけなら、あんなに毎回断られても通ったりしないよ」
ラウルは、ため息のような息を吐いた。
「ご領主様には、このことを」
「言うな。帝国のことも、俺の立場のことも、テオのことも、何ひとつだ。あの人は今、自分の領地を立て直すので手いっぱいなんだ。これ以上、背負わせたくない」
「……かしこまりました」
*
二日後、俺は帝都の宮殿にいた。
父上の寝室には、今日も入れてもらえなかった。侍医によれば、この半月、目を開けている時間のほうが短いという。
父上が倒れてから、宮廷は二つに割れた。いや、割れたというのは正しくないのかもしれない。俺のまわりに残っている者は、日に日に減っていた。
回廊の先の小さな居間で、テオが待っていた。
「兄上。お帰りなさい」
テオは椅子から立ち上がって、昔と同じ顔で笑った。背はとっくに俺に追いついたのに、笑うと子どもの頃のままだ。
「また痩せたんじゃないか、テオ」
「兄上に言われたくありません。国境の砦で、何を食べているんです」
「隣の国のうまいものを食べてる」
「ずるいですね」
二人で笑った。
こうして話しているときだけは、昔と何も変わらない。
「兄上の商いの話は聞きました。国境の町では、死ぬ者が減ったそうですね」
「ああ。北の町にも、もうすぐ届く」
「この冬は、それで越せるかもしれません」
テオはそこで言葉を切って、窓の外を見た。雪をかぶった山が、どこまでも続いている。この国の土地の大半は、ああいう山だ。
「ですが、兄上。春はどうします。次の冬は。その次は。王国の禁令が解けなければ、兄上の商いはいつまでも隠れて続けるしかない。王国に見つかれば、それで終わりです」
「分かっている」
「国境の向こうには、作物がいくらでも育つ土地があります。あそこを押さえれば、帝国は二度と飢えません。王国の顔色をうかがう必要もなくなる」
テオが言う「あそこ」がどこなのか、俺には分かっていた。
国境のすぐ向こうで、牛が鳴き、りんごが木の下に落ちるほど実る土地だ。
「テオ。それでは戦争だ。争いでは人が死にすぎる」
「はい。ですが、今のままでも人は死にます。戦で死ぬ者と、飢えで死ぬ者と、どちらが多いか。兄上なら、数えられるでしょう」
テオの声は静かだった。
テオは、本気でこの国の民を救いたいと思っている。それが分かるから、俺は何も言い返せなかった。
違うのは、やり方だけだ。
俺は隣の国と取引をして、民を食わせようとしている。テオは隣の国から奪って、民を食わせようとしている。
宮廷の貴族たちがどちらにつくかは、見れば分かる。取引は時間がかかるし、いつ王国に止められるか分からない。奪うほうが早い。
*
「そうだ。土産がある」
俺は話を変えるように、布の包みを机の上に置いた。
包みを開くと、テオが目を丸くした。
「……チーズですか」
「ミルフィールドのチーズだ」
ナイフで二つに切って、片方をテオに渡した。
テオはひと口かじって、そのまま動かなくなった。
「兄上。これは」
「覚えてるか」
「……母上が、取り寄せてくださったチーズと同じ味です」
子どもの頃、母上は冬になると、国境の向こうからチーズを取り寄せてくれた。その頃はまだ、あの土地の者たちが帝国にも品物を売っていたのだ。俺とテオは、暖炉の前で一つのチーズを分けて食べた。どちらが大きいほうを取るかで、毎年けんかをした。
初めてミルフィールドの館でこのチーズを食べたとき、俺はそれを思い出して、何も言えなくなった。
思い出したのは、それだけではなかった。このひと切れがあれば、北の町の子どもが一日生きられる。そう考えずにはいられなかった。
「懐かしい味ですね」
テオは少し笑って、残りをゆっくりと食べた。
俺も、自分の分を食べた。やはりひと切れではすぐになくなってしまうな。
*
その夜、宮殿の自分の部屋で、俺は窓を開けた。
冷たい風が吹きこんでくる。
そこから見えるのは巨大な山脈。その向こう側にあの土地がある。
テオを止められなければ、あの土地は戦場になる。
そして、どうしても止められない場合。そのときは、俺がテオを討たなければならない。
そこまで考えて、俺は窓を閉めた。
その先を考える覚悟は、まだできていなかった。
あの土地を、戦場にはしない。
セレスにも、テオにも、何も失わせない。
どちらか一方だけなど、今の俺には選択できなかった。
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