第2話 怒った領民と、しゃべらない家令
馬車が止まると、御者が振り返って小声で言いました。
「お嬢様、本当にここで降りられるんですか」
窓の外には、古い石造りの館が建っていました。その前に、二十人ほどの住民が集まっています。手にしているのは鍬や棒で、誰ひとり笑っていません。
「降ります。ここが私の家ですから」
扉を開けて地面に足をつけると、いちばん前に立っていた若い男が一歩出てきました。日に焼けた腕で、柄の長い熊手を握っています。
「あんたが新しい領主か」
「はい。セレスティア・ハートレイと申します」
「クロフォードの若様の婚約者だった女だろう。話は噂で聞いてる」
男の後ろで、住民たちがざわつきました。
「また買い上げか」
「今度は何を持っていく気だ」
「倉にはもう何も残ってねえぞ!」
私は館の脇に目を向けました。倉の壁が黒く焦げていて、屋根が半分落ちています。道の向こうでは柵が倒れたままで、畑には馬の蹄の跡がいくつも残っていました。ここで何があったのかは、伯爵家に届いた書類で知っています。けれど、書類で読むのと自分の目で見るのとでは、ずいぶん違いました。
「おい、何とか言ったらどうだ」
若い男がさらに一歩前に出たとき、館の扉がきしむ音を立てて開きました。
出てきたのは、背の高い老人でした。白い髪をきちんとなでつけ、古い型の黒い上着を着ています。老人は住民たちをゆっくりと見回してから、ひと言だけ言いました。
「……新しいご領主様だ」
それだけで、ざわめきが収まりました。若い男も口を閉じて、熊手の先を地面に下ろしました。
この土地の人たちは、この老人の言うことなら聞くようです。
私は住民たちに向き直りました。
「最初に申し上げておきます。今日から、この領地の税と買い上げの窓口は私です。クロフォード家の役人は、もうここには来ません」
何人かが顔を見合わせました。
「これからは、今までのように、よそから来た人間に勝手なことはさせません。この領地に住む皆さんを守るやり方で、治めていくつもりです」
「……へえ」
「ただ、王国の禁令と買い上げは、今の私にはどうにもできません。それは国が決めたことですから。できないことを、できるとは言いません」
若い男が、鼻で笑いました。
「守るやり方、ね。前の役人も、その前の役人も、来た日には同じようなことを言ってたよ」
「そうでしょうね」
「貴族の約束は聞き飽きた。行こうぜ、みんな」
男が背を向けると、住民たちもばらばらと帰っていきました。何人かは振り返って私をにらみ、何人かはもう私のほうを見ませんでした。
「トマスという者です」
後ろから声がしました。老人がいつの間にか私の隣に立っています。
「……酪農をしております。あれの家の倉も、焼けました」
「そうでしたか。教えてくださって、ありがとうございます。あなたは?」
「ゴードンと申します。前のご領主様の代から、この館にお仕えしております」
ゴードンはそう言って頭を下げると、御者から私の衣装箱を受け取り、黙って館の中へ運んでいきました。
*
館の中は、外から見た以上に荒れていました。
廊下の絨毯はすり切れ、窓のいくつかには板が打ちつけてあります。広間の暖炉には、長いあいだ火を入れた跡がありませんでした。
「ほかの使用人は、どうしたのですか」
「……皆、暇を取りました」
「あなたひとりで、この館を?」
「……さようで」
「クロフォード家からは、館の手入れのお金が出ていなかったのですか」
「……さようで」
それ以上は何を聞いても、ゴードンの答えは「さようで」でした。怒っているのか、あきれているのか、顔を見ても分かりません。どうやら、口数の少ない人のようです。
最後に案内されたのは、二階の書斎でした。
ここだけは、ほかの部屋と違ってきれいに掃除されていました。窓ぎわに大きな机があり、壁の棚には革の背表紙の帳簿がびっしりと並んでいます。
「これは?」
「……前のご領主様方の帳簿でございます」
背表紙の年号を目で追っていくと、いちばん古いものは百年以上前でした。伯爵家にいたころ、私が扱っていたのはこの十年分ほどの写しだけです。ここにあるのは、その前の時代の記録でした。
一冊を棚から抜き出したとき、扉のそばに立っているゴードンと目が合いました。
ゴードンは何も言わず、私の手元の帳簿をじっと見ていました。
「読んでもかまいませんか」
「……ご領主様のものでございますので」
ゴードンは頭を下げて、書斎を出ていきました。
*
日が傾くころ、館の扉をたたく音がしました。
ゴードンに続いて玄関に出ると、年を取った夫婦が立っていました。夫のほうは腰が曲がっていて、妻のほうは布をかけた籠を両手で抱えています。
「ハンスと申します。こっちは家内のマーサで」
「まあまあ、本当にお若いご領主様だこと」
マーサさんは私の顔を見るなり、目を細めて笑いました。この土地に着いてから、私に笑いかけてくれた人は、この人が初めてでした。
「昼間はトマスが失礼をいたしました。あの子を悪く思わないでやってくださいね。家の倉を焼かれて、冬の間の食べ物もなくしてしまったものですから」
「悪くなど思っていません。怒るのは当然です」
「そう言っていただけると……。それでね、これ、うちで作ったチーズなんです。何もない所ですけど、せめてこれくらいはと思って」
籠の布をめくると、丸いチーズがひとつ入っていました。
ゴードンがナイフを持ってきて、その場で薄く切ってくれました。
口に入れると、塩気のあとに、ミルクの甘い味が広がりました。
「……おいしい」
思わず声に出ていました。
マーサさんがうれしそうに手をたたきました。
「そうでしょう、そうでしょう。うちの牛は、この辺りでいちばんいい草を食べてるんですよ」
「本当においしいです。王都でも、こんなチーズは食べたことがありません」
すると、隣でハンスさんが小さく首を振りました。
「ご領主様、そんなに気を遣わなくていいんですよ。うちは田舎ですから、どれだけ手をかけても、王都じゃ大した値はつきません」
「値は、どなたが決めているのですか」
「そりゃあ、王都の商人の方々ですよ。いつの時代も同じです。値は王都の方々が決めるもんで、わしらはその値で売るしかない。この土地は、昔からそういう所なんです」
ハンスさんは、怒っているわけでも、嘆いているわけでもありませんでした。雨が降ったら畑が濡れる、という話をするのと同じ顔で、そう言いました。
「だからね、ご領主様。わしらのことは、あまり気になさらなくていい。静かに暮らしたくて来られたんでしょう。ここは、静かなことだけは取り柄ですから」
ゴードンは、玄関の脇で黙って立っていました。
ハンスさんの言葉にうなずきもせず、首を振りもしませんでした。
帰っていく夫婦を見送ってから、私は残りのチーズを包み直しました。
その夜は、書斎の机で遅くまで古い帳簿を読みました。
*
翌朝、朝食の皿を下げに来たゴードンが、珍しく自分から口を開きました。
「……ご領主様。牛を買いたいという男が、門の前に来ております」
「牛を? この時期にですか」
「……さようで」
禁令が出てから、この土地の作物や家畜を、わざわざ買いに来る者はいなくなったはずです。
私は首をかしげながら、玄関へ向かいました。
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