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第1話 私は田舎を選びました

「セレス。その領地ごと君がほしい」


開け放した窓から、牛の鳴き声が聞こえてきます。

館の応接間で、隣国の皇子殿下が私の手を取っていました。整った顔に甘い笑みを浮かべていて、断られるとは少しも思っていない様子です。


私はその手をそっと外しました。


「鬱陶しいです」

「ひどいなあ。求婚の返事がそれ?」

「求婚なさるのでしたら、まず私の名前を正しく呼んでください。セレスではなく、セレスティアです」

「じゃあ、セレスティア。君が――」

「お断りします」


殿下は笑ったまま肩をすくめました。少しもこたえていないところが、また鬱陶しいのです。


私がフェルシア王国の端にあるこの田舎、ミルフィールド領の領主になったのは、ほんの少し前のことです。

それまでの私は、ある伯爵家の跡取りの婚約者で、その家の帳簿係でした。


   *


「終わったか」


ノックもなく扉が開き、ダリウス様が執務室に入ってきました。

机の上には、紙の束がいくつも積み上がっています。


「ミルフィールドの分でしたら、まだ半分です。鎮圧に出た兵の手当と、壊された倉の修繕費と、買い上げた作物の運び賃が、日付も書かれないまま毎日届きますので」

「言い訳はいい。父上への報告書はどうした」

「こちらに」


ダリウス様は私の手から報告書を取ると、立ったまま目を通しました。


「上出来だ。俺の名前で出しておく」

「……それは、私が三日かけてまとめたものです」

「だから何だ。お前の字で書いた報告を、父上がまともに読むと思うのか?」


ダリウス様は報告書を丸めて、私の肩を軽くたたきました。


「お前にはそれくらいがちょうどいい。表に出ないで、俺の後ろで数字でも数えていろ」


扉が閉まってから、私は次の紙の束に手を伸ばしました。


クロフォード伯爵家の跡取りであるダリウス様との婚約は、三年前に私の両親が決めたものです。

ハートレイ子爵家にとって、伯爵家とのつながりは何よりも大切でした。父は私に「お前は黙って従っていればいい」と言い、母はそれにうなずくだけでした。

婚約してすぐ、私は伯爵家の帳簿を任されました。最初は「嫁ぐ前に家のことを覚えるように」という話でしたが、半年もたつと、屋敷の仕入れも、使用人のお給金も、領地から上がってくる税の計算も、すべて私の机に回ってくるようになりました。

そうしてまとめた報告は、どれもダリウス様の名前で伯爵様に届きます。伯爵様は息子をほめ、ダリウス様は私に「お前にはそれがお似合いだ」と言います。三年のあいだ、それが繰り返されました。


去年から、仕事はさらに増えました。

北のノルデン帝国と、王国の一部で作物がとれず、あちこちで食べ物が足りなくなったのです。王国は、伯爵家の領地のひとつであるミルフィールドの作物を、国境の向こうの帝国へ売ることを禁じました。そのうえで、同じ作物を王国が安い値で買い上げると決めたのです。

怒った住民が倉を囲み、伯爵家は兵を出しました。そこから先は、鎮圧の費用と修繕の費用と買い上げの書類が、毎日のように届くようになりました。


その夜も、私は遅くまで数字を合わせていました。

いくつか、合わない数字が残っていました。けれど、届く紙の量に追いつくだけで精一杯で、どこでずれたのかを一つずつ確かめる時間はありません。


   *


ひと月後、クロフォード伯爵家で夜会が開かれました。

ミルフィールドの騒ぎを収めたとして、ダリウス様が国王陛下からおほめの言葉をいただいた、そのお祝いです。騒ぎを収めるための書類をまとめたのは私ですが、そのことを知っている人はこの広間にいません。


私は壁ぎわで、ぬるくなった果実水を飲んでいました。

楽団の演奏が終わったところで、ダリウス様が広間の真ん中に進み出ました。


「皆さま、今夜はお集まりいただき、ありがとうございます。祝いの席ですが、ひとつお伝えしなければならないことがあります」


ダリウス様は私のほうを見ました。

広間の目が、いっせいに私に向きました。


「セレスティア・ハートレイ。お前との婚約を、ここで破棄する」


あちこちで、息をのむ音がしました。


「理由をお聞きしてもよろしいですか」

「白々しい。お前に任せていた帳簿から、金が消えている。金貨800枚だ。帳簿をつけていたのはお前ひとりなのだから、お前が使い込んだとしか考えられない」


ざわめきが大きくなりました。

「まあ、子爵家の娘が」「帳簿を任されていたのに」という声が聞こえます。


私はグラスを近くの給仕に渡しました。

金貨800枚。その数字には、心当たりがありました。


「ダリウス様。その800枚は、どの項目から消えているのですか」

「そ、それは……ミルフィールドの鎮圧の費用だ」

「そうですね。鎮圧費用の中に、兵の手当として金貨800枚が書かれています。ただ、その分の支払いの受け取りは、兵舎からではなく、王都の賭博場と宝飾店から届いていましたよ」


ざわめきが、ぴたりと止みました。


「受け取りには、ダリウス様の署名があります。写しはすべて取ってあります。いつか、こういう日が来ると思っていましたので」

「な……っ、でたらめを言うな!」

「でたらめかどうかは、伯爵様がご覧になればすぐに分かります。字の見分けがつかないほど、似た署名ではありませんから」


ダリウス様の顔が赤くなって、それから白くなりました。

広間の奥から、クロフォード伯爵様が出てきました。


「ダリウス。先月お前が出した、ミルフィールドの報告書のことだ。買い上げた作物を運ぶのに、荷車を何台使ったと書いてあった?」

「それは……」

「答えられんのか。自分で書いた報告書だろう」


ダリウス様は口を開いて、何も言わずに閉じました。

私は小さく頭を下げてから言いました。


「荷車は四十二台です。そのうち九台は、途中で住民に止められて、倉に戻っています」


伯爵様は、長いあいだ黙って私を見ていました。

それから、息子のほうを見ないまま言いました。


「……今夜の集まりは、ここまでとする」


   *


客が帰ったあと、私は伯爵様の書斎に呼ばれました。

ダリウス様も、苦い顔で部屋の隅に立っています。


「セレスティア嬢。今夜のことは、クロフォード家の恥だ。息子が君に言ったことも、すべて聞いた」


伯爵様は机の上で手を組みました。


「婚約は、当家から取り消させてもらう。そのうえで、償いをしたい。できることなら、今夜の話はここだけに収めてもらいたいのだ。望むものを言いなさい」


私が何を言い出すのか、伯爵様は身構えていました。金貨か、ダリウス様の廃嫡か、それとも別の家との縁談の世話か。

私は、決めてあった答えを口にしました。


「ミルフィールド領をいただきます」


伯爵様が目を丸くしました。

部屋の隅で、ダリウス様が吹き出しました。


「ミルフィールド? あの、暴動ばかりの田舎をか?」

「はい」

「牛と畑しかない土地だぞ。住民は役人に石を投げるし、買い上げのたびに揉め事を起こす。……ははっ、そうか。お前にはそれくらいがちょうどいい」


伯爵様は息子をにらみましたが、止めはしませんでした。


「本当に、それでいいのかね」

「はい。静かに暮らしたいのです。王都から遠い土地のほうが、私には合っています」


伯爵様はしばらく考えてから、うなずきました。

あの土地の揉め事を手放せるのは、伯爵家にとっても悪い話ではありません。近ごろは帝国との戦の噂が町でささやかれるほど、両国の仲が悪くなっていると聞きます。その帝国と国境を接している土地ですから、この先のことを考えれば、伯爵家は手放したいはずです。そう考えて申し出てみたのですが、思ったとおり、その夜のうちに譲り渡しの書類が作られました。


   *


「ふざけるな!」


翌朝、ハートレイ家の居間で、父の怒鳴り声が響きました。


「伯爵家に頭を下げて、婚約を元に戻してもらえ。それができないなら、償いは金でもらえ。あんな田舎の領地を受け取って、どうするつもりだ」

「領主として暮らします」

「お前ひとりで何ができる。女が領主など、いい笑いものだ。だいたいお前は、昔から親の言うことを――」

「お父様」


私は父の言葉をさえぎりました。生まれて初めてのことでした。

母が、口に手を当てました。


「私は三年間、黙って従ってきました。その結果が、昨夜の広間での出来事です。これからのことは、自分で決めます」


父はしばらく口を開けたままでした。

それから、顔を真っ赤にして言いました。


「……出ていけ。二度とこの家の敷居をまたぐな」

「はい。お世話になりました」


私は頭を下げて、居間を出ました。

荷物は、衣装箱がひとつと、帳簿の写しを詰めた鞄がひとつ。見送りに出てきた者は、ひとりもいませんでした。


   *


王都を出て、馬車は北へ向かいました。

石畳の道はすぐに終わり、あとは土の道がどこまでも続きます。


窓の外を見ながら、私は伯爵様の書斎で聞いたダリウス様の笑い声を思い出していました。

あの人は最後まで、厄介払いができたと思っていたのでしょう。


三年のあいだ、あの人は自分の家の帳簿を一度も開きませんでした。

だから、ミルフィールドから毎年どれだけのものが出ていっていたのかも、知らないままなのです。


こうして私は、揉め事ごとを押しつけられた田舎の領主になりました。

そしてその土地で私を最初に出迎えたのは、鍬を握った住民たちの、怒った顔でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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