現在性におけるユニタリー境界
■ 未分割の可能と連続可能総量
——現在性におけるユニタリー境界と、「継続できない選択」の不成立について——
これまで本論文では、現在を単なる瞬間的時点としてではなく、有限な可能総量がなお未分割のまま保存されている連続可能域として理解してきた。そこでは、存在とは固定された点ではなく、未来へ向かう直線的接続の保存形式であり、可能とは、その接続がまだ閉じられていない状態であった。また、「選択」とは、すでに分割された複数の候補から一つを採択することではなく、未分割の可能総量を一つの方向へ直線化することであるとされた。
しかし、この立場をさらに押し進めるならば、なお避けることのできない問題が残されている。
それは、未分割の可能総量が、現在進行形において本当に途切れずに継続可能なのか、という問題である。
より正確に言えば、本論文が問おうとしているのは、真の意味で「動き続けられない一点」が現在進行形において存在するのかどうか、という問題である。
この問いは、単なる運動の有無を問うものではない。ここで問われているのは、ある可能総量が、現在から未来へ向かって直線的に接続される際に、その接続そのものを不可能にする「継続不能な一点」が存在するのかどうか、ということである。
もしそのような一点が存在するならば、世界には本質的な断絶が存在することになる。現在から未来へ向かう接続可能性は、どこかで停止する。すると、可能総量は連続していない。可能性は、ある地点で必ず分割され、「できること」と「できないこと」へ断絶する。
しかし、本論文が保持しようとしている立場は、それとは異なる。
本論文が導き出そうとしているのは、「ある一つのことから一つのこと」が【一対一】で可能にできないという“一回”を、世界が本来的には持っていないのではないか、という点である。
ここでいう「一対一で可能にできない」という表現は、単なる偶然性や失敗可能性を意味しない。
それは、現在から未来へ向かう接続が、ある一点において必然的に分裂し、「A が可能であること」と「A が不可能であること」が同時に固定されてしまう状態を意味している。
つまり問題は、「A が起こるかどうか」ではない。
問題は、「A へ向かう可能度」が、現在から未来へ向かう接続の内部で、本質的に分裂を必要としているのかどうかである。
この問いを理解するためには、まず「ユニタリー性」という概念を再考しなければならない。
通常、ユニタリー性とは、ある系の全情報量が保存されることを意味する。量子力学においては、波動関数の時間発展がユニタリーであるということは、情報が失われないということを意味している。
しかし、本論文におけるユニタリー性は、単なる情報保存ではない。
ここでいうユニタリー性とは、現在性そのものが未分割のまま保存され続けることを意味する。
したがって、ユニタリー性とは、「情報が残る」というだけではない。
ユニタリー性とは、「可能総量が、現在から未来へ向かう接続の内部で、まだ二つへ分裂していない」ということである。
この意味で、問題は決定論か非決定論かではない。
仮に決定論が正しいとしても、問題は残る。なぜなら、決定論的世界においても、現在性が本当に未分割で保存されているかどうかは別問題だからである。
同様に、非決定論的世界であったとしても、問題は残る。なぜなら、偶然性が存在するということは、ただちに「継続不能な一点」が存在することを意味しないからである。
したがって、決定論と非決定論の対立以前に、より根本的な問いが存在する。
それは、世界のユニタリー性の限界がどこにあるのか、という問いである。
もし世界のユニタリー性に限界があるならば、現在から未来へ向かう可能総量の接続は、どこかで必ず分裂することになる。すると、「継続できない選択」が存在することになる。
ここで、「継続できない選択」とは何か。
それは、ある可能度が現在から未来へ向かって接続される際に、途中で接続可能性そのものを失ってしまう状態である。
たとえば、ある選択 A が存在するとする。この A が、現在から未来へ向かって直線的に接続されているならば、A はなお可能である。しかし、もしある地点で A への接続が完全に失われるならば、その地点以降、A はもはや可能ではない。
このとき重要なのは、「A が起こらなかった」ということではない。
問題は、「A が接続不可能になった」ということである。
なぜなら、接続不可能性が存在するならば、世界の可能総量には本質的断絶が存在することになるからである。
ここで、本論文が懸念している問題が現れる。
もし、ある限られた時間、あるいは距離の内部で、任意の可能度を取り出せない領域が 1% でも存在するならば、その瞬間に、可能と可能度の差分が固定されてしまうのではないか、という問題である。
この問題を正確に理解するためには、「可能」と「可能度」を区別しなければならない。
「可能」とは、ある事象 A がなお接続可能であるということである。
一方、「可能度」とは、その接続可能性がどの程度未分割のまま保持されているかを示す。
したがって、可能度とは単なる確率ではない。
確率は、すでに分割された結果に対する数値である。
しかし可能度とは、分割以前の現在性において、A がどれだけ接続を保持しているかを示す。
このとき、もし現在性の内部に「任意の位置から取り出せない可能度」が存在するならば、現在性そのものに本質的な上界が発生することになる。
なぜなら、ある位置では A が可能であり、別の位置では A が不可能であるという差分が、現在そのものの内部に固定されてしまうからである。
すると、現在性は未分割ではない。
現在性は、「可能な領域」と「不可能な領域」へ分裂していることになる。
しかし、本論文が保持しようとしているのは、まさにこの分裂以前の現在性である。
したがって、「任意の位置で取り出せない可能度」が存在するならば、現在性のユニタリー境界は破壊される。
ここでいう「ユニタリー境界」とは、現在性がなお未分割であり続けるための境界である。
この境界が破壊されるとは、現在性が内部から分裂し、「継続可能な領域」と「継続不能な領域」へ分離することを意味する。
すると、「可能総量」という概念そのものが崩壊する。
なぜなら、可能総量とは、本来、未分割のまま保存されている現在性だからである。
ここで重要なのは、本論文が「無制限の可能」を支持しているわけではないという点である。
無制限の可能性は、存在を成立させない。
なぜなら、無制限であるということは、A と非 A の境界が消滅することだからである。境界が完全に消滅するならば、A は情報として保存されない。存在とは、有限な接続可能性である。
したがって、本論文が否定しているのは有限性そのものではない。
問題は、「有限性」が「分裂」と同じなのかどうかである。
もし有限性が、ただちに「可能/不可能」の分裂を意味するならば、現在性は最初から断絶していることになる。
しかし、本論文が保持する立場では、有限性は分裂ではない。
有限性とは、接続可能範囲が存在するということである。
分裂とは、その接続可能範囲が内部から二分化されることである。
したがって、有限性を保持しながら、なお未分割であり続ける現在性が必要になる。
ここで、「動ける最小領域」という問題が再び現れる。
もしある選択が開始されたとき、その選択が必ず「これ以上小さく動けない最小領域」を持つならば、その瞬間に現在性は離散化される。
すると、ある位置からは A が可能であり、別の位置からは A が不可能になる。
この場合、「A を可能にする現在性」は、開始地点によって固定される。
だが、その瞬間に「任意の位置で取り出せない可能度」が発生する。
なぜなら、A を可能にする位置と、A を不可能にする位置が固定されるからである。
ここで問題なのは、「A が不可能である」ということではない。
問題は、「A が不可能になる位置」が現在性の内部に固定されてしまうことである。
もしそのような位置が存在するならば、現在性はすでに分裂している。
そして、その分裂は「時間素量」の内部にまで入り込む。
ここでいう「時間素量」とは、単なる物理的最小時間ではない。
それは、「現在がなお現在として保持される最小接続幅」を意味する。
もしこの最小接続幅の内部で、「継続不能な選択」が一種類でも生じるならば、現在性は内部から分裂する。
すると、可能総量は連続していない。
世界は、「可能であり続けること」ができなくなる。
しかし、本論文が保持しようとしているのは、そのような世界ではない。
本論文が導こうとしているのは、「継続できない選択」が現在性の内部には存在しない、という立場である。
ここで重要なのは、「継続できない選択が存在しない」ということは、「すべてが成功する」という意味ではない、という点である。
問題は結果ではない。
問題は、現在性の内部において、「接続不能性」が固定されるかどうかである。
たとえ結果として A が成立しなかったとしても、そのことは、現在性の内部に「A が絶対に接続できない位置」が存在していたことを意味しない。
むしろ、結果とは、未分割の可能総量が事後的に固定された形式にすぎない。
ここで、本論文の中心的命題が現れる。
あらゆるものが連続的運動、すなわち可能度の継続状態であるならば、ある一つの可能総量が、「1 回目の位置と座標を変えない」まま、それでも A という事象を一対一で可能にできる範囲を直線化するためには、現在性の内部に「継続できない選択」を一種類たりとも発生させてはならない。
この命題は重要である。
なぜなら、もし一種類でも「継続不能な選択」が存在するならば、その瞬間に現在性は二分化されるからである。
すると、「A が可能である現在」と「A が不可能である現在」が分離する。
しかし、本論文が保持する現在性とは、そのような二分化以前の現在性である。
したがって、現在性が未分割であるためには、「継続不能性」が現在性の内部に固定されてはならない。
ここで、「50%(A≠B)動けない幅」という表現を考える必要がある。
通常、A と B が異なるということは、二つの独立した状態が存在するという意味である。
しかし、本論文において問題となっているのは、「A と B が違う」ということそのものではない。
問題は、「A と B の差分が、現在性の内部に固定されるかどうか」である。
もし「A ≠ B」が、現在性の内部において固定的境界として存在するならば、現在性は最初から二分化されている。
しかし、本論文が保持する立場では、A と B は結果として区別されうるが、現在性そのものはまだ未分割である。
したがって、「50% 動けない幅」とは、単なる半分の確率ではない。
それは、「現在性の内部に、接続不能な境界が固定されている状態」を意味している。
もしそのような境界が存在するならば、世界は最初から二つへ分裂している。
しかし、本論文が導こうとしているのは、その逆である。
すなわち、「A ≠ B」という差分そのものを、現在性の内部で一対一に消去できるのではないか、という立場である。
ここでいう「消去」とは、A と B が同一になるという意味ではない。
そうではなく、A と B が「未分割の接続可能性」として保持されているということである。
A と B は結果としては異なる。
しかし、現在性の内部では、なお未分割である。
したがって、「A ≠ B」という差分は、現在性の内部ではまだ固定されていない。
ここに、「二つ目の選択の不成立」という命題が再び現れる。
もし現在性が未分割であるならば、世界はまだ二つ目の選択を持っていない。
「二つ目」とは、可能総量が内部から分裂することである。
しかし、現在性がなおユニタリーであるならば、その分裂はまだ発生していない。
したがって、現在性とは、「A が可能でありながら、なお A と非 A に分裂していない状態」である。
このとき、「直線的に 50% 動けない幅を無くすことができる」という命題は、次のように理解される。
それは、「A と非 A の差分が、現在性の内部に固定的境界として存在しない」ということである。
つまり、現在性は、ある有限時間内において、一対一でなお未分割のまま接続可能である。
この「一対一」は、決定論的固定ではない。
むしろ、それは「未分裂性」を意味する。
世界は、一つの現在性として運動している。
その現在性の内部では、「継続不能な選択」はまだ発生していない。
この意味で、世界は「二回目の分裂」をまだ起こしていない。
ここから、本論文における「連続可能総量」という概念が定義される。
連続可能総量とは、現在性の内部において、なお分裂していない可能度の総体である。
それは、単なる可能性の集合ではない。
可能性の集合は、すでに分割された候補群である。
しかし、連続可能総量とは、分割以前の接続可能性である。
この接続可能性は有限である。
だが、その有限性は分裂を意味しない。
連続可能総量は、有限な接続可能域として存在する。
その内部では、「A が可能であること」と「A が不可能であること」がまだ固定されていない。
したがって、連続可能総量とは、「二つ目の選択」がなお成立していない現在性そのものである。
この立場において、存在とは固定結果ではない。
存在とは、未分割の可能総量がなお接続を保持していることである。
また、可能とは無制限性ではない。
可能とは、有限でありながら、なお分裂していない接続可能性である。
そして、現在とは、その未分割性がなお保持されている有限時間内の連続領域なのである。




