選択可能領域
■ 選択可能領域と実在量
可能と不可能の境界は現在の内部に存在するのか
ある一つの可能度を、現在進行形において直線にするとは、A という事象を単なる未確定の可能性として放置することではない。それは、A が現在から連続的に接続されうる領域を保ち、その領域の内部において A が A として判定可能であり続けることを意味する。A が直線にされるとは、A がすでに固定された結果になることではなく、A が現在のうちで失われず、なお選択可能な形式を保つことである。
このとき問題となるのは、A が保持される領域である。A が可能であるとは、単に A がどこかで起こりうるということではない。A が可能であるためには、A を選びうる現在の範囲が存在しなければならない。すなわち、A が A として保存され、A へ向かう経路が完全には閉ざされず、A を非 A から区別するだけの判定可能性が残されていなければならない。
この領域を、真の意味での選択可能領域と呼ぶことができる。
選択可能領域とは、ある事象 A が、現在から直線的に到達可能であり続ける範囲である。それは、単なる物理的空間ではない。位置だけでもなく、時間だけでもない。むしろ、それは位置、時間、運動、情報、判定可能性が一つの現在性として重なり合う領域である。A が選択可能であるとは、この領域の内部において、A がまだ消失していないということである。
しかし、この選択可能領域は、不変的な位置と運動を固定しうるのだろうか。
もし選択可能領域が完全に固定されるならば、A はすでに結果に近づく。A がどこにあり、どのように動き、どの時点で成立するかが完全に決まっているならば、A はもはや純粋な可能度ではなく、すでに実在として固定されたものになる。反対に、選択可能領域がまったく固定されないならば、A は A として判定できなくなる。A がどこに属し、何と区別され、どの方向へ向かっているのかがまったく定まらないならば、A は単なる不定形の拡散にすぎない。
したがって、選択可能領域は、完全な固定でも完全な不定でもない。A は固定されすぎれば可能ではなくなり、拡散しすぎれば A ではなくなる。A が可能度として成立するためには、A はまだ固定されていないが、なお A として判定可能であるという中間領域に属していなければならない。
この中間領域こそが、現在である。
現在とは、A がまだ結果ではなく、しかし無でもない領域である。現在とは、A が固定される前に、A として保存される範囲である。ゆえに現在の本質は、固定ではなく保存であり、停止ではなく連続であり、決定ではなく判定可能性である。
ここで、選択と可能の差分が問題となる。
選択とは、可能性のうちから一つを現実化することだと考えられる。可能とは、まだ選択されていない複数の到達可能性である。この理解に従えば、選択は可能性を狭める。A を選ぶことは、非 A を選ばないことを意味する。ある位置へ動くことは、別の位置へ動かないことを意味する。ある時間に行為することは、別の時間に行為しないことを意味する。
しかし、現在の内部でこの差分は本当に成立しているのだろうか。
もし現在において、すでに「動ける位置」と「動けない位置」が一パーセントの差分として発生しているならば、現在はすでに可能と不可能に分割されていることになる。その場合、A が可能である領域と、A が不可能である領域とのあいだに、最小の境界が生じていることになる。この境界が存在するならば、そこには連続可能ではない A が発生する。
連続可能ではない A とは、現在から直線的に接続できないにもかかわらず、A として想定されている事象である。それは、A と呼ばれているが、現在の可能総量の内部には含まれていない。もしそのような A が存在するならば、世界には、現在から切断された可能性が存在することになる。つまり、可能であるにもかかわらず選択できない A、あるいは A として考えられるにもかかわらず現在から到達できない A が存在することになる。
しかし、このような A は、真の意味で可能なのだろうか。
可能であるとは、少なくとも現在から何らかの仕方で接続されていることである。接続されていないものは、現在の可能性ではない。それは想像可能ではあっても、選択可能ではない。選択可能でない可能性は、現在の内部においては実在量を持たない。したがって、連続可能ではない A が現在の内部に存在するということは、可能性の概念そのものを矛盾させる。
このため、重要なのは、可能と不可能の境界が現在の内部に本当に存在するのかという問題である。
可能と不可能の境界が現在の内部に存在するならば、現在はすでに分割されている。A ができる領域と、A ができない領域が、現在のなかに同時に存在していることになる。そのとき、現在はもはや一つの保存領域ではなく、可能と不可能の差分を含んだ分割領域になる。
しかし、現在とは本来、可能度が保存される連続領域である。現在の内部において A がまだ A として保存されているならば、A は完全には不可能ではない。A が完全に不可能になるのは、A への直線的接続が失われたときである。したがって、不可能性は現在の内部に最初から一点としてあるのではなく、現在からの接続が途切れる過程として生じる。
この意味で、可能と不可能の境界は、固定された線ではない。それは、現在の外部から見れば境界として記述されるかもしれない。しかし、現在の内部においては、それはまだ境界ではなく、保存量の変化である。A が強く保存されている領域、弱く保存されている領域、ほとんど失われかけている領域があるとしても、それらはただちに可能と不可能の二分法へ還元されるわけではない。
可能と不可能は、結果の言語である。現在は、保存の場である。
結果の側から見れば、A は起こったか起こらなかったかである。選択されたか選択されなかったかである。到達されたか到達されなかったかである。しかし現在の側から見れば、A はまだ保存されているか、どの程度保存されているか、どの方向へ直線的に接続されているかという問題である。
したがって、現在性の有限性とは、現在が一点であることを意味しない。むしろそれは、現在が無限に拡散するものではなく、一定の保存幅を持つという意味である。現在は有限である。なぜなら、すべての可能性を無制限に含むわけではないからである。しかし現在は点ではない。なぜなら、A が可能であるためには、A が保存される幅が必要だからである。
現在性の有限性とは、可能度が保存される幅の有限性である。
この有限な幅のなかで、A は A として保持される。A は完全には固定されていないが、完全に失われてもいない。A は現在の内部で、判定可能な可能度として持続している。ここにおいて、実在と実在量の問題が生じる。
実在とは、現在から直線的に判定可能な可能度の保存である。実在量とは、その保存の量である。すなわち、ある A が現在の内部において、どれだけ A として保持され、どれだけ直線的に到達可能であり、どれだけ非 A から区別されうるかを示す量である。
実在量は、単なる存在の有無ではない。A は存在するか存在しないか、という二分法だけでは捉えられない。A は強く存在することもあり、弱く存在することもあり、ほとんど消えかけながらもなお可能度として保存されていることもある。実在量とは、このような保存の強度である。
ここで問われるべきなのは、現在の範囲と連続可能性が、ある一つの事象面に対してどこまで最大化され、また最小化されうるかである。
事象面とは、A が A として現れるための場である。それは、A が位置を持ち、時間を持ち、運動を持ち、情報として判定される面である。A は単独で存在するのではない。A は常に、ある事象面のうえで A として成立する。サイコロの目が一になるという A は、サイコロ、投げる行為、重力、机、時間、観測、判定という事象面のうえで初めて A となる。
この事象面において、現在の範囲を最大化するとは、A が到達可能であり続ける領域を最大限に保つことである。すなわち、A がまだ不可能として切断されず、なお直線的に接続可能である範囲を広く保持することである。
反対に、現在の範囲を最小化するとは、A が判定されるための最小の保存幅を見出すことである。A が A として成立するために、どれだけの時間、どれだけの距離、どれだけの情報、どれだけの運動が必要なのかを問うことである。
最大化と最小化は対立しない。現在は、A を可能にする範囲として最大化されなければならず、同時に A を A として判定するために最小化されなければならない。広すぎれば A は拡散し、狭すぎれば A は固定される。したがって、現在の範囲とは、A が可能度として保存されるための最大かつ最小の領域である。
この領域において、A は直線的に可能である。直線的に可能であるとは、A が現在から切断されず、A へ向かう接続が維持されているということである。しかし、この接続は、すでに決定された一本の線ではない。むしろそれは、A が A として保存されるための連続的な方向性である。
この方向性が失われるとき、A は不可能になる。だが、方向性が残されているかぎり、A はまだ現在に属している。たとえ A が結果として現実化しなくても、A が現在の内部で選択可能領域を持っていたならば、A は実在量を持っていたことになる。
ここで再び、世界が現在に至るまでに直線的に可能にできない A、すなわち一点としての不可能な A を持たないという仮定を置くことができる。
この仮定においては、世界のどの時点においても、現在から完全に切断された A は存在しない。ある A が想定されるならば、その A は何らかの形で現在から接続可能である。A がまったく接続不可能であるならば、それは A ではなく、現在の外部に置かれた空虚な名にすぎない。
このとき、選択と可能の差分は、一個、一回として固定されない。なぜなら、選択と可能の差分が一個として固定されるためには、A が可能である領域と不可能である領域が明確に二分されなければならないからである。しかし、世界が直線的に可能にできない A を持たないならば、その二分は現在の内部では成立しない。
選択は、可能性を完全に切断するのではない。選択は、可能度の一部を結果へと狭めるだけである。可能性の全体が一回で消えるわけではない。A を選ぶことによって非 A が完全な無になるのではなく、非 A は別の保存形式へ移る。選ばれなかった可能性は、結果として現実化しなかっただけであり、現在においてまったく存在しなかったわけではない。
ゆえに、選択と可能の差分を一個にしないことができる。A が選択されたとしても、その選択は可能総量全体を二つに分割する絶対的切断ではない。A が選ばれたことと、非 A が不可能だったことは同じではない。選択は結果を作るが、不可能性を根源的に作るわけではない。
このことは、一対一関係の問題へとつながる。
通常、一つの原因に一つの結果、一つの選択に一つの帰結、一つの時点に一つの状態が対応すると考えられる。この一対一関係は、世界を理解するうえで強力な形式である。しかし、可能度の観点から見れば、一対一関係は常に結果の側から構成される。現在の内部では、一つの A はまだ一つの結果と完全には対応していない。
A が A として保存されているとき、A は一つでありながら、まだ一つの結果ではない。A は一つの可能度であり、一つの方向性であり、一つの判定可能性である。しかしそれは、まだ一回の出来事ではない。ここで、一対一関係は、時間と距離を二つに分けない形式として考え直されなければならない。
時間と距離そのものを二つに分けないとは、現在を「前」と「後」、「ここ」と「そこ」、「できる」と「できない」にただちに切断しないことである。時間は、過去と未来へ分割される以前に、現在の連続性として保存されている。距離は、到達済みの地点と未到達の地点へ分割される以前に、到達可能性として保存されている。
時間が二つに分けられるとき、現在は境界になる。距離が二つに分けられるとき、A は到達点になる。しかし、時間と距離がまだ二つに分けられていないならば、現在は境界ではなく保存領域であり、A は到達点ではなく可能度である。
この未分割の時間と距離において、可能度総量が成立する。
可能度総量とは、現在の内部で保存されている到達可能性の全体である。それは、A が可能であるか不可能であるかを二分する以前の量であり、選択が結果を固定する以前の量であり、時間と距離が二つに分割される以前の量である。
可能度総量は、世界がまだどこまで切断されずにいるかを示す。世界が完全に切断されていれば、可能度総量は結果の集合へと変わる。しかし世界が連続しているかぎり、可能度総量は結果以前の保存として残る。
この総量は、すべてが可能であるという意味ではない。むしろ、それは可能性が無秩序に広がっているという意味でもない。可能度総量とは、A が A として判定可能であり続けるために必要な連続性の保存量である。そこには範囲があり、強度があり、方向性がある。だが、それはまだ「できる」と「できない」に完全には分割されていない。
したがって、可能度総量は、現在の最も深い実在量である。
実在量とは、すでに現実化したものの量ではない。現実化したものは、実在量の一部にすぎない。より根源的な実在量とは、現在から直線的に判定可能な可能度の総量である。A がまだ結果になっていなくても、A が現在から保存されているならば、A は実在量を持つ。A が結果として現れたとき、その実在量は固定される。しかし固定される以前にも、A は無ではない。
このことから、実在とは「固定されたもの」ではなく、「固定される以前に保存されているもの」として理解される。固定された結果だけが実在であるならば、現在の大部分は非実在になってしまう。しかし、現在とはまさに固定される以前の保存領域である。現在を実在から排除することは、世界の連続性を排除することに等しい。
ゆえに、現在の内部において最も重要なのは、何がすでに決まったかではなく、何がまだ直線的に可能であり続けているかである。A がまだ可能であるならば、A は現在に属している。A が現在に属しているならば、A は実在量を持つ。A が実在量を持つならば、A は単なる想像ではない。
ここで、選択可能性の有限性が再び問題となる。
選択可能性が有限であるとは、現在がすべての A を無制限に含まないということである。現在は有限であり、A が保存される範囲にも限界がある。だが、この限界はただちに不可能性の境界ではない。限界とは、保存量が変化する場所であり、A が弱まり、狭まり、別の形式へ移行する場所である。限界は、切断ではなく変化である。
不可能性は、限界が完全な切断に変わったときに生じる。しかし、その切断が現在の内部で一点として成立しているかどうかは、なお問われなければならない。もし現在が連続的な保存領域であるならば、切断は現在の内部ではなく、現在を外から結果として見る視点において成立する。現在の内部では、切断はまだ過程である。
このため、現在における可能と不可能の境界は、結果のように明確ではない。A が可能であるか不可能であるかは、結果の時点では判定できる。しかし現在の時点では、A は保存されているかどうか、どの程度保存されているか、どの方向へ接続されているかとしてしか現れない。
ここに、存在の曖昧さではなく、存在の連続性がある。
存在が曖昧なのではない。むしろ、存在は結果に先立って連続しているため、二分法では捉えられないのである。A は存在するか存在しないかだけではない。A は保存されている。A は接続されている。A は弱まっている。A は強まっている。A はまだ失われていない。このような形式こそ、現在における実在の姿である。
この姿を見失うと、世界は過度に結果化される。すべての事象は、起こったか起こらなかったか、選ばれたか選ばれなかったか、存在するか存在しないかに還元される。しかし、そのような世界理解では、現在の内部で進行している可能度の保存を捉えることができない。
現在とは、結果以前の実在である。
結果以前の実在とは、まだ固定されていないが、無ではないもののことである。A はまだ起こっていない。しかし A は可能である。A はまだ選択されていない。しかし A は選択可能である。A はまだ一点ではない。しかし A は直線的に接続されている。これが現在における実在である。
この実在は、一回に分割されない。A ができる一回と、A ができない一回は、現在の内部ではまだ成立していない。なぜなら、一回とは、連続した可能度が結果として切り出された後の単位だからである。現在の内部には、まだ切り出されていない保存がある。
世界はこの保存のなかで動いている。世界は一回ずつ止まってから次へ進むのではない。世界は途切れることなく運動し、その運動のなかで A を保存し、変形し、狭め、広げ、判定可能にし、あるいは失わせる。したがって、世界の根源的な単位は、一回ではなく、連続する保存である。
この保存があるかぎり、選択と可能の差分は一個にならない。A を選ぶことと、A が可能であることのあいだには、なお連続した領域がある。選択は可能性の終点ではなく、可能度の一つの固定形式である。可能性は選択によって完全に消えるのではなく、選択によって一つの結果へと収束する。
収束は切断ではない。収束とは、保存された可能度が一つの判定可能な形式へ集まることである。A が結果になるとき、A は完全な無から生まれるのではない。A は、すでに現在のなかで保存されていた可能度が、結果として読める形へ変化したものである。
したがって、結果は可能性の否定ではない。結果は可能性の固定である。
同様に、不可能性は可能性の反対ではない。不可能性は可能度の消失である。A が不可能になるとは、A が現在から直線的に接続されなくなることである。A がもはや A として判定可能ではなくなることである。A が現在の保存領域から外れることである。
このとき、A は現在の実在量を失う。しかし、それは A が最初から無であったことを意味しない。A はある時点まで保存されていたかもしれない。A はある範囲まで選択可能であったかもしれない。A は結果として現れなかったが、現在の内部では実在量を持っていたかもしれない。
この理解によって、可能性は単なる仮定ではなくなる。可能性は、実在に付随する影のようなものではない。可能性は、実在が現在において保存される形式である。
そのため、可能度総量は、世界の実在性を測る根本概念となる。世界がどれだけ現実化したかではなく、世界がどれだけ直線的に可能であり続けているか。世界がどれだけ結果を生んだかではなく、世界がどれだけ未分割の保存を保っているか。この問いによって、実在は結果中心の理解から解放される。
ここで、時間と距離を二つに分けないことの意味がさらに明確になる。
時間を二つに分けるとは、現在を境界として、過去と未来を切断することである。距離を二つに分けるとは、現在地と到達点を切断することである。しかし、A が直線的に可能であるかぎり、現在地と到達点は完全には切断されていない。過去と未来もまた、現在によって完全に分断されているのではない。現在は、過去から未来へと可能度が保存される場である。
この保存の場では、時間は単なる点列ではない。距離も単なる間隔ではない。時間は可能度が持続する形式であり、距離は可能度が接続される形式である。したがって、時間と距離は、A を二つに分けるためのものではなく、A を保存するための形式である。
A がある位置に到達可能であるとは、その位置が現在から完全に切断されていないということである。A がある時点に成立可能であるとは、その時点が現在から完全に隔絶されていないということである。したがって、到達可能な距離と成立可能な時間は、現在の内部に含まれる。
ここで注意すべきなのは、現在が無限に拡張されるわけではないということである。現在は有限である。しかしその有限性は、点としての有限性ではなく、保存領域としての有限性である。現在は幅を持つ。だが、その幅は無制限ではない。この有限な幅の内部で、A は直線的に接続される。
この有限な幅こそが、実在量の場である。
実在量は、現在の幅を超えては保存されない。A が現在から完全に外れたとき、A は現在の実在量を失う。しかし、A が現在の幅の内部にあるかぎり、A はまだ可能であり、判定可能であり、選択可能である。
したがって、選択可能領域とは、現在の幅の内部において A が実在量を持つ範囲である。この範囲は、位置と運動を含むが、それらに還元されない。なぜなら、A の選択可能性は、単にどこへ動けるかだけではなく、どのように A として判定され続けるかに関わるからである。
動ける位置と動けない位置の差分も、この観点から理解されなければならない。動ける位置とは、現在から直線的に接続されている位置である。動けない位置とは、現在からの接続を失った位置である。しかし、現在の内部では、この差分はただちに一パーセントの境界として現れるのではない。むしろ、接続の強度、保存の幅、判定可能性の持続として現れる。
ある位置へ動ける可能度が弱まることは、その位置がただちに不可能になることではない。ある位置へ動ける可能度が強まることは、その位置がすでに結果として固定されたことでもない。可能度は、できるかできないかの二分法に先立つ。ゆえに、動ける位置と動けない位置の境界も、現在の内部では連続的な保存量の変化として現れる。
このため、連続的に一パーセントの差分が発生するという考えは、慎重に扱われなければならない。一パーセントという数値は、すでに可能性を分割し、単位化し、測定可能な確率として扱う視点を含んでいる。しかし、現在の内部で可能度がまだ保存されている段階では、その一パーセントは完全な境界ではない。それは、結果の側から見た分割であり、現在の側から見た保存ではない。
したがって、現在の内部に一パーセントの選択不可能性があると言うためには、その一パーセントが本当に現在から切断されていることを示さなければならない。だが、もし世界に直線的に可能にできない A がないならば、そのような切断は成立しない。一パーセントの不可能性は、まだ不可能性として固定されていない。
ここにおいて、世界はまだ二つに分かれていない。
世界は、A ができる世界と A ができない世界に完全には分かれていない。世界は、選択された世界と選択されなかった世界に完全には分かれていない。世界は、動ける位置と動けない位置を絶対的な境界として持っていない。世界は、現在の内部で可能度総量を保存している。
この保存は、世界が曖昧であることを意味しない。むしろ、世界が連続的であることを意味する。曖昧さとは、判定できないことである。しかし可能度総量は、判定不能な混乱ではない。それは、A を A として判定可能に保ちながら、なお結果として固定しない保存である。
つまり、A は判定可能であるが、まだ固定されていない。A は選択可能であるが、まだ選択されていない。A は実在量を持つが、まだ結果ではない。この状態こそが、現在の本質である。
この現在の本質を理解するためには、実在を結果から切り離さなければならない。実在は結果に尽きない。結果は実在の一形式であるが、実在そのものではない。実在のより深い形式は、可能度の保存である。
A が可能であるとは、A がまだ存在しないという意味ではない。A が可能であるとは、A が現在の内部で保存されているという意味である。したがって、可能性は非存在ではなく、未固定の実在である。
未固定の実在は、固定された実在よりも弱いとは限らない。むしろ、世界が運動し続けるためには、未固定の実在が必要である。すべてが固定されてしまえば、世界はもはや変化しない。すべてが不定であれば、世界は何も判定できない。世界が世界として持続するためには、固定と不定のあいだに、保存された可能度が存在しなければならない。
この保存された可能度が、現在を作る。
現在とは、固定された結果の集合ではない。現在とは、固定される以前の実在量が保存されている場である。A はこの場のなかで、A として保持される。A が保持されるかぎり、A は直線的に可能である。A が直線的に可能であるかぎり、A は現在に属する。A が現在に属するかぎり、A は実在量を持つ。
ゆえに、現在において問われるべきことは、A がすでに一つの点として存在しているかどうかではない。むしろ、A が現在からどこまで直線的に保存されているかである。A の存在は一点ではなく、保存幅として現れる。A の可能性も一点ではなく、到達可能性として現れる。
このため、純粋な意味での A という一点は、現在の内部には存在しない。現在の内部にあるのは、A へ向かう可能度であり、A を A として保つ情報であり、A がまだ失われていない保存量である。A が一点として現れるのは、結果として判定された後である。しかし、現在の内部では、A は一点ではなく、直線的な保存領域である。
この保存領域が、選択可能領域である。
選択可能領域において、A は不変的な位置と運動を完全には固定しない。しかし、まったく不定でもない。A は、一定の範囲内で位置を持ち、一定の範囲内で運動を持ち、一定の範囲内で判定可能性を持つ。この「一定の範囲」が現在である。
現在の範囲が狭まりすぎれば、A は結果として固定される。現在の範囲が広がりすぎれば、A は A としての判定可能性を失う。したがって、現在は、A が A として可能であり続けるための適切な幅を持たなければならない。
この幅は、最大化と最小化の両方によって成り立つ。最大化とは、A がまだ切断されずに保存される範囲を広げることである。最小化とは、A が A として判定されるために必要な最小の領域を定めることである。A は、最大化された保存領域と最小化された判定領域の交差において、現在の実在量を持つ。
この交差は、一点ではない。交差は幅である。なぜなら、A が可能であるためには、A はまだ固定されていてはならないからである。固定された一点は結果であって、可能度ではない。可能度は、固定以前の幅として存在する。
この幅を失うとき、選択可能性は消える。A は結果になるか、不可能になる。結果になるとは、A の保存幅が一つの判定へ収束することである。不可能になるとは、A の保存幅が現在から失われることである。いずれの場合も、可能度としての A は変化する。
しかし、現在が続くかぎり、可能度総量は完全には消えない。世界は、一つの結果を生むたびにすべての可能性を失うわけではない。結果は新たな現在を開き、新たな可能度総量を保存する。したがって、世界は一回ごとに閉じるのではなく、一回ごとに別の保存領域へ移行する。
この移行こそが、連続性である。
連続性とは、同じ状態が永遠に続くことではない。連続性とは、状態が変化しても、可能度の保存が完全には断絶しないことである。A が B へ変化しても、そこに判定可能な接続があるならば、A と B は完全には切断されていない。現在は、この接続を保持する。
したがって、連続可能性とは、A が同じままであり続けることではない。A が変化しながらも、なお A から接続されることを意味する。A が現在から直線的に可能であるとは、A が固定された同一性として残ることではなく、A が接続可能な変化として保存されることである。
この意味において、直線性は硬直した線ではない。直線性とは、変化のなかで接続が失われないことである。A が変化しても、A からの到達可能性が完全に断絶しないならば、その変化は直線的である。直線性は、固定された形ではなく、保存された方向である。
世界が現在に至るまで、直線的に可能にできない A を持たないという仮定は、この保存された方向を世界の根本構造として捉えるものである。世界は、ある A を完全に切断することで進むのではなく、A の可能度を変形しながら保存することで進む。世界の運動は、切断の連続ではなく、保存の変形である。
このとき、一回という単位は、根源的ではない。一回とは、保存の変形を結果として切り出したものである。サイコロの一投も、測定の一回も、選択の一回も、世界の連続した運動を人間が判定可能な形式へ区切った単位である。世界そのものは、一回ずつ途切れているのではない。
したがって、A ができて A ができないという一回も、現在の内部では成立しない。A ができる可能度と、A ができない可能度は、結果の側から二つに見える。しかし現在の内部では、それらはまだ可能度総量の変化として保存されている。
この保存を理解することによって、可能と不可能の境界は再定義される。
可能とは、現在から直線的に保存されていること。
不可能とは、その保存が現在から失われること。
選択とは、保存された可能度が一つの結果へ収束すること。
実在とは、可能度が判定可能な形で保存されていること。
実在量とは、その保存の強度と範囲である。
この定義において、世界は単なる結果の集積ではない。世界は、保存された可能度総量の連続である。現在とは、その総量が現れている場である。A とは、その総量のなかで判定可能な一つの方向である。
ゆえに、直線的に可能にできない A が存在するかどうかという問いは、世界の内部に現在から完全に切断された可能性が存在するかどうかという問いである。そして、もしそのような A が存在しないならば、世界はまだ可能と不可能を完全には二分していない。
このとき、世界にはまだ一個の絶対的な差分はない。A ができることと A ができないことの差は、結果としては現れる。しかし、それは現在の内部では一個の固定された境界ではない。差分は保存量の変化として現れ、選択可能領域の変形として現れ、実在量の増減として現れる。
この意味において、時間及び距離そのものを二つに分けないことができる可能度総量は、世界の連続性を支える根本量である。時間が二つに分かれる前に、距離が二つに分かれる前に、選択が結果を固定する前に、A が不可能として切断される前に、可能度総量は現在の内部に保存されている。
この総量が保存されるかぎり、A はまだ失われていない。A はまだ一点ではない。A はまだ結果ではない。A はまだ不可能ではない。A は、現在から直線的に可能であり続けている。
そしてその限りにおいて、世界はまだ A を二つに分けていない。




