存在と可能の最小単位
■ 「存在」と「可能」の最小単位、及び現在性と直線性とは
存在とは、すでに確定されたものの名ではない。少なくとも、本論文が扱う存在とは、完了した事象、記録された結果、あるいは測定された状態だけを意味しない。存在とは、ある可能性がまだ失われず、なお現在から直線的に到達可能であり続けることの総体である。したがって、存在を問うことは、単に「何があるのか」を問うことではなく、「何がなお可能であり続けているのか」を問うことである。
通常、存在と可能は区別される。存在するものはすでにあるものであり、可能なものはまだ存在していないが、起こりうるものだと考えられる。しかし、この区別は、本当に最初から成り立っているのだろうか。ある事象 A がまだ起こっていないとしても、それが現在から到達可能であるならば、その A は完全な非存在ではない。逆に、ある事象 A がすでに存在したとしても、それが現在から再び接続不可能であるならば、その A は実在の連続性から切り離された過去の痕跡にすぎない。
ここで問題となるのは、存在と可能の境界である。すなわち、A が存在するとは、どの時点で言えるのか。A が可能であるとは、どの範囲まで言えるのか。そして、A が可能でなくなる瞬間は、本当に世界の内部に一点として存在するのか。
この問いを考えるためには、まず「現在」を再定義しなければならない。現在とは、単なる時刻ではない。時計の針が示す一点、あるいは過去と未来のあいだに置かれた薄い境界ではない。現在とは、ある有限時間以内に動くことのできる可能総量である。言い換えれば、現在とは、いまこの瞬間において保存されている到達可能性の領域である。
あるものが現在に属するとは、それがこの一点の時刻に閉じ込められているという意味ではない。むしろ、それは現在から直線的に接続されうるという意味である。現在性とは、点ではなく、接続可能性の形式である。現在は、過去と未来を二分する切断面ではなく、過去から未来へと可能性が連続して保存される場である。
このとき、直線性という概念が重要になる。直線性とは、ある一点から別の一点へ向かう可能性が、途中で不連続な断絶を生じることなく接続されることである。ここでいう直線は、幾何学的な線だけを意味しない。むしろそれは、可能性が途中で「できる」と「できない」に完全に分裂せず、ひとつの到達可能性として保持され続ける形式を意味する。
たとえば、サイコロを振って一の目を出すという事象を考える。このとき、通常の確率論では、一が出る可能性は六分の一であるとされる。しかし、この六分の一という値は、すでにサイコロを一回振るという試行単位を前提にしている。つまり、世界が「一回」という枠に分割された後で初めて、確率は定義される。
だが、サイコロがまだ振られていない現在において、その「一回」は本当に一回として成立しているのだろうか。サイコロを振る前の現在には、一が出る可能性、二が出る可能性、三が出る可能性、四が出る可能性、五が出る可能性、六が出る可能性があると考えられる。しかし、それらは本当に六つに分割された可能性として存在しているのか。それとも、まだ一つの未分割の可能総量として保存されているのか。
もし後者であるならば、一が出る可能性は、まだ六分の一ではない。少なくとも、それは結果としての六分の一ではない。それはまだ、現在から直線的に到達可能な一つの可能度として保存されている。この可能度は、確率として数えられる以前の領域に属している。そこでは、A が起こるか起こらないかは、まだ一回の出来事として分割されていない。
この意味で、可能度とは、確率以前の到達可能性である。確率が、すでに分割された事象の集合に対して与えられる数値であるならば、可能度は、分割以前に保存されている連続的な到達可能性である。確率は「A がどれだけ起こりやすいか」を問う。可能度は「A がどこまで直線的に可能であり続けているか」を問う。
ここに、存在と可能の最小単位の問題が現れる。
存在の最小単位とは何か。それは原子でも、粒子でも、瞬間でもない。存在の最小単位とは、ある A が現在から直線的に判定可能である最小の保存領域である。つまり、A がまだ失われず、しかし完全に固定もされず、なお一つの到達可能性として保持されている領域である。
可能の最小単位もまた、単なる確率の最小値ではない。可能の最小単位とは、A が「できる」と「できない」に分割される以前に、なお一つの可能度として保存されている最小の連続領域である。この領域が消失したとき、A は不可能になる。この領域が固定されたとき、A は実在として判定される。しかし、消失と固定のあいだには、なお現在としての連続性が存在している。
問題は、可能度を一つの領域に保存しようとしたとき、その決定性がすでに現在の外へ脱しているのか、それともまだ現在として連続しているのか、という点にある。
ある限られた時間のうちに、A が可能であると判定されるとする。そのとき、A の可能性は、その時間の内部に存在しているのか。それとも、A が判定されるためには、すでにその時間を超えた外部の視点が必要なのか。もし A が可能であることを判定するために、現在の外に出なければならないならば、現在はそれ自体では可能性を保存できないことになる。反対に、現在の内部において A の可能度が保存されているならば、現在は単なる時刻ではなく、実在を構成する連続的な場であることになる。
同じことは距離にも言える。A という地点があるとして、現在からその地点へ到達可能であるとする。この到達可能性は、現在の内部に保存されているのか。それとも、現在から切り離された未来の一点としてしか存在しないのか。もし A が未来の一点としてしか存在しないならば、現在には A の実在性は含まれていない。しかし、現在から A へ向かう直線的な到達可能性がすでに保存されているならば、A はまだ起こっていなくても、完全な非存在ではない。
したがって、現在と実在の連続性とは、どの時点と位置を直線的に決定できるかという問題である。そして、何を直線的な A として判定できるかという問題でもある。
ここでいう A とは、単なる記号ではない。A は、任意の事象、任意の位置、任意の運動、任意の結果、任意の可能性を表す。A は、サイコロの目が一になることでもよい。粒子の位置がある座標に現れることでもよい。ある情報が失われずに保存されることでもよい。ある未来の状態が現在から到達可能であることでもよい。
だが、A が A であるためには、A は他のものから区別されなければならない。A が B ではないこと、A が非 A ではないこと、A がある範囲において同一性を保つことが必要である。ところが、この同一性はどこから生じるのか。A がまだ結果として確定していない段階で、A はどのように A として保存されているのか。
情報とは、この問いに対する一つの答えである。
情報とは、一つの可能度を一つの場において継続的に判定することができる領域である。情報は、単に記録されたデータではない。情報とは、A が A として失われずに区別され続けるための保存形式である。ある可能度が完全に拡散し、もはや A として判定できなくなったとき、その可能度は情報としての形式を失う。反対に、A がまだ A として判定可能であるならば、そこには情報が存在する。
この意味で、情報と実在は分離できない。実在するものは、何らかの仕方で判定可能でなければならない。そして判定可能であるためには、A が A として保存されていなければならない。したがって、実在とは、情報として保存された可能度の連続性である。
しかし、この保存は静止ではない。世界がもし、一つの状態から一度も途切れることなく継続して動き続けているならば、情報もまた静止した固定物ではありえない。情報は、変化のなかで保存される。A は、変化しながら A として判定される。ここに、連続性の問題がある。
世界が途切れることなく動き続けているとした場合、「何が可能であるか」の差分は直線的に定義可能なのだろうか。A が可能であり、B が不可能であるという差は、どこで生じるのか。A ができて B ができないという一回の差分は、本当に世界の内部で一回として成立しているのか。
この問いは、見かけよりも根本的である。なぜなら、できることとできないことの差が一回として成立するためには、世界の可能総量がある地点で分割されなければならないからである。A は可能、B は不可能。この区別は、単なる言語上の区別ではなく、世界の構造における境界を意味する。
だが、もしある地点からある地点へ直線的に結べない一点が存在しないならば、選択不可能な可能度 A はまだ連続的に存在していないことになる。すなわち、A ができて B ができないという一回は、まだ一つの可能度差分として成立していない。
このとき、世界には純粋な意味での「A」という地点が、ある有限時間以内にこそ存在しないのではないか、という疑問が生じる。A は固定された一点としてではなく、現在から直線的に接続される可能度として存在している。A はすでにあるのではない。A はまだ可能であり続けている。A の実在性は、その固定性にではなく、その到達可能性の保存にある。
この考えに従えば、A ができて A ができないという状態、すなわち可能総量が直線的に変化しないという一回は、まだ一回になっていない。なぜなら、一回とは、可能性が結果へと分割され、ある選択が他の選択を排除した後に初めて成立する単位だからである。だが、現在のうちで A がまだ直線的に可能であり続けているならば、A ができないという差分は、まだ固定されていない。
このことは、サイコロの例によって明瞭になる。サイコロを振る前、世界には一が出る可能性がある。しかし同時に、一が出ない可能性もあるとされる。通常、この二つは対立するものとして考えられる。一が出るか、一が出ないか。しかし、振る前の現在において、この対立はまだ結果として成立していない。一が出ることと一が出ないことは、まだ世界のなかで二つの出来事として分割されていない。
したがって、サイコロの目を一にできる可能性は、どのタイミングからでも直線的に保存されていると考えることができる。もちろん、現実の結果として一が出るとは限らない。しかし、ここで問題にしているのは結果ではなく、現在からの到達可能性である。サイコロを振ることができ、一が出る経路が完全には閉ざされていないかぎり、一の可能度はまだ現在の内部に保存されている。
この意味において、世界はまだ二個目のサイコロを一パーセントにしないことが直線にできる。すなわち、世界は一回ごとに可能性を完全に分割しているのではなく、なお未分割の可能総量を保存している。二回目の試行、二つ目の分岐、二つ目の不可能性は、まだ完全な切断点として実在していない。
ここで「一パーセント」という表現は、単なる数値ではない。それは、可能性が最小の確率単位として分割されることを意味する。ある可能性が一パーセントとして表されるとき、その可能性はすでに全体から切り出され、数えられる対象となっている。しかし、可能度がまだ直線的に保存されている段階では、その一パーセントはまだ完全な分割単位として成立していない。
したがって、可能度 A が選択不可能であるという状態も、まだ一パーセントとして存在していない。選択不可能性とは、ある可能性が完全に閉ざされた状態である。しかし、現在から直線的に到達可能な経路が失われていないかぎり、A は選択不可能ではない。A がまだ完全には選択されていないとしても、選択不可能であるとは言えない。
ここに、現在から直線的に到達可能な実在の保存量という概念が必要になる。
実在の保存量とは、ある現在において、どれだけの可能度が失われずに保持されているかを示す量である。この保存量は、物質の量やエネルギーの量と同じではない。むしろそれは、現在からどれだけの A が直線的に判定可能であるかという構造的な量である。世界がある状態から別の状態へ移行するとき、すべての可能性が同じように保存されるわけではない。ある可能性は狭まり、ある可能性は広がり、ある可能性は消失し、ある可能性は固定される。しかし、そのなかでなお現在から直線的に接続される領域が存在するならば、そこには実在の保存量がある。
この保存量は、存在と可能を結ぶ。存在は、保存された可能度の現れであり、可能は、まだ固定されていない存在の形式である。存在と可能は対立しない。存在は可能の終点ではなく、可能は存在の欠如でもない。両者は、現在という連続領域のなかで互いに接続されている。
この接続を断ち切るものが、非連続的な決定である。ある時点で、A が完全に起こったとされ、同時に非 A が完全に排除されたとされる。そのとき、世界は一回の出来事を成立させる。しかし、この一回は本当に世界の側にあるのか。それとも、認識が世界を数えるために設けた単位なのか。
人間は世界を一回ずつ数える。サイコロを一回振る。測定を一回行う。選択を一回する。判断を一回下す。しかし、世界そのものは、本当に一回ずつ分割されているのだろうか。世界はむしろ、途切れることなく変化し続ける連続的な運動ではないのか。もしそうであるならば、「一回」という単位は、世界の根源的な形式ではなく、認識が変化を把握するために導入した形式である可能性がある。
このとき、A ができて A ができないという二分法もまた、根源的ではない。A ができるかできないかは、一回の試行、一回の選択、一回の判定が成立した後で初めて現れる。だが、その判定以前において、A はまだ可能度として保存されている。A は、できるものでも、できないものでもなく、直線的に可能であり続けるものとしてある。
このことは、決定論と偶然論の対立を別の仕方で考え直す契機となる。
決定論は、世界のすべての状態があらかじめ決定されていると考える。偶然論は、世界には根源的に予測不可能な出来事が存在すると考える。しかし、現在から直線的に到達可能な実在の保存量という観点に立てば、問題は「あらかじめ決まっているか」でも「完全にランダムか」でもない。問題は、ある A が現在からどこまで保存され、どこで分割され、どこで判定可能になるかである。
A が可能であり続けるということは、A がすでに決定されているということではない。しかし、それは A が完全な偶然であるということでもない。A は、現在からの直線的接続のなかで保存されている。この保存こそが、決定と偶然のあいだにある第三の領域である。
この第三の領域において、現在は単なる瞬間ではなくなる。現在は、可能性が保存される場であり、実在がまだ固定されずに連続する場であり、情報が A を A として判定可能に保つ場である。現在とは、過去の結果と未来の可能性のあいだにある境界ではない。現在とは、過去から未来へと可能度が直線的に接続される保存領域である。
この保存領域が存在するかぎり、世界はまだ完全に二つに分かれていない。A ができる世界と、A ができない世界。A が起こる世界と、A が起こらない世界。A が存在する世界と、A が存在しない世界。これらの分岐は、現在の内部ではまだ完全な断絶として存在していない。現在は、これらを未分割のまま保持している。
ゆえに、純粋な意味での A という地点は、ある有限時間以内にこそ存在しないのではないか。A は固定された座標としてではなく、保存された可能度として存在する。A は、そこに到達した後で初めて A になるのではなく、そこに到達可能であり続けることによって、すでに現在の内部に含まれている。しかしそれは、固定点としての A ではない。むしろ、固定点になる以前の A、すなわち可能度としての A である。
このことは、実在の境界を大きく変える。
実在とは、固定されたものの集合ではない。実在とは、現在から直線的に接続される可能度の保存である。実在の境界は、物体の輪郭や時刻の区切りによって決まるのではない。実在の境界は、A がまだ A として判定可能であり、なお現在から到達可能であるかどうかによって決まる。
この境界は、鋭い線ではない。むしろ、それは連続的な限界である。A が可能である領域と、A が不可能である領域は、単純に二分されない。A は、ある範囲では強く保存され、ある範囲では弱く保存され、ある範囲ではほとんど失われる。しかし、そのどこかに絶対的な切断点があるとは限らない。
もし切断点がないならば、A が完全にできないという一点も存在しない。少なくとも、現在から直線的に接続可能なかぎり、A はまだ不可能ではない。A が起こらないという結果が後から現れたとしても、それは可能度が最初からゼロであったことを意味しない。結果として起こらなかったことと、現在から不可能であったことは同じではない。
この区別は重要である。なぜなら、私たちはしばしば、起こらなかったものを不可能だったものとして理解してしまうからである。しかし、起こらなかった可能性は、可能でなかった可能性ではない。起こらなかった A は、結果として現実化しなかっただけであり、現在の内部では可能度として保存されていたかもしれない。
したがって、実在を結果だけから理解することはできない。実在は、現実化したものだけではなく、現実化しなかったが可能であり続けたものを含む。むしろ、実在の深層には、現実化以前の可能度の保存がある。
この観点から見れば、世界は「何が起こったか」だけでできているのではない。世界は、「何が起こりえたか」、そして「何がなお起こりうるか」によっても構成されている。起こらなかった可能性は無ではない。それは、現在のうちで保存されていた到達可能性の一部である。たとえ結果として消えたとしても、それは世界の連続性のなかで一度も存在しなかったとは言えない。
ここで、存在の最小単位は再び問い直される。
存在の最小単位は、結果の最小単位ではない。存在の最小単位は、現在から判定可能な可能度の最小保存領域である。A が完全に固定される以前、A が完全に消失する以前、そのあいだにある連続的な保存領域こそが、存在のもっとも根源的な単位である。
この単位は、時間の一点ではない。なぜなら、一点としての時間は、すでに現在を切断しているからである。現在は、点ではなく有限時間内の可能総量である。したがって、存在の最小単位もまた、点ではなく、有限な幅をもつ保存領域でなければならない。
同様に、可能の最小単位も点ではない。可能性は、ある一点に固定された瞬間に、すでに結果へと変化してしまう。可能性が可能性であるためには、そこに幅が必要である。まだ A が固定されていないが、A が失われてもいない幅。この幅こそが、可能の最小単位である。
この幅を、現在性と呼ぶことができる。現在性とは、単なる「いま」ではなく、A がまだ直線的に可能であり続ける有限な保存幅である。現在性があるかぎり、世界はまだ完全には分割されていない。現在性が消えるとき、A は結果として固定されるか、不可能として消失する。
しかし、現在性が完全に消える瞬間は、本当に存在するのだろうか。世界が途切れることなく動き続けているならば、現在性は常に別の現在性へと接続される。ある現在が終わるとき、それは別の現在へと移行するのであり、完全な無へと落ちるのではない。したがって、現在性は連続している。
この連続性のなかで、A は保存される。A は同じ形で保存されるとは限らない。A の可能度は変化する。強まり、弱まり、分岐し、変形する。しかし、A がなお A として判定可能であるかぎり、A は存在の連続性のなかにある。
この意味で、実在とは固定ではなく保存である。存在とは停止ではなく連続である。可能とは欠如ではなく到達可能性である。現在とは瞬間ではなく保存幅である。そして直線性とは、A が A として失われずに、ある有限時間内で接続され続けることである。
ここから、本論文の基本命題が導かれる。
直線的に可能にできない A は、少なくとも現在の内部にはまだ実在していない。
なぜなら、A が直線的に可能にできないということは、A が現在から完全に切断されていることを意味するからである。しかし、現在が可能総量の保存領域であるならば、現在の内部に属する A は、何らかの仕方で直線的に接続可能でなければならない。接続不可能な A は、現在の実在ではない。それは、認識上の仮定、あるいは後から設定された外部的な否定にすぎない。
ただし、これは世界に不可能性が存在しないということではない。不可能性は存在する。しかし、それは現在の内部に最初から一点としてあるのではなく、可能度の保存が失われる過程として現れる。A が不可能になるとは、A が現在から直線的に接続されなくなることである。不可能性は、存在の反対物ではなく、保存の消失である。
したがって、A ができて A ができないという差分は、最初から一回として存在しているわけではない。それは、可能度が分割され、保存が失われ、判定が固定された後に現れる。世界は最初から一回ずつ分かれているのではない。世界は連続しており、その連続のなかで一回が後から生じる。
サイコロを振るという出来事も同じである。サイコロを振る前、世界はまだ一回を完了していない。一が出ることと、一が出ないことは、まだ完全に二分されていない。サイコロが投げられ、転がり、停止し、目が読まれたとき、初めて一回が成立する。しかし、その成立は、もともと世界が一回に分割されていたことを意味しない。むしろ、一回とは、連続した運動を後から切り出した単位である。
このことは、可能性の本質に深く関わっている。可能性は、一回の結果に先立つ。結果が可能性を生むのではない。可能性が結果へと狭められるのである。したがって、結果から可能性を完全に説明することはできない。結果は、可能度のうちの一つの固定形式にすぎない。
現在から直線的に到達可能な実在の保存量とは、この結果以前の可能度を測るための概念である。それは、世界がまだどれだけ分割されずにいるか、どれだけの A がまだ A として保存されているか、どれだけの未来が現在の内部に連続して含まれているかを示す。
この保存量が大きいほど、世界はまだ開かれている。しかし、それは無秩序であるという意味ではない。むしろ、保存量があるということは、可能性が完全に拡散していないということである。A は A として保存されている。情報は失われていない。現在は、A を判定可能な形で保持している。
反対に、保存量が完全に失われたとき、A はもはや A として判定できない。そこでは、A は実在でも可能でもない。A は単なる名だけになる。したがって、実在性とは、判定可能性と保存可能性の結合である。
この結合が、存在と可能の最小単位を形成する。存在の最小単位は、A が A として保存される最小領域である。可能の最小単位は、A がまだ固定されずに到達可能である最小領域である。そして現在の最小単位は、その二つが分離せずに重なり合う有限な幅である。
ここにおいて、現在、実在、可能、情報、直線性は、別々の概念ではなくなる。現在とは可能度の保存領域であり、実在とは保存された可能度の判定可能性であり、情報とは A を A として保つ形式であり、直線性とはその保存が途切れずに接続される構造である。
この構造が成り立つかぎり、世界にはまだ完全な意味での「できる/できない」の二分法は成立していない。できることとできないことの差は、現在のなかでただちに一つの切断点として与えられるのではなく、可能度の保存と消失の過程として現れる。
したがって、A ができて B ができないという一回、すなわち一つの可能度差分は、世界の根源的な単位ではない。それは、連続した現在性を後から分割した単位である。世界の根源にあるのは、一回ではなく、連続である。結果ではなく、保存である。固定点ではなく、到達可能性である。
この見方に立つならば、存在とは、すでに完了したものの集積ではない。存在とは、まだ直線的に可能であり続けるものの保存である。そして可能とは、存在していないものの空白ではなく、存在がまだ固定されずに連続している形式である。
ゆえに、存在と可能の最小単位を問うことは、世界がどこで切断されるかを問うことではない。むしろ、世界がどこまで切断されずにいられるかを問うことである。現在性とは、この未切断の保存幅である。直線性とは、この保存幅が有限時間内で途切れずに接続されることである。
このとき、世界はまだ二回目のサイコロを振っていない。世界はまだ、A ができることと A ができないことを完全に二つへ分けていない。世界はまだ、一パーセントの不可能性を固定していない。世界はまだ、A を失っていない。
A は、まだ現在から直線的に可能であり続けている。
そしてその限りにおいて、A はまだ存在している。




