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選択可能範囲、及び可能度の連続性


■ 可能性はすでに分割されているのか


——選択可能範囲の限定性と、直線的に可能にできない一回の問題——



前節において、現在とは単なる時刻ではなく、ある有限時間内において保存される可能総量であると定義された。現在とは、過去と未来の境界ではなく、実在と可能がなお分離せずに接続されている保存領域である。したがって、ある事象 A が現在に属するとは、A がすでに結果として固定されているという意味ではない。むしろ、A が現在から直線的に到達可能であり、なお A として判定されうる保存形式を保っているという意味である。


ここから次に問われるべきなのは、可能性そのものが、最初から分割されたものとして存在しているのかどうかである。


通常、可能性は選択肢として理解される。A もありうる。B もありうる。C もありうる。このように考えるとき、可能性はすでに複数の枝へと分かれているものとして把握される。サイコロであれば、一から六までの目がある。道であれば、右へ行くか左へ行くかという分岐がある。測定であれば、ある値が出るか、別の値が出るかという候補がある。


しかし、この理解は、すでに結果を数えるための形式を前提にしている。可能性が複数あると言うためには、まずそれらが互いに区別可能でなければならない。A と B が異なるものとして分けられ、A が選ばれた場合には B が排除され、B が選ばれた場合には A が排除されるという構造が成立していなければならない。つまり、可能性を選択肢として理解するためには、可能性はすでに分割されていなければならない。


だが、問題はまさにここにある。


可能性は、世界の側において最初から分割されているのか。それとも、可能性の分割は、判定・測定・選択・記述の後に生じる形式なのか。


もし可能性が最初から分割されているならば、現在とは、すでに用意された複数の選択肢のなかから一つを選ぶ場であることになる。この場合、世界はあらかじめ分岐構造を持っている。A が起こる世界、A が起こらない世界、B が起こる世界、B が起こらない世界が、潜在的にはすでに区別されていることになる。


しかし、もし可能性が最初から分割されていないならば、現在とは選択肢の集合ではない。現在とは、まだ選択肢として切り出されていない可能総量が、ひとつの連続領域として保存されている場である。この場合、A と B の区別は、可能性の根源的形式ではない。A と B は、判定の段階で切り出されるのであり、可能性そのものは、それ以前には未分割の到達可能性として存在している。


この違いは決定的である。なぜなら、可能性がすでに分割されているかどうかによって、「直線的に可能にできない一回」が存在するかどうかが変わるからである。


一回とは、何らかの区切りである。サイコロを一回振る。測定を一回行う。選択を一回する。行為を一回実行する。この一回は、ある始点と終点を持ち、結果を持つ。したがって、一回が成立するためには、その前後で世界の状態が区別されなければならない。振る前と振った後。測定する前と測定した後。選ぶ前と選んだ後。可能だったものと、結果として固定されたもの。


しかし、現在が可能総量の保存領域であるならば、この一回は最初から世界に刻まれているわけではない。一回とは、連続した現在性のなかから、ある操作や認識によって切り出される形式である。ならば、「直線的に可能にできない一回」とは、そもそも何を意味するのか。


それは、現在からある事象 A へ向かう可能性が、ある時点で完全に断絶し、A を可能にする経路が一切存在しなくなる一回である。すなわち、A ができる状態から A ができない状態へ、連続的な保存を持たずに切り替わる境界である。その境界が存在するならば、可能性は有限な範囲のなかに閉じ込められていることになる。選択できる範囲は、現在の内部ですでに限定されていることになる。


だが、そのような一回は本当に存在するのか。


この問いに答えるためには、「限定されている」とは何を意味するのかを区別しなければならない。選択可能範囲が限定されているということには、少なくとも二つの意味がある。


第一に、結果として限定されているという意味がある。たとえば、実際にサイコロを振れば、一つの目しか出ない。一が出れば、二から六は出ない。この意味で、結果は限定されている。世界は一つの状態として現れる。現実化するものは有限であり、結果は一つである。


第二に、可能性そのものが事前に限定されているという意味がある。これは、結果が一つになるということとは異なる。ここで問われているのは、サイコロが振られる前から、一が出る可能性の範囲、二が出る可能性の範囲、三が出る可能性の範囲が、すでに世界の内部で分割済みであるのかということである。


結果が限定されることと、可能性が事前に限定されることは同じではない。結果が一つであることから、可能性が最初から一つの分割構造を持っていたとは言えない。結果は、可能総量がある形に収束した後の状態である。だが、その収束以前に、可能総量がすでに結果と同じ形で分割されていたかどうかは、別に問われなければならない。


ここで重要なのは、可能性の分割はしばしば事後的に読み込まれるという点である。結果が生じた後、私たちはこう言う。A が起こった。だから A は可能だった。B は起こらなかった。だから B は可能ではなかった、あるいは少なくとも現実化しなかった。しかし、この言い方は、結果から過去の可能性を再構成している。結果の側から見ると、世界はまるで最初から A へ向かっていたように見える。だが、現在の側から見れば、A はまだ結果ではなく、未分割の可能度として保存されていた。


したがって、可能性が分割されているかどうかを問うとき、結果から遡ってはならない。問われるべきなのは、結果以前の現在において、可能総量がどのような形式で存在しているかである。


この現在において、A はまだ固定されていない。しかし、A は無でもない。A は、現在から直線的に到達可能なものとして保存されている。では、この保存は、A だけを独立した選択肢として保存しているのか。それとも、A は B や C とまだ完全には分離していない可能総量の一部として保存されているのか。


後者であるならば、可能性はまだ分割されていない。A は、他の可能性と完全に切断された候補ではない。A は、現在の連続領域のなかで、他の可能性とともに未分割のまま保持されている。A が A として判定されるのは、その可能度が一定の保存形式を保つからである。しかし、そのことは、A が最初から他の可能性と完全に分離していることを意味しない。


ここに、可能度と選択肢の違いがある。


選択肢とは、すでに区別された可能性である。A か B かという形式を持つ。選択肢は、互いに排他的であり、一方を選べば他方は選ばれない。これに対して、可能度とは、選択肢として分割される以前の到達可能性である。可能度は、A を A として判定可能にするが、まだ A を他のすべてから絶対的に切断してはいない。


このため、可能度は排他性よりも保存性によって特徴づけられる。A の可能度があるということは、A が他の可能性を排除しているということではない。A が現在から失われていないということである。A が直線的に到達可能であり、なお判定可能性を保持しているということである。


この区別を失うと、可能性はただちに確率へと置き換えられてしまう。確率は、すでに分割された事象に対して与えられる。A が起こる確率、B が起こる確率、C が起こる確率。確率は、全体を部分に分け、その部分に数値を与える。しかし、可能度は、全体がまだ部分に分かれる以前の保存構造を扱う。可能度は、何パーセントかではなく、どこまで直線的に可能であり続けているかを問う。


したがって、選択できる範囲が限定的であるかどうかも、確率だけでは判断できない。確率が低いことは、可能性が閉ざされていることを意味しない。確率が高いことも、可能性がすでに固定されていることを意味しない。確率は、分割後の記述である。限定性の問題は、分割以前の現在において、A へ向かう直線的接続が保存されているかどうかによって決まる。


では、直線的に可能にできない一回はどのように考えられるべきか。


それは、A へ向かう直線的接続が、ある有限時間内で完全に消滅することを意味する。しかし、完全な消滅を認めるためには、その消滅点が判定可能でなければならない。すなわち、ここまでは A が可能であり、ここから先は A が完全に不可能であるという境界が必要である。


だが、その境界をどのように定めるのか。もし境界が測定や判定によって初めて与えられるならば、境界は可能性そのものの根源的構造ではなく、可能性を記述する形式に属することになる。もし境界が世界の側に実在すると言うならば、その境界は現在の内部でどのように保存されているのかを説明しなければならない。


ここに困難がある。


A が可能である状態と、A が不可能である状態とのあいだに絶対的な境界があるとする。その境界は、A の可能度がゼロになる点である。しかし、可能度がゼロになる点を定めるためには、A が A として追跡されていなければならない。A が完全に失われた後には、もはや A を判定できない。したがって、A がゼロになる点は、A がまだ判定可能である最後の点としてしか現れない。


しかし、A がまだ判定可能であるならば、A は完全には失われていない。A が完全に失われているならば、その失われた A を A として指定することはできない。ここには、可能性の消滅に関する逆説がある。A の不可能性を一点として指定しようとすると、その一点においてなお A が参照可能でなければならない。だが、参照可能であるかぎり、A は完全な無ではない。


このことから、不可能性は一点としてではなく、保存の減衰または接続の喪失として理解されるべきである。A は突然、絶対的な一点で不可能になるのではない。A の直線的接続が弱まり、判定可能性が失われ、情報としての保存形式が崩れることによって、不可能性が現れる。つまり、不可能性は結果であって、最初から与えられた分割点ではない。


この理解に立つならば、直線的に可能にできない一回は、根源的な単位としては存在しない。存在するとしても、それは後から構成された判定単位である。世界が連続しているかぎり、ある一回が完全な断絶として最初から与えられることはない。一回は、連続を数えるための形式であり、可能総量の根源的な姿ではない。


この点をさらに明確にするために、「選択」という概念を検討しなければならない。


選択とは、複数の可能性のうち一つを採ることだと考えられている。しかし、選択が成立するためには、少なくとも三つの条件が必要である。第一に、選択肢が区別されていること。第二に、選択主体または選択過程があること。第三に、選択後に結果が判定されること。


この三条件のうち、最初に問題となるのは第一の条件である。選択肢は、選択以前から本当に区別されているのか。もし区別されているならば、選択とは既存の分岐のうち一つを選ぶことである。もし区別されていないならば、選択とは、未分割の可能総量から一つの結果形式を切り出すことである。


本論文の立場では、選択は後者として理解される。選択とは、すでに完全に分割された候補のなかから一つを拾うことではない。選択とは、現在に保存されている可能総量を、ある方向へ直線化することである。A を選ぶとは、A 以外を完全に否定することではなく、A へ向かう接続を強め、A を判定可能な結果として形成することである。


このとき、選択可能範囲は最初から固定されていない。選択可能範囲は、現在の可能総量のなかで動的に構成される。ある行為、ある測定、ある判断、ある運動によって、可能総量のなかの特定の領域が直線化される。その結果として、A が選ばれたように見える。しかし、A は最初から孤立した選択肢として待っていたのではない。A は、選択過程のなかで A として形成されたのである。


このことは、自由と決定の問題にも関わる。選択可能範囲が最初から完全に限定されているならば、自由とは既存の選択肢の範囲内での選択にすぎない。反対に、選択可能範囲がまったく限定されていないならば、選択は無秩序になり、A を A として選ぶ根拠が失われる。したがって、問題は、選択可能範囲が限定されているか否かではなく、どのような仕方で限定されているかである。


現在は、無限の混沌ではない。現在には保存されている可能総量がある。この意味で、選択可能範囲は無限定ではない。しかし、その限定は、あらかじめ分割された選択肢の一覧として与えられているのではない。限定とは、可能総量が持つ到達可能性の形であり、直線的接続の構造である。選択可能範囲は、固定された候補群ではなく、現在からどの方向へ可能度を保存しうるかという接続可能性によって規定される。


したがって、選択できる範囲は限定的でありながら、分割済みではない。この区別が重要である。


限定されているということは、何でも可能であるわけではないということである。現在から到達できないもの、判定できないもの、保存されていないものは、現在の可能総量には含まれない。しかし、分割済みではないということは、その限定された可能総量が、最初から A、B、C という独立した選択肢に切り分けられているわけではないということである。


可能性は、保存されているが、まだ分割されていない。

限定されているが、まだ固定されていない。

方向を持つが、まだ結果ではない。

A を含むが、まだ A だけではない。


この構造こそが、現在性の核心である。


現在とは、無限の可能性の総体ではない。現在とは、有限時間内において直線的に接続可能な可能総量である。したがって、現在は有限である。しかし、この有限性は、あらかじめ数え上げられた選択肢の有限性ではない。現在の有限性とは、到達可能性の有限性である。ある範囲までしか動けない。ある範囲までしか判定できない。ある範囲までしか A を保存できない。この有限性が、現在を現在として成立させる。


もし現在が無限に広がり、あらゆる A が無制限に可能であるならば、現在は判定可能性を失う。どの A も同じように可能であり、どの A も他の A から区別されないならば、情報は成立しない。情報が成立するためには、A が A として保存される有限な領域が必要である。したがって、現在には限定が必要である。


しかし、その限定を分割と取り違えてはならない。限定は、可能総量の輪郭である。分割は、その内部を選択肢へ切り分ける操作である。現在は輪郭を持つが、必ずしも内部が最初から分割されているわけではない。現在の内部では、A はまだ完全な結果ではなく、直線的に形成されうる可能度として存在する。


この観点から見ると、サイコロの例は新しい意味を持つ。


サイコロを振る前、出る目の可能性は一から六まであるとされる。だが、この六つの可能性は、物理的運動の連続過程を、結果の側から分類したものである。実際には、サイコロは手から離れ、空中を動き、面と面が接触し、回転し、減速し、停止する。その連続的運動のなかで、最終的に一つの面が上になる。結果としては六つに分類できる。しかし、運動過程そのものは六つの箱に最初から分かれているわけではない。


このとき、「一が出る可能性」は、最初から六分の一として孤立して存在しているのではない。一が出る可能性は、連続運動のなかで一へ向かう経路が保存されていることを意味する。手の位置、力、角度、速度、面の状態、接触の仕方、空気抵抗、机との摩擦などが、ある範囲で一の結果へ接続されうる。この接続が失われていないかぎり、一の可能度は存在する。


しかし、この可能度は、最初から「一」という結果と同じ形ではない。一の可能度は、結果としての一ではなく、一へ向かいうる連続的接続である。したがって、一が出なかったからといって、一の可能度が存在しなかったことにはならない。一が出たからといって、一の可能度が最初から固定されていたことにもならない。


ここに、直線的に可能にできない一回の問題が再び現れる。


サイコロを振る過程のどこかに、「ここからは絶対に一が出ない」という一点があると考えることはできるかもしれない。たとえば、サイコロがほぼ停止し、明らかに二の面が上になる運動をしているとき、一が出る可能性は極めて小さくなる。だが、この「極めて小さい」と「完全に不可能」は同じではない。完全に不可能であると言うためには、一へ向かう接続が一切存在しないことを示さなければならない。


しかし、接続が一切存在しない点を世界の内部でどのように判定するのか。判定には時間がかかる。判定のあいだにも世界は動く。したがって、「不可能になった一点」は、判定された時点ではすでに過ぎ去っている。結果として不可能だったと見なすことはできる。しかし、それは現在の内部で直線的に不可能性が存在していたことを意味しない。


不可能性は、現在の内部ではなく、結果の側から名づけられる。現在の内部にあるのは、接続の強弱、保存の濃淡、判定可能性の変化である。A が完全にできないという一回は、結果の側から見れば成立する。しかし、現在の側から見れば、それはまだ一回ではなく、可能度の変化過程である。


このため、世界は「できる/できない」を同時に最初から持っているのではない。世界は、可能度の保存と変化を持っている。できることとできないことの差は、その保存がある判定形式において切り出されたときに現れる。


この差分を「一回」と呼ぶならば、一回とは世界の根源ではない。一回とは、連続した可能総量が判定された後の形式である。したがって、「A ができて B ができない一回」は、可能性の根源的構造ではなく、判定後の構造である。世界は一回ずつ分割されているのではない。世界は連続しており、一回はそこから生成される。


ここで、可能性の分割についてさらに厳密に述べることができる。


可能性には、少なくとも三つの段階がある。


第一に、未分割の可能総量がある。これは、現在に保存されている到達可能性の総体であり、まだ A、B、C として完全には切り分けられていない。


第二に、判定可能な可能度がある。これは、未分割の可能総量のなかから、A として追跡可能な方向性が生じている状態である。この段階では、A は A として語ることができる。しかし、A はまだ結果ではなく、他の可能性から完全に切断されていない。


第三に、分割された選択肢または結果がある。これは、A が B や C から区別され、一つの結果として固定される段階である。確率や選択肢は、主としてこの段階に属する。


問題は、私たちがしばしば第三段階の形式を第一段階に投影してしまうことである。結果が六通りあるから、可能性も最初から六つあったと考える。選択肢が二つあったから、世界も最初から二分されていたと考える。しかし、これは結果形式の遡及である。


未分割の可能総量は、結果の分類と同じ構造を持つとは限らない。結果としては六つに分類できるものでも、その過程は連続している。結果としては A か非 A かに分けられるものでも、その現在性は A と非 A の単純な二分法では捉えられない。


このため、可能性は「すでに分割されている」とは言えない。より正確には、可能性は分割可能であるが、分割済みではない。可能性は判定可能であるが、固定済みではない。可能性は有限であるが、一覧化されていない。


この立場によって、選択可能範囲の限定性も明確になる。選択可能範囲は、現在に保存されている可能総量によって限定される。しかし、その限定は、選択肢の集合としてではなく、直線的到達可能性の場として存在する。したがって、選択とは、その場のなかで一つの方向を直線化することである。


ここで「直線化」とは、可能総量のなかにある A への接続を強め、A を判定可能な結果へ近づけることである。直線化は、既存の A を発見することではない。A を現在から結果へ接続することである。A は直線化されることによって、結果としての A に近づく。


しかし、直線化が常に可能であるならば、直線的に可能にできない一回は存在しないことになる。正確には、現在の内部に属する A については、直線的に可能にできない一回は存在しない。なぜなら、現在に属するとは、A がまだ直線的接続を保持していることだからである。


直線的に可能にできない A は、現在の外にある。現在の外にあるものは、現在における実在ではない。したがって、現在の内部で「A は可能であるが、直線的に可能にできない」という状態は矛盾を含む。A が可能であるならば、何らかの直線的接続が保存されている。直線的接続が一切ないならば、A は現在において可能ではない。


ただし、ここでいう直線的接続は、必ず結果の保証を意味しない。A が直線的に可能であるとは、A が必ず起こるという意味ではない。A へ向かう保存された到達可能性があるという意味である。結果の保証と可能度の保存を混同してはならない。


この区別を保持することで、決定論にも偶然論にも回収されない理解が可能になる。A が必ず起こるわけではない以上、これは単純な決定論ではない。しかし、A が完全な無からランダムに出現するわけでもない以上、これは単純な偶然論でもない。A は、現在の可能総量のなかで保存され、直線化され、判定される。


このとき、世界は完全に決定されているのではなく、完全に未決定でもない。世界は保存されている。保存されているものは、固定ではない。しかし、無秩序でもない。保存とは、同一性を保ちながら変化することである。A は変化のなかで A として保持される。これが可能度の形式である。


可能度があるかぎり、A はまだ失われていない。A が失われていないかぎり、A は直線的に可能である。A が直線的に可能であるかぎり、A ができない一回はまだ完全には成立していない。したがって、現在の内部では、A ができて A ができないという差分は、まだ根源的な一回ではない。


ここから導かれる命題は、次のようにまとめられる。


可能性は、現在においてすでに完全に分割されているのではない。

可能性は、現在において限定されているが、未分割の保存領域として存在する。

選択とは、分割済みの候補から一つを選ぶことではなく、未分割の可能総量を一つの方向へ直線化することである。

直線的に可能にできない一回は、現在の内部には根源的単位として存在しない。

それは、結果の側から構成された判定単位である。


この命題によって、実在の概念もまた変化する。実在とは、選ばれた結果だけではない。実在とは、選ばれる以前に保存されていた可能総量を含む。したがって、実在は分割後の世界ではなく、分割以前の現在性を含まなければならない。


世界を結果の集合としてだけ理解するならば、実在は固定された事象の集まりになる。しかし、世界を可能度の保存として理解するならば、実在は結果以前の連続性を含む。存在するとは、すでに結果として現れたということだけではない。存在するとは、現在から直線的に判定可能であり続けるということである。


このとき、可能性は存在の外部ではなく、存在の内部構造となる。可能性は、まだ存在していないものではない。可能性は、存在がまだ分割されずに保存されている形式である。したがって、可能性が分割されているかどうかを問うことは、存在そのものがどのように保存されているかを問うことである。


もし存在が最初から分割されているならば、世界は事象の集合である。もし存在が未分割の可能総量として保存されているならば、世界は連続する実在の場である。本論文が採るのは後者である。


世界は、結果の集合としてではなく、可能度の保存領域として理解されるべきである。

現在は、選択肢の一覧としてではなく、直線的到達可能性の有限な場として理解されるべきである。

A は、固定点としてではなく、保存される方向性として理解されるべきである。

一回は、根源的単位としてではなく、連続性から生成される判定形式として理解されるべきである。


この理解において、可能とはまだ一度も完全には分割されていない。可能は、常に分割されうる。しかし、分割されうることと、すでに分割されていることは異なる。世界が一回ごとに分割されるように見えるのは、結果を数える認識の形式による。世界そのものは、可能度を保存しながら連続している。


したがって、直線的に可能にできない一回が存在するかという問いに対しては、次のように答えなければならない。


現在の内部に保存されている A について、そのような一回は存在しない。

なぜなら、現在に保存されているということは、A がまだ直線的に可能であることを意味するからである。

直線的に可能にできない A は、現在の可能総量からすでに脱落している。

だが、脱落した A は、もはや現在における可能ではない。

したがって、「可能でありながら直線的に可能にできない A」は、現在性の概念に反する。


この結論は、世界に限界がないという意味ではない。世界には限界がある。現在は有限である。可能総量も有限である。だが、その有限性は、可能性が最初から細かく分割されているという意味ではない。有限性とは、直線的接続の範囲である。可能性は、その範囲内で未分割に保存されている。


この未分割の有限性こそが、現在の本質である。現在は、無限ではない。しかし、単なる一点でもない。現在は、限定された連続領域である。そこでは、A はまだ結果ではなく、しかし無でもない。A は、現在から直線的に可能であり続ける。


ゆえに、可能とはすでに分割されたものではない。

可能とは、分割以前に保存されている直線的到達可能性である。

選択とは、その可能を切断することではなく、ある方向へ実在化することである。

そして実在とは、選択の後に初めて生じるものではなく、選択以前から保存されている可能度の連続性である。


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