現在進行度上の自由度、及び一対一問題
■ 第六節 1%通れない直線=1回のなさについて
——現在進行度の内部に、まだ「一回で可能にできない自由度」は存在していないという仮説——
本節で扱う中心命題は、第二章全体の論理を一つの仮説として収束させるものである。その仮説とは、世界はまだ、一回で可能にできない現在進行度上の自由度、すなわち一回目のうちにすでに分裂してしまっている選択量を持っていない、というものである。ここで言う「持っていない」とは、世界に何の制約もないという意味ではない。そうではなく、現在という接続領域の内部において、AをAとして通す可能度の連続が、最初から「ここでは一パーセント通れない」という一個の不可能度を内在的に抱えているわけではない、という意味である。
この仮説は、第二章で積み重ねてきた諸概念、すなわち現在の接続領域性、総自由度の上界、純粋な現在性、可能度の一意性、進行度のゲージ対称性、連続位相場の不変性を、ひとつの命題系へ束ねる役割を持つ。第一節では、現在は時刻ではなく、Aへの運動と可能度が未分割のまま保存される有限領域であると整理された。第二節では、その領域の上界は、Aを不可能にする壁ではなく、AをAとして保つ不可分性の最大範囲であることが示された。第三節では、現在から現在へ進むことが、AをAとして保存する可能度の不変的変形として理解された。第四節では、任意のタイミングにおいてAを結べなくなるゲージの破れが本当に内部に成立するのかが問われ、第五節では、その保存構造が連続位相場として、表面的な局所変化を越えて保持されうることが論じられた。
本節の課題は、それらをさらに押し進めて、「通れない一パーセント」が、そもそも一回として成立しているのかどうかを問うことである。言い換えれば、現在内部に「一回で可能にできない自由度」があるという言い方は、本当に世界の内部構造を言い当てているのか、それとも、すでに結果化された判定を、現在進行の内部へ誤って持ち込んでしまった後の表現にすぎないのかを検討することになる。
一 「1%通れない直線」とは何を意味するのか
まず「1%通れない直線」という表現を、厳密に定義する必要がある。ここでの「1%」は、単なる数値的な確率比率ではない。何かの試行を百回繰り返したら一回失敗する、という経験的頻度をそのまま意味しているのではない。むしろ、Aへの可能度が一つの直線的保存として保たれるはずの場において、その内部に「AをAとして通せない差」が微小であれ独立したものとして成立してしまうことを指している。つまり、1%通れないとは、Aへの接続が全体として一つの可能度であるように見えながら、その内部にすでにAを通せない一回分の差異が織り込まれているということである。
この定義において問題になるのは、1%の量ではなく、1回の成立である。通れない割合が大きいか小さいかは本質ではない。本質的なのは、AをAとして通せないものが、一つの独立した構造として立ち上がっているかどうかである。もし立ち上がっているなら、そのときAへの可能度はすでに一つではない。Aを通す側と、Aを通さない側とが、たとえわずかであっても内部に並立している。その状態では、Aは一つの直線的可能度として保存されているとは言えない。Aは、すでに内部で分裂しているからである。
この点において、「1%通れない直線」とは、直線そのものの否定ではない。むしろ、直線の内部に裂け目がある状態を指す。表面上は一本の線として見えていても、その線の内部に「AをAとして通せない一回」が潜んでいるなら、その直線は本来的には一本ではない。つまり、「1%通れない直線」とは、一本の線として語られながら、その内部で二重化している擬似的な直線である。
本節が提示する仮説は、そのような擬似的直線は、現在進行度の内部にはまだ成立していない、というものである。すなわち、世界はまだ、一回で可能にできない自由度を持っていない。この命題が意味するのは、Aへの可能度が、現在内部において最初から裂けてはいないということである。AをAとして通せない一回が、AをAとして通す一回と並列に存在しているわけではない。Aはまだ、Aとしての一つの可能度の内部にある。
二 「1回のなさ」とは、無内容ではなく未成立である
しかし、「1回のなさ」と言うとき、注意しなければならないのは、それが単なる無内容、無構造、空白を意味しているわけではないという点である。本節で言う「1回のなさ」とは、何も起きていないという意味ではないし、何も保存されていないという意味でもない。むしろ逆である。Aへの可能度が、なお一つの接続として保存されているからこそ、「通れない一回」はまだ成立していないのである。
この意味で、「1回のなさ」とは、存在の欠如ではなく、不可能度の未成立である。Aへの自由度が存在している。Aへの接続が保存されている。Aへの進行が現在内部に保たれている。だが、その保存の内部に、AをAとして通せない別の一回が、まだ独立した形で現れていない。その状態を指して「1回のなさ」と呼ぶのである。
ここで重要になるのは、「一回」とは何かを改めて定義することである。第一章以来、本論文では、一回とは単なる数えられる試行単位ではなく、Aへの接続が一つの方向を保ったまま通過する保存単位であると理解されてきた。つまり、一回とは、結果後に数える単位ではなく、結果以前にAをAとして保持する接続のまとまりである。これを踏まえるなら、「通れない一回」とは、AをAとして保持する接続が、そのまとまりの内部において、自らを通せなくなる差を一個として形成している状態を意味する。
本節が否定するのは、このような通れない一回が、すでに現在内部にあるという理解である。なぜなら、もしそのような一回が現在内部にあるなら、Aへの接続は最初から二つに割れていることになるからである。AをAとして通す保存単位と、AをAとして通さない保存単位が、同時に現在に含まれているなら、現在は接続領域ではなく、分岐済みの候補場となる。そこでは純粋な現在性は崩れ、選択の不可分性も失われる。
したがって、「1回のなさ」とは、Aへの可能度が一回であることを失っているのではない。むしろ、Aへの可能度が一回として保たれているからこそ、Aを通れない一回がまだ別個に成立していないのである。この理解が、本節全体の前提となる。
三 現在進行度上の自由度は、最初から分裂していない
本節のもっとも重要な仮説は、次のように言い表せる。
世界はまだ、一回で可能にできない現在進行度上の自由度=選択量を持っていない。
この命題を誤解なく理解するには、「一回で可能にできない」とはどういうことかを精密に押さえなければならない。これは、Aが必ず一回で結果化するという意味ではない。Aが一度で達成されなければならないという意味でもない。そうではなく、Aへの可能度の内部に、「一回ではAをAとして通せない」という別の自由度が最初から内在していない、という意味である。
つまり、Aへの選択量が現在進行の中で保存されているなら、それはすでに「Aを行う自由度」と「Aを行えない自由度」に分かれてはいない。AがまだAとして通れるかぎり、その自由度は一つである。その一つの自由度の内部に、別の裂け目として「一回ではAを可能にできない」という差を読み込んでしまうと、Aはもはや一意的な可能度ではなくなる。Aは自己内部に不可能度を含んでしまうからである。
この点で、本節の仮説は、従来の常識的な可能理解に対してかなり根本的な転換を要求する。普通、あることが「できる」と言うとき、私たちはその背後に同時に「できない場合」もあると考えてしまう。できることは、できないこととの対比の中でのみ意味を持つように見える。ところが、本論文がここで仮説として提出するのは、現在進行度の内部では、Aが可能であることは、必ずしもAが不可能であることを同時に内在させない、ということである。Aへの自由度は、AをAとして保存する一つの選択量としてありうるのであって、その裏面にあらかじめ「AをAにできない一回」が必要なのではない。
これは、Aと非Aの二分法を否定することではない。結果後には、Aが成立したか、しなかったかという差はありうる。問題は、その差を現在内部に先取りして持ち込む必要があるのかどうかである。本節の仮説は、その必要はない、と言う。Aへの可能度が現在内部で保存されているかぎり、Aは一つの自由度として保たれうる。その自由度は、まだAと非Aへ分かれていない。したがって、現在進行度は、最初から分裂した二つの選択量の並びではなく、まだ分裂していない一つの保存量なのである。
四 「ある一つのことから、ある一つのことができない可能度」が1%無いとは何か
本節の仮説は、さらに次の形でも表現できる。
直線的に通れない一点にないまま、ある一つのことから、ある一つのことができない可能度が1%無いことが、ある有限時間内に一対一にできるはずである。
この命題の核心は、「ある一つのことから、ある一つのことができない可能度」という表現にある。これは、単にAが不可能であるという話ではない。Aが不可能であるというとき、私たちはAを一つの完結した結果として考えがちである。しかしここで問題なのは、Aへの可能度が保たれている最中に、その内部から「AをAとして通せない」差が立ち上がるかどうかである。つまり、Aへの接続の中から、Aを不可能にする別の接続が独立して現れるかどうかが問われている。
もしそのような差が現れるなら、Aの内部には二つの運動がある。一つはAをAとして通す運動、もう一つはAをAとして通さない運動である。このとき、Aはすでに一つではない。Aの内部に二つ目の可能度が生じている。したがって、「Aが可能である」と言うこと自体が、すでに分裂を含むことになる。Aは、自らの内部に不可能性を抱えている。
本節の仮説は、これを否定する。Aへの可能度が現在内部で保存されているかぎり、その内部に「AをAとして通せない可能度」が一パーセントとして存在しているわけではない。Aはまだ、自分自身の外に出ていない。Aはまだ、自分自身に反する別の可能度を独立に持っていない。つまり、Aはなお一つの可能度である。
「1%無い」とは、単に小さいという意味ではなく、構造的に独立していないという意味である。もしAをAとして通せない差が一パーセントでも独立しているなら、Aの内部にはすでに不可能度がある。その量が一パーセントであろうと一割であろうと、問題は量の大きさではない。問題は、それが一回として立ち上がっているかどうかである。本節の主張は、その一回がまだ立ち上がっていないということである。
このとき、一対一とは何か。ここでの一対一は、Aと結果が一対一対応するという意味ではない。そうではなく、Aへの接続が、AをAとして通す一つの可能度であり、その内部に独立した不可能度を持っていないという意味である。Aへの可能度が一つのままであること、それが一対一であるということにほかならない。
この一対一性は、有限時間内でこそ問題になる。無限の時間を許せば、Aへの可能度はどこまでも先延ばしされ、Aが現在に属しているのかどうかが曖昧になる。現在における可能度とは、有限な現在性の内部で保存される可能度でなければならない。したがって、「AをAとして通せない可能度が一パーセント無い」という主張は、有限時間内において、Aへの接続がまだ一つであるという意味を持つ。
五 タイミングを分けずにAをAにできるとはどういうことか
本節の後半で重要になるのは、タイミングの問題である。
タイミングを分けずにAをAにできることが、任意の位置において直線に結べるはずである。
この命題も、安易に「適切な瞬間を選べばAは成立する」という意味に読んではならない。ここでいうタイミングとは、時計上の瞬間ではない。AをAとして通す接続が、内部的な整合を保っている局面、すなわちAへの可能度がAとして一致している進行構造を意味する。
普通、Aが成立するかどうかを考えるとき、私たちはしばしば、Aに適したタイミングとAに適さないタイミングを区別する。早すぎる、遅すぎる、まだその時ではない、もうその時ではない、といった言い方がそれである。しかし本節が扱うタイミングは、それらの結果後の区別に先立つ。Aへの可能度が保存されているあいだ、Aはまだ「このタイミングではできる」「このタイミングではできない」という二分の中にはない。問題は、Aへの接続が、Aとしての整合を保ちながら現在を通っているかどうかである。
タイミングを分けるとは、AをAとして通す現在進行の内部に、AをAとして通せる局面と、AをAとして通せない局面を別々に立てることである。そのような分離が起こると、Aへの可能度は一つの流れとしては保たれていない。Aは、一つの接続ではなく、複数の局面へ分節されたものになる。そのとき、AをAにするためには「このタイミング」を選ばなければならなくなり、別のタイミングではAをAにできないことになる。すると、Aへの可能度の内部には、すでにできるタイミングとできないタイミングの差がある。これは、まさに二つ目の可能度の成立である。
本節の仮説は、このような分離は現在内部ではまだ成立していない、と言う。Aへの可能度が一つの連続場として保たれているかぎり、AをAにするタイミングは、まだ内部で複数の独立した局面に割れていない。したがって、タイミングを分けずにAをAにできるというのは、Aへの接続が一つの進行として保たれているという意味である。
任意の位置において直線に結べるというのも、この理解の上にのみ成立する。もしタイミングが内部で分裂しているなら、位置ごとにAへの接続が異なる性質を持ち、ある位置ではAを通せ、別の位置では通せないという差が成立する。そのときAはもはや一本の直線ではない。任意の位置でAを結べるためには、位置ごとの違いがAをAとして壊さないこと、すなわちAへの可能度が位置ごとに別のものへ分裂していないことが必要である。
したがって、「タイミングを分けずにAをAにできる」とは、Aへの可能度が、局所位置や局所タイミングの違いに対して不変であるということである。Aは任意の位置において、Aとしての接続を保っている。そうである以上、Aは任意の位置で直線に結べる。ここでの直線とは、AをAとして保つ接続の不変性である。タイミングや位置をまたいでも、その接続が壊れないこと、それが直線性なのである。
六 現在進行度上の自由度は、そもそも「通れない直線」を持つのか
本節の仮説をさらに厳密にするためには、次の問いを立てる必要がある。
現在進行度上の自由度は、そもそも「通れない直線」を持つのか。
この問いは、「Aが可能か不可能か」という日常的な問いよりも、はるかに深い。なぜなら、通れない直線とは、Aへの可能度が一本の直線的保存として語られながら、その内部にAを通せない一回を抱えていることを意味するからである。もし現在進行度上の自由度がこのような直線を持つなら、現在とは最初から裂けた保存場ということになる。現在はAを保存する場であると同時に、Aを壊す場でもある。そのような現在は、純粋な現在性ではない。
本節のもっとも重要な仮説は、これに対して否定的に答えることである。世界はまだ、そのような「通れない直線」を持っていない。言い換えれば、世界はまだ、一回で可能にできない自由度を持っていない。Aへの自由度は、現在内部において、まだ「AをAとして通せる一回」と「AをAとして通せない一回」に割れていない。
この仮説が成り立つなら、現在進行度上の自由度は、結果後に私たちが想像するような候補の列ではなく、未分割の接続濃度であることになる。Aへの自由度は、まだ「行えるか/行えないか」という判定に分節されていない。その意味で、世界にはまだ一回で可能にできない自由度がない。Aはまだ、一つの自由度として保たれている。
七 本節の結論
以上の議論を通じて、本節の結論は次のようにまとめられる。
第一に、1%通れない直線とは、Aへの可能度が一本の直線として語られながら、その内部にAをAとして通せない一回を独立した構造として持つ状態を意味する。問題は割合ではなく、その「一回」が成立しているかどうかにある。
第二に、1回のなさとは、無内容ではなく、不可能度の未成立である。Aへの可能度が一つの接続として保存されているからこそ、Aを通れない一回はまだ独立して立ち上がっていない。
第三に、本節における基本仮説は、世界はまだ、一回で可能にできない現在進行度上の自由度=選択量を持っていない、というものである。Aへの可能度は、現在内部で最初から分裂していない。
第四に、「ある一つのことから、ある一つのことができない可能度が1%無い」とは、Aへの接続の内部に、AをAとして通さない独立した不可能度がまだ成立していないという意味である。そのときAへの可能度は一つであり、一対一に保存される。
第五に、タイミングを分けずにAをAにできるとは、Aへの接続が、局所的なタイミングの違いを別の可能度として独立させず、一つの進行として保たれていることを意味する。任意の位置においてAを直線に結べるとは、この不変性が位置差に対しても崩れないということである。
第六に、現在進行度上の自由度は、そもそも「通れない直線」を持たない。通れない一回が現在内部に実在しているなら、現在は接続領域ではなく分裂領域になるからである。したがって、純粋な現在性を保つためには、Aへの自由度がまだ一つの可能度として保存されていると考えなければならない。
この意味で、本節の中心命題は次のように定式化できる。
世界はまだ、一回で可能にできない自由度を持っていない。
Aへの可能度は、直線的に通れない一点を内部に持たないかぎり、有限時間内において一対一の保存として成立する。
タイミングを分けずにAをAにできるとは、Aへの接続が二つ目の可能度へ裂けず、任意の位置において同じAとして結ばれているということである。
こうして、第二章第六節において、「1%通れない直線=1回のなさ」は、可能度の内部に不可能度を持ち込まないことの理論として整理される。現在とは、Aを可能にするたびにAを不可能にする一回を対で立てる場ではない。現在とは、Aへの自由度がまだ一つの可能度として保存されており、その一つのことから一つのことができない可能度を独立させない場である。Aは、二つ目のタイミングを持たず、一つの進行の内部でAとして保たれる。そうである以上、現在進行度の内部には、まだ「1%通れない直線」は成立していないのである。




