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現在と選択の連続位相場


■ 第五節 現在と選択の連続位相場の不変性と、ブラックホール情報パラドックスとの関連性について


——連続可能度はどこまで自由に変形しうるのか——



本節で扱う問題は、第二章全体の論理をさらに一段深く押し進めるものである。これまでの議論において、現在は単なる時刻ではなく、Aへの可能度が有限時間内に保存される接続領域であり、その内部では、AができることとAができないことの差がただちに一個の断絶として成立しているわけではない、と整理された。さらに、現在進行度とは、時計上の単位的な経過ではなく、Aへの可能度が同じものとして保たれながら変形し続ける保存形式であり、その保存が切り出しや表示の変更に左右されない構造として、ゲージ対称性が論じられた。


そのうえで残る問いは、保存されるとは何か、という問いである。Aへの可能度が「同じものとして保たれる」と言うとき、その「同じ」とはどの水準での同一性なのか。Aは変化している。現在は進んでいる。自由度は局所的に移動し、距離や幅や関与の仕方も変わる。にもかかわらず、Aがなお同じ可能度として保存されていると言えるためには、何が不変でなければならないのか。そして、その不変性が成立するならば、Aはどこまで自由に、どこまで滑らかに変形することができるのか。ここで問われるのは、現在そのものの構造であると同時に、選択一般に関わるより深い存在論的問題である。


この問いを、まず最も簡潔な形で示すならば、次のようになる。


もしも同じ可能度を連続することができるならば、任意の選択量を持つ可能度Aは、どこまで自由に、どこまで滑らかに変形することができるのか。


この問いは、Aという可能度を結果の前段階として単純化せず、Aを現在内部で保存される位相的な接続関係として扱うことを要求する。AがAとして保たれているということは、Aが同じ形のまま固定されているという意味ではない。むしろ、Aは変形しうる。しかし、その変形がどれほど大きくても、なおAとして保たれるならば、その変形はAへの可能度の保存の内部にある。すると、問題は「どのような変形が許されるのか」ということではなく、「どこまで変形してもAとしての保存関係を失わないのか」ということになる。


この観点から本節では、「連続可能度の位相場」という概念を中心に据える。ここでいう位相場とは、Aへの可能度が個別の点として並んでいるのではなく、連続した保存関係の網の目として構成され、その内部で局所的な変形が起こっても、全体としての接続の同一性が失われない場のことである。第一章以来、Aを結果ではなく接続として捉えるという転換が行われてきたが、本節ではその接続が、単なる一本の経路ではなく、位相的な保存場として理解される。


同時に、本節は、ブラックホール情報パラドックスとの関連を構造的に検討する。もちろん、ここでの目的は、物理学の未解決問題に対して安易な解答を提示することではない。ブラックホール情報パラドックスは、量子論、重力理論、エントロピー、情報保存則の交差点に位置する高度な問題であり、その厳密な解決は本論文の目的でも範囲でもない。しかし、この問題が哲学的に重要なのは、「一度消えたように見えるものが、本当に消えているのか」という問いを、極めて鋭い形で突きつけるからである。すなわち、情報が一見すると回収不能なかたちで失われるように見える場面において、それでもなお情報保存の原理を維持できるのか、という問いである。


この問いは、本論文における「Aへの可能度は、どこまで変形してもAとして保たれうるのか」という問いと深い対応を持つ。ある選択の自由度が、ある時点において途切れないまま、選択を二つに分けないことができるならば、可能における純粋な場、すなわち現在進行度における連続可能度の位相場は、任意のAをかなり深い仕方で保存しうるはずである。問題は、その保存がどこまで許されるか、そして保存されるものは何か、という点にある。




一 変形しても同じでありうるとは何か


まず、連続可能度の位相場が成立するためには、「変形しても同じである」という命題が十分に厳密に理解されなければならない。通常、同じであるとは、二つのものが同じ形、同じ位置、同じ内容を持つことだと考えられる。しかし、この理解では、現在内部で保存される可能度を説明できない。Aへの可能度は、現在進行のなかで必ず変化するからである。Aに至る距離は縮んだり伸びたりする。関与する自由度は集まったり散ったりする。局所的な運動の向きも、配置も、重みづけも変わる。それでもなおAがAとして保たれているなら、そこでは「同じである」とは、形が不変であることではない。


必要なのは、同一性の基準を、形や位置や値の一致から、関係の保存へ移すことである。AがAとして保たれるとは、AをAとして成立させる接続関係が切断されないことを意味する。いいかえれば、AがAとして保たれるために必要なのは、Aに至るすべての局所状態が固定されていることではなく、それらの局所状態のあいだにある接続秩序が、Aへの方向性を失わないことである。


たとえば、ある川の流れを考えるとわかりやすい。川の中の水分子は絶えず入れ替わる。流速も、渦も、表面形状も、時間とともに変わる。しかし、それでも私たちは、その流れを同じ川の流れとして扱うことができる。なぜか。そこでは「同じである」ことが、水分子の固定的同一性によってではなく、流れの接続関係の保存によって理解されているからである。本節におけるAへの可能度もこれに近い。Aへの局所的状態は変わってよい。変わりながらも、Aに向かう接続の秩序が保持されているなら、AはAとして保存される。


このとき、Aを保存する場は、点の集合ではなく、連続した位相場である。位相場とは、個々の点の値よりも、点と点のあいだのつながり方が本質をなす場である。Aへの可能度が位相場であるとは、Aがどこか一つの特権的な点に宿っているのではなく、Aへ向かう接続関係そのものが保存されているということである。したがって、Aの保存を問うとは、Aを構成する各局所が変わったかどうかではなく、その局所間の接続関係が、AをAとして保つことをやめたかどうかを問うことになる。


この考え方を採るなら、Aの変形可能性は非常に大きくなる。AをAとして保つ局所配置が一つしかないのなら、Aは少し変形しただけでAではなくなる。しかし、Aが接続関係として保存されるなら、局所配置はいくらでも変形しうる。必要なのは、Aへの方向性を失わないことだけである。すると、Aは「同じ形である」ことによってではなく、「同じ方向を失っていない」ことによって保存される。




二 選択を二つに分けない自由度とは何か


ここで、選択一般の問題に戻る必要がある。ある一つの自由度がある時点において途切れないまま、選択を二つに分けないことができるとするならば、その自由度は何を保存しているのか。


通常、選択とは、少なくとも二つの候補を前提する。Aを選ぶか、Aを選ばないか。右へ行くか、左へ行くか。行うか、行わないか。だが、この理解では、選択はすでに分割された候補群の内部に位置づけられている。本論文がここで問題にしているのは、そうした分割以前の水準である。つまり、まだAと非Aが結果候補として切り分けられていない段階において、なお「選択」が成立していると言えるのかどうか、という問いである。


この問いに答えるためには、選択を「候補の比較」ではなく、「方向性の保持」として捉え直さなければならない。選択を二つに分けない自由度とは、Aに向かう自由度が、非Aをあらかじめ独立した候補として必要とせず、それ自体としてAの方向を保ちうることである。Aを選ぶために、Aでないものを必ず一個隣に置かなければならないのだとすれば、Aは最初から非Aに依存している。Aは自立した可能度ではなくなる。しかし、Aに向かう自由度が、非Aを独立した構成要素として必要とせずに保たれるなら、Aは一つの可能度として保存されうる。


この意味で、「選択を二つに分けない」とは、候補が存在しないという意味ではない。そうではなく、AがAとして保たれることが、非Aの独立した成立を構造的条件として要求しない、ということである。AをAとして進めるために、必ず「AをAにできない一回」が必要なのだとすれば、Aはその内部に不可能度を持つ。反対に、AをAとして進めることが、それだけで一つの保存形式を成すなら、Aは一つの可能度として閉じている。


ここに、連続可能度の純粋な場という考え方が導入される。純粋な場とは、Aへの可能度が、その内部に結果的な二分を含まずに保たれている場である。AがまだAとして保存されているあいだ、その場には「AをAとして進める接続」と「AをAとして進めない接続」が独立した二つのものとして立ち上がっていない。もし立ち上がっていれば、場は純粋ではない。その場にはすでに分裂がある。したがって、純粋な現在性とは、Aへの自由度がなお一つの連続可能度の場として保存されていることを意味する。




三 連続可能度はどこまで変形しうるのか


ここで、冒頭の問いに直接向き合うことができる。もしも同じ可能度を連続することができるならば、任意の選択量を持つ可能度Aはどこまで自由に、どこまで滑らかに変形することができるのだろうか。


この問いに対して、まず否定的に言えることがある。Aへの可能度は、無制限に変形しうるわけではない。もし無制限であるならば、AはAとしての特定性を失う。どのような変形を受けてもAである、ということは、Aと非Aの差がないということになってしまうからである。本論文が擁護しているのは「すべてが可能」という無限定な主張ではない。AはあくまでAであり、そのAとしての方向性を失ってはならない。


だが同時に、Aへの可能度は、ごく狭い範囲でしか変形できないわけでもない。もしAがほとんど変形不能なら、Aは少しの揺らぎによってもただちに不可能度へ落ちる。そのようなAは、現在内部で保存される可能度としては弱すぎる。したがって、Aへの可能度には、AをAとして保ちながらかなり自由に変形しうる余地がなければならない。


このことから、Aの変形可能性の限界は、Aがどれだけ変形したかという量によってではなく、AがAとしての接続不変性を失ったかどうかによって測られるべきだ、ということがわかる。Aがどれだけ大きく変形しても、Aへの接続秩序が切断されていないなら、AはまだAである。反対に、変形がどれほど小さくても、Aへの接続秩序が破れてしまえば、AはもはやAではない。変形の許容量は、幾何学的な距離ではなく、接続関係の保全可能性によって定まる。


このとき、Aの変形可能性は位相的に理解される。つまり、Aへの可能度は、局所状態の配置を変えても、AをAとして保つ関係網が維持されるかぎり、同じAとして残る。変形とは、Aの消費ではなく、Aの保存形式の変調である。Aが変形しているということは、Aが失われていることではない。むしろ、Aが保存されているからこそ、変形が可能なのである。


この意味で、連続可能度の場は、Aに対してかなり高い柔軟性を持つ。Aは、一つの固定形態に縛られていない。Aは、多様な局所変形を受けながらも、Aとしての方向性を保持しうる。その柔軟性の限界は、Aが非Aへ移る閾値ではなく、Aとしての接続不変性が維持できるかどうかにある。したがって、「どこまで自由に変形しうるか」という問いへの答えは、「AをAとして保つ不変性が壊れない限り、Aは位相的にかなり広く変形しうる」ということになる。




四 現在進行度の不変性とは何を保存するのか


現在進行度の不変性を論じるには、何が保存されるのかを精密に規定しなければならない。保存されるのは、時刻ではない。位置でもない。速度でもない。ましてや、観測者が与えた座標系そのものでもない。保存されるのは、AをAとして保つ接続関係である。


このとき、現在進行度とは、Aへの可能度がどれだけ前へ進んだかを、外部時間の増加としてではなく、接続関係の保持の度合いとして理解する概念になる。Aへの可能度が同じ接続関係を保ったまま変形しているなら、現在は進んでいる。Aへの可能度が、その保持を失って別の可能度へ裂けるなら、そこでは現在進行度の不変性が破れている。


重要なのは、現在進行度の不変性が、進行の仕方の任意性を許すことである。Aへの可能度がどのような局所的速度で変化しようと、どのような局所的配置をとろうと、Aとしての接続不変性が保たれているなら、その違いは進行表示の違いにすぎない。ここにゲージ対称性がある。現在の進行は、唯一の表示形式を持たなくてもよい。複数の切り方、複数の局所的表現がありうる。しかし、それらが同じAへの可能度を表しているなら、不変性は保たれている。


この意味で、現在進行度の不変性とは、「いかなる表示においても同じ値で見えること」ではない。そうではなく、「異なる表示においても同じ接続関係が保存されること」である。値は変わってよい。形も変わってよい。局所的な分布も変わってよい。しかし、Aへの接続秩序が保たれるなら、その変化はAを壊さない。


ここから見えてくるのは、現在の本体が、切り取られた瞬間ではなく、保存される接続の形式にあるということである。現在とは、過去と未来のあいだに置かれた刹那的な点ではない。現在とは、Aへの可能度が同一の接続として保たれながら進む、その保存形式そのものなのである。




五 ブラックホール情報パラドックスとの構造的対応


ここで、本節の後半に関わるブラックホール情報パラドックスとの関連を考えることができる。これは繰り返しになるが、物理学的な解決を提示するものではない。問題は構造的な対応にある。


ブラックホール情報パラドックスにおいて核心になるのは、「一度ブラックホールに落ち込んだ情報は、最終的に失われるのか、それともどこかのかたちで保存されているのか」という問いである。古典的な描像では、ブラックホールは内部へ落ちた情報を外部から回収不能にし、最終的に蒸発が起これば、その情報は完全に失われるように見える。これに対して、量子論的な枠組みは、情報が根本的には保存されるはずだという要請を持つ。この両者の衝突が、情報パラドックスを生む。


本論文の立場からこの問題を見ると、ここで問われているのは、「あるものが表面的には失われたように見えるとき、その失われたように見えるものは、本当に別のものへ変わってしまったのか、それとも保存形式を変えただけなのか」ということである。これは、Aへの可能度が変形してもAとして保たれるのかという問題とよく似ている。


たとえば、Aへの可能度がある局所で極端な変形を受けたとする。進行度も、局所配置も、見かけ上の構造も、以前とはまったく違っている。そのとき、Aは失われたように見えるかもしれない。しかし、AをAとして保つ接続関係が、別の位相的なかたちで保存されているなら、Aは本質的には失われていない。逆に、見かけ上は少ししか変わっていなくても、接続関係が断たれていれば、Aは本質的には失われている。この対応を通じて、ブラックホール情報パラドックスは、本論文にとって「保存の本体はどこにあるのか」を考えるための極限例として機能する。


もし情報の保存が、局所的な表示や回収可能性に依存するのなら、ブラックホールに落ちた情報は失われたと見なされるだろう。しかし、情報の保存が、もっと深い位相的な接続関係の保持にあるのなら、見かけ上の消失は、保存形式の変形にすぎない可能性がある。同様に、Aへの可能度も、見かけ上どれほど大きく変形しようと、その接続秩序が残っているなら、AはAとして保存されていることになる。


この構造的対応を通じて、本節は次のような示唆を得ることができる。Aへの可能度が一つの連続位相場として保存されるなら、その保存は局所表示の喪失や見かけ上の断絶を超えうる。局所的にはAが見えなくなることがあっても、AをAとして保つ接続関係がなお保存されているなら、Aは本質的には失われていない。ブラックホール情報パラドックスが突きつけるのは、まさにこの「見かけ上の消失と本質的な保存の差」である。そして本論文の現在論においても、現在進行の中でAが見かけ上失われたように見える局面と、Aが本当に不可能度へ落ちた局面とは区別されなければならない。




六 任意のAを自由に動かせるとはどういうことか


これで、冒頭の問いに戻ることができる。純粋な場、すなわち現在進行度における連続可能度の位相場は、任意のAを自由に動かすことができるのだろうか。


この問いに対して、まず否定すべき誤解が二つある。一つは、「自由に動かせる」とは、Aを好き勝手に結果化できるという意味だ、という誤解である。もう一つは、「自由に動かせる」とは、Aに対していかなる制約も存在しないという意味だ、という誤解である。どちらも本論文の立場ではない。


Aを自由に動かすとは、Aを恣意的に生成・消去することではない。Aを自由に動かすとは、Aへの可能度が、Aとしての接続不変性を保ったまま、局所的な変形を受け入れられるということである。つまり、自由とは無制限性ではなく、保存可能な変形の幅である。Aは、AをAとして保てるかぎり、位相場の中でかなり自由に動くことができる。しかし、AをAとして保てなくなった瞬間、その自由は終わる。そこではAは非Aへ移る。


この意味で、任意のAを自由に動かせるかどうかは、Aがどこまで自己同一性を保ちうるかに依存する。Aが局所変形に対して強い不変性を持つなら、Aは大きく変形しても保存される。Aの不変性が弱いなら、わずかな変形でもAは崩れる。したがって、自由度の大きさは、可能度の不変性の強さとして理解されるべきである。自由とは、候補数の多さではなく、保存される接続の可塑性なのである。


ここで、連続位相場におけるAの自由は、保存と不可分である。Aが保存されないなら、Aは自由に動くどころか、ただ消えるだけである。Aが保存されるからこそ、Aは動ける。動くことと保たれることが対立しないどころか、むしろ動きの自由は保存の深さに依存している。このことは、静的な存在理解を根本から反転させる。固定されたものだけが確かなのではない。むしろ、変形に耐えながら同じものとして保たれるものこそが、より深い意味で保存されている。




七 不変性の限界と、現在の純度


もっとも、本節の議論は、「Aがどこまでも無限に保存される」と主張しているわけではない。Aへの可能度の位相場には限界がある。問題は、その限界がどのように現れるかである。もし限界が、ある一点で突然Aを切断する「外から来る壁」として現れるなら、Aの保存は脆弱である。しかし、本論文が示唆するのは、限界はそうした外的断絶としてではなく、AをAとして保つ接続秩序がどこまで維持されるかという内部条件として理解されるべきだ、ということである。


このとき、現在の純度という概念を導入できる。現在の純度とは、現在がどれだけAへの可能度を、二つ目の軌道や別の不可能度を内部に立てずに保っているかを示す度合いである。現在が純粋であるとは、Aへの接続が、その内部でまだ分裂していないことを意味する。別の言い方をすれば、現在の純度とは、AがAとして保たれる自由度が、どれだけ別の可能度へ漏れ出さずに保存されているかである。


この純度が高いほど、Aは滑らかに動ける。AをAとして保つ位相場は、より大きな変形を受け入れられる。逆に純度が低くなると、Aは小さな変形でも裂けやすくなる。ここで重要なのは、純度の低下は、ただちに外部から押しつけられる断絶ではなく、A内部の保存構造のゆるみとして現れる、ということである。したがって、現在の純度を問うことは、AをAとして保つ接続秩序が、どれだけ二つ目の可能度を生まずに維持されるかを問うことに等しい。




八 本節の結論


以上の議論を通じて、本節の結論は次のようにまとめられる。


第一に、Aへの可能度が「同じものとして連続する」とは、Aの局所的形態や位置や値が固定されることではなく、AをAとして保つ接続関係が保存されることを意味する。したがって、Aの同一性は、形態的一致ではなく、関係的不変性に基づく。


第二に、ある自由度が選択を二つに分けずに保たれるとは、Aを進めるために、Aとは別の不可能度を独立した候補として必要としないことを意味する。選択の純粋性とは、候補の少なさではなく、Aへの可能度が内部で分裂していないことである。


第三に、連続可能度の位相場において、Aはかなり自由に変形しうる。ただしその自由は無制限ではなく、AをAとして保つ接続秩序が維持される範囲に限られる。自由とは、保存された変形可能性の幅である。


第四に、現在進行度の不変性は、局所表示や切り分け方の違いを超えて、Aへの可能度が同じ接続として保たれることを意味する。この不変性があるかぎり、現在は時刻点ではなく、保存形式である。


第五に、ブラックホール情報パラドックスとの構造的対応は、見かけ上の消失と本質的な保存の差を照らし出す。Aへの可能度が局所的には失われたように見えても、接続秩序が別のかたちで残るなら、Aは本質的には失われていない。


第六に、任意のAを自由に動かせるとは、Aを恣意的に操作できることではなく、Aへの可能度がその不変性を保ったまま大きく変形しうることを意味する。Aの自由は、Aの保存の深さに依存する。


第七に、現在の純度とは、Aへの可能度がその内部に二つ目の軌道を生まずに保たれている度合いである。純度が保たれるかぎり、Aは純粋な現在性の中で一つの可能度として保存される。


このように見れば、現在と選択の連続位相場とは、単なる「今この瞬間の候補群」ではない。そこでは、Aが結果になる前に、Aへの可能度が一つの位相的接続として保たれている。その保存が、表示の違いを超えて成立するとき、現在進行度にはゲージ対称性がある。そのときAは、分裂せず、失われず、同じ可能度として動き続けることができる。ブラックホール情報パラドックスが示唆するように、見かけ上の消失は、必ずしも本質的な喪失ではない。同様に、現在の進行の中でAが局所的に見えなくなることがあっても、Aへの接続秩序が残るならば、Aはなお保存されている。


この保存の構造こそが、第二章における現在論のより深い核心である。現在とは、ただ過ぎ去るものではない。現在とは、Aへの可能度が、形を変えながらも同じものとして進みうる位相場そのものなのである。


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