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現在進行度のゲージ対称性


■ 第四節 可能度の連続的な滑らかさについて


——現在進行度のゲージ対称性と、同じ可能度を保って進む自由度の保存——



第二章がここまでで明らかにしてきたのは、現在とは、過去と未来を切る無幅の刃ではなく、ある事象Aへの接続が有限な範囲で保存される場であるという点であった。そこでは、Aが可能であるとは、Aがすでに結果として置かれていることではなく、Aへの経路がまだ切断されていないことであり、また、Aが不可能であるとは、Aへの接続が一個の断絶としてすでに内部に固定されていることではなく、その接続が失われていく過程であると整理された。さらに、現在の総自由度とは、候補の数ではなく、AをAと非Aへまだ分割していない選択の不可分性であり、現在の上界とはその不可分性が有限なかたちで保存されうる限界であって、ただちにAを止める壁ではないということも確認された。


ここから次に問われるべきなのは、現在が保存の場であるなら、その保存はどのような形式でなされるのか、という問題である。Aへの可能度は、現在の進行のなかで、単に残量として減っていくのか。それとも、Aとしての方向を保ちながら、形を変えつつ連続的に保存されるのか。もし後者であるなら、その保存にはどのような不変性が必要なのか。そして、その不変性が成立するとき、なぜAへの可能度は一とゼロのあいだに一パーセントの不可能度を挿入されずに保たれうるのか。この点が、本節の主題である。


ここで本節が扱う「滑らかさ」は、単なる比喩ではない。滑らかさとは、Aへの可能度が現在進行の途中で突然の断絶点を生まず、しかもその断絶の不在が、基準の取り方や進行の読み方の違いに左右されないことを意味する。いいかえれば、ある進行の内部でAへの接続が保存されているかどうかが、外から与えられた区切り方によって変わってしまうなら、その保存は本質的なものではない。反対に、現在の進み方をどのようなかたちで切り直しても、Aへの接続が同じ可能度として残るならば、その保存は、現在そのものの構造に属していることになる。この構造を、本節では「現在進行度のゲージ対称性」と呼ぶ。


ただし、ここでいうゲージ対称性は、何らかの既存の物理理論の技術的概念をそのまま写すものではない。問題は、ある現象を記述するときの表現様式が変わっても、保存されている関係そのものは変わらない、という構造である。たとえば、同じ運動を異なる長さの単位で書き直しても、運動それ自体が変わるわけではない。同じ進行を異なる区間分割で読み替えても、その進行において保存されている接続が同じであるなら、それは別の現象になったのではなく、同じ現象を別様に表したにすぎない。本節で問題にするのは、Aへの可能度がまさにそのように、進行の切り方や基準の置き方を超えて不変に保たれるのかどうかである。


ここで最初に導入されるべきなのは、「現在進行度」という概念である。現在進行度とは、時計に従ってどれだけ秒数が進んだかを意味するのではない。そうではなく、Aへの可能度が、どれだけ同じAとして保存されながら前に進んでいるかを示す内部的な進行形式である。したがって、現在進行度は、時刻の大きさではなく、保存の仕方を指す。Aへの接続がそのまま保たれているなら、現在は進んでいる。Aへの接続が変形してもAとして保たれているなら、現在はなお同じ進行の内部にある。これに対して、Aへの接続が切断され、Aではない別の方向へ裂けてしまうなら、そこで現在進行度の不変性は破れる。


このとき重要なのは、現在進行度が、外から見た時刻や瞬間の数ではなく、AをAとして保つ内部的な一致の度合いであるという点である。したがって、ある進行を細かく刻んで読んだときと、大きくまとめて読んだときとで、Aへの可能度の保存が異なって見えてしまうなら、その保存は進行そのものに属していない。反対に、切り方が異なってもAへの接続が同じなら、そこにはゲージ対称性があると言える。本節では、この対称性を、Aへの可能度の連続的な滑らかさの条件として扱う。


この問題に対して、まず提出されなければならない基礎命題は次のものである。


ある一つのタイミングが失われないまま、任意の範囲に属する選択量Aを直線的に結べない一点は存在しない。


この命題を理解するためには、まず「任意の範囲」とは何かを、これまでよりも精密に定義し直さなければならない。ここでいう任意の範囲とは、単にAが起こりうる幅広い可能性の総称ではない。そうではなく、Aへの可能度が現在内部において取りうる選択量の幅、すなわちAがAとして保存されながら変形しうる自由度の局所的・連続的な広がりを意味している。


Aへの自由度は、単なる一個の点ではない。ある運動であれば、そこには速度の幅がある。ある判断であれば、そこには選択の余地がある。ある状態遷移であれば、そこには位相的に変形しうる範囲がある。ある接続であれば、そこには保持されうる張力や方向のゆらぎがある。したがって、Aとは、最初から一個の点として与えられるものではなく、Aとして保存されうる複数の局所的自由度が、なお一つの方向を保っているときに成立する可能度の場である。この場における局所的な取りうる幅、それがここでいう任意の範囲である。


この定義からすぐにわかるのは、任意の範囲とは、候補が複数あることそれ自体を意味していないという点である。候補が複数あるという言い方は、すでに世界を離散的な結果へ切り分けた後の理解に属している。ここで問題にしているのは、Aが結果へ切り出される以前、Aへの可能度がまだ一つの接続として保存されている状態において、その内部にどのような自由度の広がりがあるのかということである。したがって、任意の範囲とは、完成した選択肢の並びではなく、Aとしての保存がなお成り立ちうる変形可能性の局所的な幅である。


問題は、この選択量のどこかに、「ここから先はAとして直線にできない」という絶対的な一点が存在するのかどうかである。もしそのような一点が存在するならば、Aへの可能度はその一点で断絶する。その一点を境にして、Aを通せる範囲とAを通せない範囲が分かれる。すると、Aの内部には、Aとして保存される領域とAとして保存されない領域が同時に存在することになる。いいかえれば、Aは現在内部において二つ目の可能度を持つことになる。


しかし、この結論を認める前に、何が本当に問われているのかをより根底から整理しなければならない。というのも、「Aとして直線にできない一点がある」と言うとき、私たちはしばしば、Aをすでに一つの出来上がった結果として思い描いているからである。すなわち、Aはここにあり、そのAに至ることのできる経路と、Aに至ることのできない経路が並んでいると考えてしまう。けれども本論文が扱っているのは、そのような結果図式ではない。問題は、Aが結果として先に置かれているかどうかではなく、Aへの可能度が現在内部においてどのような不変性を持ちながら保存されているかである。したがって、「Aを直線にできない一点」があるかどうかを問うことは、候補の二分を確認することではなく、Aへの可能度が保存変形のなかで本当に破れるのか、すなわちゲージの破れが成立するのかどうかを問うことに等しい。


問題の焦点は、Aが成立した後に何が起こったかではなく、Aがまだ成立していないあいだに、Aへの可能度がどのような仕方で一つのものとして保たれているのかにある。Aを結果として先に置いてしまえば、議論はたちまち「Aに行けるか/行けないか」の配列へ還元される。けれども、その理解では、Aがまだ結果化されていない段階で何が保存されているのかが見えなくなる。Aに至る経路が一本あり、他方にAに至らない経路がある、といった図は、すでに世界を複数の軌道へ切断した後の図にすぎない。問われているのは、それ以前の段階、すなわちAへの可能度がまだ一つの連続場として保たれているあいだに、その内部で何が起きているのかということである。


そのためには、まず「一つのことができる」とは何かを、結果ではなく保存の言葉で言い換えなければならない。一つのことができるとは、Aがどこかに完成品として待機しているという意味ではない。Aへの接続が、AをAとして通すことのできる一つの可能度として保たれているという意味である。反対に、一つのことができないとは、Aへの接続がまるごと消滅しているという意味ではなく、AをAとして通すことのできない差が、Aの内部に独立したものとして立ち上がってしまうという意味である。つまり、問題はAがあるかないかではなく、Aへの可能度が、Aを通す接続とAを通せない接続へ、どこで、どのように裂けるのかにある。


この点を見誤ると、「一つのことができる」という事実の背後には、必ず「同じことが一つできない」という別の一回が最初から対になっているように見えてしまう。だが、そう見えるのは、Aを毎回結果として数え直しているからである。Aを一度成立したものとして数え、その都度「成立した/成立しなかった」を並べれば、たしかに○と✖️は対になって現れる。しかし、本論文が扱う現在性は、そのような判定済みの配列ではない。いま問われるべきなのは、同じことが一パーセント行えないという一回が、そもそも現在内部に存在しているのかどうかである。もしその一回が存在しないなら、ある有限時間内において、一つのことができて一つのことができないという○/✖️を一パーセントとして内部に持たないまま、一つのことを一つのこととして連続し、直線的に、一対一で保つことができるはずである。


この命題を別の角度から言い換えれば、Aへの可能度が有限時間内で保たれているあいだ、Aに対して「できる側」と「できない側」の両方を同時に持ち込む必要はない、ということである。AがAとして保存されるなら、その保存はAそのものの内部で完結していなければならない。AをAとして通すために、別の場所に「AをAとして通せない一回」が待機していなければならないと考えるなら、Aは最初から二つに割れていることになる。すると、Aは一つの可能度ではなくなる。AをAとして進める流れと、AをAとして進めない流れが同時にあるなら、Aはすでに二つ目の可能度を持っているからである。


より重大なのは、この二つ目の可能度が、単なる論理上の別案ではなく、現在に至るまでの進行の内部に、一個のものとして立ち上がってしまうかどうかである。一つのことを行う連続可能度には、それに固有の進行の速さがある。これは時計で測った速度だけを意味しない。Aへの接続が、どれほど滑らかに、どれほど無理なく、どれほど自己同一性を失わずに前へ運ばれているか、その保存の進み方を意味している。問題になるのは、その進み方の内部で、二回目のタイミングが必要になるのかどうかである。Aへの一つ目の可能度だけでは足りず、AをAとして保つために別の同期点、別の再出発点、別の軌道を要求してしまうなら、Aは一つの流れとして保たれていない。AをAとして保つ可能度は、一度で足りず、二度目を要求してしまっている。


そのような事態が起こるなら、「AをAにする」ということ自体が一回ごとに切断される。Aを一回ごとに成立させ直さなければならないのなら、Aは一回ずつでしかAではいられない。さらに、一回ずつでしかAをAにできないのなら、そのたびにAでない側が対になって現れる。つまり、「一回目ではAになれるが、二回目ではAになれないかもしれない」という一/二の構造が、Aの内部に生じる。そうなると、Aは一とゼロのあいだにわずかな不可能度を持ち込まれる。AはAとして一本の接続を保つのではなく、「Aになる」と「Aにならない」のあいだで常に揺らぎ、そこに一パーセントの差が常備されることになる。


本論文が退けようとしているのは、まさにその構造である。Aへの可能度が本当に一つのものとして保存されているなら、AをAにするたびに別の可能度を追加で立てる必要はない。二回目のタイミングも、二つ目の可能度も、現在に至るまでに一個のものとして成立しない。Aは一回目の内部において、そのままAとして通り続けることができる。そうである以上、「AをAにできない一回」を、一とゼロのあいだに一パーセントとして差し込む理由はない。AをAとして保つために必要なのは、二番目の軌道ではなく、一番目の軌道が自己同一性を失わないことである。


この点を押さえるなら、直線とは何かも見え直してくる。直線とは、単に最短距離を結ぶ形ではない。Aへの可能度が、AをAとして保つために余計な別軌道を要求しないこと、それが直線である。AをAとして進めるたびに、別の可能度を対で立てなければならないなら、その進行は直線ではない。むしろ、Aは内部で裂け、二重化し、別の分岐を持ってしまっている。反対に、Aへの可能度が、同じAとしてそのまま保存されるなら、Aは直線であり、一対一でありうる。Aが一つのタイミングと一つの距離において、そのままAとして保たれているなら、その保存の充足度を百パーセントと呼ぶことができる。


この百パーセントは、結果の必然性を意味していない。Aが必ず成就する、と言っているのではない。Aについての確率が一である、と言っているのでもない。問題になっているのは、Aが結果になるかどうかではなく、Aへの可能度がその場で二つ目の軌道を要求していないかどうかである。AをAとして通す一つの軌道だけで足りているなら、その接続は充足している。その充足が百パーセントである。言い換えれば、百パーセントとは、【ある任意の選択量Aが、ある時点からある時点へ向かって、自由に移動できない一回⇄Aが自由に移動できない一回】に属しておらず、しかもAへの可能度が不確定に取り出せない別の可能度へ裂けていないという意味である。


ゆえに、問題の順序は明確である。最初に問われるべきなのは、「Aが起こるかどうか」ではない。Aへの可能度が、二つ目のタイミングや二つ目の可能度を立てずに、一つの接続として保存されているかどうかである。その保存が保たれているなら、Aには一パーセントの行えなさはない。そのとき、○と✖️はまだ内部に分かれていない。AはAとして一本の可能度であり、一対一の直線として有限時間内を通ることができる。そこにおいて初めて、「百パーセント」という語は、結果ではなく保存の充足を示す語として意味を持つのである。


この定義は非常に重要である。なぜなら、ここでの百パーセントは結果保証ではなく、不変性保証だからである。Aが百パーセント保存されるとは、AがAとして保存されているかぎり、そのAに対して別の不可能度が独立して立ち上がっていないということである。つまり、Aは「Aとして可能であること」と「Aとして不可能であること」の二つにまだ裂けていない。Aはまだ、Aとしての一意的な可能度の内部にある。


この基底における問題の核心は、Aの内部に「二つ目の軌道」があるかどうかではなく、Aへの可能度が、保存される軌道と保存されない軌道へ、現在内部において本当に分裂しているのかどうかにある。もし分裂しているならば、Aはもはや一つの可能度ではない。Aへの接続は、一つの方向としての不変性を失っている。そのとき、「Aは可能である」という言明そのものが、すでに内部矛盾を含むことになる。なぜなら、AはAとして保存される一方で、Aとして保存されない別の軌道も同時に持つからである。するとAは、一つのAではなく、Aを通るAと、Aを通れないAに割れたものになる。


本論文が退けるのは、まさにこの状態である。なぜなら、そのような分裂が現在内部に成立しているならば、現在は接続領域ではなく、切断領域になるからである。現在が接続領域であるとは、Aへの可能度が、結果へ切り出される以前に、なお未分割のまま保存されていることを意味していた。もし現在内部に「AをAとして直線にできない一点」があるならば、現在はAへの接続を保存する場ではなく、Aを切断する場になる。そのとき、これまで第二章で積み上げてきた「現在」の定義そのものが崩れる。


したがって、ここで中心となる問いは次のように組み直される。


任意のタイミングにおいて、Aへの可能度をAとして結べなくなるような“ゲージの破れ”は、本当に成立するのか。


この問いを考えるためには、まず「ゲージの破れ」とは何かをはっきりさせる必要がある。ここでのゲージとは、表示上の取り方、進行度の区切り方、局所的な自由度の座標化の仕方が変わっても、その背後で保存されているAへの接続関係は変わらない、という不変性の構造を意味する。いいかえれば、現在がどのように切り出されようと、Aへの可能度がAとして同じ関係を保っているならば、そこにはゲージ対称性がある。


これに対して、ゲージの破れとは、表示や切り出しの違いでは吸収できない断絶がAへの可能度の内部に生じることである。ある記述ではAとして保存されていた接続が、別の記述ではもはやAとして通せない、ということではまだ足りない。なぜなら、それは単に表示の失敗かもしれないからである。本当にゲージが破れるとは、どのような表示を用いても、Aへの接続の内部に「ここではAをAとして保存できない」という絶対的な差が現れることである。この差が現れたとき、Aはその内部に二つ目の可能度を持つ。すなわち、AをAとして進める接続と、AをAとして進められない接続が、現在内部において独立してしまう。


本節が問題にするのは、このような破れが本当に成立するのかどうかである。


ここで、従来の理解では、現在を何らかの時刻点として扱い、その点においてAが可能か不可能かを判定しようとする傾向がある。その場合、AをAとして保つかどうかは、その時点において局所的に決まるように見える。すると、その局所点のどこかに、AをAとして結べない一点があるように思われる。しかし、この理解は、本論文がこれまで捨ててきた「時刻点としての現在」の理解に戻ってしまっている。現在は点ではない。現在は、Aへの可能度が保存される連続位相場である。したがって、Aがどこかの一点で突然Aでなくなる、と言うためには、その一点が連続場の内部に特異点として成立していなければならない。


ここで、問題は候補の二分ではなく、連続位相場の不変性として組み直されなければならない。AがAであるか、非Aであるか、という結果後の分類ではなく、Aへの可能度が位相的変形の中で同じ接続として保たれるのかどうかが問われる。もし保たれるなら、Aを直線的に結べない一点はない。もし保たれないなら、Aの内部にはゲージの破れがある。そのとき初めて、Aは二つ目の軌道を持つ。


このように考えると、「任意の範囲においてAを直線的に結べない一点があるかどうか」という問いは、局所的な断絶点の有無を問うというよりも、Aへの可能度が、任意の局所変形に対して同じ可能度として保存されるかどうかを問うことになる。Aへの可能度が、ある局所では保存され、別の局所では保存されないというのならば、その差がAの内部に独立した構造として現れなければならない。しかし、そのような独立した構造を認めるならば、Aはすでに一つではない。AはAとして保存される部分と、Aとして保存されない部分に分かれている。そこでは、Aを一つの可能度として語ること自体が不可能になる。


したがって、Aを一つの可能度として保持するためには、任意の範囲においてAを直線的に結べない一点を、現在内部に絶対的なものとして置くことはできない。このことは、単に希望的に「すべて連続だ」と言っているのではない。むしろ論理的必然である。AがAとして保存されていると言うためには、Aへの接続がAでなくなる絶対的な差を内部に持ってはならないからである。Aへの接続が内部差によって分裂しているならば、Aは一意的な可能度ではない。したがって、Aの可能度が一意的であること自体が、ゲージの破れを内部に持たないことを要求する。


ここでさらに重要になるのが、「一つのことを一パーセント行えないという一回にないまま」という条件である。AをAとして行うことが、一パーセント行えない一回に属しているなら、AはすでにできるAとできないAに分裂している。そのときAへの可能度は、Aとして保存される接続と、AをAとして行えない接続を同時に含む。つまり、Aは二つ目の可能度を持つ。この状態は、先ほどのゲージの破れと同じ構造を持つ。Aへの接続は表示の差ではなく、内部構造として裂けているからである。


しかし、Aを一パーセント行えない一回に属していないならば、Aへの可能度はまだ未分割である。AをAとして行うことは、Aを行えない差を内部に含まない。したがって、Aは○と✖️へ分離していない。ここでいう○と✖️とは、結果後の判定記号ではなく、Aへの可能度が「AをAとして通す接続」と「AをAとして通さない接続」へ分裂しているかどうかを示す構造的な差である。Aを一パーセント行えない一回に属していないということは、この差が現在内部にまだ立ち上がっていないことを意味する。


このとき、以下のような命題が現れる。


ある有限時間内にこそ【一つのことができて一つのことができないという○/✖️を一パーセントにしない】ことが、連続であり、直線であり、一対一である。


ここで重要なのは、前節でも述べたように有限時間という条件である。


Aへの可能度の保存が無限時間に依存するなら、それは現在ではなく、単なる遠い可能性になる。Aが現在に属するとは、Aへの可能度が有限時間内に保存されることである。この有限時間の中でAを一パーセント行えない差が立ち上がっていないならば、Aはその有限な現在性の中で一つの可能度として保たれている。したがって、Aへの接続は直線であり、一対一である。


ここでの直線とは、繰り返しになるが、幾何学的な一本線ではない。Aへの可能度が、局所的な変形や表示の切り替えを受けても、同じAとして保存されること、それが直線である。一対一とは、Aへの接続が、Aを保存する一つの可能度であり続け、その内部に二つ目の可能度を立ち上げないことである。つまり、Aへの接続が「一つである」ことがそのまま「Aとして保たれる」ことに対応している。この対応関係が崩れないかぎり、Aは一対一に保存されている。


ここで本節におけるより重要な命題に進むことができる。


一つのことを行う連続可能度とそのスピードに対して、二回目のタイミング、あるいは二つ目の可能度を、現在に至るまでに一個にしないことができる。


この命題の難しさは、「二回目のタイミング」と「二つ目の可能度」が、単なる順序上の二番目ではないという点にある。ここで言う二回目とは、Aを行う一回が、その内部で完結せず、AをAとして保つために別の再起動点を必要としてしまうことを意味する。つまり、Aは一回目の進行だけではAとして保存されず、その外側にもう一つのタイミングを要求する。そうなると、Aは一回目の内部で自己保存に失敗していることになる。


二つ目の可能度も同様である。これは、Aとは別の結果候補があるという意味ではない。そうではなく、AをAとして行う可能度とは別に、AをAとして行えない可能度が独立して立ち上がることを意味する。このとき、Aへの接続はもはや一つではない。Aは、Aとして進むか、Aとして進まないかという二重性を内部に持ってしまう。ここで初めて、Aを一とゼロの間に一パーセントずつ分割するような構造が成立する。


しかし、本節の命題は、この二回目のタイミングも二つ目の可能度も、現在に至るまでに一個のものとして成立しないかもしれない、ということである。Aへの可能度が滑らかであり、現在進行度のゲージ対称性が保たれているならば、AをAとして行う一回は、その内部で自己保存される。Aは一回目だけで十分であり、その一回の内部でAとしての方向を失わない。すると、Aを再起動する第二タイミングは不要である。また、その一回がAとして保存されるなら、AをAとして行えない別の可能度も独立しない。したがって、Aは一つの可能度として保たれる。


このことを、より根底から言い換えれば次のようになる。


AをAにするとは、毎回新しくAを作ることではない。

AをAにするとは、Aへの接続が同じAとして保存されつづけることである。

したがって、「一回ずつでしかAをAにできない」という理解は、Aへの可能度の保存を結果生成の反復として誤認している。


もしAが一回ずつでしかAになれないなら、Aの各回は切り離されている。各回ごとにAであることを証明しなければならない。すると、そのたびにAでない可能性が対になって現れる。Aは一とゼロの間に引き裂かれる。しかし、Aへの可能度が保存されているなら、Aは各回ごとに新規生成されるのではなく、連続位相場の中で同じAとして進む。したがって、一回ごとにAでない可能性を対で持つ必要はない。ここに、「一/二を一とゼロの間に一パーセントにしない」ことの意味がある。


この一/二は、確率の数値ではない。Aが半分成立し、半分失敗するという意味でもない。そうではなく、AをAにする一回と、AをAにできない一回が、対として立ち上がる構造を指している。本節が否定するのは、この対の自動生成である。AをAにすることが、そのままAをAにできない可能性を必然的に伴うわけではない。Aへの可能度が保存されるなら、AはAとして進み、Aでない一回を内部に立てない。


このとき初めて、ある一つのタイミング、あるいはある距離において、「百パーセントにできる」ということの本当の意味が定まる。繰り返すが、百パーセントとは結果保証ではない。百パーセントとは、Aへの可能度が、そのタイミングと距離においてAとして完全に保存されていることを意味する。AをAとして結べない断絶がない。AをAとして行えない一回が立ち上がっていない。二回目のタイミングも、二つ目の可能度もない。したがって、Aへの接続はその局面において充足している。この充足が、保存値としての百パーセントである。


ここで、これまでの論理を自然に収束させることができる。


任意のタイミングでAを結べなくなる“ゲージの破れ”が本当に成立するならば、Aへの可能度は一つではいられない。Aは内部に二つ目の軌道、二つ目の可能度、二回目のタイミングを持つことになる。そのときAをAとして保存する現在は崩れる。しかし、Aへの可能度が現在進行度のゲージ対称性の下で保たれるならば、Aは一つの自由度として、一つの可能度を失わず、一つの選択を失わずに進むことができる。そのときAをAとして結べない一点はなく、Aを一パーセント行えない一回もなく、○/✖️は現在内部に一パーセントとして分離しない。有限時間内において、Aは一対一の直線として保存される。


ここに、本節の核心がある。現在がどう保存されるかは、候補の二分ではなく、連続位相場の不変性として理解されなければならない。Aができるか、できないかという結果後の区分ではなく、Aへの可能度が、どのような局所変形や表示変更を受けても、同じAとして保たれるのかが問題である。もし保たれるなら、ゲージの破れはない。もし保たれないなら、Aはすでに二つ目の可能度を持っている。したがって、現在を現在として保つものは、Aへの可能度の滑らかな不変性であり、その不変性が破れないかぎり、Aは純粋な現在性の中で同じ可能度として進み続けるのである。


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