表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/25

2個目のサイコロのなさ


■ 第七節 ランダムの一回のなさと、二個目のサイコロのなさについて


——AからAをできない一回目に無いことを、有限時間内に一対一にできるという仮説——



本節で扱うべき問題は、これまで第二章で積み上げてきた「現在進行度」「総自由度」「連続可能度」「一意的な可能度の不変性」「ゲージ対称性」「位相場としての保存」といった論点を、さらに一つの焦点へ集約することである。その焦点とは、世界にはまだ「ランダムの一回」が存在していないのではないか、という仮説である。ここでいうランダムの一回とは、単に未来が予測できないという意味ではない。そうではなく、Aという可能度の内部に、AをAとして保存しない別の一回が、現在進行の途中で独立に立ち上がってしまうことを意味する。そして、この仮説に対応するもう一つの命題が、「二個目のサイコロのなさ」である。すなわち、世界はまだ、一回目の進行の内部に二回目の独立した試行を持っていないのではないか、ということである。


この問いを立てる理由は明確である。もし現在進行の中にランダムの一回があるなら、現在は接続領域としては成立しない。Aへの可能度は、その内部で一つに保たれず、ある瞬間に別の側へ裂ける。その裂け目は、一回目の進行そのものの内部で、「AをAとして進めること」と「AをAとして進めないこと」を分けることになる。さらに、その裂け目が一回目の中に成立するなら、そこではすでに二個目のサイコロ、すなわち別の独立した結果化の単位が立ち上がっている。すると、現在はまだAをAとして保存している場ではなく、Aと非Aへ分かれる前段階の候補表になってしまう。


本節の仮説は、この構図を退ける。世界にはまだ連続して通れないAがない。その意味で、AからAをできない一回目に無いことを、ある有限時間内にこそ一対一にできるはずである。この命題は、Aが必ず実現するという意味ではない。また、Aに失敗がないという意味でもない。問われているのは、Aへの可能度が、現在進行の内部において、まだ「AをAとしてできない一回」を独立して持っていないかどうかである。もし持っていないなら、Aはまだ一つの可能度として保たれている。つまり、AからAをできない一回目にないというのは、Aがその決定点、あるいは現在進行度から連続して、同じ量、同じ可能度のAとして直線的に可能にできない一パーセントの中に落ちていない、という意味を持つ。


このことを理解するには、まず「AからAをできない」とは何を意味するのかを厳密に定義しなければならない。通常、「Aができない」と言えば、Aが最終的に成立しなかったという結果を指す。しかし、本節で問題になるのは、そのような結果後の不成立ではない。AからAをできないとは、Aという可能度の内部から、AをAとして通し続けることができない別の運動が独立し、そのためAがAに対して自己同一的でなくなることを意味する。もっと言えば、AからAをできないとは、Aが自らの内部でAを保存することに失敗し、その失敗が一つの独立した一回として立ち上がることである。


この定義はきわめて重要である。なぜなら、「Aをできない」という表現を、そのまま未来の結果に対する失敗とだけ理解してしまうと、現在内部で何が保存されているかが見えなくなるからである。Aが結果として成立しなかったとしても、それはただちに「AからAをできない一回」が現在内部に存在していたことを意味しない。Aが結果として実現しなかったとしても、Aへの可能度が現在内部で一つに保たれていたかもしれないからである。したがって、本節の議論では、「Aができない」という語を、結果後の事実ではなく、Aの内部に立ち上がる独立した不可能度として限定して用いなければならない。


この観点から見れば、「AからAをできない一回目に無い」という命題の意味も明確になる。これは、Aが自らを保存する進行の内部において、まだ自らを裏切る別の一回を持っていない、ということである。AはAとしての接続を保っている。AはAをAとして通す。AはAの内部で、AをAにできない一回へ裂けていない。これが「AからAをできない一回目に無い」という意味である。


では、この意味での一回目とは何か。一回目とは、結果後に数えられる最初の試行ではない。そうではなく、Aへの可能度が、まだ一つのものとして保存されている進行の単位である。この単位は、時間的な瞬間でもなければ、単純な試行番号でもない。それは、Aへの接続がまだ分裂せず、AをAとして通す保存形式のまとまりである。一回目が一回目であるためには、その内部に二個目のサイコロがあってはならない。すなわち、その内部に、Aとは別の独立した結果生成の単位が立ち上がっていてはならない。


ここで「二個目のサイコロ」という表現の意味を定義しておく必要がある。二個目のサイコロとは、Aへの一回の進行とは別に、Aとは独立した別の結果決定の単位が、同じ現在内部に成立してしまうことである。たとえば、AがAとして保たれているように見えながら、その内部で「Aが成立するか」「Aが成立しないか」という別の試行がすでに走っているなら、それは二個目のサイコロである。このとき、一回目はもはや一回目ではなく、その中にもう一つの賭けが含まれている。Aへの可能度は、その時点で純粋な一つの可能度ではない。AをAとして通す運動と、AをAとして通さない運動が、別個の決定単位として同居してしまっているからである。


本節の仮説は、このような二個目のサイコロはまだ存在しない、というものである。Aへの可能度が一つに保たれているかぎり、その内部で別の結果決定単位は立ち上がらない。AはまだAとして進んでいるのであって、Aか非Aかをもう一度賭け直しているわけではない。つまり、世界にはまだ二個目のサイコロがない。二個目のサイコロがないとは、Aへの進行が、別の独立した試行に分割されていないということである。


この仮説を支える鍵となるのは、「真の意味である一つの位置をまだ失っていない」という考え方である。ここで言う位置とは、単なる空間座標のことではない。Aへの可能度が、Aとして自らを保持している接続位置のことである。Aは位置を持つ。けれどもその位置は、点として固定された位置ではなく、AをAとして通すことができる保存上の位置である。Aがこの位置を失っていないとは、AがまだAとしての接続方向を保っていることを意味する。


この位置が失われるときにのみ、AはAからAをできない別の一回へ落ちる。つまり、Aがその自己同一性を失い、別の独立した可能度へ分裂するとき、初めてAは「AからAをできない」ことになる。だが、本節の仮説では、その位置はまだ失われていない。Aは、同じ量、同じ可能度のAとして保たれている。そのため、Aへの可能度は、一パーセントの「AをAにできない差」へ落ちていない。ここに、「真の意味である一つの位置をまだ失っていない」という命題の核心がある。


ここで重要になるのが、「Aを行って、そのAという可能度が次の時点に至るまでに九十九パーセントにならないまま(⇄最初の百パーセント=1回目の可能度を失わないまま)、現在進行度を直線にすることができるはずである」という考え方である。これも、結果確率としての百パーセントではない。Aが結果として確実に実現するという意味ではなく、Aへの可能度が、次の時点へ進むあいだに、自らの一回目の保存量を失っていない、という意味である。


通常、時間が進むと、私たちは「何かが減る」と考えやすい。距離を進めば残りは減る。時間が経てば余裕は減る。運動すればエネルギーは減る。可能性も、一度通過すれば少し失われるように思われる。すると、Aを一度行ったなら、そのAという可能度は次の時点では少し減っており、百パーセントだったものが九十九パーセントになっているのではないか、という発想が生まれる。そしてその一パーセントの差が、AをAとしてできない一回の萌芽なのではないか、と考えられる。


問題になるのは、「最初の百パーセント」とは何か、という点である。これを結果の確実性として理解してしまうと、議論はすぐに誤った方向へ進む。百パーセントとは、Aが必ず成功するという保証ではない。Aが将来において必ず結果化されるとか、Aが他の可能性を完全に排除しているとか、Aについての確率が一であるとか、そのような意味ではない。むしろ最初の百パーセントとは、Aへの可能度がまだ自分自身を失っていないこと、AがAとして保存される一回目の接続量を、内部で減衰させていないことを指している。言い換えれば、最初の百パーセントとは、Aがまだ自分の内部に「AをAとして通せない別の差」を独立させていないという保存上の充足度である。


Aを一度行ったとき、そのAという可能度が次の時点に移るまでのあいだに、最初の百パーセントを失うとはどういうことか。これは、Aを一度通ったことによって、Aそのものの内部に、AをAとして保てない別の可能度が芽生えてしまうことを意味する。たとえば、Aを通す進行と、Aを通さない進行が、同じAの内部で別個に立ち上がるなら、その瞬間にAはもはや百パーセントではない。Aの内部には、一つの可能度だけでなく、AをAとして維持しない側の構造が独立しているからである。その独立の度合いを象徴的に一パーセントと表しているのであって、数値の大きさが本質ではない。重要なのは、「Aの内部に、AをAにできない一回が独立して立ち上がったのかどうか」である。


このように考えるなら、最初の百パーセントを失わないというのは、Aが変化しないという意味ではない。Aに関わる局所的条件は変化する。位置も変わる。速度も変わる。幅も変わる。関与する自由度の配置も変わる。問題は、それらの変化のあいだで、AをAとして保つ接続不変性が失われるかどうかにある。Aが最初の百パーセントを失わないとは、Aが同一形態のまま停止していることではなく、AをAとして成立させる保存関係が切断されていないことを意味する。Aは変形してよい。運動してよい。再配置されてよい。けれども、その変化の内部で、AをAとして通せない別の一回が独立しないなら、Aはなお最初の百パーセントを保っている。


この点は、ある一つの事象の不変性を考えるうえで決定的である。一般に、事象の不変性は、事象がまったく変わらないことだと思われやすい。しかし、本論文が扱っている不変性はそのような静止ではない。ある一つの事象が不変であるとは、その事象をその事象たらしめている接続秩序が失われないことを意味する。形が変わっても、表れ方が変わっても、局所的な振る舞いが変わっても、なお同じ事象として保存されているのなら、その不変性は保たれている。Aという事象も同様である。Aの不変性とは、Aへの接続がAとしての方向を失わずに保存されていることである。Aが最初の百パーセントを失わないというのは、Aの不変性がまだ破れていないということである。


自由度についても同じことが言える。一つの自由度が不変であるとは、その自由度が局所的な値をまったく変えないことではない。自由度とはもともと変化しうるものであり、運動しうるものであり、再配置されうるものである。にもかかわらず、その自由度がなお同じ自由度であると言えるのは、それが担っている可能度の保存関係が切れていないからである。Aへの自由度が最初の百パーセントを失わないとは、その自由度がAをAとして運ぶ役割を失っていないことを意味する。逆に、Aへの自由度が九十九パーセントになるとは、AをAとして運ぶ役割が、その内部で少しでも独立に崩れ始めていることを意味する。これは量の減少として理解されるべきではなく、内部に別の構造が立ち上がることとして理解されるべきである。


この観点から眺めると、「Aを行ったあと、そのAが次の時点までに九十九パーセントにならないまま現在進行度を直線にできる」という命題の意味も明瞭になる。Aを行うことは、Aという可能度を使い果たすことではない。Aを行うことによってAの結果が一つ出た、という理解のうえでは、Aは消費されたように見える。けれども、Aが結果に先立つ可能度として理解されるなら、Aを行うということは、Aへの接続が実際の進行の中で保存されていることを一度貫通した、という意味になる。その貫通のあとでAがなおAとして保存されているなら、Aは減っていない。Aは次の時点においてもなお同じAとして保たれている。そこでは、一回目の可能度が失われていないのであり、最初の百パーセントが保存されている。


この保存を、決定論的量子力学の見解と照らし合わせると、問題の輪郭はさらに鮮明になる。量子力学において一般に問題となるのは、状態の不確定性や測定の確率性である。観測前の状態は複数の可能性を含み、観測によってそのうち一つが現れる、という図式が広く知られている。そこでは、ある状態が次の時点にどのように現れるかは、表面的には確率的であり、ある意味では「どの結果になるかは決まっていない」と語られる。しかし、決定論的量子力学、たとえばド・ブロイ=ボーム理論のような立場では、事情は異なる。波動関数は連続的に進行し、その進行はユニタリーに保たれる。粒子の位置も、隠れた変数とされるかどうかは別として、全体の運動は任意的な飛躍ではなく、ある法則的秩序に従って導かれる。重要なのは、表面的に結果が確率的に見えるとしても、基底にある進行そのものは、断絶したランダムな一回を必要としていないという点である。


この見方は、本論文で言う「最初の百パーセントを失わない」という考え方と構造的に響き合う。決定論的量子力学では、観測前の状態がただちに「別の結果へ裂けたもの」として扱われるのではなく、全体の進行が一つの連続した秩序として理解される。見かけ上、観測結果は確率的に分配されるかもしれない。けれども、そのことは、進行そのものの内部に「二個目のサイコロ」が最初からあることを意味しない。全体の波動の進行が一つの法則的な保存を持っているなら、その内部で何が生じているかは、単純な結果の頻度だけでは決まらない。同じように、本論文で言うAという可能度も、結果後の○と✖️の分布だけで理解されるべきではなく、その可能度が進行の内部で同じものとして保たれているかどうかで理解されるべきである。


もちろん、本論文は量子力学の特定解釈を採択してそのまま世界全体へ拡張しようとしているわけではない。ここで参照されるのは、あくまで「表面上の不確定性」と「基底における連続保存」とを分けて考えるための視座である。決定論的量子力学においては、観測結果が不確定的に見えるからといって、基底にある全体の進行までがランダムな飛躍に支配されているとは限らない。同様に、本論文においても、Aが結果として不成立になることがあるからといって、Aへの可能度の基底的進行が最初から「AをAにできない一回」を独立に持っているとは限らない。


このことから見えてくるのは、最初の百パーセントとは、結果の確率ではなく、進行の法則性と接続の自己同一性に関わる概念だということである。Aが百パーセントで保存されているとは、Aがどのような表面変化を受けても、AをAとして保つ進行の秩序が失われていないことを意味する。そこでは、Aの不変性とは静止ではなく、自己同一性の持続であり、自由度の不変性とは値の固定ではなく、役割の保存である。AをAとして運ぶ自由度が、自分の役割を失わないまま次の時点へ移れるなら、その自由度はなお最初の百パーセントを保持している。Aという事象が、局所的変化を経ても、Aとしての接続位置を失わないなら、その事象はなお最初の百パーセントを失っていない。


結局のところ、「最初の百パーセント=一回目の可能度を失わない」というのは、Aが一回目の保存形式を保ったまま進んでいるという意味である。Aを通ったことによってAが自動的に減るのではなく、Aを通ることがAの保存を実際化している。Aへの接続が一つの可能度として保たれているなら、そのAは次の時点においても同じAでありうる。そこではAは、まだ自分自身を裏切る別の一回を持っていない。Aは、内部に二個目のサイコロを持たない。Aは、同じ量、同じ可能度のAとして、自己同一的に進み続けることができる。これが、「最初の百パーセントを失わないまま」という表現の具体的な意味なのである。


本節の仮説は、この理解を推し進めたところに存在している。Aを行うことは、Aという可能度をただちに消費することではない。AをAとして通す進行が保存されているなら、そのAは次の時点においても、なお最初の百パーセントの保存値を失っていない。もちろん、それは局所配置や外的条件や進行の位相が変わらないという意味ではない。そうではなく、“AをAとして保つ不変な接続関係が失われていない”という意味である。Aという可能度が九十九パーセントになるとは、Aへの接続の内部に、AをAとして保たない差が一パーセント分独立してしまうことを意味する。だが、そのような差が独立していないなら、Aはまだ百パーセント保存されている。


この百パーセント保存は、第一章以来繰り返し区別してきたように、結果保証ではなく、保存保証である。Aが必ず結果として成立するというのではなく、Aへの接続が、次の時点に至るまでに自分自身の内部で裂けていないということが百パーセントなのである。Aはまだ二個目のサイコロを持たない。Aはまだ、AをAとして通す一回の内部にいる。だからこそ、Aは次の時点においても、最初の一回目の可能度を失わずに保つことができる。


このことは、現在進行度を直線にするということの本当の意味を示している。直線とは、幾何学的な最短経路でもなければ、時間の均等な流れでもない。現在進行度が直線であるとは、Aへの可能度が、次の時点へ進んでも、自らを不可能化する別の一回を内部に立ち上げず、同じAとして保たれていることである。Aは一回ごとに再起動されるのではない。Aは一回目の内部で進みつづける。二個目のサイコロがなければ、Aは一回目のままで十分である。ゆえに、AはAを行った後も、次の時点において九十九パーセントに減少することなく、最初の百パーセントを保ったまま進むことができる。


この見方をさらに厳密にするためには、「ランダムの一回」とは何かを定義しなければならない。ランダムの一回とは、Aへの進行の内部に、AをAとして保存しない独立した決定単位が立ち上がることを意味する。そのとき、Aは自らの進行の内部に、AをAとして行える一回と、AをAとして行えない一回を同時に持つことになる。これがランダムの一回である。重要なのは、ランダムの一回とは、単に予測できないことではないという点である。予測できないことは、現在進行の表面的な見かけでありうる。だが、本節が問うているランダムとは、Aへの可能度が内部に二つ目の決定構造を持っているかどうかである。


本節の仮説は、このようなランダムの一回はまだ存在しない、と言う。Aへの可能度が一つであるかぎり、ランダムの一回は立ち上がらない。AはAとして進み、AをAとして進めない別の一回は、まだ独立したものとして存在しない。この意味で、世界にはまだランダムの一回がない。ランダムの一回がないからこそ、世界にはまだ二個目のサイコロもない。Aは一回目のままであり、その一回目はまだ自分自身を失っていない。


このことを、「AからAをできない一回目に無いことを、ある有限時間内にこそ一対一にすることができる」という命題として表すことができる。ここで一対一とは、Aと結果の一対一対応ではない。Aへの可能度が、AをAとして保つ一つの保存単位として、なお一つでありつづけるという意味である。AからAをできない一回がないなら、Aはまだ一つの単位である。その一つの単位が、有限時間内において保持されているかぎり、Aは一対一である。


この一対一性は、Aが常に一つの結果へ落ちるという意味ではない。そうではなく、Aへの可能度が、内部で二重化していないという意味である。Aを通す接続と、Aを通さない接続が独立していないなら、Aは一つである。Aが一つであるかぎり、その保存は一対一である。したがって、「AからAをできない一回目に無い」ということは、そのまま「Aが一対一に保存されている」ということを意味する。


この仮説をさらに推し進めると、世界にはまだ「連続して通れないA」がない、という命題に到達する。ここでいう「連続して通れないA」とは、AをAとして通す可能度が、進行の途中で連続的に自らを否定し、AをAとして維持しない別の可能度を生みつづける状態である。もし世界にそのようなAがあるなら、Aは現在内部で一つの保存単位ではない。Aは進むたびに自らを失う。すると、Aはもはや純粋な現在性の内部にはいない。


本節の立場は、世界にはまだそのようなAはない、というものである。Aはまだ、AをAとして通すことのできる一つの可能度である。Aが結果として成立しないことはありうる。しかし、そのことは、Aへの可能度が現在内部で連続して通れないものだったことを意味しない。Aを通れない一回が独立して立ち上がらないかぎり、Aはなお一つの可能度である。ゆえに、世界にはまだ連続して通れないAがない、ということになる。


ここで、本節全体の論理を整理することができる。


第一に、現在進行度とは、Aへの可能度が一つの保存単位として保たれている進行形式である。

第二に、その内部に「AをAとして通せない一回」が独立して立ち上がるなら、Aはすでに内部で分裂しており、一回目の内部に二個目のサイコロがあることになる。

第三に、本節の仮説では、そのようなランダムの一回、二個目のサイコロはまだ存在していない。

第四に、AからAをできないとは、Aが結果として不成立であることではなく、Aへの可能度がAをAとして保存できない別の一回を内部に持つことを意味する。

第五に、そのような一回がないなら、Aは同じ量、同じ可能度のAとして保存されており、真の意味である一つの位置をまだ失っていない。

第六に、その場合、Aを行った後も、そのAという可能度は次の時点で九十九パーセントに落ちず、最初の百パーセントを失わないまま、現在進行度を直線にすることができる。

第七に、この意味で、世界にはまだ一回で可能にできない自由度はなく、AからAをできない一回目に無いことを、有限時間内において一対一の保存として理解することができる。


この結論によって、本節の二つの主題、「ランダムの一回のなさ」と「二個目のサイコロのなさ」は一つの理論に統合される。ランダムの一回がないとは、Aの内部に独立した不可能度が立ち上がっていないということである。二個目のサイコロがないとは、AをAとして進める一回目とは別の試行単位が、現在内部でまだ成立していないということである。両者は同じ構造を別の側から言い表したものにほかならない。


そして、このことが成立するかぎり、Aはまだ一つの可能度として保存されている。Aは一回目を失っていない。AはAをAとして保つ位置を失っていない。Aは一パーセントの不可能度へ落ちていない。そのため、Aは次の時点においてもなお最初の百パーセントを保ち、現在進行度を直線として進むことができるのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ