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現在とは


【第二章】



■ 第一節 現在とは何か


——動ける時間、距離、運動量、そして「できない一回」を生まない現在性について——



第二章で問われるべき中心問題は、「現在」とは何か、という問いである。ただし、ここでいう現在とは、単に時計の針が指している時刻のことではない。また、過去と未来のあいだに挟まれた無幅の瞬間のことでもない。本章で問題になる現在とは、ある事象Aがまだ結果として固定されていないにもかかわらず、Aへ向かう運動、距離、時間、自由度、可能度がなお保存されている有限な接続領域である。


第一章では、「可能」とはAが現在からまだ排除されていないことであり、「可能度」とはAが現在からどこまで直線的に保存されているかを示す概念であると整理した。さらに、Aへの経路上に「通れない一点」がまだ成立していないかぎり、Aは純粋な可能として現在に属している、と述べた。したがって第二章では、この「現在に属している」という表現の中身を明らかにしなければならない。


Aが現在に属するとは、どういうことなのか。

現在においてAが可能であるとは、何が保存されていることなのか。

現在は、どこからどこまでを含むのか。

現在は一点なのか、幅なのか、場なのか。

現在に至るまでの運動は、すでにできることとできないことを二分しているのか。

それとも、現在とは、まだ二つ目の選択を生んでいない接続保持領域なのか。


本節は、この問いを基礎から組み立てる。




一 現在を「瞬間」としてではなく「接続領域」として問う


通常、現在は、過去と未来の境界として理解される。過去はすでに終わったもの、未来はまだ来ていないもの、現在はそのあいだにある点である。この理解では、現在はほとんど無幅の切断面として扱われる。時計の針がある時刻を示すように、現在は「今ここ」として一点化される。


しかし、この理解には重大な問題がある。もし現在が完全な一点であるならば、私たちはその現在の中で何も動くことができない。なぜなら、動くためには時間幅が必要だからである。手を伸ばすにも、視線を移すにも、判断するにも、音を聞くにも、思考を形成するにも、必ず微小な時間幅が必要である。完全な無幅の一点には、運動も、変化も、判断も、選択も、可能性も成立しない。


したがって、現在を単なる一点として理解するだけでは、「現在において何が可能か」という問いに答えることができない。現在においてAが可能であるというためには、現在は少なくともAへの接続を保持するだけの幅を持たなければならない。ここでいう幅とは、単なる時計上の長さではない。Aへ向かう運動、距離、情報、自由度、可能度が保存されるための接続幅である。


この意味で、本論文における現在は、次のように定義される。


現在とは、Aが結果へ分割される以前に、Aへの運動と可能度が有限時間内で保存されている接続領域である。


この定義では、現在は点ではない。現在は、過去と未来を切り分ける刃ではない。現在は、AがまだAとして結果化されず、同時に非Aへも切断されていない状態を保持する場である。つまり現在とは、Aがまだ動ける場所であり、Aへの経路がまだ通れるかどうかを問う領域である。


ここで重要なのは、現在が無限ではないという点である。現在が無限であれば、Aと非Aの区別は失われる。どこまでも現在が広がるならば、あらゆるものが現在に含まれ、AがAであるための限定がなくなる。したがって、現在は有限でなければならない。しかし、現在が完全な一点であれば、Aへの接続は失われる。したがって、現在は有限でありながら、なお未分割の接続領域でなければならない。


この「有限でありながら未分割」という性質が、第二章の中心となる。




二 動ける時間と距離は、現在の外側にあるのか


本節の最初の問いは、私たちが“動ける”時間と距離に対して、何が可能であるかを判定するとき、現在に至るまでに「できること」と「できないこと」のランダム性を、必ず一対一で完全に整理しなければならないのか、という問題である。


より直接的に言えば、現在にぶつかる一定の時間内、一定の運動量、一定の距離に対して、「できないこと」を必ず作らなければ、Aを可能にすることはできないのか、という問題である。サイコロの目を一にすることを例にすれば、サイコロの目を一にするためには、同時に「一にならない」という不可能性、あるいは「一にできない一回」を現在内部に作らなければならないのか、という問いである。


ここで問われているのは、できることとできないことが、現在に至るまでの運動の中で必ず二つに分かれなければならないのか、という点である。もし、Aを可能にするために、必ず非Aを一個作らなければならないのだとすれば、現在は最初から分割された領域である。Aができるためには、Aができない側も同時に成立していなければならないことになる。この場合、現在は、Aができる現在とAができない現在を同時に持つことになる。


しかし、本論文はここで慎重に問う。Aができることと、Aができないことを、現在に至るまでに必ず一対一で完全に分ける必要があるのだろうか。あるいは、AがまだAとして直線的に保存されているかぎり、Aができない一回を作らずに、Aへの可能度を保持することができるのではないか。


この問いに答えるためには、現在に対して「一回動けない」あるいは「一回進めない」量子状態の有無が、現在の外側に依存しているのか、それとも現在の内側に何かを残しているのかを区別しなければならない。


もし、「動けない一回」が現在の外側にあるならば、それは現在内部の可能度を直接切断しない。つまり、Aが今この現在で通れないということにはならない。外側にある限界は、現在に対する条件であり、接続の範囲を制約するが、現在内部でAを非Aへ分裂させるとは限らない。


しかし、「動けない一回」が現在の内側に存在するならば、状況は異なる。現在内部に「Aへ進めない一点」があるならば、現在はすでに未分割ではない。そこには、Aへ向かう接続と、Aへ向かえない断絶が同時に存在していることになる。その場合、現在はAに対して二つ目の選択を持っている。Aができる一回と、Aができない一回が、現在内部に分かれていることになる。


したがって、現在を考えるうえで重要なのは、現在の内部に何が残っているかである。現在の内側に残っているものがAへの接続であるならば、Aはまだ可能である。現在の内側に残っているものがAへの断絶であるならば、Aはすでに不可能度を持つ。現在とは、この二つを判定するための場ではなく、その判定がまだ一個の断絶として成立しているかどうかを問う領域なのである。




三 現在における「できないこと」は、どこまで判定できるのか


私たちの常識では、現在に至るまでの距離や運動量に対して、できないことがどこまであるのかを完全に判定することはできない。私たちは、ある程度の予測を立てることはできる。ここまでなら届く、ここから先は難しい、この時間内なら可能かもしれない、この条件では無理かもしれない、と判断することはできる。しかし、その判断は、Aへの接続の全体を完全に一対一で保存したものではない。


なぜなら、現在は、結果後の一覧表ではないからである。現在には、まだAが結果として切り出されていない運動が含まれている。現在には、まだAと非Aが完全には分かれていない自由度が含まれている。したがって、現在において「何ができて、何ができないか」を、一回以内に完全に二分化することはできない。


ここで問題になるのは、現在の運動領域の上界である。上界とは、ある範囲の最大限界を意味する。現在においてAへ向かう運動がどこまで保存されているのか、その接続の上限はどこにあるのか、という問いである。もし現在の運動領域の上界を完全に一対一で決定できるならば、現在がどこまで続き、どこから過去になり、どこから未来になるのかを直接的に確定できるように見える。


しかし、ここには困難がある。現在の運動領域の上界は、二つ目の過去や二つ目の未来を作ることができない。つまり、現在は、自分自身の内部に「もう一つの過去」と「もう一つの未来」を完全に分けて持つことができない。もし現在の内部に、すでに一つ目の現在と二つ目の現在、あるいは現在に属する過去と現在に属する未来が完全に分かれて存在しているならば、現在は未分割ではなくなる。


このため、「現在がどこにあるのか」「いつ区切られているのか」を、直接的な一秒、あるいは百パーセントの一点として確定することはできない。時計は現在を指すことができる。しかし、時計が指す現在は、運動が可能度として保存されている現在そのものではない。時計の時刻は、現在を測るための外部的な形式であり、現在内部のAへの接続がどこまで保存されているかを完全に示すものではない。


サイコロの出る目の確率が、ある時刻において完全に決定していると考えるならば、現在はすでに結果候補へ分割されていることになる。つまり、「現在のこの一秒において、一が出る確率はこれだけであり、一が出ない確率はこれだけである」という形で、Aと非Aが一対一で分けられている。しかし、本論文の立場では、そのような決定を現在内部にそのまま置くことはできない。現在は、結果確率の完成表ではなく、可能度がまだ未分割に保存されている場だからである。




四 サイコロの目を一にする時間は、現在の中にあるのか


もし、現在に対して「サイコロの目が一になる」という距離や時間量が存在しているとすれば、その連続的な運動の上界に対して、「サイコロの目が一にならない」という確率、あるいは可能度の限界も一対一で算出できるはずである。つまり、一になる運動の範囲が完全にわかるならば、一にならない範囲も完全にわかるはずである。


しかし、ここで問題が生じる。現在に対して、一回でも百パーセント出すことができないサイコロの目がある場合、私たちは「現在と現在の区切り」の中で、すでに現在があるという事態を認めなければならなくなる。つまり、現在の内部に、Aができる現在とAができない現在を分けるもう一つの現在が存在することになる。


これは、現在の定義に深刻な困難をもたらす。なぜなら、もし現在の内部にさらに現在を区切る点があるならば、どこまでが現在なのかを永久に知ることができなくなるからである。現在を一点として定義しようとすると、その一点が運動を含めないため、可能性が成立しない。現在を幅として定義しようとすると、その幅のどこでAができるか、どこでAができないかをさらに問わなければならない。そうすると、現在の内部にさらに区切りが必要になり、その区切りの内部にもまた区切りが必要になる。


この無限後退を避けるためには、現在を「結果を完全に分ける境界」としてではなく、「Aへの接続が保存されている有限領域」として理解しなければならない。つまり、現在とは、Aができるかできないかを百パーセントで分ける一点ではない。現在とは、Aへの運動がまだ通れるものとして保存されているかどうかを問う場である。


この理解に立つならば、サイコロの目を一にする時間は、現在の中に固定された結果点として存在するのではない。むしろ、サイコロの目を一にする可能度が、現在の中でどれだけ保存されているかが問題になる。現在は、一が出る点と一が出ない点をあらかじめ持つのではない。現在は、一へ向かう運動がまだ一へ向かうものとして保存されているかどうかを含んでいる。


ここで、現在の位置と間隔を、ある一定の区間内に落とし込むことができるのではないか、という問いが生じる。もし現在を完全な一点ではなく、一定の区間として理解するならば、現在に保存できる情報を、百パーセントの一回の外へ逃がさずに保持できるのではないか。すなわち、現在を有限幅の保存領域として理解することで、Aへの可能度を完全に外部へ流出させず、現在内部に保持できるのではないか、という問いである。


この問いは重要である。現在を無幅の一点と考えると、Aへの運動は現在の外へ逃げる。現在を無限の幅と考えると、Aと非Aの区別が失われる。したがって、現在は有限の区間として考えられなければならない。ただし、その区間は時計上の単純な長さではなく、Aへの運動と情報が保存される接続区間である。




五 現在に対して動ける位置は、なぜランダムに見えるのか


私たちが一方向に向かって運動するとき、現在に対して動ける位置は、すでにランダムであるように見える。なぜなら、私たちは、次の瞬間に自分がどこまで進めるか、どの位置へ到達するか、どの運動量を持つかを、百パーセント確定することができないからである。微小な身体の揺らぎ、環境の変化、判断の遅れ、摩擦、抵抗、情報の不足、測定の限界などが、現在に対して動ける位置を不確定にする。


しかし、ここで注意しなければならない。現在に対して動ける位置がランダムに見えることと、現在の内部に「百パーセント動けない一点」が存在することは同じではない。予測できないことは、動けないことではない。不確定であることは、不可能であることではない。ランダムに見えることは、真の乱数であることではない。


したがって、問われるべきなのは、現在に向かって進もうとするとき、なぜ「百パーセント進めない一点」があるにもかかわらず、現在に対して一対一対応で動き続けることができない一回を、ある有限時間内に介入させてしまうのか、という問題である。


これは言い換えれば、私たちはなぜ、現在における不確定性を、すぐに「動けない一回」として解釈してしまうのか、という問題である。現在の位置が百パーセント確定できないからといって、そこに必ず「進めない一点」があるわけではない。現在の運動量が完全に測定できないからといって、そこに「動けない一回」が存在するわけではない。むしろ、それは現在がまだ結果へ点化されておらず、可能度として保存されていることの表れである可能性がある。


現在が存在しているか、存在していないかに関わらず、時間が進める方向は一回である。この一方向に対して、百パーセントの運動や位置を確定することができない。ここから、現在の進む方向に対してランダムに動き続ける一回目が、現在の総自由度を分割し続けてしまう、という問題が生じる。つまり、現在に至った時点ですでに「二分の一動けない一回」が介在してしまうのではないか、という問題である。


ここでいう二分の一は、厳密な確率ではない。第一章で述べたように、それはAができる一回とAができない一回へ二分されることの象徴である。現在の進む方向に対して、もしランダムな一回目が常に介在するならば、現在はそのたびに、動ける側と動けない側へ分裂する。すると、現在は常に不可能性を含むことになる。Aはまだ結果になる前から、Aができない一回を持つことになる。


本論文は、この結論をただちには受け入れない。なぜなら、それは現在の不確定性を、現在内部の不可能性と取り違えている可能性があるからである。現在に対して位置を百パーセント確定できないことは、現在が一対一で動き続けることを不可能にするとは限らない。むしろ、百パーセント確定できないからこそ、現在はまだ点へ閉じておらず、Aへの可能度を保存しているとも考えられる。




六 現在に近づくほど「動けなくなる幅」が大きくなるという問題


現在に近づけば近づくほど、動けなくなる幅や距離が大きくなるように見える、という問題がある。これは直観的には奇妙である。現在に近づくならば、むしろ確定性が増すように思える。未来よりも現在の方が近く、遠い未来よりも直近の現在の方が把握しやすいはずである。しかし、現在を無幅の一点として考えると、現在に近づくほど、運動のための時間幅は消えていく。時間幅が消えれば、動くことは難しくなる。完全な現在には、運動できる余地がない。


このため、現在に近づくほど、動けなくなる幅が大きくなるように見える。現在が一点化されるほど、Aへの接続は切り詰められ、Aを実行するための距離や時間が失われる。すると、サイコロの目が一になるという時間に向かって、百パーセントの時間差が生じてしまう。つまり、一が出る現在と、一が出ない現在の差が、現在の一点化によって強調される。


この状態では、一対一対応でできることとできないことの差が永久に広がってしまう。現在を一点として捉えれば捉えるほど、Aができるための時間幅は失われ、Aができないという判定が強まる。これは、現在の概念にとって致命的である。なぜなら、現在が現在として成立するためには、Aへの接続が保存されていなければならないからである。現在に近づくほどAへの接続が失われるならば、現在は可能性を保持する場ではなく、不可能性を生む断絶点になってしまう。


この問題を避けるためには、現在を無幅の点としてではなく、有限の接続領域として理解する必要がある。現在に近づくとは、Aへの接続が点へ押し込められることではない。現在に近づくとは、Aへの接続がより具体的な運動として保存されることである。現在は、Aを動けなくする点ではなく、Aがまだ動ける範囲を保持する場でなければならない。


この意味で、現在に対してAができるかどうかを問うとき、私たちはAが百パーセント確定されるかどうかを問うのではなく、Aへの接続がまだ切断されていないかどうかを問わなければならない。Aが百パーセント確定されていないからといって、Aが不可能になるわけではない。むしろ、Aが百パーセント確定されていないことは、Aがまだ結果へ閉じておらず、可能度として保持されていることを意味しうる。




七 電子の位置、九十九パーセントの不規則性、そして現在の総自由度


現在に至った時点で、電子の位置を九十九パーセント以内でランダムに途切れさせてしまうことは、現在がある有限時間内に百パーセントの状態を持つことができないという九十九パーセントの不規則性へ分岐することを意味するように見える。つまり、現在が完全な一回として保存されないならば、現在は不規則性へ分かれてしまうように見える。


しかし、ここでも注意が必要である。電子の位置が確率的に記述されることと、現在が不可能性へ分岐していることは同じではない。位置が確定していないことは、位置が存在しないことではない。位置が確率的にしか表せないことは、電子の運動が真の乱数によって断絶していることを意味しない。少なくとも、本論文の立場では、位置の不確定性は、現在の可能度が点へ閉じていないこととして理解されるべきである。


問題は、現在の総自由度の限界が、現在に向かって進行する運動の幅や方向と、百パーセント一致できないという点にある。私たちは、現在におけるすべての自由度を、現在に向かう運動の方向と完全に一致させることができない。運動は揺らぎ、情報は欠け、位置は不確定であり、自由度は分布している。そのため、現在の総自由度は、常にある程度のずれを含む。


このずれをどう理解するかが重要である。もし、このずれをただちにエントロピーの増大、すなわち現在の一回が不規則性へ分解されていくこととして理解するならば、現在は常に分裂へ向かう。現在が進むたびに、できることとできないことの差が広がり、Aへの一回は分割されていく。すると、現在はAを保存する場ではなく、Aを分解する場になる。


しかし、ずれがあることは、必ずしも断絶を意味しない。現在の総自由度が百パーセント一致しないことは、現在がまだ完全な結果点へ閉じていないことを意味する。現在は、運動の幅、方向、情報、可能度を含む場であり、その場が一点化されていないために、自由度のずれが現れる。このずれは、可能度の消滅ではなく、可能度がまだ未分割に保持されていることの表れである可能性がある。


したがって、現在の総自由度の限界を考えるとき、重要なのは、その限界がAへの接続を切断しているのか、それともAへの接続を有限な範囲で保存しているのかを区別することである。エントロピーの増大として見えるものが、必ずしもAの不可能性を意味するわけではない。むしろ、現在の自由度が点へ閉じられず、複数の接続を保持しているために、結果前の広がりとして現れている可能性がある。




八 現在が進行することと、サイコロの目が一になるタイミング


現在が進行することと、サイコロの目が一になるタイミングは、どのように関係するのか。現在が進むにつれて、サイコロは投げられ、回転し、衝突し、静止へ向かう。その過程で、サイコロの目が一になる可能度は変化する。手から離れる前、空中にある間、床に当たった瞬間、跳ね返った後、静止する直前では、一へ向かう可能度は同じではない。


しかし、この変化をただちに「できること」と「できないこと」の差が広がることとして理解してよいのだろうか。たしかに、時間が進むにつれて、ある結果へ向かう経路は絞られていくように見える。サイコロが静止に近づくほど、出る目は限定される。一が出る可能性も、ある時点で強まり、別の時点で弱まる。最終的に一が出なければ、一は出なかったことになる。


しかし、ここで本論文が問うのは、どの時点で「一が出ない一回」が現在内部に成立したのかである。一が出なかったという結果後の事実は、一が出ない不可能性が最初から現在内部に存在していたことを意味しない。一が出ない方向へ運動が変化したとしても、その変化がいつ、一への接続を完全に切断したのかを問わなければならない。


現在が進行するにつれて、できることとできないことの差が広がってしまうことを許容するならば、電子の向きやサイコロの目のような事象が、ある一定の範囲内で確率的に変化していることを許容することになる。このこと自体は問題ではない。問題は、その確率的変化を、Aへの運動が途切れることと同一視してしまう点にある。


時間が進む方向に対して、その時間量に応じて電子の向きがランダムに変わると考えるならば、相対的にサイコロの目を一にすることができない一回目に、運動が途切れてしまうことになる。つまり、Aへの運動は、ある時点でランダムな変化によって切断され、Aができない一回が生まれることになる。


本論文は、この理解を慎重に扱う。電子の向きが確率的に変化すること、サイコロの状態が不確定に変化すること、現在の自由度が完全には一致しないことは、Aへの直線性が断絶していることをただちに意味しない。不確定性は、ランダムな断絶ではなく、可能度がまだ点化されていない状態である可能性がある。


したがって、現在が進行するとは、Aへの接続がランダムに途切れることではない。現在が進行するとは、Aへの可能度が、有限な接続領域の中で変形しながら保存されることである。Aが最終的に成立しなかったとしても、そのことは、Aへの運動が現在内部で最初から途切れていたことを意味しない。Aができない一回が成立したかどうかは、Aへの経路がいつ、どのように切断されたかを分析することで初めて問われる。




九 現在において連続して動けない範囲は、現在のランダムな範囲を生むのか


現在に対して、ある一定の時間内に連続して動けない範囲や距離が存在するならば、それはそのまま「現在」の直接的なランダムな範囲や時間量を出現させる回数にも影響を与える。この命題は、現在の理論にとって非常に重要である。


もし、現在の中に連続して動けない範囲があるならば、その範囲はAへの接続を制約する。制約が強ければ、Aへの可能度は弱まる。動けない範囲が一個の固定点として成立するならば、Aはそこで不可能度を持つ。すると、現在はAを保存する場であると同時に、Aを分割する場にもなる。


しかし、本論文は、連続して動けない範囲をすぐに固定的な不可能性として扱わない。動けない範囲があるように見えることと、現在内部にAを通せない一点が物理的に真として存在することは区別されなければならない。Aがある時間内に動けなかったとしても、それはAへの接続が完全に断絶していたことを意味するとは限らない。Aへの接続が変形していたのか、弱まっていたのか、別の経路を必要としていたのか、判定上動けなかったと読まれただけなのかを分析しなければならない。


ここで、現在のランダムな範囲とは何かが問題になる。現在がランダムな範囲を持つとは、現在がどこまで続き、どこで区切られ、どの位置にAがあるのかを完全に確定できないということである。しかし、これは現在が無秩序であるという意味ではない。現在のランダム性は、現在がまだ結果へ点化されていないこと、Aへの接続がまだ一つの判定点へ収束していないことを示している可能性がある。


したがって、現在におけるランダム性は、二つに分けて考える必要がある。


第一に、認識上のランダム性である。

これは、私たちが現在の位置、運動量、自由度、可能度を完全に把握できないことによって生じる。


第二に、存在論上のランダム性である。

これは、世界そのものがAへの接続を持たず、Aが真の乱数として断絶的に現れることを意味する。


本論文が警戒するのは、第一のランダム性を第二のランダム性として誤認することである。私たちが現在を完全に測定できないからといって、現在が真にランダムであるとは限らない。Aへの接続を完全に計算できないからといって、Aへの接続が存在しないとは限らない。現在が曖昧に見えるからといって、現在がAを不可能性へ分割しているとは限らない。


この区別を踏まえるならば、現在とは、ランダムな断絶の場ではなく、未確定な接続保存の場である。現在は、Aを結果として点化していないために不確定である。しかし、その不確定性は、Aへの可能度が保存されていないことを意味しない。むしろ、現在はAをまだ結果へ閉じていないからこそ、Aへの可能度を保持できるのである。




十 現在とは、何を残しているのか


ここまでの議論を踏まえると、第二章第一節の中心問題は、現在の内側に何が残っているのか、という問いに収束する。


現在の内側に、結果が残っているのではない。結果は現在から切り出される。

現在の内側に、確率表が残っているのでもない。確率は結果候補が分割された後に与えられる。

現在の内側に、完成した可能性の一覧が残っているのでもない。選択肢は現在の後から切り出される。


では、現在には何が残っているのか。


現在に残っているのは、Aへの接続である。

Aへの運動である。

Aへ向かう自由度である。

AをAとして保存する可能度である。

そして、Aを不可能にする一回がまだ成立していないという未分割性である。


現在とは、この未分割性を保持する領域である。現在が現在であるためには、Aへの接続が完全に過去へ流れ去っていてはならない。同時に、Aが完全に未来へ延期されていてもならない。現在は、過去から受け取った接続を未来へ向けて保存する場である。しかし、その保存は結果として固定されていない。現在は、Aをまだ判定していない。現在は、Aをまだ非Aへ切断していない。現在は、Aをまだできない一回として数えていない。


したがって、現在とは、Aがまだ通れるかどうかを保持している有限な場である。


ここで、「現在に至るまでにできることとできないことのランダム性を一対一にすることを、必ずしも百パーセントにしなければならないのか」という最初の問いに戻ることができる。答えは、必ずしもそうではない。現在において必要なのは、できることとできないことを百パーセントに分けることではない。必要なのは、Aへの接続がまだ保存されているかどうかを問うことである。


サイコロの目を一にするために、必ず「一にならない一回」を同時に作る必要はない。AがAとして直線的に保存されているかぎり、Aはまだ非Aへ切断されていない。Aが非Aへ切断されていないかぎり、現在はまだ二つ目の選択を持たない。現在がまだ二つ目の選択を持たないならば、Aはまだ純粋な可能として現在に属している。




十一 第二章第一節の基礎命題


本節の議論を、基礎命題として整理する。


第一に、現在は無幅の一点ではない。

現在とは、Aへの可能度が有限時間内に保存されている接続領域である。


第二に、現在は無限の広がりでもない。

現在が無限であれば、Aと非Aの区別は失われる。したがって、現在は有限でなければならない。


第三に、現在が有限であることは、Aが不可能であることを意味しない。

有限性は、Aへの接続の範囲を示すが、Aへの接続が断絶していることを意味しない。


第四に、現在における不確定性は、ただちにランダムな不可能性ではない。

現在の位置や運動量を百パーセント確定できないことは、現在内部に動けない一点があることを意味しない。


第五に、現在において問うべきなのは、Aが百パーセント確定しているかどうかではなく、Aへの接続がまだ切断されていないかどうかである。


第六に、できないことを現在内部に一個作らなければ、Aが可能にならないわけではない。

Aが可能であるとは、Aが非Aへ切断されていないことであり、Aができない一回を同時に持つことではない。


第七に、現在の総自由度が百パーセント一致しないことは、現在の破綻ではなく、現在がまだ結果へ点化されていないことの表れである。


第八に、現在とは、Aがまだ結果へ切り出されていないにもかかわらず、Aへの運動と自由度が保存されている場である。


この八つの命題によって、第二章の出発点が定まる。




十二 現在の定義


以上を踏まえ、本節における現在の暫定定義を提示する。


現在とは、ある事象Aが結果として固定される以前に、Aへの運動、距離、自由度、可能度が、有限な接続領域の中でなお保存されており、かつAを不可能にする一回がまだ一個の断絶として成立していない状態である。


この定義において、現在は三つの性格を持つ。


第一に、保存性である。

現在は、Aへの接続を保存する。現在とは、Aがまだ通れるものとして保持されている領域である。


第二に、有限性である。

現在は無限ではない。現在は、Aへの運動や情報が保存される有限な範囲を持つ。


第三に、未分割性である。

現在は、AをできるAとできないAへまだ完全には分けていない。Aを不可能にする一回がまだ成立していないかぎり、現在は未分割である。


この定義によって、現在は単なる時刻ではなく、可能度の場となる。現在とは、時計で測られる一点ではなく、Aへの経路がまだ保存されているかどうかを問う有限な場である。


この現在理解によって、第二章全体の方向性も定まる。今後問われるべきなのは、現在がどのようにAへの接続を保存するのか、現在の幅はどのように理解されるべきか、現在における自由度はどのように測られるべきか、現在が過去と未来をどのように含むのか、そして現在内部に不可能性がどのように生まれるのか、あるいは生まれないのか、という問題である。


本節は、その最初の基礎的な問いを提出した。


現在とは、過去と未来の境界ではない。

現在とは、Aがまだ通れるかどうかを保持している接続領域である。

現在とは、できることとできないことを百パーセントに分ける場所ではない。

現在とは、できないことを一回としてまだ作らないまま、Aへの可能度を保存する場所である。

現在とは、世界がまだ二つ目の選択を持たずにいられる有限な場である。


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