【第一章】概要資料
第一章概要資料
「可能とは何か」
——未分割の現在性、可能度、直線的可能総量、不可能度の基礎構造——
■ 一 第一章全体の位置づけ
第一章の主題は、「可能とは何か」という最も基礎的な問いを、通常の意味での「起こりうること」や「選択肢の一つ」という理解から切り離し、より根本的に、世界の現在性、実在、接続、自由、不可能性の問題として再構築することである。
本論文全体が問うているのは、単に「Aは可能か」「Aは不可能か」という二値的な判定ではない。むしろ問われているのは、Aが結果として成立する以前に、Aは世界の内部でどのような仕方で保存されているのか、また、Aがまだ結果化していないにもかかわらず、Aへ向かう接続が「可能」と呼ばれるのは何によるのか、という問題である。
通常、可能性は、結果候補の集合として理解される。サイコロであれば一から六までの目があり、そのうち一が出ることも、二が出ることも、三が出ることも可能である、と考えられる。ジャンケンであれば、グー、チョキ、パーという三つの候補があり、そのうちどれかを選ぶことが自由である、と考えられる。ある行為についても、成功するか失敗するか、到達するか到達しないか、存在するか存在しないかという二分法によって理解される。
しかし第一章は、このような理解そのものを疑うところから出発する。なぜなら、それらの理解はすべて、すでに世界を結果単位へ分割した後の見方だからである。「一が出る」「一が出ない」「グーを出す」「グーを出さない」「成功する」「失敗する」といった区別は、結果が判定可能になった後には有効である。けれども、それらの区別が、結果以前の現在内部に本当に存在しているかどうかは、別の問いとして扱われなければならない。
第一章の基礎的な立場は、次のように整理できる。
可能とは、分割済みの候補ではない。
可能とは、Aが現在からまだ排除されていないことである。
可能度とは、Aが現在からどこまで直線的に保存されているかである。
可能総量とは、Aへの接続が未分割のまま保持されている総体である。
不可能性とは、Aへの接続が失われていく過程であり、最初から一個の固定点として存在するものではない。
純粋な可能とは、Aへの経路上に、Aを連続できない一回がまだ成立していないことである。
この構造を一つの軸として理解するならば、第一章は「可能」という語を、結果候補、確率、選択肢、主観的期待、偶然性といった通常の枠組みから取り出し、「現在内部に保存される接続の形式」として再定義する章であると言える。
■ 二 可能とは、Aが排除されていないことである
第一章の出発点は、「可能」という語の最小定義である。
可能とは、ある事象Aが、現在の内部からまだ排除されていないことである。
この定義は、一見すると非常に単純である。しかし、この単純さの中に、本論文全体の重要な転換が含まれている。ここで「Aが可能である」とは、Aが必ず起こるという意味ではない。Aが高い確率で起こるという意味でもない。Aが未来にすでに用意されているという意味でもない。Aが可能であるとは、Aが現在から完全に切断されていないということである。
この定義によって、可能は結果ではなく、接続として理解される。Aがまだ起こっていないとしても、Aへ向かう接続が現在の中に残っているならば、Aは可能である。逆に、Aが想像可能であっても、Aへ向かう接続が現在から完全に失われているならば、そのAは単なる抽象的可能性にとどまり、実量を持つ可能とは言えない。
この段階で重要なのは、可能が「現実ではないが、無でもない」という中間的なあり方を持つことである。Aがすでに現実化しているならば、それは可能ではなく結果である。Aが完全に排除されているならば、それは可能ではない。可能とは、この二つの中間にある。しかし、その中間は曖昧な宙づりではない。可能とは、Aがまだ結果ではないが、Aへ向かう接続が失われていない状態である。
ここで、第一章の最初の重要な区別が現れる。
結果としてのAと、可能としてのAは異なる。
結果としてのAは、判定可能な一点を持つ。
可能としてのAは、判定可能な一点をまだ持たないが、Aへ向かう接続を持つ。
したがって、可能とは固定点ではない。可能とは、固定点になりうる方向性である。Aはまだ「Aである」と指し示されていない。しかし、Aが「Aでなくなった」とも言えない。この未判定でありながら接続を持つ状態が、可能の最小形式である。
この理解によって、可能と不可能の関係も変化する。通常、可能と不可能は、二つの対立領域として考えられる。Aは可能であるか、不可能であるか。しかし第一章では、この二分法そのものが問い直される。不可能性とは、現在の内部に最初から置かれた境界ではない。不可能性とは、Aへの接続が失われていく過程である。したがって、Aが可能であるとは、Aを不可能にする一個の断絶点が、現在内部にまだ固定されていないことでもある。
この点が、第一章全体の基礎となる。
■ 三 可能と可能度の差分
可能が「Aが排除されていないこと」であるならば、次に問われるのは、そのAが現在からどの程度接続されているのか、という問題である。
ここで導入されるのが「可能度」である。
可能度とは、Aが現在からどこまで直線的に接続され続けているかを示す概念である。
可能と可能度の違いは、次のように整理できる。
可能は、Aが排除されていないことを示す。
可能度は、Aへの接続がどれほど保存されているかを示す。
可能は、最小条件である。
可能度は、その条件がどれほど実量を持つかを問う。
可能は、Aがまだ世界から除外されていないことを示す。
可能度は、Aが現在からどの範囲で、どの強度で、どの有限時間内に、どのような直線性を保っているかを示す。
この区別が必要になるのは、単に「Aが可能である」と言うだけでは、Aの実在的な厚みを説明できないからである。たとえば、ある遠い未来の出来事が論理的には可能であるとしても、現在からその出来事へ向かう具体的な接続がほとんど存在しないならば、その可能性は実量としては弱い。反対に、まだ結果として現れていなくても、現在の条件がほとんどAへ向かって保存されているならば、そのAは強い可能度を持つ。
ここで「直線的」という語が重要になる。直線的とは、幾何学的にまっすぐであることではない。直線的とは、Aへの接続が、途中で「できる」と「できない」に不可逆的に分裂せず、Aとしての方向性を保っていることである。したがって、可能度とは、Aへの直線的保存の度合いである。
このとき、可能度は確率とは異なる。確率は、すでに分割された結果候補に対して与えられる。サイコロで一が出る確率が六分の一であると言うとき、世界はすでに一、二、三、四、五、六という六つの結果に分割されている。しかし可能度が問うのは、その分割以前である。サイコロがまだ振られていない現在において、本当に世界は六つの結果へ分割されているのか。あるいは、まだ未分割の可能総量として保存されているのか。この問いが、確率と可能度を分ける。
可能度は、結果候補の比率ではない。
可能度は、現在からAへ向かう接続の保存量である。
この定義によって、可能は単なる論理的開放ではなく、実在へ接近する接続構造として理解される。Aが可能であるというだけでは、Aはまだ薄い。Aが可能度を持つとき、Aは現在内部に保存された接続として、より強い存在論的意味を持ち始める。
■ 四 存在としての直線性と可能な事象の素量
可能度を理解するためには、Aがどこからどこへ向かう接続として成立しているのかを問わなければならない。
ここで重要になるのが、「何から何ができるか」という問いである。
通常、可能性は「何ができるか」という形で語られる。しかし第一章では、それだけでは不十分である。なぜなら、Aが可能であるとは、必ず「ある現在状態SからAが可能である」という構造を持つからである。Aはそれ自体として抽象的に可能なのではない。Aは、ある状態から、ある条件のもとで、ある時間幅の中で、ある経路を通って可能である。
この構造を捉えるために、「可能な事象の素量」という概念が導入された。
可能な事象の素量とは、ある現在状態Sから、ある事象Aへ向かう接続が、Aとしての方向性を失わずに保存されている最小の連続単位である。
ここでの素量は、物理的粒子のような離散的単位ではない。それは結果として数えられる一個ではなく、接続として保存される一個である。つまり、AがAへ向かうための最小の接続形式である。
この素量には、少なくとも五つの特徴がある。
第一に、起点性である。
可能な事象の素量は、必ずある現在状態Sから始まる。起点を持たない可能は、実量を持たない抽象的可能性にとどまる。
第二に、方向性である。
素量は、必ずAへ向かう。何へ向かうかわからない接続は、Aの可能度を構成しない。
第三に、保存性である。
素量は、SからAへの接続がまだ失われていないことを示す。
第四に、有限性である。
素量は、無限の開放ではない。有限な現在内部において保持される。
第五に、未分割性である。
素量は、結果へ分割された後の単位ではなく、結果以前の接続単位である。
この素量の集合、あるいは総体として理解されるのが「可能総量」である。
可能総量とは、Aへ向かう接続素量が、現在内部にどれだけ保存されているかを示す総体である。
可能総量は、単なる候補数ではない。多くの未来を想像できることは、可能総量が大きいことを意味しない。重要なのは、現在からAへ向かう接続がどれだけ実際に保存されているかである。したがって、可能総量は、候補の数ではなく、接続保存量である。
この理解によって、可能は存在と接続する。Aがまだ結果として存在していなくても、Aへの接続素量が現在内部に保存されているならば、Aは接続存在として存在している。Aは点として存在しているのではなく、方向として存在している。Aは結果として存在しているのではなく、到達可能性として存在している。これが、存在としての直線性である。
■ 五 物理的可能限界を「一」にしないこと
可能総量が有限であるならば、限界がある。世界は無限ではない。身体も時間も情報も運動も有限である。したがって、Aへの接続も無限ではない。
しかし、第一章では、有限性がただちに不可能性を意味するわけではないと考える。
物理的可能限界を「一」にしないとは、限界を一個の不可能性として固定しないことである。
たとえば、腕が届かない場所に物体があるとする。このとき、「今この姿勢のまま腕だけでつかむこと」はできないかもしれない。しかし、それは「その物体をつかむこと」全体が一個の不可能性として固定されたことを意味しない。近づく、道具を使う、時間をかける、他者に頼む、環境を変えるといった経路変形が存在しうる。したがって、ある局所的な限界は、ただちにA全体の不可能性ではない。
ここで重要なのは、限界を結果境界ではなく接続変形として理解することである。
限界は存在する。
しかし、限界はただちに不可能性ではない。
限界は、Aへの接続を変形する条件である。
不可能性は、接続の変形可能性が失われたときに現れる。
この理解において、「できないことを一個にしない」とは、Aがある有限時間内に成立しなかったことを、ただちに一個の不可能性として固定しないことである。Aが結果として成立しなかったとしても、それはAへの接続が完全に失われていたことを意味しない。未達成と不可能性は同じではない。未達成を不可能性へ変えるためには、Aへの接続がどの時点で、どのように失われたのかを示す必要がある。
ここで「世界には動けない一点が無い」という命題が定義される。
世界には動けない一点が無いとは、世界の現在性が、最初から絶対停止点を内部に含むのではなく、有限でありながらなお接続を変形し続ける保存領域として成立していることを意味する。
これは、何でも可能であるという意味ではない。物理的制約がないという意味でもない。むしろ、世界が有限であることを前提にしたうえで、その有限性がただちに一個の不可能性として固定されるわけではない、という命題である。
■ 六 有限な世界と、まだ生まれていない不可能性
第一章の中盤では、次の命題が提示された。
世界は有限であるが、世界はまだ「できないことが存在する」という時間を生んでいない。
この命題は、表面的には矛盾して見える。有限であるならば、できないことがあるのではないか。できないことがあるならば、それはすでに存在しているのではないか。しかし第一章では、この推論を退ける。
世界が有限であることは、Aへの接続が無限ではないことを意味する。しかし、Aへの接続が無限ではないことは、Aへの接続がすでに断絶していることを意味しない。有限な接続は、なお接続でありうる。したがって、有限性は不可能性の即時成立ではなく、可能度の保存範囲を示す条件である。
ここで、Aという事象は、固定されてはならないが、保存されなければならないという重要な構造が現れる。
Aを固定するとは、Aを結果として閉じることである。
Aを保存するとは、Aが結果になる以前に、Aへの方向性を失わずに保つことである。
Aが保存されなければ、Aへの接続は非Aへ散逸する。
Aが固定されすぎれば、Aは結果となり、未分割の可能度は失われる。
したがって、Aは固定ではなく保存によって保持される必要がある。この保存されたAを、完全な状態で直線にすることが、可能度の核心である。
Aを完全な状態で直線にするとは、Aを結果として完成させることではない。AがAとしての保存核を失わないまま、現在から未来へ接続され続けることである。Aへの一回が、できるAとできないAへ分裂しないこと。Aが非Aへ完全に切断されないこと。Aが一つの未分割接続として保持されること。これが、Aの直線化である。
この意味で、不可能性のなさとは、Aが無限に開かれていることではない。Aが有限な世界の中で、なおAとして保存されていることである。
■ 七 真の乱数の排除と構造への志向
第一章では、不可能性のなさと並行して、真の乱数の排除という方向性も提示された。
ここでいう真の乱数とは、過去の接続や現在の保存構造から導かれず、Aが完全に無根拠に出現することを意味する。AがAである理由が、世界の連続構造の中に保存されていない場合、Aは結果として現れるかもしれないが、接続存在としては弱い。結果だけがあり、経路がない。判定だけがあり、保存がない。そのようなAは、実在として脆い。
本論文が排除しようとするのは、観測上の不確定性や統計的ばらつきではない。排除されるのは、接続をまったく持たない根源的断絶としての真の乱数である。
この方向性は、リーマン予想との構造的類比によって示された。リーマン予想そのものを哲学的議論で証明することはできない。しかし、素数分布の見かけ上の不規則性の背後に深い構造が存在する可能性は、本論文の方向性と響き合う。すなわち、見かけの乱雑さを、根源的無秩序としてではなく、未読の構造として捉えるという態度である。
この対応において、真の乱数の排除とは、世界に現れる不規則性をすべて否定することではない。むしろ、不規則に見えるものを、ただちに断絶として固定せず、その背後に保存された接続構造があるかどうかを問うことである。
不可能性のなさと真の乱数の排除は、同じ方向を向いている。
どちらも、世界を断絶した点の集合としてではなく、保存された接続の場として理解する。
どちらも、結果のばらつきを、ただちに無根拠なものとして扱わない。
どちらも、AがAとして保存される直線性を問う。
■ 八 超弦的解釈と第一位置の喪失
第一章では、点的存在理解に対する補助的な視角として、超弦的解釈も導入された。
ここでの超弦的解釈は、物理学としての超弦理論を直接展開するものではなく、存在の最小形式を無幅の点ではなく、振動し、広がり、接続を保持する構造として考えるための比喩的・概念的視座である。
点的な存在理解では、Aは「ここにある」か「ここにない」かで理解される。Aが第一位置を持つかどうかが問題になる。しかし、Aがまだ結果として固定されていない現在において、Aは本当に第一位置を持つのだろうか。Aは最初から一点に置かれているのか。それとも、Aはまだ一点としてではなく、振動する接続として保存されているのか。
ここで「一回目の位置の喪失の不確定性」という概念が現れる。
Aがまだ第一位置を持たないことは、Aが無いことではない。Aがまだ一点に局所化されていないことは、Aがランダムであることでもない。Aは、位置以前の振動として保存されうる。Aは、点ではないが無でもない。Aは、固定されていないが崩れてもいない。Aは、まだ結果ではないが、直線的可能総量として保存されている。
この理解によって、不確定性はランダム性と区別される。
不確定性とは、Aがまだ一点に確定されていないことである。
ランダム性とは、AがAである理由を接続の中に持たないことである。
Aが一点に確定されていなくても、Aへの接続が保存されているならば、Aは可能度を持つ。したがって、第一位置の喪失は、Aの喪失ではなく、Aがまだ点へ閉じられていないことを意味する。
ここで否定されるのが、「ランダムで動けない直線」である。これは、AがなぜAになったのかは無根拠でありながら、結果として現れた後には動けない固定点として扱われる理解である。この理解では、Aはランダムに現れ、現れた後に固定される。接続は存在しない。直線性はなく、断絶だけがある。
第一章はこれを否定する。直線性とは、ランダムな結果の固定ではない。直線性とは、Aが結果になる前から、Aへの接続として保持されていることである。
■ 九 空白=可能差と二つ目の選択
第一章後半では、「空白=可能差」という概念が導入された。
空白=可能差とは、Aへ向かう一回分の接続経路が、Aとして保存される経路から外れ、Aではないものへ変更されるために必要となる最小の差である。
ここで重要なのは、差が「結果の違い」ではなく「経路の変更」として理解されていることである。Aが成立した場合と成立しなかった場合の違いは、結果後には明確である。しかし、本論文が問題にするのは、結果以前の現在において、Aへの経路がAではない経路へ本当に変更されているのかという点である。
物理的に真となる空白=可能差が存在しないとは、Aという可能度の基底となる一回分の経路の変更が存在しないことと同値である。
Aへの経路がまだ変更されていないならば、AはまだAとして保存されている。AがまだAとして保存されているならば、AはまだできるAとできないAへ分裂していない。したがって、世界はまだ二つ目の選択を持たないことができる。
ここで「二つ目の選択」とは、単に選択肢がもう一つあることではない。二つ目の選択とは、Aへの一回分の経路が、Aを保存する経路とは別に、Aを保存しない経路として独立することである。つまり、AがAとして進む一回と、AがAとして進まない一回が分離することである。
したがって、世界がまだ二つ目の選択を持たないとは、AがまだAと非Aへ二回化していないということである。Aはまだ一回の連続の内部にある。Aができる一回と、Aができない一回はまだ分離していない。
この概念によって、自由も再定義される。自由とは、選択肢を多く持つことではない。自由とは、Aがまだ二つ目の選択へ分裂していないことである。つまり、Aへの接続がまだ閉じていないことである。
■ 十 Aと非Aの連続場と選択自由の滑らかさ
次に、Aと非Aの境界の問題は、さらに手前へ移された。問題は、Aと非Aの境界がすでに存在しているかどうかだけではない。より根本的には、Aとして選び取られる以前の自由度が、選択において自由に動けるのかという問いがある。
この問いに答えるために、「Aと非Aの連続場」という概念が提示された。
Aと非Aの連続場とは、AがAとして固定される以前に、Aへの方向性と非Aへの方向性が、まだ一個の断絶として分離していないまま保存されている可能度の場である。
この場において、Aは完全な結果ではない。非Aも完全な否定ではない。Aと非Aは、判定後の二値ではなく、現在内部で滑らかに接続されうる方向性として現れる。
ここで「滑らかさ」が重要になる。滑らかさとは、変化が突然の断絶や特異点を生まず、追跡可能な接続として保存されることである。Aへの自由度が滑らかであるとは、Aとして選び取られる以前に、Aへの接続が非Aへ硬く切断されず、Aとしての方向性を保ったまま動けることである。
この議論は、ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさの問題との構造的対応を持つ。ナビエ–ストークス方程式において問われるのは、流体の速度場が有限時間内に滑らかさを失う特異点を生むのかどうかである。可能度論において問われるのは、Aへの自由度の場が、有限時間内にAを非Aへ切断する特異点を生むのかどうかである。
ここで、できないことを一パーセントにしないとは、Aへの自由度の場が、現在に至るまでAを非Aへ切断する微小な特異点を生んでいないことを意味する。
ジャンケンの例では、グーを出す一回とグーを出せない一回を、選択以前に二つへ分けてはならない。手がまだ形を決める前、指の運動、意識、身体、環境、タイミングは連続的に動いている。そこにあるのは、完成した三つの候補ではなく、グー、チョキ、パーへ向かう自由度の場である。この自由度が滑らかに動けるならば、グーを出せない一パーセントは現在内部に固定されていない。
したがって、選択の自由とは、Aか非Aかを選ぶ能力ではなく、Aと非Aへ分かれる以前の自由度が滑らかに動けることである。
■ 十一 純粋な可能と選択差=不可能度
第一章の最後では、最も基礎的な問いへ戻る。
真の意味での純粋な可能とは何か。
それは世界の中に本当に存在しているのか。
それとも可能とは、結果以前の未判定状態を人間が誤認しているだけなのか。
この問いに対して、第一章は単純な実在化も単純な否定も選ばない。可能は、結果対象として存在するわけではない。Aがまだ起こっていない以上、Aは結果としては存在していない。しかし、可能は単なる認識上の見かけでもない。なぜなら、Aへの経路が現在内部に保存されているならば、その経路保存は世界の構造に属するからである。
したがって、純粋な可能とは、結果としてのAではなく、Aへの経路がAとして保存されていることである。
ここで問われるのは、仮に世界に一つの経路Pが存在した場合、その経路に沿って「通れない一点」が存在するのかという問題である。
もしPの内部に、Aを連続できない一点があるならば、Aへの経路はそこで断絶する。そのとき、Aは不可能度を持つ。もしそのような一点が存在しないならば、Aへの経路はまだ通れるものとして保存されている。Aは純粋な可能として現在内部に残っている。
ここで導入されたのが「選択差=不可能度」である。
選択差とは、Aとして保存される経路と、Aとして保存されない経路とのあいだに生じる差である。
不可能度とは、その選択差が、Aを通せない一回として実量を持つことである。
つまり、Aへの経路において、Aを連続できない一回が成立するならば、選択差=不可能度が生まれる。このとき、Aはできる経路とできない経路へ分裂する。象徴的に言えば、現在進行形において「二分の一できない一回」が存在してしまう。ここで二分の一とは確率ではなく、Aの一回が、できる側とできない側へ二分されたことを意味する。
この問いが重要なのは、Aができなかったという結果だけでは、選択差=不可能度が現在内部に存在していたことを示せないからである。結果後にAが成立しなかったとしても、Pの内部に最初から通れない一点があったとは限らない。Aへの経路が変形したのか、弱まったのか、判定形式が変わったのか、接続が失われたのかは、個別に分析されなければならない。
したがって、純粋な可能とは、Aへの経路上に、Aを連続できない一回がまだ成立していないことである。
この定義により、可能と存在は経路を通じて結びつく。
Aが可能であるとは、Aへの経路がまだ通れることである。
Aが存在するとは、Aへの経路がAとして保存されていることである。
Aが不可能になるとは、その経路に通れない一点が成立することである。
■ 十二 第一章全体の一本の論理軸
第一章の全体は、次の一本の論理軸として整理できる。
まず、可能とは、Aがまだ現在から排除されていないことである。これは可能の最小定義である。しかし、この定義だけでは、Aがどの程度現在と接続しているのかはわからない。そこで、Aが現在からどれだけ直線的に保存されているかを示す概念として可能度が導入される。
可能度を理解するためには、Aを孤立した候補としてではなく、ある現在状態SからAへ向かう接続として考えなければならない。この接続の最小単位が、可能な事象の素量である。その総体が可能総量である。Aへの可能総量が保存されているかぎり、Aは結果ではなく接続存在として存在する。
しかし世界は有限である。有限であるならば、限界がある。けれども、限界はただちに不可能性ではない。限界は接続の変形であり、不可能性は接続が失われたときに現れる。したがって、物理的可能限界を一個の不可能性として固定してはならない。
世界は有限であるが、まだできないことが一種類として存在する時間を生んでいない。AがAとして保存される一回が連続しているかぎり、AはまだできるAとできないAへ分裂していない。ここで、不可能性のなさとは、無限の可能性ではなく、有限な世界の中でAがなおAとして保存されていることを意味する。
真の乱数は、この保存構造を断ち切るものとして退けられる。Aが無根拠に出現するならば、Aは結果としては現れるが、接続存在としては弱い。したがって、見かけの不規則性をただちに真の乱数として扱わず、その背後に接続構造があるかどうかを問う必要がある。
超弦的解釈は、Aを点ではなく振動として捉えることで、第一位置の喪失を無秩序ではなく、位置以前の保存として理解する。Aはまだ第一位置を持たないとしても、振動として保存されうる。したがって、不確定性はランダム性ではなく、可能度がまだ点へ閉じていない状態として理解される。
空白=可能差の議論では、Aと非Aの差は結果の違いではなく、Aへの一回分の経路がAではない経路へ変更される差として定義される。この差が物理的に真として存在しないならば、Aへの経路はまだ変更されておらず、世界はまだ二つ目の選択を持たない。
Aと非Aの連続場における選択自由の滑らかさの議論では、Aとして選び取られる前の自由度が、Aと非Aの断絶に捕まらず滑らかに動けるかが問われる。ここで、できないことを一パーセントにしないとは、Aへの自由度の場が、現在に至るまでAを非Aへ切断する特異点を生んでいないことを意味する。
最後に、純粋な可能とは、Aへの経路に沿って通れない一点がまだ成立していないことであると定義される。選択差=不可能度が一回として成立していないかぎり、Aはまだ純粋な可能として保存されている。
■ 十三 第一章の最終整理
第一章の基礎命題は、次のようにまとめることができる。
可能とは、Aがまだ現在から排除されていないことである。
可能度とは、Aが現在からどれだけ直線的に保存されているかである。
可能総量とは、Aへの接続素量が未分割のまま保持されている総体である。
実在とは、結果として固定されたものだけではなく、Aへの接続がAとして保存されていることでもある。
不可能性とは、現在内部に最初から存在する固定点ではなく、Aへの接続が失われていく過程である。
不可能度とは、Aを連続できない選択差が一回として成立することである。
純粋な可能とは、Aへの経路上に、通れない一点がまだ成立していないことである。
自由とは、複数候補から選ぶことではなく、Aと非Aへ分かれる以前の自由度が滑らかに動けることである。
現在とは、Aが結果へ分割される前に、Aへの接続が保存されている有限領域である。
世界とは、できることとできないことが最初から一個の断絶で分けられた場ではなく、有限でありながらなお未分割の接続可能性を保存する場である。
この第一章によって、「可能」という語は、日常的な曖昧さから引き離され、実在、時間、自由、不可能性、接続、滑らかさを結ぶ基礎概念として再構成される。
最終的に、第一章が示すのは次のことである。
世界は、可能と不可能へ分裂した後に存在しているのではない。
世界は、AがAとして保存されるか、Aを通せない一点を生むかという接続の場として存在している。
Aがまだ通れない一点を持たないかぎり、Aは結果ではなくとも純粋な可能として現在に属している。
したがって、可能とは、未来の空想ではない。
可能とは、現在において、Aへの経路がまだ失われていないことそのものなのである。




