可能とその純粋性について
■ 第八節 純粋な可能と選択差
——経路に沿って通れない一点は存在するのか——
真の意味での純粋な可能とは、何を指すのだろうか。
この問いは、ここまでの議論を改めて最も基礎的な場所へ引き戻す。可能とは、Aが排除されていないことであった。可能度とは、Aが現在からどれだけ直線的に保存されているかであった。可能総量とは、その保存された接続の総体であった。さらに、Aと非Aの連続場においては、選択以前の自由度が滑らかに動くかどうかが問われた。だが、ここでまだ残る問題がある。そもそも、可能というものは本当に世界の中に存在しているのだろうか。それとも、可能とは、人間が結果以前の未判定状態を理解するために与えている見かけの名称にすぎないのだろうか。
この問いは、避けることができない。なぜなら、可能という語をいくら精密に定義しても、その可能が世界のどこに属するのかが明らかでなければ、それはまだ存在論的な概念として確立されないからである。Aが可能であると言うとき、私たちは何を世界の中に認めているのか。Aという結果がまだ存在しない以上、Aの可能性は結果としては存在していない。では、それはどこにあるのか。現在の内部にあるのか。未来の側にあるのか。観測者の認識の中にあるのか。言語上の仮定にすぎないのか。あるいは、そもそも「何かができる」という判定自体が、まだ世界のどこにも属していない未成立の形式なのか。
ここで慎重にならなければならない。可能をあまりに強く実在化すれば、まだ起こっていないAを、すでに世界の中にある一つの対象のように扱ってしまう。すると、可能性は結果候補の集合となり、世界は最初から分割済みの選択肢を持つものとして理解される。これは、本論文が疑ってきた前提である。反対に、可能を単なる見かけとして退ければ、Aが現在から排除されていないこと、Aへの接続が保存されていること、Aがまだ不可能性へ固定されていないことを説明できなくなる。Aがまだ結果ではないという理由だけで、Aへの接続までも認識上の仮構として扱うならば、現在から未来へ向かう保存の構造が見えなくなる。
したがって、ここで問うべきなのは、「可能は存在するか、存在しないか」という単純な二分法ではない。より正確には、可能はどのような形式で存在しうるのか、あるいは、可能と呼ばれているもののうち、何が世界に属し、何が判定上の形式に属するのかを区別しなければならない。
純粋な可能とは、結果として存在するものではない。これは明らかである。Aがすでに結果として成立しているならば、それは可能ではなく現実である。サイコロの目が一として止まったならば、それは「一が出る可能性」ではなく「一が出た結果」である。粒子がある位置に測定されたならば、それは「その位置に現れる可能性」ではなく「その位置に検出された結果」である。ある選択が実行されたならば、それは「選びうる可能性」ではなく「選ばれた事実」である。
それでは、純粋な可能は、結果以前に何としてあるのか。
本論文の立場では、純粋な可能とは、Aが結果として固定される以前に、Aへ向かう経路が、Aとしての方向性を失わずに保存されていることである。ここで重要なのは、可能が「対象」ではなく「経路保存」であるという点である。可能は、どこかに置かれた小さな未来の粒ではない。可能は、未来に待機している未実現の結果でもない。可能とは、現在からAへ向かう接続が、まだ切断されていないことの形式である。
この意味で、純粋な可能とは、「何を直線にすることができるのか」という問いとして現れる。Aが可能であるとは、Aという結果を所有していることではなく、Aへ向かう経路を直線化できることである。直線化とは、Aへの接続を、Aとして保存することである。したがって、純粋な可能とは、Aそのものを結果として持つことではなく、Aへの経路をAとして通し続けることができることである。
しかし、ここでさらに問わなければならない。
その経路を、誰が、何が、自由に動かすのか。
選択の自由があると言うとき、私たちはしばしば、主体が候補を選ぶような構図を思い浮かべる。私はAを選ぶ。私は非Aを選ぶ。私は右へ行く。私は左へ行く。しかし、本論文において自由とは、すでに分割された候補を選ぶ能力ではなかった。自由とは、Aと非Aへ分かれる以前の自由度が、滑らかに動けることであった。つまり、純粋な可能において自由に動かされるものは、候補そのものではない。自由に動かされるものは、Aへ向かう経路の自由度である。
この経路の自由度が、Aへ向かって滑らかに動けるかどうか。
Aとして保存される方向を失わずに変形できるかどうか。
Aを非Aへ切断する一点を生まずに連続できるかどうか。
これが、純粋な可能における自由の問いである。
ここで、可能が世界の見かけにすぎないのではないかという疑いに戻ろう。可能が見かけにすぎないとは、結果がまだ出ていないために人間が「できるかもしれない」と言っているだけで、世界そのものには可能など存在していない、という考えである。この考えには一定の説得力がある。なぜなら、世界に現れるのは結局、結果だからである。一が出たか、出なかったか。到達したか、しなかったか。存在したか、しなかったか。結果後の世界には、可能そのものは見えない。見えるのは、成立した事実だけである。
しかし、この考えは、経路の問題を見落としている。結果だけを見れば、可能は見えない。だが、結果が成立するためには、結果以前の経路が必要である。Aが結果として現れるならば、Aは何らかの仕方で現在からAへ向かう接続を通っている。もちろん、その接続を完全に記述できるとは限らない。人間がその経路を観測できるとは限らない。だが、Aが完全な無根拠から突然現れるのでない限り、AにはAとして保存される経路がある。可能とは、この経路の側に属する概念である。
したがって、可能は結果対象としては存在しないが、経路保存としては存在しうる。ここに、可能の存在論的な位置がある。可能は、結果の世界に属するのではない。可能は、経路の世界に属する。より正確に言えば、可能は、結果が結果として判定される以前の、現在から未来へ向かう接続の保存形式に属する。
この整理によって、「何かができるという判定自体まだどこにも属していないものなのか」という問いにも答えることができる。できるという判定は、結果前にはまだ完成していない。Aができるかどうかは、結果後に明確に判定される場合が多い。したがって、「できる」という判定そのものは、現在内部で完全な固定点として存在しているわけではない。しかし、「できる」という判定を可能にする経路保存は、現在内部に存在しうる。つまり、判定はまだどこにも属していないとしても、判定可能性の基礎となる経路は、現在の可能度として属している。
ここで、純粋な可能の問いは、次のように言い換えられる。
仮に世界に一つの経路が存在した場合、その経路に沿って通れないという一点は存在するのか。
これは非常に重要な問いである。Aへ向かう経路Pがあるとする。このPは、Aの可能度の基底である。AがAとして保存されるためには、PがAへの経路として保持されていなければならない。では、このPの内部に、「ここから先は通れない」という一点が存在するのか。もし存在するならば、Aへの経路はその一点で断絶する。その時点で、Aは不可能性へ向かう。つまり、Pの内部に通行不能点があるならば、Aの可能度は、その点において一個の不可能度を持つことになる。
しかし、その一点が本当に存在するのかどうかは、結果後の判定からだけではわからない。Aが成立しなかったとしても、それがPの内部に最初から通行不能点があったことを意味するとは限らない。Pが途中で変形したのかもしれない。Pの保持条件が弱まったのかもしれない。Aへの接続が減衰したのかもしれない。外部条件によって経路が変わったのかもしれない。あるいは、Pはまだ通れたが、Aとして局所化されなかっただけかもしれない。したがって、Aが成立しなかったという結果だけから、P上の通行不能点を仮定してはならない。
通れない一点とは、Aへの経路Pの内部において、PがPとして保存されなくなる絶対的な局所点である。そこでは、Aへの直線性が停止する。Aへ向かう自由度が動けなくなる。AをAとして保存する可能度が切断される。もしこの点が存在するならば、Aができないという不可能性は、単なる結果後の判定ではなく、経路内部の構造として成立することになる。
しかし、本論文は、このような通れない一点をただちに認めない。なぜなら、通れない一点を認めることは、Aの経路上に、Aを不可能にする一個の固定点を置くことだからである。それは、世界がまだ二つ目の選択を持たないという命題に反する。Pの内部に通れない一点があるならば、Pはその点を境に、通れるPと通れないPへ分かれる。つまり、Aへ向かう一回は、すでに二つへ割れている。
ここで「選択差=不可能度」という概念が必要になる。
選択差とは、Aとして保存される経路と、Aとして保存されない経路のあいだに生じる差である。これは前に述べた空白=可能差と近いが、ここではより選択の構造に即して考える。Aを選ぶことができる経路と、Aを選ぶことができない経路。そのあいだに差が成立するならば、その差は選択差である。そして、その選択差が、Aを不可能にする方向で実量を持つならば、それは不可能度となる。
したがって、選択差=不可能度とは、Aへの選択自由が、Aとして保存される自由度から外れ、Aを選べない自由度として固定される差の量である。
ここで注意すべきなのは、不可能度もまた、単なる結果ではないという点である。不可能度とは、Aができなかったという結果後の事実ではない。不可能度とは、Aへの経路上に、AをAとして通せなくする差がどれだけ成立しているかを示す概念である。したがって、最も純粋な意味での選択差=不可能度とは、Aの経路が、現在に至るまでに一回の不可能性として固定されてしまうかどうかを問うものである。
ここで「一回になってしまう」という表現が重要である。
できないことが一回になるとは、Aを連続できないという事態が、単なる減衰や未達成ではなく、一つの判定可能な不可能性として成立することである。Aへの経路Pにおいて、「ここでAは通れない」と言える一点または一回が形成されること。Aとして保存される一回とは別に、Aとして保存されない一回が成立すること。Aができる一回とAができない一回が分かれ、後者が一個の実量として現在内部に現れること。これが、選択差=不可能度が一回になるということである。
問題は、それが現在に至るまでに本当に起こっているのかである。
もし起こっているならば、現在はすでに未分割ではない。Aへの経路Pの内部には、Aを通せない一点がある。あるいは、Aを通せない一回がすでに形成されている。その場合、世界はAに対して二つ目の選択を持っている。Aとして進むか、Aとして進まないか。Aができるか、Aができないか。この差が一個の不可能度として現在内部に存在している。
もし起こっていないならば、Aへの経路Pは、まだAを通せない一回を生んでいない。Pは変化していても、Aとしての方向を失っていない。Aはまだ非Aへ完全に切断されていない。選択差は、まだ不可能度として一回化していない。したがって、Aはなお純粋な可能として保存されている。
ここで、「世界が有界な領域かそうでない領域かを分ける時」という問題が出てくる。
有界であるとは、ある範囲を持つということである。Aへの経路Pが有界であるならば、Pは無限に開かれているわけではない。Pには範囲があり、条件があり、限界がある。反対に、非有界であるならば、Pはどこまでも開かれているように見える。しかし、本論文において重要なのは、世界が有界であるか非有界であるかそのものではない。重要なのは、有界性を認めた瞬間に、Aを連続できない一回が発生するのかどうかである。
一般的には、有界であるならば、その外側があると考えられる。外側があるならば、そこへは行けないと考えられる。すると、有界性は不可能性を生むように見える。ある領域の内側と外側が分かれれば、内側から外側へ通れない境界があるように見える。ここから、「有界な世界にはできないことが存在する」という結論が導かれやすい。
しかし、本論文はこの推論を慎重に扱う。有界であることは、ただちに通れない一点を意味しない。有界性は、範囲の存在を示す。だが、その範囲がAへの経路をどのように制約するのか、Aがその範囲内でどこまで保存されるのか、境界が硬い断絶なのか滑らかな減衰なのか、経路変更が起こるのか、Aの方向性が失われるのかは、別に問われなければならない。有界性は、不可能性の即時成立ではなく、可能度の保存範囲を問う条件である。
この意味で、世界が有界であるとしても、できないことが一回として現在に存在するとは限らない。Aへの可能度が有界な領域の内部で保存されているならば、AはなおAとして連続している。Aがその境界へ向かうとしても、その境界がただちに通れない一点であるとは限らない。境界は、減衰であるかもしれない。変形であるかもしれない。遷移であるかもしれない。判定後に境界として見えるものが、現在内部ではまだ滑らかな接続の変化である可能性がある。
ここで、「一度でもAを連続できないという一回があるという時点で、現在進行形において二分の一できないという一回が存在してしまうのではないか」という問いが立ち上がる。
この問いはきわめて重要である。なぜなら、Aを連続できない一回が存在するならば、Aへの経路は、少なくとも二つの状態へ割れるからである。一つは、Aを連続できる状態である。もう一つは、Aを連続できない状態である。このとき、Aに対して「できる/できない」の二分が成立する。単純化すれば、世界はAに対して二つの側面を持つ。したがって、現在進行形において「二分の一できない」という一回が存在してしまうのではないか、という問いが生じる。
ここでいう「二分の一」は、確率としての厳密な二分の一ではない。むしろ、Aができる一回とできない一回へ二種類化したことの象徴的表現である。Aを連続できない一回があるならば、世界はAを「できる側」と「できない側」へ二分している。その時点で、Aには少なくとも一つの不可能側が存在する。つまり、Aの純粋な可能は失われ、選択差=不可能度が一回として生まれていることになる。
この問いに対して、本論文は次のように答える。
もし、Aを連続できない一回が、現在内部に物理的に真なるものとして成立しているならば、確かに世界はAに対して二つ目の選択を持つ。そこでは、Aができないという一回が存在し、Aの可能度は不可能度を含むことになる。したがって、現在進行形において、Aはすでに純粋な意味で未分割ではない。
しかし、問題は、その一回が本当に現在内部に成立しているのかである。結果後にAが連続しなかったことは、現在内部にAを連続できない一回が存在していたことと同じではない。Aが後に切断されたように見えることは、Aへの経路上に最初から通れない一点があったことを意味しない。したがって、「一度でもAを連続できない一回がある」と言うためには、その一回が現在内部の可能度の場において、どのように成立しているのかを示さなければならない。
これを示さないかぎり、Aができない一回は、結果後の分類であって、現在内部の不可能度ではない。
ここに、純粋な問いの核心がある。私たちは、結果を見た後で、できなかった一回を数えることができる。しかし、その一回を、現在における「できない一回」として扱うには、Aへの経路上に通れない一点、あるいはAを連続できない一回が、結果以前に成立していたことを示さなければならない。そうでなければ、できないことは、現在内部ではまだ一個の不可能度として存在していない。
この議論は、可能の存在論に戻る。可能とは、結果以前にAへの経路が保存されていることである。不可能度とは、その経路がAとして保存されなくなる差である。したがって、可能と不可能度は、結果の有無ではなく、経路の保存と切断の問題である。Aができるかできないかは、結果後に判定される。しかし、Aが純粋な可能として現在に属するかどうかは、Aへの経路がまだ通れるものとして保存されているかどうかによって決まる。
ここで「通れる」という語をもう少し精密にする必要がある。通れるとは、単に物理的に移動できるという意味だけではない。通れるとは、Aへの経路がAとしての方向を保ったまま、現在から未来へ連続できることである。通れないとは、Aへの経路がAとしての方向を保持できず、Aを非Aへ変更する不可能度を持つことである。したがって、経路Pに通れない一点があるとは、PがAの可能度の基底として機能しなくなる一点があるということである。
この通れない一点が存在しないならば、Aはまだ純粋な可能として保存されている。
この通れない一点が存在するならば、Aはすでに不可能度を含んでいる。
この二つを区別することが、基礎的な可能論において重要である。
ただし、ここで再び注意しなければならない。通れない一点が存在しないと言うことは、Aが必ず結果化するという意味ではない。Aは結果として成立しないかもしれない。Aへの経路は変形し、減衰し、別の状態へ移るかもしれない。しかし、そのことは、現在内部に最初から通れない一点があったことを意味しない。可能は、結果保証ではない。可能は、経路保存である。したがって、純粋な可能とは、Aが必ず成就することではなく、Aを不可能にする一回がまだ現在内部に成立していないことである。
ここで、純粋な可能の定義を次のように提示できる。
純粋な可能とは、Aへの経路が現在内部に保存されており、その経路に沿ってAを連続できないという一点、あるいはAを不可能度として一回化する選択差が、まだ物理的に真なるものとして成立していない状態である。
この定義において、可能は見かけではない。少なくとも、単なる認識上の見かけではない。なぜなら、Aへの経路保存は世界の構造に属するからである。だが、可能は結果対象としても存在しない。なぜなら、Aはまだ結果として固定されていないからである。したがって、可能は、結果対象と認識上の仮構の中間にあるのではなく、第三の形式として、経路保存の実在に属する。
この第三の形式を理解することが、本論文の基礎的な存在論である。存在とは、結果としてあることだけではない。存在とは、Aへの経路がAとして保存されていることでもある。Aがまだ結果になっていなくても、Aへの経路が通れるものとして現在内部に保持されているならば、Aは接続存在として存在している。逆に、Aが言語上は想像できても、Aへの経路が通れず、選択差=不可能度が一回として成立しているならば、Aは純粋な可能としては存在していない。
ここで、有界性と存在の関係も整理できる。有界な領域においても、Aへの経路が保存されているならば、Aは接続存在として存在する。非有界に見える領域であっても、Aへの経路が不可能度によって切断されているならば、Aは存在しない。したがって、可能の問題は、単純に有界か非有界かでは決まらない。重要なのは、その領域において、Aへの経路が通れるかどうか、そして通れない一点が一回として成立しているかどうかである。
この考えは、世界の有界性をより精密に捉える。世界は有限である。だからといって、できないことがただちに一種類として存在するわけではない。世界が有界であることは、Aへの経路が範囲を持つことを意味する。しかし、その範囲の内部でAが連続できるならば、Aは可能である。境界があったとしても、その境界が通れない一点として成立していないならば、Aは不可能度へ固定されない。したがって、有界性は可能の否定ではなく、可能度が保存される条件の限定である。
この点において、純粋な可能は、無限の可能性とは異なる。純粋な可能は、無限に何でもできることではない。純粋な可能は、有限な経路の内部に、Aを連続できないという一回がまだ成立していないことである。世界は有限である。Aへの経路も有限である。しかし、その有限な経路がAとして通れるならば、Aは純粋に可能である。逆に、無限に見える広がりがあっても、Aへの経路上に通れない一点があるならば、Aは純粋には可能ではない。
ここで、選択差=不可能度の一回化をさらに具体的に考える。Aへの経路Pがあるとする。PがAとして保存されているかぎり、Aは可能度を持つ。Pの内部に小さな揺らぎや変形があっても、それがAをAでなくする選択差として固定されなければ、Aは保存される。ところが、Pのどこかで、AをAとして通せない差Dが成立したとする。このDが、単なる変化ではなく、Aの経路をPからP’へ変更する差であるならば、Dは不可能度となる。Dが一回として成立するならば、Aはできる経路とできない経路へ分裂する。
このとき、Aには「一回分のできなさ」が生じる。この一回分のできなさが、象徴的には「二分の一できない一回」として表現される。なぜなら、Aはもはや一つの未分割な経路ではなく、できる側とできない側へ分かれているからである。ここで二分の一という表現は、Aが半分だけ可能であるという単純な確率を意味しない。Aの一回が、できる一回とできない一回へ二分されたことを意味する。つまり、Aの未分割性が破れたことを意味する。
この破れが現在進行形において存在するならば、Aは純粋な可能ではない。なぜなら、Aはすでに不可能度を内包しているからである。だが、この破れが結果後の判定にすぎないならば、Aは現在内部ではまだ純粋な可能として保存されていた可能性がある。したがって、重要なのは、選択差=不可能度がいつ、どこで、どのように、一回として成立したのかである。
この問いを立てずに、「Aはできなかった」と言うだけでは、本論文の問題に答えたことにはならない。Aができなかったという結果は、Pの内部に通れない一点が存在したことの証明ではない。Pが通れなくなったのか、Pが変形したのか、Aへの判定が変わったのか、Aの保存核が失われたのか、あるいは結果後の分類がAを非Aとして読んだだけなのか。これらは区別されなければならない。
ここで、基礎的な「可能」と「存在」についての問いを、改めて整理する。
可能とは、何か。
それは、Aという結果が未来に置かれていることではない。
Aへの経路が、まだAとして通れるものとして保存されていることである。
存在とは、何か。
それは、Aがすでに結果として固定されていることだけではない。
Aへの経路が、Aとして保存されていることでもある。
不可能度とは、何か。
それは、Aが結果として成立しなかったことではない。
Aへの経路に、Aを通せない選択差が成立することである。
純粋な可能とは、何か。
それは、Aへの経路に、Aを連続できないという一回がまだ成立していないことである。
この整理によって、可能と存在は、結果ではなく経路を通じて結びつく。Aは結果として存在する前に、経路として存在する。Aは可能として存在するとは、Aへの経路が通れるものとして保存されていることである。Aが不可能になるとは、その経路に通れない一点が成立し、AがAとして連続できなくなることである。
この意味で、可能は世界の見かけではない。ただし、可能は結果として存在するのでもない。可能は、経路の保存として世界に属する。人間が可能を認識するとき、それを候補として誤認することはある。確率として数え、選択肢として並べ、Aと非Aをあらかじめ分けたものとして扱うことはある。その意味で、私たちの可能理解には見かけが混じる。しかし、可能そのものをすべて見かけとして退けることはできない。なぜなら、Aへの経路保存がなければ、Aが結果として現れることも説明できないからである。
ここに、第一章の問いの一つの到達点がある。
可能とは、世界がまだAを不可能度へ切断していないことの形式である。
存在とは、その切断以前にAへの経路が保存されていることである。
純粋な可能とは、Aへの経路上に、通れない一点がまだ成立していないことである。
選択差=不可能度とは、その通れない一点が一回として成立し、Aの一回をできる側とできない側へ分けることである。
したがって、最も純粋な問いは、次の一点に集約される。
世界には、Aへの経路に沿って、Aを連続できないという一回が、現在に至るまでに本当に生まれているのか。
もし生まれているならば、Aはすでに不可能度を持つ。現在進行形において、AはできるAとできないAへ二分されている。Aの一回は破れ、二つ目の選択が成立している。
もし生まれていないならば、Aはまだ純粋な可能として保存されている。Aへの経路はなお通れる。Aはまだ非Aへ切断されていない。世界はまだ、Aをできないことの一種類として数えていない。
ここで重要なのは、どちらの答えも安易に与えてはならないということである。純粋な可能の問いは、結果後の直観だけでは解けない。Aが起こったか起こらなかったかを見るだけでは不十分である。Aへの経路が現在に至るまでどのように保存されていたのか、どこに通れない一点があったのか、選択差がいつ不可能度として一回化したのかを問わなければならない。
この問いを保ち続けることが、本論文における可能の基礎である。可能とは、すぐに確率化されるものではない。存在とは、すぐに結果へ閉じられるものではない。不可能性とは、すぐに一個の断絶として置かれるものではない。世界が有界であるとしても、その有界性がAを不可能度へ切断するかどうかは、なお問われなければならない。Aを連続できない一回が本当にあるのか。あるならば、それはどのように現在に属しているのか。ないならば、Aはどのように純粋な可能として保存されているのか。
この問いの内部において、可能と存在は初めて同じ場に置かれる。Aは、結果としてあるのではない。Aは、経路としてある。Aが可能であるとは、その経路がまだ通れるということである。Aが存在するとは、その経路がAとして保存されているということである。Aが不可能になるとは、その経路に通れない一点が生じるということである。
ゆえに、純粋な可能とは、何かを直線にし、何を自由に動かすことができるのかという問いに対して、次のように答えることができる。
純粋な可能とは、Aという結果を直線にすることではない。
Aへの経路を直線にすることである。
純粋な可能とは、選択肢を自由に動かすことではない。
選択肢として分割される以前の自由度を、Aへの経路上で自由に動かすことである。
純粋な可能とは、Aが必ず起こることではない。
Aを連続できない一回が、現在に至るまでにまだ成立していないことである。
純粋な可能とは、世界の見かけではない。
しかし、それは結果としての対象でもない。
純粋な可能とは、Aへの経路がAとして保存されている、現在の接続存在なのである。




