選択自由の滑らかさ
■ 第七節 Aと非Aの連続場における選択自由の滑らかさ
——ジャンケンを二回しない現在と、できないことを一パーセントにしない直線性——
Aと非Aの境界は、どこにあるのか。
この問いは、本論文の初期段階から繰り返し現れてきた問いである。Aが可能であるとは何か。Aが不可能であるとは何か。AがAとして保存されるとはどういうことか。Aが非Aへ移るとは何が変化することなのか。Aと非Aを分ける空白=可能差は、現在内部に物理的な真として存在しているのか。こうした問いを通じて、本論文は、可能性を結果候補としてではなく、現在内部に保存される直線的可能度として捉え直してきた。
しかし、ここでさらに一段手前の問題へ進む必要がある。
問題は、Aと非Aの境界がすでに一個の断絶として存在しているかどうかだけではない。より根本的には、Aとして選び取られる以前の自由度は、本当に選択において自由に動けるのか、という問いがある。つまり、AがAとして判定される前、Aが非Aから分けられる前、Aが結果として数えられる前、そこにある自由度は、すでに固定された選択肢のあいだを移動するだけなのか。それとも、まだAと非Aへ裂ける以前の連続場として、滑らかに動くことができるのか。
この問いを、次のように定式化しておきたい。
Aとして選び取られる前の自由度は、Aと非Aのあいだに置かれた切断面の上を移動しているのではなく、Aと非Aがまだ一個の断絶として分離していない連続場の内部を、滑らかに変形しうるのではないか。
この問いが重要なのは、選択の自由を、単なる候補の選択としてではなく、候補が候補として切り出される以前の運動性として考えるためである。通常、自由とは、Aか非Aかを選べることとして理解される。たとえば、ジャンケンでグーを出すか、チョキを出すか、パーを出すか。ある選択肢を取るか、取らないか。成功する行為を選ぶか、失敗する行為を避けるか。この理解では、自由はすでに並んでいる候補の間で働く。候補はあらかじめ分割されており、選択者はその中から一つを選ぶ。
しかし、本論文において自由は、そのようには理解されない。自由とは、複数の候補を所有していることではなく、Aと非Aがまだ硬い境界として切断されていないこと、すなわち選択以前の可能度が滑らかに動けることである。AがAとして選ばれる前、Aはまだ一つの結果ではない。非Aもまた、Aから完全に切り離された別の結果ではない。そこにあるのは、Aへ向かう方向性と、Aから外れる可能性とが、まだ一個の断絶として固定されないまま、現在内部に保存されている連続場である。
この連続場を考えるとき、「滑らかさ」という語が重要になる。滑らかさとは、単に見た目がなめらかであることではない。ここでは、ある状態から別の状態へ移るときに、接続が突然断ち切られず、無限大の跳躍や裂け目や孤立した特異点を生まず、変化が変化として追跡可能であることを意味する。Aへ向かう自由度が滑らかであるとは、AがAとして選び取られる以前に、その自由度がAと非Aのあいだで硬く折れたり、飛躍したり、断絶したりせず、なお接続可能な変形として保存されていることを意味する。
この滑らかさが失われると、選択は一つの断絶になる。Aを選ぶこととAを選ばないことのあいだに、突然の切断が置かれる。Aは一方へ、非Aは他方へ裂ける。そして、その裂け目が現在内部に固定されるならば、できないことは一個の種類として生まれる。Aへ向かえない自由度が、Aへの自由度から分離し、「Aができない」という形で数えられるようになる。ここに、一パーセントの不可能性が発生する。
しかし、本論文の立場では、この一パーセントをすぐに受け入れてはならない。Aが結果として成立しなかった後で、「Aはできなかった」と言うことはできる。けれども、その「できなかった」を、現在内部に最初から存在していた一パーセントの不可能性として扱うことはできない。なぜなら、AがAとして選び取られる以前の自由度が、どのように動いていたのかをまだ問うていないからである。Aと非Aがどこで分かれたのか、そもそも分かれたのか、それとも分かれたように結果後に見えているだけなのか。この問いを通らずに、できないことを一パーセントにしてはならない。
ここで、ジャンケンの例を考える。
ジャンケンでは、通常、グー、チョキ、パーという三つの結果があると考えられる。人はそのうち一つを出す。そして、出した後には、それがグーだったのか、チョキだったのか、パーだったのかが判定される。勝ったか負けたか、あいこだったかも決まる。この構図では、ジャンケンとは三つの候補の中から一つを選ぶ行為である。
しかし、実際の選択が成立する以前を考えるならば、手は最初からグー、チョキ、パーという三つの結果に分割されているわけではない。指の筋肉、関節、神経信号、意識、癖、相手への予測、タイミング、掛け声、身体の緊張、直前の迷い、過去の経験、勝ちたいという欲求、読まれたくないという反応などが、連続的に重なっている。その過程の中で、手は次第にある形へ向かう。まだグーではない。まだチョキでもない。まだパーでもない。しかし、どれでもない無でもない。そこには、手の形へ向かう可能度の場がある。
このとき、「ジャンケンを二回しないまま」という表現が意味を持つ。
ジャンケンを二回するとは、Aを選ぶ一回と、Aを選べない一回を別々に数えることである。あるいは、グーを出せる一回と、グーを出せない一回を分離することである。結果後に、「今回はグーだった」「今回はグーではなかった」と数えることはできる。しかし、選択以前の現在において、世界は本当にグーを出す一回と、グーを出せない一回をすでに二つ持っていたのだろうか。手がまだ形を決める前、その自由度は、すでにグーと非グーへ硬く分かれていたのだろうか。
本論文は、ここで「否」と答える。少なくとも、そう簡単に「分かれていた」とは言えない。選択以前の自由度は、グーと非グーの境界線上で停止しているのではない。むしろ、指の動き、神経の流れ、意識の揺らぎ、身体の反応は、連続的に変形している。その連続変形の中で、グーへ向かう可能度は保持されうる。チョキへ向かう可能度も保持されうる。パーへ向かう可能度も保持されうる。しかし、それらは最初から完成した三つの選択肢として並んでいるのではなく、未分割の運動場の中で方向性として生じている。
したがって、ジャンケンを二回しないまま、できないことを一パーセントにしないことは、現在に至るまでに直線にできるはずである。
この命題を分解してみる必要がある。
「ジャンケンを二回しない」とは、グーを出せる一回とグーを出せない一回を、選択以前に分離しないことである。つまり、Aと非Aを二つの試行として数えないことである。
「できないことを一パーセントにしない」とは、Aが成立しない可能性を、現在内部に固定された微小な不可能性として数えないことである。Aができない一パーセント、Aが外れる一パーセント、Aが選ばれない一パーセントを、分割済みの確率単位として扱わないことである。
「現在に至るまでに直線にできる」とは、Aが結果として成立する以前に、Aへの自由度がAとしての方向性を失わず、滑らかに接続されうるということである。つまり、Aはまだ結果ではないが、Aへ向かう直線性を保持できる。
この三つを合わせると、次の命題が得られる。
Aとして選び取られる以前の自由度が滑らかに動くかぎり、世界はAと非Aを二回の試行として分離せず、Aができない一パーセントを現在内部に固定せず、Aへの可能度を一つの直線的接続として保持できる。
この命題は、自由の概念を根本的に変える。自由とは、Aか非Aかを選ぶことではない。自由とは、Aと非Aが硬い断絶として分かれる以前に、Aへ向かう自由度が滑らかに動けることである。Aを選ぶ自由は、Aという候補が選択肢として現れた後に始まるのではない。むしろ、Aが候補として切り出される以前に、Aへ向かう運動がまだ塞がれていないことから始まる。
ここで、Aと非Aの連続場という概念を導入することができる。
Aと非Aの連続場とは、AがAとして固定される以前に、Aへの方向性と非Aへの方向性が、まだ一個の断絶として分離していないまま保存されている可能度の場である。この場において、Aは完全な結果ではない。非Aも完全な否定ではない。Aと非Aは、判定後の二値ではなく、現在内部で互いに滑らかに接続されうる方向性として現れる。
この場では、Aを選ぶことは、Aを非Aから切り離すことではない。むしろ、Aへの接続を滑らかに直線化することである。Aを選ぶとは、A以外を破壊することではなく、Aへの自由度をAとして保存することである。選択とは切断ではなく、滑らかな接続の強調である。AがAとして現れるのは、Aと非Aのあいだに突然の断絶が置かれるからではなく、Aへの自由度が滑らかに集まり、Aとして判定可能な形へ局所化されるからである。
この考えは、ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさの問題と構造的に対応する。
ナビエ–ストークス方程式は、流体の速度場や圧力場の時間発展を記述する基本方程式である。ここで重要なのは、流体が連続体として扱われ、ある初期状態から時間とともにどのように変化するかが問われる点である。数学的な大問題として知られる「解の存在と滑らかさ」は、粗く言えば、適切な初期条件から出発した三次元の流体方程式の解が、時間発展の中で常に滑らかなまま存在し続けるのか、それとも有限時間内に特異点、すなわち滑らかさが破れる点を生じうるのかを問う問題である。
本論文は、この問題を物理数学として解こうとしているのではない。ここで行うのは、概念構造の対応を明らかにすることである。ナビエ–ストークス方程式において問われる「滑らかさの破れ」は、本論文の語彙で言えば、連続場の中に「動けない一点」あるいは「断絶した一点」が生じるかどうかという問題に似ている。流体の速度場が滑らかであるならば、流れは連続的に追跡可能であり、ある点から別の点への変化は無限の飛躍を持たない。ところが、有限時間内に特異点が生じるならば、その場の中に滑らかさを失わせる異常な点が現れる。その点では、通常の連続的な記述が破綻する。
Aと非Aの連続場における選択自由の滑らかさも、これと対応する。Aとして選び取られる以前の自由度が滑らかであるならば、Aへの接続は連続的に追跡できる。Aと非Aは、結果後には区別されるとしても、現在内部では突然の断絶によって分けられていない。Aへの自由度は、滑らかに動き、変形し、Aとして直線化されうる。しかし、もし選択の自由度の場に特異点が生じるならば、Aと非Aの境界は突然硬化する。Aへ向かう運動はそこで切断され、Aができないという一個の不可能性が生じる。これは、選択における滑らかさの破れである。
したがって、ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさの問題は、本論文にとって、次のような構造的問いを照らす。
連続場は、有限時間内に、自己の滑らかさを失う一点を生むのか。
この問いは、流体においては速度場の特異点の問題として現れる。本論文においては、可能度の場における「Aができない一点」の問題として現れる。世界は有限である。流体の運動も有限の条件の中で起こる。選択も有限の身体、有限の時間、有限の認識の中で起こる。にもかかわらず、その有限な連続場は、必ずしもただちに断絶点を生むわけではない。問題は、有限時間内に滑らかさが保存されるのか、それとも破れるのかである。
ここで、「できないことを一パーセントにしない」という命題は、滑らかさの保存として理解される。Aができない一パーセントが生まれるとは、Aへの自由度の場に微小な断絶が生じ、その断絶がAと非Aを分ける判定単位として固定されることである。つまり、Aへの滑らかな接続に、Aを失わせる特異性が生じることである。反対に、できないことを一パーセントにしないとは、Aへの自由度の場が、少なくとも現在に至るまで、Aを非Aへ切断する特異点を生んでいないことである。
この意味で、ジャンケンを二回しないことと、ナビエ–ストークス的な滑らかさの保存は、同じ形式を持つ。ジャンケンを二回しないとは、Aを出す一回とAを出せない一回を分離しないことである。滑らかさが保存されるとは、連続場が有限時間内に断絶した特異点を生まないことである。両者はいずれも、有限な過程の内部に、二つ目の分裂点を発生させないという構造を持つ。
もちろん、ジャンケンの身体的選択と流体方程式の数学的解を同一視することはできない。両者は対象も方法も異なる。しかし、ここで問題にしているのは、領域を越えた構造的対応である。すなわち、連続的な場が有限時間内に滑らかさを保つか、それとも断絶点を生むかという問いである。この問いは、物理数学では流体の運動として現れ、可能度論ではAと非Aの選択自由として現れる。
この対応を踏まえると、Aとして選び取られる前の自由度は、「候補間の移動」ではなく「場の滑らかな変形」として理解されるべきである。Aか非Aかという候補が先にあるのではない。まず、Aと非Aへ切り出されうる自由度の場がある。その場が滑らかに変形し、Aへの方向性を失わず、Aとして局所化されるとき、Aが選ばれる。逆に、その場の滑らかさが破れ、Aへの自由度が非Aへ切断されるとき、Aができないという判定が生じる。
このとき、選択の自由は、候補を選ぶ自由ではなく、滑らかさを保つ自由である。Aへの自由度が滑らかに動けるならば、Aはまだ可能度として保存されている。Aへの自由度が動けなくなり、断絶点に捕まるならば、Aは不可能性へ近づく。したがって、自由とは「どれを選べるか」ではなく、「Aへ向かう接続がどこまで滑らかに動けるか」である。
ここで、「選択に於ける自由を自由に動かせるのか」という問いが明確になる。
選択における自由を自由に動かせるとは、選択肢を意志によって好きに選べるという意味ではない。むしろ、選択肢として固定される以前の自由度が、Aと非Aの断絶に捕まらず、滑らかに変形し続けられるかということである。選択の自由それ自体が、すでに固定された候補のあいだに閉じ込められているならば、その自由は本質的には不自由である。なぜなら、それは分割後の自由だからである。真に基礎的な自由は、分割以前の自由度が動けることにある。
この点をジャンケンでさらに考えるならば、グーを選ぶ自由は、グーという結果を思い浮かべてそれを実行する能力だけではない。グーとして手が閉じていく以前に、指の運動がまだ別の形へ硬く切断されておらず、意識と身体の接続が滑らかに動き、グーへ向かう経路が一回として保存されていることが必要である。もしその過程の内部に、グーへ向かう運動を突然切断する一点があるならば、グーを出す自由はそこで失われる。そこに「グーを出せない一パーセント」が固定される。
しかし、もしそのような切断点がまだ存在しないならば、グーへ向かう自由度は現在に至るまで直線化されうる。グーはまだ結果ではない。けれども、グーへ向かう可能度は保存されている。グーではない結果が後に生じるとしても、その非グーを、選択以前の現在における一パーセントの不可能性として置くことはできない。なぜなら、グーへ向かう自由度がどのように滑らかに動いていたかを問わなければならないからである。
この議論は、「Aと非Aの境界がすでに一個の断絶として存在しているかどうか」という問いを、さらに深い次元へ移す。境界があるかどうかの前に、境界が成立するための自由度がどのように動いているのかを問わなければならない。Aと非Aの境界は、自由度が滑らかに動く場の中で後から形成されるものかもしれない。そうであるならば、境界を最初から置くことは、自由度の運動を見落とすことになる。
ここで、Aと非Aの連続場における滑らかさを、三つの水準に分けて考えることができる。
第一に、運動的滑らかさである。これは、Aへ向かう変化が、突然の飛躍や断絶なしに進むことを意味する。身体運動、物理的運動、状態変化などがこの水準に属する。
第二に、判定的滑らかさである。これは、Aと非Aの判定が、現在内部に最初から硬く置かれているのではなく、連続的変化の中から後に切り出されることを意味する。Aは突然Aとして生じるのではなく、Aとして読まれうる状態へ滑らかに局所化される。
第三に、存在論的滑らかさである。これは、Aが結果として存在する以前に、Aへの可能度が接続存在として滑らかに保存されることを意味する。Aは点として存在する前に、場として存在する。
この三つの滑らかさが保持されているかぎり、Aはまだ不可能性へ固定されない。Aへの運動が切れていない。Aと非Aの判定が硬化していない。Aへの存在が失われていない。この状態において、Aはなお可能度として現在内部にある。
ナビエ–ストークス方程式との関係を、この三水準に対応させることもできる。流体において、速度場が滑らかであるならば、運動は連続的に記述される。解が存在し続けるならば、時間発展の過程は方程式の内部で保持される。特異点が生じなければ、場は有限時間内に破綻しない。これを可能度論に移すならば、Aへの自由度が滑らかであるならば、選択の運動は連続的に保存される。Aへの接続が存在し続けるならば、Aは可能度として保持される。Aを不可能にする特異点が生じなければ、Aは有限時間内に一パーセントの不可能性へ切断されない。
もちろん、この対応は比喩であるだけではなく、概念上の形式対応である。いずれの場合にも、問題は「有限な場が自己の滑らかさを保てるか」である。流体では、速度場や圧力場が有限時間内に滑らかさを失うかが問われる。可能度論では、Aへの自由度の場が有限時間内にAと非Aの断絶を生むかが問われる。どちらにおいても、特異点が生じるならば、連続的記述は破れる。特異点が生じないならば、場はなお一つの連続として保存される。
ここで、できないことを一パーセントにしないことの学術的意義が明確になる。これは、単なる楽観的な主張ではない。これは、有限な連続場が、断絶点を生む前にどこまで滑らかさを保持できるかを問う命題である。Aができない一パーセントとは、Aへの自由度の場に生じた微小な特異性である。そこでは、Aへの接続が非Aへ切断され、Aができないという種類が発生する。これを現在に至るまで直線にできるとは、Aへの自由度が、そのような特異性を生まないまま、Aとしての方向を保持し続けることを意味する。
この意味で、「現在に至るまで」という表現は重要である。未来の無限の保証ではない。Aが永遠に不可能性へ落ちないという主張ではない。そうではなく、現在に至るまでの有限な接続領域において、Aがまだできない一パーセントへ切断されていないということである。現在とは、Aへの滑らかさがまだ保持されている領域である。現在が続くとは、Aと非Aの境界がまだ一個の断絶として固定されていないということである。
ここから、選択の自由の滑らかさについて、次のような基礎命題を提示できる。
選択の自由とは、Aか非Aかを選ぶ能力ではなく、Aと非Aへ分かれる以前の自由度が、Aへの接続を失わずに滑らかに動けることである。
この命題は、自由を候補選択から場の運動へ移す。候補選択としての自由は、分割後の自由である。場の運動としての自由は、分割以前の自由である。Aが選び取られる前に、Aへの自由度がどこまで滑らかに動けるか。ここに、可能度論における自由の基礎がある。
この自由は、意志の問題だけではない。物理的接続の問題でもある。身体が動くこと、時間が残されていること、環境が閉じていないこと、情報が消えていないこと、経路が保持されていること。これらすべてが、自由度の滑らかさを支える。自由は、抽象的な心の中だけにあるのではない。自由は、Aへ向かう接続場の滑らかさとして、世界の中にある。
そのため、Aとして選び取られる以前の自由度が動けるかどうかは、可能度の実量の問題でもある。自由度が滑らかに動けるならば、Aへの可能度は保持される。自由度が硬直し、特異点を生み、Aと非Aへ裂けるならば、可能度は失われる。したがって、選択の自由の滑らかさは、可能度の保存条件である。
この地点で、本節の中心命題を一つにまとめることができる。
Aと非Aの連続場において、選択の自由が滑らかであるとは、Aとして選び取られる以前の自由度が、Aと非Aの断絶に先立って動くことができ、Aへの接続を現在に至るまで一回として保存できることである。
この命題において、「一回として保存できる」とは、ジャンケンを二回しないことを意味する。Aができる一回と、Aができない一回を分けないこと。Aが選ばれる時間と、Aが選ばれない時間を現在内部で二つにしないこと。Aと非Aの差を、結果前に一パーセントの不可能性として固定しないこと。これらすべてが、一回として保存するということに含まれる。
また、「現在に至るまで」とは、有限な滑らかさの保存を意味する。無限の保証ではない。完全な決定でもない。現在までの連続場において、Aへの自由度がまだ動けない一点を生んでいないということである。ナビエ–ストークス方程式の解の存在と滑らかさの問題が、有限時間内に特異点が生じるかどうかを問うように、可能度論における選択の自由の滑らかさも、有限な現在内部において、Aへの接続が不可能性の特異点を生むかどうかを問う。
ここに、「世界には動けない一点が無い」という命題の別の姿がある。動けない一点とは、Aへの自由度が滑らかさを失い、Aと非Aが断絶し、Aができない一パーセントが固定される点である。もしその点が現在内部に存在しないならば、Aへの自由度はまだ滑らかに動ける。Aはまだ非Aへ完全には切断されていない。Aはまだ一回として直線化されうる。
したがって、Aと非Aの連続場における選択の自由の滑らかさとは、AをAとして選ぶ以前に、Aへの可能度がどこまで動けるかを問うことである。Aは結果ではない。Aは候補でもない。Aは、自由度の場の中で滑らかに直線化される方向である。非Aは、Aの外部に最初から置かれた敵対的領域ではない。非Aは、Aへの滑らかさが失われたとき、結果後に判定される分岐である。
この理解に立つならば、可能とは、Aがまだ選ばれていないことではない。可能とは、Aとして選び取られる以前の自由度が、まだAへ向かって滑らかに動けることである。可能度とは、その滑らかな運動がどれほど保存されているかである。不可能性とは、その滑らかさが破れ、Aへの自由度が動けない一点に捕まり、Aができない一パーセントとして固定されることである。
ゆえに、ジャンケンを二回しないまま、できないことを一パーセントにしないことは、現在に至るまで直線にできるはずである。なぜなら、Aとして選び取られる前の自由度が滑らかに動くかぎり、Aはまだ二つ目の試行へ分裂していないからである。Aがまだ二つ目の試行へ分裂していないならば、Aができない一パーセントは現在内部に固定されていない。Aができない一パーセントが固定されていないならば、Aへの可能度はなお直線として保存されている。
この直線は、硬い線ではない。
それは、滑らかに動く線である。
切断された境界ではない。
それは、Aとしての方向を保つ自由度である。
結果の線ではない。
それは、結果以前に保存される可能度の線である。
この線が保たれているかぎり、世界はまだAを非Aへ切断していない。世界はまだ、Aができないという一種類の時間を生んでいない。世界はまだ、選択を二回に分けていない。世界はまだ、Aへの自由度を一パーセントの不可能性として固定していない。
そして、この未固定性こそが、可能という概念の最も基礎的な自由である。




