空白=可能差
■ 第六節 空白=可能差は存在するのか
——一回分の経路変更がない世界と、“二つ目の選択”を持たない現在——
本節で扱う問題は、これまで提示してきた「可能」「可能度」「可能総量」「一回」「第一位置」「不可能性のなさ」といった概念を、さらに精密な差分の問題へ移すことである。ここでいう差分とは、単にAと非Aの違いを意味するのではない。むしろ、AがAとして保存され続ける経路と、AがAとして保存されなくなる経路とのあいだに生じる、最初の微細な空白を意味する。
この空白を、本節では「空白=可能差」と呼ぶ。
ただし、この空白は、何もない空間を意味しない。物理的な余白、空洞、無内容な場所を指すわけでもない。ここでいう空白とは、Aへの接続が一回分の経路として保存される場合と、その経路が別の方向へ変更される場合とのあいだに生じる、判定上の差である。言い換えれば、AがAへ向かう一回として直線化されるために必要な経路が、ある時点で別のものへ移るならば、そこには「Aとして保存される経路」と「Aとして保存されない経路」の差が生じる。この差が、もし物理的に真なるものとして存在するならば、世界はすでにAの内部に二つ目の選択を持っていることになる。
したがって、本節の中心命題は次のように整理される。
物理的に真となる「空白=可能差」が存在しないとは、Aという可能度の基底となる一回分の経路の変更が存在しないということと同値である。
そして、この意味で世界は、まだ“二つ目の選択”を持たないことができる。
この命題を理解するためには、まず「物理的に真となる空白」とは何かを明確にしなければならない。
通常、私たちは二つの可能性を比べるとき、そのあいだに差があると考える。Aが起こる場合とAが起こらない場合。サイコロの目が一になる場合と一にならない場合。粒子がある位置に現れる場合と現れない場合。ある選択が成功する場合と失敗する場合。このような二分法においては、Aと非Aのあいだに明確な隔たりが置かれている。Aはこちら側にあり、非Aはあちら側にある。そして、そのあいだには「Aではなくなる差」があると考えられる。
しかし、本論文が問うのは、その差が本当に現在の内部に物理的な真として存在しているのか、という点である。すなわち、Aがまだ結果として固定されていない現在において、Aと非Aの差はすでに一個の境界として存在しているのだろうか。あるいは、その差は結果が出た後に、私たちがAと非Aを比較するために導入する判定形式なのだろうか。もし後者であるならば、Aと非Aのあいだにあるように見える空白は、現在内部に実在する差ではなく、結果後の分類によって生じる差であることになる。
ここで「空白=可能差」は、次のように定義される。
空白=可能差とは、Aへ向かう一回分の接続経路が、Aとして保存される経路から外れ、Aではないものへ変更されるために必要となる最小の差である。
この定義は、Aと非Aを単純に対立させるものではない。むしろ、Aへの経路そのものに注目する。Aが可能度として存在するためには、Aへ向かう一回分の経路が保存されなければならない。この経路は、点ではない。結果でもない。AがAとして直線化されるための接続形式である。もしこの経路が変更されるならば、AはAとして保存されなくなる可能性を持つ。したがって、Aが非Aへ移るためには、Aへの一回分の経路に何らかの変更が生じなければならない。この変更の差が、空白=可能差である。
ここで重要なのは、空白=可能差が「結果の違い」ではなく「経路の変更」であるという点である。結果だけを見れば、Aが成立した場合と成立しなかった場合の違いは明確に見える。サイコロの目が一であったか、一でなかったか。粒子がここに検出されたか、されなかったか。選択が成功したか、失敗したか。しかし、結果の違いは、すでに判定された後の違いである。本論文が問題にするのは、結果以前の現在において、AがAとして保存される経路から、AがAでなくなる経路へ移る差が、本当に物理的な真として存在するのかということである。
もしその差が存在するならば、世界はすでにAの内部に二つの経路を持っていることになる。一つは、AがAとして保存される経路である。もう一つは、AがAとして保存されなくなる経路である。その場合、現在はすでに二分されている。Aはまだ結果として現れていなくても、その内部には「Aへ向かう一回」と「Aから外れる一回」が区別されている。つまり、世界はすでに二つ目の選択を持っている。
反対に、物理的に真となる空白=可能差が存在しないならば、Aへの一回分の経路は、まだAから外れる別経路へ変更されていない。Aは、まだAとしての接続を失っていない。Aと非Aの差は、現在内部に一個の空白として固定されていない。したがって、世界はまだ二つ目の選択を持たないことができる。
この「二つ目の選択を持たないことができる」という表現は、慎重に理解されなければならない。これは、世界に変化がないという意味ではない。世界に複数の結果が現れないという意味でもない。実際の結果として、Aが成立する場合もあれば、Aが成立しない場合もある。サイコロは一を出すこともあれば、一以外を出すこともある。測定はある値を示すこともあれば、別の値を示すこともある。選択は成功することもあれば失敗することもある。こうした結果の多様性を否定する必要はない。
しかし、本論文が問うのは、結果の多様性が、現在内部に最初から二つ目の選択として存在しているのかという点である。二つ目の選択とは、AがAであり続ける接続とは別に、AがAでなくなる接続が、現在内部で独立した一回として成立していることである。もし二つ目の選択がすでに成立しているならば、現在は未分割ではない。現在には、Aへ向かう一回と、Aから外れる一回がある。その時点で、Aはすでに二種類へ分かれている。
本論文が言う「世界はまだ二つ目の選択を持たないことができる」とは、AがまだAとして保存される一回の内部にあり、Aから外れる別の一回が、現在内部に物理的な真として固定されていないということである。つまり、Aはまだ「Aができる一回」と「Aができない一回」へ分裂していない。Aへの接続は、まだ一つの可能度として保存されている。ここでは、Aの結果はまだ決まっていないかもしれない。しかし、それはAがランダムに散っているという意味ではない。Aはまだ、経路変更を受けていない一回として連続しているのである。
この議論を進めるために、「一回分の経路」という概念を明確にしなければならない。
一回分の経路とは、AがAとして成立しうるために必要な、最小限の接続のまとまりである。これは時間的な一瞬ではない。単なる空間的な線でもない。AがAとして保存されるために必要な、起点、条件、変形、保持、判定可能性を含む連続形式である。サイコロであれば、手から離れる前の姿勢、力、回転、空中の運動、接地、衝突、静止までを含む一連の接続が、一回分の経路を構成する。粒子の測定であれば、状態、場、相互作用、装置、測定過程、記録の成立までを含む関係が、一回分の経路を構成する。選択であれば、欲求、認識、判断、環境、身体運動、結果の成立までを含む連続が、一回分の経路を構成する。
この一回分の経路がAの可能度の基底である。なぜなら、Aの可能度は、Aという結果がただ頭の中に思い浮かべられることではなく、Aが現在からどれだけ直線的に保存されているかによって決まるからである。そして、その直線的保存は、必ず一回分の経路を必要とする。Aは、経路なしに可能度を持たない。Aは、ただ抽象的に「ありうる」と言われるだけでは、実量としての可能度を持たない。Aが可能度を持つためには、現在からAへ向かう一回分の経路が、Aとして保存されていなければならない。
したがって、「空白=可能差が存在しない」とは、この一回分の経路が、Aから外れる別経路へ変更されていないことを意味する。これは、経路が静止しているという意味ではない。経路は変化する。条件も変わる。運動も変わる。接続の形も揺れる。けれども、その変化がAをAとして保存する直線性を失わせていないならば、経路はまだ変更されていない。ここでいう変更とは、単なる変化ではない。変更とは、Aへの経路がAではないものへ向かう経路として独立し、Aとの一対一の保存関係を失うことである。
この区別は重要である。
変化は、Aを失わせないことがある。
変更は、Aを失わせることがある。
変化とは、Aへの接続が形を変えながらもAとして保持されることである。変更とは、Aへの接続がAとして保持されなくなり、非Aへ向かう別経路になることである。したがって、Aの可能度にとって問題なのは、経路が変化することではなく、経路が変更されることである。Aは変化しながら保存されうる。しかし、Aへの一回分の経路が変更されれば、AはAとしての可能度を失い始める。
この意味で、物理的に真となる空白=可能差が存在しないとは、Aの経路に変化がないという意味ではなく、Aの経路にAを失わせる変更がないという意味である。Aは振動しうる。揺らぎうる。まだ第一位置を持たないかもしれない。測定されていないかもしれない。結果化されていないかもしれない。しかし、それでもAへの一回分の経路がAとして保存されているならば、Aと非Aのあいだに物理的に真なる空白はまだ存在しない。Aはまだ、Aから外れていない。
ここで「同値」という言い方の意味が明らかになる。
物理的に真となる空白=可能差が存在しないこと。
これは、Aという可能度の基底となる一回分の経路の変更が存在しないことと同値である。
なぜなら、空白=可能差とは、そもそもAの経路がAではない経路へ変更されるための差だからである。もし経路変更がないなら、Aと非Aを分ける物理的な空白はない。逆に、Aと非Aを分ける物理的な空白があるなら、Aへの一回分の経路はすでにAから外れる経路へ変更されうる位置を持っている。したがって、空白の存在と経路変更の存在は、概念的に対応している。空白がなければ、変更はない。変更がなければ、空白はない。
この論理によって、世界がまだ二つ目の選択を持たないことが可能になる。
二つ目の選択とは、Aへの一回分の経路が、Aを保存する経路とは別に、Aを保存しない経路として分離することである。もし空白=可能差がないならば、この分離はまだ成立していない。Aはまだ一つの経路として連続している。Aはまだ、AであることとAでないことへ裂けていない。したがって、現在はまだ二つ目の選択を持っていない。
ここで、もう一度「選択」という語を慎重に扱う必要がある。通常、選択とは、複数の候補の中から一つを選ぶこととして理解される。AかBか、右か左か、成功か失敗か、存在か非存在か。この理解では、選択肢はあらかじめ複数ある。選択とは、その複数の中から一つを取り出す行為である。しかし、本論文における選択は、未分割の可能総量を一つの方向へ直線化することである。したがって、選択とは、最初から存在する複数候補の中から一つを選ぶことではなく、まだ分裂していない接続を、Aとして保存し続けることである。
この理解に立つならば、二つ目の選択とは、単に候補がもう一つあることではない。二つ目の選択とは、Aへの接続がAではない接続として独立し、Aとの未分割な一対一関係を破ることである。つまり、二つ目の選択が成立するためには、Aの経路に物理的に真なる空白=可能差が生じなければならない。AがAとして進む一回と、AがAとして進まない一回のあいだに、変更可能な差がなければならない。これが存在しないならば、世界はまだ二つ目の選択を持たない。
この「持たないことができる」という表現には、世界の自由に関する重要な含意がある。一般的には、自由とは選択肢を多く持つことだと考えられる。しかし、本論文では、自由とは未分裂であり続けることである。二つ目の選択を持たないことは、自由の欠如ではない。むしろ、AがまだAとして閉じられず、Aを不可能にする別経路が固定されていないという意味で、より根源的な自由である。世界がまだ二つ目の選択を持たないとは、世界がまだAをできる/できないへ二分していないということであり、そこではAへの接続はなお開かれている。
この自由は、未確定性ではあるが、無秩序ではない。Aが二つ目の選択へ分裂していないということは、Aがどこへでも散っているということではない。Aは一回分の経路を持つ。AはAへの方向性を持つ。Aは可能度の基底を持つ。したがって、Aは未分割でありながら、無方向ではない。Aは未決定でありながら、無根拠ではない。Aはまだ結果ではないが、経路を持つ。この状態こそが、可能度の本質である。
ここで、空白=可能差をさらに分析するために、「差」と「欠如」を区別しておきたい。空白という語は、しばしば欠如を思わせる。何かがない場所、埋まっていない部分、空いた隙間。しかし、本節でいう空白は、単なる欠如ではない。空白=可能差とは、AがAとして保存されることと、AがAとして保存されないことを分ける差である。つまり、それは判定可能な違いを生むための最小のずれである。もしこのずれが物理的に真であるならば、Aはすでに自分自身の内部に、Aではなくなる余地を持っていることになる。
しかし、本論文の立場では、現在内部にそのような空白が最初から存在するとは考えない。なぜなら、現在は未分割の接続可能領域であり、AはまだAと非Aへ分離していないからである。Aが非Aへ移る差が現在内部に固定されているならば、現在はすでに分裂済みである。Aは、Aとして保存される経路と、Aとして保存されない経路を同時に持つことになる。そこでは、Aの可能度はすでに二つに裂けている。
したがって、空白=可能差が存在しないとは、Aがまだ自分自身の中に非Aへの物理的な差を持っていないということである。Aは、非Aへ向かう別経路をまだ持たない。Aは、Aとしての一回をなお保持している。Aは、Aを失うための空白をまだ生んでいない。この意味で、Aはまだ一つである。ただし、それは固定された一つではない。変化し、振動し、未確定でありながらも、Aとして保存される一つである。
ここで、世界が「まだ二つ目の選択を持たない」と言えるための条件を整理することができる。
第一に、Aへの一回分の経路が保存されていること。
Aが可能度として成立するには、Aへの基底経路が必要である。この経路がなければ、Aは単なる抽象的可能性にとどまる。
第二に、その経路がAではないものへ変更されていないこと。
経路は変化してよい。しかし、AをAとして保持する方向性が失われてはならない。
第三に、Aと非Aを分ける物理的な空白=可能差が現在内部に固定されていないこと。
この空白が固定されると、AはできるAとできないAへ分裂する。
第四に、Aへの一回がまだ判定形式として切断されていないこと。
Aが結果として固定される前には、一回は連続として保存されている。
第五に、二つ目の選択が、結果後の分類としてではなく、現在内部の物理的経路として成立していないこと。
結果後にAと非Aを区別できることと、現在内部にその区別が物理的に存在していることは同じではない。
この五つの条件が満たされるとき、世界はまだ二つ目の選択を持たないことができる。
この命題は、決定論とは異なる。二つ目の選択がないからといって、Aがすでに決定されているという意味ではない。むしろ、Aはまだ結果として固定されていない。Aはまだ点化されていない。Aはまだ第一位置を持たないかもしれない。にもかかわらず、Aへの経路はAとして保存されている。ここでは、決定されていないことと、分裂していないことが両立している。Aは未決定であるが、無方向ではない。Aは不確定であるが、ランダムではない。Aは結果前であるが、経路を持つ。
この命題は、偶然論とも異なる。もし世界が根源的な偶然によって成り立つならば、Aへの経路は、ある時点で何の保存構造もなく別の結果へ飛ぶことができる。その場合、空白=可能差は真の乱数として存在することになる。AがAとして保存される経路と、Aが非Aへ変わる経路のあいだに、理由を持たない断絶が置かれる。しかし、本論文はこの断絶を認めない。少なくとも、世界の根本形式としては認めない。AがAでなくなるならば、そこには接続の減衰、保存の喪失、経路変更の過程がなければならない。無根拠な飛躍としての空白は、可能度の概念に反する。
したがって、本論文の立場は、決定論でも偶然論でもない。Aは決定済みではない。だが、ランダムに外れるわけでもない。Aは、可能度として保存されている。Aへの経路は、一回分の連続として保持されている。Aと非Aの差は、結果後に判定されうるが、現在内部で物理的に真なる空白として固定されているとは限らない。ここに、未分割の現在性の理論がある。
この理論において、物理的に真なる空白が存在しないという命題は、きわめて強い意味を持つ。それは、世界に隙間がないという意味ではない。世界が滑らかで単純であるという意味でもない。むしろ、世界には複雑な変化がある。揺らぎがある。不確定性がある。測定不能性がある。予測困難性がある。しかし、それらの複雑さは、ただちにAと非Aのあいだに物理的な断絶を置くものではない。複雑さは、接続の不在ではない。予測困難性は、経路変更の証明ではない。不確定性は、空白=可能差の存在を意味しない。
この点は、学術的には特に重要である。なぜなら、人間の認識にとって判定できない差と、世界の内部に物理的に存在する差は区別されなければならないからである。私たちがAと非Aの分岐点を知らないことと、Aと非Aの分岐点が世界の内部に存在していることは同じではない。私たちが経路変更を観測できないことと、経路変更がないことも同じではない。しかし、本論文がここで主張するのは、少なくとも、現在内部の未分割性を記述するためには、Aと非Aの差を最初から物理的な真として置くべきではないということである。まず問うべきなのは、その差が本当に一回分の経路変更として成立しているのかである。
この問いによって、可能度の分析はより厳密になる。可能度とは、Aが現在からどれだけ直線的に保存されているかであった。ここで直線的に保存されるとは、Aへの一回分の経路が、Aではない経路へ変更されずに保持されることである。したがって、可能度は、経路変更の不在としても理解できる。もちろん、これはAが動かないことではない。Aの経路は動く。変化する。振動する。条件を受ける。けれども、その変化がAをAとして保存するかぎり、Aの可能度は保持される。
この意味で、可能度は「差がないこと」によって成立するのではなく、「AをAでなくする差がないこと」によって成立する。ここに繊細な区別がある。Aの内部には多くの変化がありうる。Aへの経路には多くの揺れがありうる。しかし、それらがAを非Aへ変更する差として固定されないならば、AはなおAとして可能である。可能度とは、完全な同一性ではない。可能度とは、変化の中でAを失わない保存性である。
ここで、「空白=可能差が存在しない」という命題は、同一性の強制ではないことも確認しておく必要がある。AがAとして保存されるために、Aがまったく変化してはならないわけではない。Aが完全に同じ状態であり続けなければならないわけでもない。むしろ、Aは変化するからこそ可能度を持つ。Aが結果ではなく経路である以上、Aは時間的な変形を含む。問題は、その変形がAへの一回を保存するかどうかである。Aを失わない変化は、可能度の一部である。Aを失わせる変更は、可能差の発生である。
この区別をサイコロの比喩で考えるならば、サイコロが空中で回転している間、その姿勢は刻々と変化する。しかし、その変化は、まだ「一が出る経路」から完全に外れた変更であるとは限らない。回転、衝突、跳ね返り、摩擦は、すべて変化である。けれども、それらの変化の中で、一へ向かう可能度が保存されているならば、一はまだ現在内部から排除されていない。ある時点で一が出ないことが確定したと見なされるかもしれない。しかし、本論文が問うのは、その確定がいつ、どのような経路変更として成立したのかである。結果後に「一ではなかった」と言うことと、現在内部に「一になれない空白」が存在したことは同じではない。
この考えをさらに一般化すれば、Aが不可能になるとは、Aへの一回分の経路が、Aとして保存されなくなることである。そして、その保存喪失が物理的に真なる差として成立するとき、空白=可能差が発生する。逆に、空白=可能差が発生していないならば、AはまだAとしての経路を保持している。したがって、Aはまだ二つ目の選択へ分裂していない。
ここで、「二つ目の選択」が持つ時間論的意味も明らかになる。二つ目の選択が生まれるとは、時間がAを二つに割ることである。一つは、Aとして進む時間である。もう一つは、Aとして進まない時間である。この二つが現在内部で区別されるならば、世界はAに対して二つの時間を持つことになる。Aができる時間と、Aができない時間である。しかし、空白=可能差が存在しないならば、この二つの時間はまだ生まれていない。世界は、Aに対してまだ一回分の連続を保っている。Aの時間は、まだできる時間とできない時間へ分割されていない。
このことは、「世界はまだ二回目のサイコロを振っていない」という命題とも接続する。二回目とは、単に時間的に次に来る試行ではない。二回目とは、一回目がAとして保存される接続から分離し、Aではない別の判定として成立することである。世界がまだ二つ目の選択を持たないならば、世界はまだ二回目を持たない。Aはまだ一回の連続の内部にある。Aができる一回とできない一回は、まだ分離していない。したがって、できないことはまだ一種類として生まれていない。
この状態は、無時間ではない。時間は流れている。変化は起きている。接続は変形している。しかし、その変形はまだAを二つの時間へ割っていない。ここでの現在とは、一瞬ではなく、Aへの一回分の経路が保存される有限接続領域である。現在が有限であることは、Aがいつまでも保存されることを意味しない。しかし、現在が有限であることは、Aがすでに二つ目の選択へ分裂していることも意味しない。有限な現在の中で、Aはまだ一回として連続しうる。
このように考えると、物理的に真となる空白=可能差の不在は、未分割の現在性を支える中心条件となる。現在が未分割であるためには、Aと非Aの差が現在内部に固定されていてはならない。Aと非Aの差が固定されるならば、現在はすでに分割されている。したがって、現在が未分割であるとは、Aへの一回分の経路がまだAから外れる別経路へ変更されていないことを意味する。現在とは、空白=可能差がまだ真として成立していない場である。
ここで、空白=可能差の不在は、存在論的にも重要な意味を持つ。Aが存在するとは、Aが結果として固定されたことだけを意味しない。Aが可能度として存在するとは、Aへの経路が現在内部に保存されていることを意味する。もしAの経路に空白=可能差が生じていないならば、AはまだAとして保存されている。Aはまだ接続存在として存在している。したがって、Aの存在は、結果以前において、経路変更の不在としても理解される。
存在とは、AがAでなくなる差をまだ持たないことでもある。
この表現は逆説的に見えるかもしれない。存在とは、何かがあることではないのか。なぜ「差を持たないこと」が存在なのか。しかし、結果以前の存在においては、AがAとして保存されるために、Aを非Aへ移す差がまだ成立していないことが重要である。Aは、固定されたものとしてあるのではない。Aは、Aでなくならない接続としてある。つまり、接続存在とは、AがAとしての経路を失わずにいる状態である。この状態では、Aの存在は、Aへの経路変更が生じていないことと深く関係する。
この理解は、実量としての可能度をより精密にする。Aの可能度は、単にAへの接続素量がどれだけあるかだけではない。Aの可能度は、AをAでなくする空白=可能差がどれだけ成立していないかにも関係する。接続が豊かであることと、接続が変更されていないこと。この二つが組み合わさって、Aの可能度は実量として成立する。Aへの接続が多くても、そこにAを非Aへ切り替える空白がすでに固定されているならば、Aの可能度は不安定である。Aへの接続が有限であっても、Aを非Aへ変更する差が成立していないならば、Aはなお一回として保存されている。
ここに、可能度の二つの側面が見えてくる。
第一に、正の側面である。Aへの接続が保存されていること。
第二に、負の側面である。Aを非Aへ変更する空白がまだ成立していないこと。
この二つは同じ事態を別の側面から見たものである。Aへの経路が保存されているならば、Aを非Aへ変更する差はまだ成立していない。Aを非Aへ変更する差が成立していないならば、Aへの経路はまだ保存されている。この対応が、先に述べた同値性の核心である。
したがって、物理的に真となる空白=可能差が存在しないとは、単なる否定命題ではない。それは、Aへの可能度が基底経路として保存されていることを示す肯定命題でもある。空白がないとは、何もないという意味ではない。むしろ、AがAとして連続しているという意味である。差がないとは、区別不能という意味ではない。むしろ、Aを非Aへ切断する差がまだ成立していないという意味である。二つ目の選択がないとは、選択肢が貧しいという意味ではない。むしろ、世界がまだAを不可能性へ分裂させていないという意味である。
この観点から見ると、世界は「選択肢を持つこと」によって自由なのではなく、「二つ目の選択へ分裂しないこと」によって自由である。世界がすでに二つ目の選択を持っているならば、AはできるAとできないAへ分けられている。そこでは、自由はすでに結果候補の選択へ縮小されている。反対に、世界がまだ二つ目の選択を持たないならば、Aは未分割の一回として連続している。そこでは、自由は候補の多さではなく、接続がまだ閉じていないこととして成立する。
この自由は、可能と可能度の差分を理解するうえで欠かせない。可能だけを考えれば、Aが排除されていないと言える。可能度を考えれば、Aがどれほど保存されているかを問える。そして空白=可能差を考えれば、AがAではなくなる差が、現在内部に物理的に真として存在しているかどうかを問える。この三段階によって、可能の理解は、単なる有無から、接続の実量へ、さらに経路変更の有無へと深化する。
ここで、本節の議論をより形式的にまとめることができる。
Aを、ある現在状態Sから到達しうる事象とする。
Aの可能度は、SからAへ向かう一回分の経路Pによって支えられる。
PがAとして保存されているかぎり、Aは可能度を持つ。
PがAではない経路P’へ変更されるならば、Aと非Aのあいだに空白=可能差Dが成立する。
Dが物理的に真として存在するならば、世界はAに対して二つ目の選択を持つ。
Dが存在しないならば、PはP’へ変更されておらず、世界はまだ二つ目の選択を持たないことができる。
この形式化は、まだ数学的定式化ではない。しかし、概念の骨格を示している。重要なのは、Aと非Aをいきなり二分しないことである。まずSからAへの経路Pを考える。そして、そのPが変更されるかどうかを問う。Aと非Aの差は、PとP’の差として初めて意味を持つ。したがって、Aができるかできないかを問う前に、Aへの経路が変更されているかどうかを問わなければならない。
この問いによって、世界はより連続的に理解される。世界は、結果候補の集合ではない。世界は、経路の保存と変更の場である。Aが成立するかしないかは、結果後の判定である。Aが可能度として保存されているかどうかは、経路PがAとして保持されているかどうかで決まる。Aが不可能性へ向かうかどうかは、PがP’へ変更され、そこに空白=可能差Dが成立するかどうかによって決まる。
この構図において、世界がまだ二つ目の選択を持たないことができるという命題は、次のような意味を持つ。世界は、Aを結果としてまだ決めていない。しかし、Aを非Aへ変更する差もまだ持っていない。世界は、Aを固定していない。しかし、Aを失ってもいない。世界は、Aを一点に置いていない。しかし、Aへの経路を保存している。世界は、Aを選び終えていない。しかし、Aを選べなくする二つ目の選択を生んでもいない。
この状態が、未分割の現在性である。
未分割の現在性とは、Aがまだ結果として切り出されていないだけではない。未分割の現在性とは、AをAでなくする差が、現在内部にまだ物理的な真として成立していないことである。AはまだAとしての一回を持つ。Aへの経路はまだ変更されていない。Aはまだ非Aへ分かれていない。だからこそ、現在は未分割である。
この理解は、不可能性のなさをさらに明確にする。不可能性のなさとは、Aが必ず実現することではない。不可能性のなさとは、Aを不可能にする空白=可能差が、現在内部にまだ成立していないことである。Aが不可能になるためには、Aへの経路PがAではない経路P’へ変更されなければならない。その変更がないかぎり、Aはまだ不可能性として一個に固定されない。Aはまだ可能度として残る。
ここで、本節の最後に、中心命題を一つの形に収束させたい。
物理的に真となる空白=可能差が存在しないとは、Aへの一回分の経路が、Aを失う別経路へ変更されていないということである。
Aへの経路が変更されていないならば、AはまだAとして保存されている。
AがまだAとして保存されているならば、AはまだできるAとできないAへ分裂していない。
Aがまだ分裂していないならば、世界はまだ二つ目の選択を持たないことができる。
世界がまだ二つ目の選択を持たないならば、現在は未分割の接続領域として成立している。
この命題は、可能という語を最も基礎的なところから再定義する。可能とは、単にAが起こりうることではない。可能とは、Aへの経路がまだAではない経路へ変更されていないことである。可能度とは、その経路がどれほどAとして保存されているかである。可能総量とは、その保存の総体である。不可能性とは、AをAでなくする空白=可能差が成立し、Aへの経路が変更される過程である。
そして、世界がまだ二つ目の選択を持たないことができるということは、世界がまだAを不可能性へ閉じ込めていないということである。世界は有限である。Aへの経路も有限である。しかし、その有限な経路がAとして保存されているかぎり、Aはまだ非Aへ分裂していない。世界はまだ、Aをできることとできないことの二種類へ切断していない。
したがって、空白=可能差の不在は、世界が未分割であり続けるための最小条件である。Aへの一回分の経路が変更されていないかぎり、現在はまだ二つ目の選択を持たない。現在がまだ二つ目の選択を持たないかぎり、Aはまだ不可能性として一個に固定されない。Aがまだ不可能性として固定されないかぎり、世界はなお、AをAとして保存する可能度の場であり続けるのである。




