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真の乱数と不可能性の関係


■ 第四節 有限な世界と、まだ生まれていない不可能性


——Aを直線化する一回と、真の乱数を排除する方向性——



世界は有限である。


この命題は、本論文において避けることのできない前提である。世界が有限であるということは、世界の中に現れるあらゆる事象が、何らかの範囲、何らかの条件、何らかの時間幅、何らかの保存形式の内部でしか成立しないということである。身体は無限に動かない。物体は無限の速度を持たない。情報は無限の精度で即時に伝わらない。測定は無限に細かく行われない。ある出来事が成立するためには、それを支える条件が必要であり、その条件は常に有限の範囲内に置かれている。


この意味で、世界には制約がある。限界がある。到達できる範囲と到達できない範囲の差がある。時間の長さ、空間の距離、力の大きさ、情報の密度、観測の精度、接続の保持力は、すべて有限である。したがって、本論文は「何でも可能である」という無制限な開放を主張しない。無限の可能性を世界の根底に置き、すべての事象が同じように開かれていると考えるならば、Aと非Aの区別そのものが崩れてしまう。AがAであるためには、Aではないものとの差が必要であり、その差が成立するためには、世界がどこかで有限でなければならない。


しかし、ここでただちに次のように言ってはならない。


世界が有限であるならば、できないことはすでに存在している。


この推論は、見かけほど自明ではない。世界が有限であることと、「できないこと」が一種類の固定された事象としてすでに世界の内部に存在していることは、同じではない。有限性は、条件の限定を意味する。しかし、その限定がただちに一個の不可能性を生むとは限らない。有限性は、接続を制約する。だが、制約された接続がどのように変形されるのか、どの程度保持されるのか、どこで判定可能性を失うのかは、別に問われなければならない。


本節の第一の命題は、ここにある。


世界は有限であるが、世界はまだ「できないことが存在する」という時間を生んでいない。


この命題は、一見すると矛盾しているように見える。有限であるならば、できないことがあるはずである。できないことがあるならば、それはすでに存在しているのではないか。そう考えるのが通常である。しかし、本論文が問題にしているのは、「ある結果が成立しなかった」という事後的な判定ではない。問題は、現在の内部において、「Aができない」という不可能性が、一個の事象として、あるいは一種類の境界として、すでに固定されているのかという点にある。


世界が有限であるとは、Aへ向かう接続が無限ではないということである。ところが、Aへ向かう接続が無限ではないことは、Aへ向かう接続がすでに断絶していることを意味しない。有限な接続は、なお接続でありうる。限られた時間、限られた条件、限られた力、限られた情報の中であっても、Aへの接続が保持されているならば、Aはまだ現在から切断されていない。Aが結果として現れていなくても、Aを不可能にする一個の固定境界がまだ成立していないならば、Aは可能性の場に残っている。


したがって、「できないことが存在するという時間」とは、単にAがまだ成立していない時間を意味しない。それは、Aが現在から完全に切断され、AをAとして保持する可能総量が失われ、Aへの接続が一個の不可能性として固定される時間を意味する。この時間が生まれるためには、世界はAを「できるA」と「できないA」へ完全に分裂させなければならない。Aへの接続がまだ変形可能であり、Aとしての方向性を失っておらず、Aと非Aの境界が現在内部で完全には固定されていないならば、世界はまだ「Aができない」という一種類の時間を生んでいない。


この理解は、有限性を否定しない。むしろ有限性を、固定された不可能性ではなく、接続保持の範囲として考える。世界は有限である。だから、Aは無限に開かれてはいない。Aは一定の条件のもとでしか保持されない。Aへの接続は減衰しうる。Aは失われうる。Aは非Aへ切断されうる。しかし、Aが失われうるということと、Aがすでに失われているということは異なる。世界がAを失う可能性を持つことと、世界がAを失った状態を現在内部に一個の事象として持っていることは異なる。


この差分こそが、本論文の題名に含まれる「可能と可能度の差分」である。


可能とは、Aが現在から排除されていないことである。可能度とは、Aが現在からどこまで直線的に保存されているかである。世界が有限である以上、可能度は無限ではない。可能度は範囲を持ち、強度を持ち、減衰を持ち、保存可能な時間幅を持つ。しかし、可能度が有限であることは、Aへの接続が一個の不可能性へ閉じていることを意味しない。むしろ、可能度とは、有限でありながらなおAへの接続を保持している量である。


このとき、可能度は一つの場として理解される必要がある。場とは、複数の点がただ並んでいる集合ではない。場とは、ある状態が別の状態へ向かう関係を保持し、変形し、配分し、保存する領域である。可能度を場として考えるならば、Aは単なる結果候補ではなく、その場の中に保持された方向性として現れる。Aはまだ一点として固定されていない。けれども、Aへの方向は消えていない。Aは、可能度の場の中で、現在から未来へ向かう接続として保存されている。


この場としての可能度において、Aという事象そのものは、ある一点において保存されなければならない。


ここでいう「一点」とは、結果としてすでに固定された一点ではない。Aが完全に現実化した後の固定点ではない。ここで問題となる一点とは、AがAであるための保存核である。Aへ向かう接続がどれほど変形されても、AがAとして失われないためには、Aの方向性を保持する最小の保存点が必要である。この保存点がなければ、Aへの接続は単なる拡散になってしまう。さまざまな経路が存在しても、それらが何へ向かっているのかが失われるならば、それはAの可能度ではなく、無方向な変動である。


したがって、Aという事象を可能度の場として扱うためには、Aは完全な結果として固定される必要はないが、Aとして保持される必要はある。ここに重要な区別がある。


Aを固定することと、Aを保存することは同じではない。


Aを固定するとは、Aを一つの結果、一つの判定、一つの停止点として閉じることである。これに対して、Aを保存するとは、Aがまだ結果として現れていなくても、Aへの方向性を失わずに保つことである。固定は終点を意味する。保存は接続を意味する。固定されたAは、すでに結果である。保存されたAは、まだ直線化されうる可能総量である。


本論文が定式化しようとしている命題は、この保存されたAを中心にしている。Aが保存されていなければ、可能度はAの可能度にならない。Aが完全に固定されてしまえば、可能度は結果に変わり、未分割の現在性は失われる。したがって、Aは固定されてはならないが、保存されなければならない。Aは結果になってはならないが、Aでなくなってもならない。Aは非Aへ散逸してはならないが、閉じたAとして停止してもならない。この緊張の中で、可能と可能度の差分が定式化される。


世界にできないことを一種類生まないためには、Aをこの意味で保存しなければならない。Aが保存されていないならば、Aへの接続は崩れ、Aは非Aへ散逸し、不可能性が一種類のものとして現れる。反対に、Aが結果として固定されすぎるならば、Aはすでに現実化された一点となり、可能度の未分割性は失われる。そこで必要になるのが、「Aを完全な状態で直線にする」という考えである。


Aを完全な状態で直線にするとは、Aを結果として完成させることではない。ここでいう完全とは、AがAとしての保存核を失っていないという意味である。Aへの接続が、途中で非Aへ分裂したり、Aであることの判定可能性を失ったり、Aの方向性を失ったりしないという意味である。したがって、Aの完全な直線化とは、Aを他のすべての可能性から排他的に切り離すことではなく、AがAとして接続され続けるように、未分割のまま方向を保つことである。


直線化は、排除ではない。直線化は、保存である。


Aを直線にするとは、Aを他の可能性の中から選び出して固定することではない。むしろ、Aへの接続が、現在内部で「できるA」と「できないA」へ分裂しないように、Aとしての一回を保つことである。この「一回」は、結果として数えられる一回ではない。サイコロを振った後に「一回目は一だった」「二回目は三だった」と数えるような一回ではない。ここでいう一回とは、AがAとして保存される連続の単位である。


一回を連続する。


この表現は、通常の言い方からすれば奇妙である。一回とは、普通、切り出された出来事である。一回は始まり、終わり、数えられる。ところが、本論文では、一回を、切断された単位としてではなく、連続した保存単位として理解する。一回とは、連続する現在性を後から切り出した判定形式ではあるが、その判定以前に、一回として保存される接続が存在する。つまり、一回とは、結果後に数えられる数ではなく、結果以前にAをAとして保つ連続の形式である。


世界にできないことを一種類生まないためには、この一回が連続していなければならない。Aへの接続が途中で二回に割れ、一方が「Aができる時間」、他方が「Aができない時間」として分離されるならば、世界はAを二つに割ったことになる。そのとき、AからAを行えないという不可能性が、一個の種類として生まれる。つまり、「AができるA」と「AができないA」という差が、現在内部に固定される。これに対して、一回が連続しているとは、Aがまだできる/できないへ完全分裂しておらず、Aへの接続がAとして保存されていることを意味する。


この一回の連続は、一対一でなければならない。


ここでいう一対一とは、Aがただ一つの結果へ機械的に向かうという意味ではない。A以外のすべてが消えるという意味でもない。一対一とは、Aへの接続がAとして失われず、現在からAへ向かう保存関係が、Aを別のものへ散逸させずに保たれることを意味する。SからAへの関係が、一つの接続として維持されること。Aが非Aへ完全に裂けないこと。Aが「できるA」と「できないA」へ二種類化しないこと。これが、本論文における一対一である。


この一対一が保存されているかぎり、世界はまだ「できないこと」を一種類として生んでいない。世界は有限である。Aへの接続は無限ではない。しかし、Aへの接続がAとして連続しているならば、不可能性はまだ一個の固定境界として成立していない。ここで「不可能性のなさ」という概念が現れる。


不可能性のなさとは、不可能な結果が永久に存在しないという意味ではない。世界に失敗がないという意味でも、未達成がないという意味でもない。不可能性のなさとは、Aが現在内部で一個の不可能性として固定されていない状態を意味する。Aへの接続がまだAとして保存されており、できるAとできないAの差が一種類の事象として生まれていない状態である。


したがって、不可能性のなさは、無限の可能性ではない。むしろ、有限な接続の保存である。


この点を明確にしなければならない。不可能性のなさを無限可能性として理解すると、本論文の議論は崩れる。なぜなら、無限可能性ではAと非Aの区別が消えてしまうからである。Aが何にでもなれるならば、AはAではない。Aがすべてへ拡散するならば、Aへの直線性は失われる。本論文が求めるのは、無限に開かれた可能性ではなく、有限でありながら未分裂の可能度である。Aは、有限な範囲で保存される。Aは、無限に漂うのではない。Aは、一つの方向へ直線化される。けれども、その直線化は、Aを結果として固定するものではなく、Aへの接続を一回として保つものである。


この不可能性のなさは、真の乱数の問題へ接続する。


真の乱数とは、ここでは、過去の接続や現在の保存構造から導かれず、いかなる連続的可能度にも支えられずに、ある値が突然出現することを意味する。もちろん、数学や物理学における乱数の概念には多くの定義があり、ここでそれらを安易に統一することはできない。本論文が問題にするのは、哲学的な意味での真の乱数である。すなわち、AがAである理由が、世界の連続構造の内部に保存されておらず、完全な断絶として現れるという考えである。


もし真の乱数が世界の根底にあるならば、AはAへの接続から生じるのではない。Aは、接続の保存ではなく、断絶から生じる。AがなぜAであるのかは、現在内部の可能総量から説明されない。Aは突然現れ、Aであったという結果だけが残る。この場合、Aの結果存在は成立するかもしれない。しかし、Aの接続存在は失われる。Aは結果としては現れるが、Aへ向かう直線性は存在しない。つまり、Aは固定点を持つが、固定点を支える保存構造を持たない。


本論文の立場からすれば、このようなAは、強い実在ではない。むしろ、それは実在として脆い。なぜなら、AがAである理由を、A以前の連続性の中に持たないからである。結果だけがあり、接続がない。表示だけがあり、保存がない。判定だけがあり、可能度がない。このようなAは、一見すると明確に存在しているように見えるが、その存在は接続を欠いた孤立点である。


真の乱数の排除とは、この孤立点を世界の根本原理として認めない方向性である。


ここで「排除」という語は、慎重に扱う必要がある。これは、現在の数学や物理学において、すべてのランダム性を否定するという意味ではない。観測上の乱雑さ、予測不能性、統計的ばらつき、測定限界、複雑系における初期値鋭敏性などを否定するものではない。本論文が排除しようとしているのは、接続を完全に持たない根源的断絶としての真の乱数である。世界の内部でAが生じるとき、Aがいかなる保存構造にも属さず、ただ無根拠に現れるという考えである。


この方向性は、リーマン予想の問題と象徴的に接続される。


リーマン予想そのものは、ゼータ関数の非自明な零点がすべて臨界線上にあるという数学的命題であり、本論文の哲学的命題によって直接証明されるものではない。ここで重要なのは、リーマン予想を安易に哲学へ還元することではなく、そこに現れる「乱雑に見える分布が、実は深い構造を持つのではないか」という方向性である。素数の分布は一見すると不規則であり、完全に予測しにくい。けれども、その不規則性は、単なる無秩序ではなく、ゼータ関数の零点構造と結びついている。つまり、見かけの乱雑さの背後に、隠れた連続的あるいは解析的な構造がある可能性が示されている。


本論文は、この方向性を実在論的に読み替える。すなわち、世界に現れる不規則性や予測不能性は、ただちに真の乱数を意味しない。むしろ、それは私たちがまだ読み取れていない可能度の場、接続の保存構造、未分割の可能総量の現れであるかもしれない。もしそうであるならば、不規則に見える結果も、完全な断絶としてではなく、深い一対一接続の表面として理解される。結果は乱雑に見える。しかし、その背後には、AをAとして保存する構造がある。点は散らばって見える。しかし、その散らばりは完全な無根拠ではない。


リーマン予想における真の乱数の排除とは、この意味で理解されるべきである。つまり、素数や零点の分布が見かけ上どれほど不規則であっても、その不規則性が根源的な断絶ではなく、解析的構造の中で保存された差分として現れているのではないか、という方向性である。本論文に引き寄せて言えば、そこでは「できないこと」が一種類として生まれていない。すなわち、分布が完全な無秩序へ落ちているのではなく、なお一つの構造として接続されている。乱雑に見えるものが、真の乱数として世界から切断されるのではなく、未読の可能総量として保存されている。


この方向性は、本論文の不可能性のなさと対応する。Aができないという一個の不可能性が現在内部に固定されていないように、乱数として見えるものも、ただちに根源的な無秩序として固定されるべきではない。見かけ上の不規則性は、接続の欠如ではなく、接続の未読性である可能性がある。つまり、私たちがまだ一対一の保存関係を読み取れていないだけで、世界そのものはAからAへの直線性を失っていないかもしれない。


もちろん、ここには慎重さが必要である。リーマン予想は数学的命題であり、真偽は厳密な証明によってのみ決まる。本論文の議論は、リーマン予想を証明するものではない。また、数学的なランダム性のすべてを否定するものでもない。ここで提示されるのは、哲学的方向性である。すなわち、真の乱数を、世界の根底にある説明不可能な断絶として受け入れるのではなく、見かけの乱雑さの背後に、なお保存された可能度の構造が存在するのではないかと問う方向性である。


この方向性は、有限な世界と矛盾しない。むしろ、有限であるからこそ必要になる。世界が無限ならば、乱雑さも無限定に拡散しうる。Aと非Aの区別も消える。けれども、世界は有限である。有限である以上、そこには構造が必要である。接続が必要である。保存が必要である。有限な世界が完全な真の乱数によって支配されるならば、世界はその都度、断絶した点の集まりになってしまう。そこでは、AがAである理由は保存されない。過去から現在へ、現在から未来へ向かう実在の連続性は維持されない。


したがって、本論文の立場では、有限な世界は、単なる乱数の集積ではなく、可能度の保存場でなければならない。有限性は、世界を閉じるものではなく、AをAとして保存するための範囲を与える。有限であるから、Aは無限に拡散しない。有限であるから、AはAとして直線化されうる。有限であるから、Aへの一回が保存される。そして、その一回が保存されるかぎり、世界はまだ「Aができない」という一種類の時間を生んでいない。


この考えを、より明確な命題として定式化するならば、次のようになる。


世界は有限である。

しかし、有限であることは、できないことが現在内部に一個の事象として存在していることを意味しない。

できないことが一種類として生まれるためには、Aへの接続がAとして保存されなくなり、Aが非Aへ完全に切断されなければならない。

その切断が起こるまでは、Aは未分割の可能度として現在内部に保持されている。

したがって、世界は有限でありながら、なお不可能性を一個として生んでいない。


この命題が、本節の核心である。


ここで「Aを完全な状態で直線にする」という表現の意味も再度明確になる。Aを完全な状態で直線にするとは、Aを完成した結果にすることではない。Aを、Aとして失わないように保存することである。AがAであるための保存核を維持し、Aへの接続ができるAとできないAへ裂けないようにし、Aを一つの未分割な一回として連続させることである。この直線化が成立しているかぎり、Aはまだ不可能性へ落ちていない。Aは、有限な世界の内部で、なおAへの接続として存在している。


この直線化は、可能と可能度の差分を必要とする。もし可能だけを考えるならば、Aが排除されていないことは言える。しかし、Aがどの程度保存されているかはわからない。もし確率だけを考えるならば、Aは分割済みの候補として扱われる。しかし、Aが分割以前の現在でどのように接続されているかはわからない。可能度を導入することで初めて、Aが現在内部でどのように保存され、どのように直線化され、どのように不可能性へ落ちないでいるのかを問うことができる。


このために、本論文は「可能と可能度の差分について」という命題を定式化してきた。可能とは、Aが排除されていないこと。可能度とは、Aが現在からどれだけ直線的に保存されているか。可能総量とは、Aへの接続が未分割のまま保持されている総体。実在量とは、その保存された可能度が、AをAとしてどれだけ現在内部に保っているか。これらの概念は、いずれも不可能性を一個の固定点として扱わないために必要である。


なぜなら、不可能性を一個の固定点として扱った瞬間、世界はAを二つに割るからである。Aができる時間と、Aができない時間。Aが成立する領域と、Aが成立しない領域。Aへ向かう接続と、Aから切断された非A。この二分は、結果後の判定としては有効である。しかし、現在内部の未分割な可能度を記述するには粗すぎる。世界は、結果後の表ではない。世界は、AがAとして保存されるかどうかをめぐる連続的な場である。


この場において、真の乱数は危険な概念である。真の乱数は、AがAとして保存される必要を奪うからである。Aは突然生じる。Aは接続を持たない。Aは理由を持たない。Aはただ結果として現れる。もしこれを世界の根本原理に置くならば、可能度の場は断ち切られる。Aへの一対一接続は成立しない。Aの一回は連続しない。Aは保存されず、ただ出現する。そこでは、不可能性のなさも成立しない。なぜなら、Aが接続から生じないならば、Aが生じないこともまた接続から説明されないからである。できることもできないことも、同じく断絶として現れる。


これに対して、リーマン予想に象徴される方向性は、乱雑に見えるものの背後に構造を求める。点の散らばりを、単なるばらつきとしてではなく、深い解析的関係の表面として読む。これは、本論文の語彙で言えば、結果の乱雑さを、可能度の保存構造として読み直す方向性である。真の乱数を根源に置くのではなく、見かけの不規則性の背後に、なお一対一に保存された接続があるかどうかを問う方向性である。


この対応は、直接的な証明関係ではなく、構造的な類比である。リーマン予想が成立するならば、素数分布の不規則性は、完全な無秩序ではなく、ゼータ関数の零点配置という深い規則性に結びつく。そこでは、見かけの乱雑さは、真の乱数ではなく、未解読の構造として現れる。本論文が求める世界像も同様である。世界に現れる「できなさ」や「予測不能性」は、ただちに根源的断絶ではなく、可能度の保存構造がまだ読み取られていない状態として理解されるべきである。


この意味で、不可能性のなさと真の乱数の排除は、同じ方向を向いている。どちらも、世界を断絶した点の集合としてではなく、保存された接続の場として理解しようとする。どちらも、結果のばらつきや未達成を、ただちに無根拠なものとして固定しない。どちらも、AがAであるための直線性を問う。どちらも、有限な世界の中で、なお未分割の一回が連続しているかどうかを問う。


ここに、本論文の基本的な世界像が現れる。


世界は有限である。

世界は、無限の可能性を持つ場ではない。

しかし世界は、できないことが一種類としてすでに生まれている場でもない。

世界は、Aへの接続を有限な範囲で保存し、その接続をAとして直線化し、Aの一回を一対一で連続させる場である。

この連続が保たれているかぎり、Aはまだ不可能性へ閉じられていない。

Aは、結果ではなく、直線的可能総量として存在している。


この世界像において、存在とは、固定された結果だけではない。存在とは、AがAとして保存されていることでもある。Aがまだ結果化していなくても、Aへの接続が可能度の場に保持され、Aの一回が連続しているならば、Aは接続存在として存在している。そして、この接続存在が結果として切り出されたとき、Aは結果存在となる。したがって、存在は結果から始まるのではなく、保存から始まる。


この保存は、世界が不可能性を一種類として生まないための条件である。Aが保存されないならば、Aは非Aへ散逸し、AからAを行えないという不可能性が一個のものとして立ち上がる。Aが保存されるならば、AはまだAとして直線化されうる。Aが直線化されるならば、Aへの一回は連続する。Aへの一回が連続するならば、世界はまだAをできる/できないへ完全には分裂させていない。


ゆえに、不可能性のなさとは、Aが無限に開かれていることではない。

不可能性のなさとは、Aが有限な世界の中で、なおAとして保存されていることである。

真の乱数の排除とは、Aが無根拠に出現しないということである。

真の乱数の排除とは、AがAとして現れるための接続が、たとえ未読であっても、世界のどこかで保存されていると問うことである。

リーマン予想に向かう方向性とは、乱雑に見える分布の背後に、断絶ではなく構造を求めることである。

本論文における可能度の方向性とは、できないように見える事象の背後に、固定された不可能性ではなく、接続の保存または喪失の構造を求めることである。


この二つの方向性は、同じ問いを別の領域で反復している。


世界は、点の集まりなのか。

それとも、点が点として現れる以前に、それらを保存する接続の場なのか。


本論文は後者を選ぶ。世界は、結果の集積ではなく、結果を生みうる接続保存の場である。可能とは、その場の中でAが排除されていないことである。可能度とは、そのAがどれほど直線的に保存されているかである。可能総量とは、その保存の総体である。不可能性とは、その保存が失われていく過程であり、最初から現在内部に置かれた一個の固定点ではない。


したがって、世界は有限であるが、まだできないことが存在するという時間を生んでいない。

世界は有限であるが、まだAをできるAとできないAへ完全には裂いていない。

世界は有限であるが、なおAを一回として連続させる場である。

世界は有限であるが、真の乱数という断絶にすべてを譲り渡してはいない。

世界は有限であるが、AがAとして保存される可能度を失っていない。


この地点において、「可能とは何か」という第一章の問いは、単なる語義の問題を超える。可能とは、世界がまだ不可能性を一種類として生んでいないことの形式である。可能度とは、その未分裂性が、どれだけAとして保存されているかを示す実量である。Aを完全な状態で直線にし、一対一で連続できる一回を保持することは、世界がAをまだ不可能性へ閉じていないことを意味する。


そして、この保持こそが、有限な世界における実在の最も基礎的な姿である。


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