物理的可能限界について
■ 第三節 物理的可能限界を「一」にしないために
——有限時間内の一対一関係と、“動けない一点”を持たない世界——
本節で扱う問題は、前節までに提示された「可能」および「可能総量」の議論を、より根本的な限界の問題へ接続することである。前節では、可能な事象を、単に結果候補としてではなく、「ある現在状態Sから、ある事象Aへ向かう接続」として理解した。そこでは、Aが可能であるとは、Aという結果があらかじめどこかに準備されていることではなく、SからAへ向かう連続的接続がまだ保存されていることを意味していた。そして、その接続の素量が現在内部にどれだけ保持されているかを、実量としての可能総量と呼んだ。
本節では、そこからさらに一つの問いを立てる。
物理的な可能限界は、いつ「一個の不可能性」になるのか。
この問いは、「何ができるか」という実践的な問いではない。また、「世界には限界があるか」という一般的な問いでもない。ここで問われているのは、限界が存在する場合、その限界は本当に現在の内部で一個の固定点として成立しているのか、という問題である。つまり、ある事象Aについて、Aができないということは、現在の内部に「Aはできない」という一つの決定済みの境界が置かれていることを意味するのか。それとも、「Aができない」という状態は、接続が弱まり、減衰し、判定可能性を失いながら、ある有限時間内で徐々に形成されていく過程なのか。
この問いは、本論文全体の中心命題と直接関係している。すなわち、直線的に「一つのことができる」と「一つのことができない」が、まだ固定的な一点として存在していない限り、AからAを行えないという不可能性は、現在の内部にはまだ一個として存在していない、という命題である。本節では、この命題を「物理的可能限界を一にしない」という言い方で捉え直す。
ここでいう「一」とは、単なる数字ではない。「一」とは、世界がある可能性を、一個の確定した境界として閉じる形式である。たとえば、「ここから先は絶対にできない」「この時点でAは完全に排除された」「この位置に到達することは不可能になった」というように、可能と不可能のあいだに一つの断絶点が打たれるとき、世界は限界を「一」にしていると言える。限界が一になるとは、不可能性が一種類のものとして、現在の内部に固定されることである。
しかし、本論文はこの固定をただちに受け入れない。なぜなら、現在を未分割の接続可能領域として理解するならば、その内部に最初から一個の不可能性が置かれているとは考えにくいからである。現在とは、結果へ切り出される前の保存領域であり、AがまだAとして固定されず、同時に非Aへも完全には切断されていない領域である。したがって、現在内部に「Aができない」という一個の不可能性がすでに存在していると考えるならば、現在はもはや未分割ではなくなる。現在の内部には、Aができる領域と、Aができない領域という二つの領域があらかじめ分離していることになる。
本節が問うのは、まさにこの点である。
ある有限時間内において、できないことを一個にしないためには、可能総量はどのような構造を持たなければならないのか。
この問いを考えるために、まず「物理的な可能限界」という語を整理しておく必要がある。物理的な可能限界とは、世界の中である事象Aが実現されるために必要な条件が、有限な状態、有限な力、有限な時間、有限な情報、有限な接続によって制約されることを意味する。人間の身体は無限に動けない。物体は無限の速度で移動できない。情報は無限の精度でただちに伝達されない。ある行為には時間が必要であり、ある変化には媒介が必要であり、ある到達には経路が必要である。この意味で、世界には限界がある。
しかし、限界があることと、限界が一個の不可能性として現在の内部に固定されていることは同じではない。ここを区別しなければならない。たとえば、身体には動ける範囲がある。腕は一定の長さしかなく、筋力にも限界がある。したがって、ある距離の外にある物体を、今この瞬間に素手でつかむことはできない。これは明らかに限界である。けれども、そのことは、現在の内部に「その物体をつかむことは絶対に不可能である」という一個の不可能性が固定されていることを意味するのだろうか。
必ずしもそうではない。なぜなら、物体へ近づくこと、道具を使うこと、誰かに渡してもらうこと、時間をかけて移動すること、環境を変えることによって、その物体をつかむというAへの接続は別の形で保存されうるからである。今この瞬間に腕だけで届かないという限界は存在する。しかし、その限界は、A全体を一個の不可能性として閉じるものではない。そこにあるのは、「この姿勢、この距離、この身体状態、この時間幅では届かない」という局所的な接続制約であって、Aへの全体的な接続喪失ではない。
この区別が重要である。物理的限界は、ただちに不可能性ではない。物理的限界は、まず接続の形式を変える。直接つかめないなら、近づく。近づけないなら、道具を使う。道具がなければ、作る。作れなければ、誰かを呼ぶ。誰もいなければ、別の時間を待つ。このように、Aへの接続は、単一の経路が閉じたからといって直ちに消滅するわけではない。むしろ、可能総量は、複数の経路変形を通じて、Aへの直線性をなお保持しようとする。
ここで「一対一関係」という概念が導入される。
本論文でいう一対一関係とは、「一つの現在状態Sが、一つの結果Aへ機械的に対応している」という意味ではない。また、「一つの原因が一つの結果を必ず生む」という単純な因果関係でもない。ここでいう一対一関係とは、有限時間内において、現在状態Sから事象Aへ向かう接続が、Aを完全に失わないまま、その都度ひとつの到達可能性として保持されている関係を意味する。
より正確に言えば、一対一関係とは、SからAへの可能総量が、まだ「できるA」と「できないA」へ完全分裂していない状態で、Aへの接続を一つの方向性として保存していることである。ここでの「一」は、固定された結果の一ではない。むしろ、未分割の接続としての一である。Aへ向かう接続が、複数の候補へ散らばりながらも、なおAという方向性を失っていないとき、その可能総量は一対一の未分割接続を保持している。
したがって、一対一関係とは、結果の一対一対応ではなく、接続の一対一保存である。
この点を誤解してはならない。一般に一対一という語は、数学的には、ある集合の各要素が別の集合の各要素と重複なく対応することを想起させる。しかし、本論文で問題にしている一対一は、まだそのような完成した対応関係ではない。完成した対応関係は、すでに対象が分割され、要素が確定され、写像が定義された後に成立する。これに対し、本論文が扱う一対一関係は、分割以前の現在性において、Aへの接続がなお一つの方向性として保存されていることを指す。つまり、それは完成した写像ではなく、写像が成立しうる前段階の接続保持である。
ここから、「可能総量が取りうるべき一対一関係」の基礎的な理解が得られる。可能総量は、ただ多ければよいのではない。可能総量は、Aへ向かう接続を、Aとして保持する必要がある。接続が多くても、それらが互いにばらばらで、Aへの方向性を失っているならば、それはAの可能総量としては弱い。反対に、接続が複雑に変形していても、それらがAへの到達可能性をなお保存しているならば、可能総量はAとの一対一関係を保っている。ここでの一対一とは、AがまだAとして消えていないこと、Aが非Aへ完全に散逸していないこと、Aへの接続がなおAという方向を持っていることを意味する。
この理解に立つと、物理的可能限界を「一」にしないためには、限界を結果境界としてではなく、接続変形として理解しなければならないことがわかる。限界が現れたとき、ただちに「ここでAは不可能になった」と考えるのではなく、「Aへの接続はどのように変形したのか」と問う必要がある。できないことを一個にしないためには、できないという判定を、現在内部の固定点として扱ってはならない。できないとは、ある接続形式が閉じたことではあっても、Aへのすべての接続可能性が消滅したことではない場合がある。したがって、不可能性を一種類にする前に、接続の変形、迂回、減衰、残存、転位を見なければならない。
ここで「存在は、いつ存在になるのか」という問いが生じる。
この問いは、可能総量の議論において避けることができない。Aがまだ結果として現れていないとしても、Aへの可能総量が現在内部に保存されているならば、Aはどのような意味で存在しているのか。Aは、結果として存在する前に、可能として存在していると言えるのか。もし言えるとすれば、その存在はいつ始まるのか。Aは、私たちがAを考えたときに存在するのか。Aへの物理的条件が整ったときに存在するのか。Aへの接続素量が形成されたときに存在するのか。それとも、Aが現実化した時点で初めて存在するのか。
本論文は、存在をただ結果の成立に限定しない。結果としてのAは、たしかに一つの存在形式である。サイコロの目が一として静止したとき、「一が出た」という存在は成立している。物体が机の上に置かれたとき、「物体が机の上にある」という存在は成立している。人が山頂に到達したとき、「山頂に到達した」という存在は成立している。しかし、これらはすべて結果存在である。結果存在は、すでに接続が一つの判定形式へ切り出された後の存在である。
一方、本論文が問題にするのは、結果存在以前の存在である。Aがまだ起こっていないにもかかわらず、Aへ向かう可能総量が現在内部に保存されているとき、Aは接続存在として存在している。接続存在とは、Aがまだ点として固定されていないが、Aへ向かう直線性として現在に含まれている状態である。Aは結果ではない。Aはまだ「これがAである」と指し示せる固定点を持たない。しかし、Aへの接続がある。Aへ向かう方向がある。Aとして保存されうる素量がある。そのとき、Aは接続として存在している。
したがって、「存在はいつ存在になるのか」という問いへの本論文の第一の答えは、次のようになる。
存在は、結果になったときだけ存在になるのではない。存在は、現在内部において、あるAへ向かう接続がAとして保存され始めたとき、すでに接続存在として成立し始める。
この答えは、存在を拡張する。しかし、無制限に拡張するわけではない。何でも考えれば存在する、という意味ではない。Aが接続存在として成立するためには、Aへの可能総量が現在内部に何らかの実量として保存されていなければならない。単なる想像、単なる語、単なる論理的非矛盾だけでは足りない。Aが現在からまったく接続されていないならば、Aは接続存在としては存在していない。Aが接続存在として成立するためには、「何から何ができるか」という構造の中で、Aへの接続素量が保持されている必要がある。
この意味で、存在は二段階で理解される。
第一に、接続存在である。これは、Aが現在内部において、Aへ向かう可能総量として保存されている状態である。
第二に、結果存在である。これは、Aが判定可能な固定点として切り出され、「Aである」と言える状態である。
重要なのは、結果存在が接続存在を完全に否定するわけではないという点である。むしろ、結果存在は、接続存在が一つの判定形式へ収束したものである。Aが現実化するとは、Aへの可能総量が、ある有限時間内でAとして切り出されることである。したがって、Aの存在は、突然無から現れるのではない。Aは、接続として保存され、その接続がある条件のもとで結果として現れる。この意味で、存在は、接続から結果へと変形する。
この理解は、「ある有限時間内にこそできないことを一個にしない」という本節のもう一つの問題へ接続する。ある有限時間内において、Aが結果として成立しなかったとする。このとき、通常の理解では、「Aはできなかった」と言われる。しかし、本論文はここで問いを立てる。Aがその有限時間内に結果として成立しなかったことは、Aがその有限時間内に一個の不可能性として存在していたことを意味するのか。
この問いに対する答えは、慎重でなければならない。もちろん、ある有限時間内にAが実現しなかったという事実はある。その時間内にAが結果存在として成立しなかったことは否定できない。しかし、それをただちに「その時間内にAは不可能であった」と読み替えることはできない。なぜなら、Aが結果として成立しなかったことと、Aへの接続存在が完全に失われていたことは同じではないからである。
たとえば、ある人が一時間以内に目的地へ到達できなかったとする。この事実から、「その人は目的地へ到達することが不可能だった」と言えるだろうか。場合による。もし交通手段があり、道があり、身体も動き、ただ途中で別の用事が入ったため到達しなかったのなら、目的地への接続は完全に失われていなかった。Aは結果化しなかったが、Aへの接続存在は保持されていたかもしれない。一方、橋が崩落し、道が閉鎖され、移動手段もなく、時間内に到達する経路がすべて失われていたなら、その有限時間内におけるAへの可能総量は極端に小さくなっていたと言える。しかしそれでも、問題は「どの時点で、どの程度、どの接続が失われたのか」として分析されるべきであり、ただ「不可能だった」という一個のラベルに回収されるべきではない。
できないことを一個にしないとは、このような意味である。それは、失敗や未達成を否認することではない。むしろ、未達成を一個の不可能性として固定してしまうことを避けることである。Aができなかったという結果後の判定を、現在内部に最初から存在していた一個の断絶点として扱わないことである。有限時間内にAが成立しなかったとしても、その時間内でAへの接続がどのように保存され、どのように弱まり、どのように変形し、どの時点で判定可能性を失ったのかを問う必要がある。これが、可能の実量としての理解である。
可能の実量としての理解とは、可能を「ある/ない」という二値ではなく、接続保存の量と構造として把握することである。Aが可能であるとは、Aへの接続が存在することである。Aが強く可能であるとは、その接続が豊富で、安定しており、有限時間内にAへ向かう直線性を保っていることである。Aが弱く可能であるとは、その接続が乏しく、不安定で、減衰しつつあり、Aへの直線性が崩れかけていることである。Aが不可能へ近づくとは、Aへの接続実量が失われ、AをAとして保存する構造が保てなくなることである。
ここで注意すべきなのは、「不可能」は可能実量がゼロであるという単純な表現だけでは十分ではないということである。なぜなら、本論文では不可能性を現在内部の固定点としてではなく、接続喪失の過程として理解するからである。したがって、不可能とは、ある一点において突然ゼロになるものではなく、Aへの接続実量が有限時間内で保存されなくなり、Aとしての判定保持力を失い、Aへの直線性が成立しなくなる状態である。この状態が結果後に「不可能」と呼ばれるとしても、その内部過程は一個の点ではなく、減衰と切断の連続である。
この視点から、「世界には動けない一点が無い」という基本概念を定義することができる。
「世界には動けない一点が無い」とは、世界のどの現在状態にも、可能総量が完全に停止し、あらゆる接続が一個の不可能性として固定されるような絶対的停止点は存在しない、ということである。
ただし、この命題も誤解されてはならない。これは、世界の中で何でも可能であるという意味ではない。物理的制約がないという意味でもない。身体が限界を持たないという意味でも、時間が無限にあるという意味でもない。むしろ反対に、この命題は有限性を前提している。世界は有限であり、身体は有限であり、時間は有限であり、接続は有限である。そのうえでなお、有限性はただちに絶対停止点を意味しない、と言っているのである。
動けない一点とは、Aへの接続が一切の変形可能性を失い、現在内部で「ここからは何もできない」という一個の固定境界として成立した点である。もしそのような点が世界内部に存在するならば、現在はそこで完全に閉じる。そこでは、Aへ向かう接続は消え、Aは非Aへ切断され、可能総量は一個の不可能性に変換される。現在はもはや未分割ではなく、できる領域とできない領域に分離される。
しかし、本論文の立場では、現在はそのような絶対停止点として理解されない。現在は、有限でありながらなお接続を保持する場である。接続は弱まることがある。接続は失われることがある。ある経路は閉じる。ある選択は消える。ある時間幅ではAが成立しない。ある身体状態ではAへ向かえない。けれども、それらはすべて、接続の変化として理解されるべきであり、最初から現在内部に置かれた一個の動けない点として理解されるべきではない。
したがって、「世界には動けない一点が無い」という命題は、不可能性の存在を否定するのではなく、不可能性の形式を再定義するものである。不可能性は、絶対停止点ではなく、接続実量の喪失過程である。世界は、できることとできないことが最初から一個の断絶で分離された場ではない。世界は、有限な接続が変形し、減衰し、残存し、保存されながら、ある事象Aへの可能総量をその都度組み替えていく場である。
この命題は、可能総量の一対一関係とも関係している。もし世界に動けない一点があるならば、SからAへの接続はそこで完全に断絶し、Aとの一対一関係は失われる。そのとき、Aは現在内部において非Aへ切断される。しかし、動けない一点が無いならば、SからAへの接続は、たとえ弱まっても、たとえ変形しても、たとえ迂回を必要としても、直ちに一個の不可能性へ固定されるわけではない。Aへの可能総量は、有限時間内においてなおAとの関係を保持しうる。ここに、一対一の未分割接続が成立する。
ただし、この一対一接続は、永遠に保証されるものではない。有限時間内において、接続は失われうる。Aへの可能総量は減衰しうる。Aは実在の縁から遠ざかりうる。だからこそ、本論文は「すべてが可能である」とは言わない。重要なのは、接続が失われるとしても、その喪失を最初から一個の不可能性として現在内部に置かないことである。できないことは、できない一点として始まるのではない。できないことは、できる接続が保存されなくなる過程として現れる。
ここで、物理的可能限界を「一」にしないための基本条件を整理することができる。
第一に、限界を結果境界としてではなく、接続状態として理解すること。
物理的制約は存在する。しかし、それはただちにA全体を不可能にする一個の境界ではない。制約はまず、Aへの接続の形式を変えるものとして理解される。
第二に、Aの未達成を、Aの不可能性と同一視しないこと。
Aが結果として成立しなかったことは、Aへの接続が完全に失われていたことを意味しない。未達成と不可能性のあいだには、接続保存の分析が必要である。
第三に、可能総量を、候補数ではなく接続実量として理解すること。
Aへ向かう可能総量は、Aを想像できる数ではなく、現在からAへ向かう接続がどれだけ保存されているかによって決まる。
第四に、有限時間を、切断の単位ではなく保存の範囲として理解すること。
ある有限時間内にAが成立しなかったとしても、その時間はAを不可能にする一個の箱ではない。有限時間とは、Aへの接続がどこまで保存されるかを問う範囲である。
第五に、不可能性を、固定点ではなく接続喪失の過程として理解すること。
Aができないとは、Aへの直線的接続が保存されなくなることであり、最初から現在内部に一個の断絶点が存在していることではない。
これらを踏まえると、存在はいつ存在になるのかという問いにも、より精密に答えることができる。存在は、結果になった時点で初めて現れるのではない。存在は、Aへの接続が現在内部に実量として保存され、AがAとしての方向性を持ち始めたとき、接続存在として始まる。そして、その接続存在が有限時間内で判定可能な固定点へ収束したとき、結果存在として現れる。したがって、存在とは、無から突然出現するものではなく、可能総量の保存と変形を通じて生成されるものである。
この生成の理解は、本論文における実在概念へつながる。実在とは、すでに結果化したものだけではない。実在とは、可能総量がなお未来へ接続されていることでもある。Aが実在へ向かうとは、Aが現在内部でAへの接続を保持し、Aとしての方向性を失わず、Aを不可能にする一個の固定境界がまだ成立していないことである。Aは、結果として現れる前から、可能総量として実在に近づいている。
ここで「近づいている」という表現が重要である。Aは、結果前に完全な実在ではない。しかし、完全な非実在でもない。Aは、接続実量を持つかぎり、実在の方向にある。Aへの可能総量が増すほど、Aは強い接続存在となる。Aへの可能総量が減るほど、Aは弱い接続存在となる。Aへの接続が完全に保存されなくなったとき、Aは不可能性として結果後に語られる。しかし、その不可能性もまた、最初から一個の点として存在していたのではなく、接続実量の喪失として生じたのである。
この理解によって、世界像も変わる。世界は、固定された結果の集合ではない。世界は、可能と不可能が最初から分類された表でもない。世界は、Aへ向かう接続が有限時間内で保存され、変形され、減衰し、再編成される場である。そこには物理的限界がある。しかし、その限界は、ただちに一個の不可能性ではない。そこには未達成がある。しかし、未達成はただちに不可能性ではない。そこには結果がある。しかし、結果は接続の終わりではなく、接続が判定形式へ切り出された姿である。
したがって、「世界には動けない一点が無い」という命題は、世界が無制限に動けるという主張ではない。この命題が定義しているのは、世界の現在性が絶対停止点としてではなく、接続保存の有限領域として成立しているということである。世界は、どこかに最初から「ここでは何もできない」という純粋な停止点を持つのではない。世界は、ある事象Aへの接続がどこまで保存され、どこから減衰し、どのように別の形式へ変形し、どこで判定可能性を失うかという連続過程を持つ。動けない一点が無いとは、現在がそのような過程を保持しているということである。
本節の最後に、中心概念をまとめておきたい。
物理的可能限界を「一」にしないとは、限界を一個の不可能性として固定せず、Aへの接続がどのように変形し、どのように保存され、どのように失われるかを問うことである。
可能総量の一対一関係とは、現在状態Sから事象Aへの接続が、まだ「できるA」と「できないA」へ完全分裂せず、Aへの方向性を一つの未分割接続として保持していることである。
存在が存在になるのは、Aが結果として固定された時点だけではない。Aへの接続が現在内部に実量として保存され、Aとしての方向性を持ち始めたとき、Aは接続存在として成立し始める。
有限時間内にできないことを一個にしないとは、Aがその時間内に成立しなかったことを、ただちに一個の不可能性として固定せず、Aへの接続実量の保存、減衰、変形、喪失として分析することである。
そして、「世界には動けない一点が無い」とは、世界の現在性が、最初から絶対停止点を内部に含むのではなく、有限でありながらなお接続を変形し続ける保存領域として成立していることを定義する命題である。
この地点で、可能はもはや単なる「起こりうるもの」ではない。可能とは、Aへの接続がまだ一個の不可能性へ閉じられていないことの実量である。可能とは、世界がAをまだ動かせる形で保持していることである。可能とは、現在がまだ完全に止まっていないことである。
したがって、世界は「できること」と「できないこと」が最初から一つの境界によって切り分けられた場所ではない。世界は、できることができないことへ固定される以前に、接続として保存されている場所である。Aは、結果になる前に、Aへ向かう可能総量としてすでに存在し始めている。そして、Aが不可能になるとしても、その不可能性は、現在内部に最初から置かれた一個の点ではなく、Aへの接続実量が有限時間内で保存されなくなる過程として理解されなければならない。




