存在としての直線性
■ 第二節 存在としての直線性
――可能な事象の素量と、実量としての可能総量
前節では、「可能」とは、ある事象Aがまだ現実化していないにもかかわらず、現在の未分割な接続領域から排除されていないことである、と整理した。そこで確認されたのは、可能が単なる結果候補ではなく、結果以前においてなお失われていない接続である、という点であった。本節では、この理解をさらに一段進める。すなわち、可能が「排除されていないこと」であるならば、その可能は、いかなる仕方で現在の内部に保持されているのか、また、ある事象Aへ向かう可能は、どのような最小単位として考えられるのかを問う。
ここで本節が扱う中心問題は、次のように定式化できる。
可能な事象は、何から何へ向かう接続として成立しているのか。
この問いは、「Aは可能か」という問いとは異なる。「Aは可能か」という問いは、Aが排除されているか否かを問う。しかし、「何から何へ向かってAが可能なのか」という問いは、Aがどのような起点から、どのような経路を通じて、どのような終点へ向かう接続として保存されているのかを問う。この違いは重要である。なぜなら、可能とは、ただ宙に浮いた性質ではなく、必ず何らかの現在状態から、何らかの未来状態へ向かう方向性として現れるからである。
たとえば、「サイコロの目を一にすることは可能である」と言うとき、その文だけを取り出せば、あたかも「一が出る」という可能性が抽象的に存在しているかのように見える。しかし、実際にはその可能は、何もない場所に浮かんでいるわけではない。そこには、サイコロがあること、サイコロが手に取られうること、投げられうること、空間があること、重力が働いていること、床や机の表面があること、回転や衝突や摩擦が起こりうることなど、多数の条件がある。これらの条件が現在の内部に何らかの形で保存されているからこそ、「一が出る」という事象は可能として語られる。
つまり、可能とは、ただ「Aが起こりうる」という空虚な開きではない。可能とは、現在からAへ向かう連続的な接続が、まだ断ち切られていないことである。このとき重要になるのが、「直線性」という概念である。本論文における直線性とは、幾何学的にまっすぐな線のことではない。直線性とは、ある起点からある事象Aへ向かう接続が、途中で「できる」と「できない」に不可逆的に分断されず、なお一つの方向性として保持されていることを意味する。
この直線性を、存在としての直線性と呼ぶことができる。なぜなら、ここでの直線性は、単なる運動の形式ではなく、事象Aが現在の内部にどのような仕方で存在しているかを示す形式だからである。Aはまだ結果として存在していない。しかし、Aへ向かう直線的な接続が失われていないならば、Aは完全な無ではない。Aは、結果ではなく方向として存在している。Aは、固定点ではなく到達可能性として存在している。Aは、現実化された対象ではなく、現在から未来へ向かう連続的な保存構造として存在している。
ここで、「可能な事象の素量」という概念を導入する必要がある。素量とは、あるものを構成する最小の単位である。ただし、本論文において可能な事象の素量は、物理的粒子のような離散的な点ではない。それは、「何から何ができるか」という接続の最小単位である。より正確に言えば、可能な事象の素量とは、ある現在状態Sから、ある事象Aへ向かう接続が、まだ一つの方向性として保存されている最小の連続単位である。
この定義は慎重に理解されなければならない。可能な事象の素量は、「一つの結果」ではない。たとえば、サイコロの目が一になることを一つの結果として数えるならば、それはすでに結果後の単位である。しかし、本論文が問題にしている素量は、結果後に数えられる一ではなく、結果以前において「現在から一へ向かうことがまだできる」という接続の最小単位である。したがって、それは結果単位ではなく接続単位である。
この接続単位を考えることによって、「可能」はより具体的な構造を持ち始める。前節において可能は、Aが排除されていないこととして定義された。しかし、Aが排除されていないというだけでは、まだそのAがどのような仕方で現在と関係しているのかは十分に明らかではない。本節でいう可能な事象の素量は、この関係を具体化する。つまり、可能とは、単にAが世界から消されていないことではなく、ある起点からAへ向かう最小の接続がなお保存されていることなのである。
ここで「何から何ができるか」という表現が重要になる。通常、可能性は「何ができるか」という形で語られる。しかし、本論文では、それだけでは不十分である。なぜなら、「何ができるか」は、常に「何からできるか」を必要とするからである。Aができるという命題は、Aがどの状態から、どの条件のもとで、どの時間幅においてできるのかを含まなければならない。何もない場所からAができるわけではない。Aは必ず、ある現在状態からの接続として可能である。
この意味で、可能は常に相対的である。ただし、ここでいう相対性は、主観的であるという意味ではない。ある人には可能で、別の人には不可能である、という日常的な意味だけを指しているわけでもない。ここでいう相対性とは、可能が必ず起点を持つということである。Aは、それ自体として抽象的に可能なのではなく、ある状態Sから可能である。Sが変化すれば、Aへの接続も変化する。SからAへ向かう接続が保持されているとき、AはSに対して可能である。SからAへ向かう接続が失われているとき、AはSに対して不可能へ近づく。
たとえば、机の上にあるコップを右手で持ち上げることを考える。この事象Aは、身体が机のそばにあり、右手が動き、コップが壊れておらず、身体とコップの間に届く距離があり、把持する力があり、重力に抗して持ち上げる筋力があるとき、可能である。しかし、身体が遠く離れている、右手が使えない、コップがすでに割れている、机が消えている、あるいは時間がすでに過ぎてその場に戻れない、という条件では、同じAは同じ仕方では可能ではない。つまり、「コップを持ち上げること」は抽象的には可能であっても、具体的には常に「この状態からコップを持ち上げることが可能である」という形でしか成立しない。
この「この状態から」という起点性を抜きにすると、可能はただの空想に近づく。どこからでもできる、いつでもできる、どの条件でもできる、と考えるならば、可能は無限定になり、Aと非Aの区別が曖昧になる。しかし、本論文の立場では、可能は無限定ではない。可能は有限な現在内部に保存される接続である。したがって、可能は必ず起点を持ち、範囲を持ち、条件を持ち、時間幅を持つ。可能な事象の素量とは、そのような起点と方向の最小関係である。
ここで、直線性の意味をさらに明確にする必要がある。存在としての直線性とは、現在状態Sから事象Aへ向かう接続が、まだ連続的な方向として保存されていることである。このとき、SからAへの接続は、必ずしも単純で短い経路である必要はない。複数の中間状態を含んでもよい。遠回りであってもよい。条件の変化を含んでもよい。重要なのは、それらの変化がAへの接続を完全に切断していないことである。SがS1へ移り、S1がS2へ移り、S2がS3へ移るとしても、その移行の中でAへの接続がなお保持されているならば、Aは直線的に可能であり続けている。
したがって、直線性とは、単純性ではない。直線性とは、接続の保存性である。複雑であっても、接続が保持されていれば直線的である。逆に、見かけ上近くても、接続が断ち切られていれば直線的ではない。たとえば、目の前にある扉を開けることは一見すると簡単に見える。しかし、鍵が閉まっており、鍵が失われており、扉が構造的に開かないよう固定されているならば、目の前にあるにもかかわらず、その扉を開ける接続は弱い。反対に、遠くにある目的地へ行くことは一見すると遠いが、交通手段、時間、身体、道順、意志、資源が揃っているならば、その目的地へ向かう接続は保存されている。直線性とは、距離ではなく、接続が切れていないことなのである。
この視点から見ると、「可能な事象の素量」は、次のように表現できる。
ある現在状態Sから、ある事象Aへ向かう接続が、Aとしての方向性を失わずに保存されている最小の連続単位。
この最小単位は、結果としての一点ではない。むしろ、起点と方向と保存を含む微小な接続である。Aという事象は、このような接続素量の集合として現在内部に保持される。Aへの接続素量が多く、強く、広く、安定しているほど、Aは現在内部において強い可能性を持つ。Aへの接続素量が少なく、弱く、狭く、不安定であるほど、Aは現在内部において弱い可能性を持つ。ここから、実量としての可能総量という概念が導かれる。
可能総量とは、ある現在状態において、Aへ向かう接続素量がどれだけ保存されているかを示す総体である。ここで「総量」と言うと、すぐに数値化された量を想像しがちである。しかし、本論文における可能総量は、まだ数学的に定式化された数値ではない。むしろ、まず概念的には、Aへ向かう接続の総保存量として理解されるべきである。それは、Aが現在内部でどれほど豊かに、どれほど安定して、どれほど連続的に保持されているかを示す概念である。
この可能総量を「実量」と呼ぶのは、可能が単なる論理的な有無ではなく、現在内部における接続の保存として実質を持つからである。たとえば、Aが論理的には排除されていないとしても、Aへ向かう接続素量がほとんど残っていないならば、Aの可能総量は小さい。反対に、Aがまだ結果として現れていなくても、Aへ向かう接続素量が多数保存されているならば、Aの可能総量は大きい。このとき、Aは単に「可能である」と言われるだけでは不十分であり、「どの程度可能であるか」「どれほど現在に保存されているか」が問われなければならない。
ただし、この可能総量は確率とは異なる。確率は、分割済みの結果候補に対して割り当てられる数値である。サイコロで一が出る確率が六分の一であるというとき、そこではすでに結果が六つに分けられている。これに対して、可能総量は、結果へ分割される前の現在内部において、Aへ向かう接続がどれだけ保存されているかを示す。つまり、確率は結果単位の比率であり、可能総量は接続単位の保存量である。
この違いは決定的である。確率は「いくつの候補のうち、どれが起こるか」を問う。可能総量は「現在から何がどこまでできるか」を問う。確率は、結果が数えられる形式を前提する。可能総量は、結果が数えられる以前の接続状態を問題にする。確率は、事後的な統計や事前のモデルにおいて有効である。しかし、可能総量は、現在の内部における未分割な接続保存を扱う。このため、可能総量は、確率よりも実在論的な概念である。なぜなら、それはAがまだ結果になっていないにもかかわらず、Aへ向かう実質的な接続がどれだけ世界に保存されているかを問うからである。
ここで、「実量としての可能総量」という表現の意味が明確になる。可能総量は、単に考えられた可能性の数ではない。たとえば、頭の中で一万通りの未来を想像できるとしても、それらが現在から具体的に接続されていなければ、可能総量が大きいとは言えない。逆に、想像上の候補は少なくても、一つのAへ向かう接続が深く、強く、安定しているならば、そのAの可能総量は大きい。したがって、可能総量は候補数ではない。可能総量は接続保存量である。
この点は、自由の理解とも関係する。通常、自由は選択肢の多さとして理解される。選べる候補が多ければ自由であり、候補が少なければ不自由である、と考えられる。しかし、本論文の立場では、自由とは単なる候補数ではない。なぜなら、候補がどれほど多くても、それらが現在から実質的に接続されていなければ、それは自由ではなく空想の陳列にすぎないからである。反対に、候補の数が多くなくても、現在から未来へ向かう接続が閉じておらず、Aへ向かう直線性が保存されているならば、そこには自由がある。自由とは、未分裂の接続がまだ保存されていることである。可能総量は、その自由の実質的な厚みを示す。
ここで再び「何から何ができるか」という問いに戻る。可能総量を考えるうえで最も重要なのは、Aという事象を孤立させて考えないことである。Aはそれ自体として浮かぶのではなく、常にSからAへの接続として存在する。したがって、可能総量とは、単にAに属する量ではない。それは、SとAの間に保存されている接続の量である。現在状態Sが異なれば、同じAであっても可能総量は変化する。Aが同じであっても、そこへ向かう起点が異なれば、Aの可能性は同じではない。
たとえば、「山頂へ到達する」というAを考える。山の麓にいる者にとって、山頂へ到達する可能総量は、道、装備、体力、天候、時間、知識によって構成される。すでに登山道の途中にいる者にとって、その可能総量は別の形を取る。遠く離れた都市にいる者にとって、山頂へ到達する可能総量は、移動手段や日程の確保を含む。負傷している者にとっては、同じ山頂であっても接続素量が大きく減少している。つまり、Aは同じでも、SからAへの接続が異なれば、Aの可能総量は異なる。
この例からわかるように、可能総量は事象Aに固定された属性ではない。可能総量は、現在状態と事象との関係において成立する。したがって、可能を理解するためには、Aだけを見てはならない。Aへ向かう起点、経路、条件、保存、減衰、時間幅を見なければならない。これが「何から何ができるか」への連続的な可能度理解である。
ここで、「可能度」という語を慎重に導入することができる。可能度とは、Aが現在からどこまで直線的に接続され続けているかを示す概念である。前節では、可能がAの非排除性であることを確認した。本節では、その非排除性が、単に有無としてではなく、接続の厚み、強度、範囲、保存性として理解されることを示している。可能度とは、この接続の厚みを扱う概念である。可能総量は、可能度を総体として把握するための概念である。
ただし、本節では可能度を高度に展開するのではなく、その基礎的な入口だけを示す。可能度を考えるとは、Aが起こる確率を計算することではない。可能度を考えるとは、SからAへの接続がどれだけ保存されているかを考えることである。したがって、可能度の基本問いは「Aは何パーセントで起こるか」ではない。可能度の基本問いは、「現在からAへ向かう接続は、どの程度失われずに残っているか」である。
この違いを具体的に見よう。サイコロがまだ手の中にあり、投げられる前であるとする。この時点で「一が出る確率」は六分の一と表現されるかもしれない。しかし、可能度の観点では、問いは別の形になる。現在の手の動き、サイコロの向き、力の加え方、投げる高さ、回転、床の状態、空気抵抗、衝突の仕方などが、一へ向かう接続をどの程度保持しているかが問題になる。ここでは、一は単なる六つの結果の一つではない。一へ向かう接続が、現在の運動状態の中でどのように保存されているかが問われている。
この問いをさらに根本化すれば、サイコロがまだ振られていない現在において、世界は本当に一、二、三、四、五、六へ分割されているのか、という問題へ戻る。可能総量の観点では、現在はまだ六つの結果に完全分割されていない。むしろ、現在には多方向的な接続が未分割のまま保存されている。その中で、一へ向かう接続素量がどれだけあるか、二へ向かう接続素量がどれだけあるか、三へ向かう接続素量がどれだけあるかが、後から可能度として区別されうる。しかし、それらは最初から完成した選択肢として並んでいるのではない。それらは未分割の可能総量の内部において、方向性として生じている。
この「方向性として生じている」という点が、存在としての直線性の核心である。Aは、まだ結果ではない。しかし、Aへ向かう方向がある。Aは、まだ固定点ではない。しかし、Aへ向かう接続がある。Aは、まだ一個の出来事として切り出されていない。しかし、Aとして切り出されうる保存構造がある。この意味で、Aは可能な事象として存在している。Aの存在は、結果存在ではなく、直線的接続存在である。
ここで、「実在」との関係が見えてくる。実在とは、通常、すでに現実化したもの、結果として成立したもの、固定点を持つものとして理解される。しかし本論文の立場では、実在は結果だけではない。実在とは、未来へ向かう接続が保存されていることでもある。Aがまだ起こっていなくても、Aへ向かう可能総量が現在内部に実質的に保存されているならば、Aは実在の周縁、あるいは実在の前形式に属している。Aはまだ結果ではないが、無ではない。Aは、直線的可能総量として実在に接している。
この意味で、可能総量は実在量へ接続する。Aへ向かう可能総量が大きいほど、Aは現在内部において強く保存されている。Aへ向かう可能総量が小さいほど、Aは現在内部から遠ざかり、不可能性へ近づく。ここで注意すべきなのは、これは確率の大小とは必ずしも同じではないということである。ある事象の統計的確率が低くても、特定の現在状態から見れば、その事象へ向かう接続が強く保存されている場合がある。反対に、統計的には起こりうる事象でも、現在の具体的条件から見れば、接続がほとんど失われている場合もある。可能総量は、統計的な一般性ではなく、現在状態からの接続保存を問う。
ここで、可能な事象の素量をもう一度整理する。素量とは、SからAへ向かう最小の接続単位である。この素量は、いくつかの性質を持つ。
第一に、起点性である。素量は必ず、ある現在状態Sから始まる。起点を持たない可能は、実質的な可能ではなく、抽象的可能にとどまる。
第二に、方向性である。素量は必ず、あるAへ向かう。方向を持たない接続は、何の可能であるかを示せない。
第三に、保存性である。素量は、SからAへの接続がまだ失われていないことを示す。保存されていない接続は、可能を構成しない。
第四に、有限性である。素量は無限の開放ではない。有限の現在内部において、ある範囲で保持される。
第五に、未分割性である。素量は、結果へ分割された後の単位ではなく、結果以前の接続単位である。
この五つの性質を持つものとして、可能な事象の素量を考えることができる。すると、可能総量とは、このような素量が現在内部にどれだけ保存されているか、また、それらがどれだけAへ向かう直線性を維持しているかを示す総体である。
ここで重要なのは、可能総量が単純な足し算ではないという点である。接続素量が多数あるとしても、それらが互いに矛盾し、打ち消し合い、方向を失っているならば、Aへ向かう可能総量は強くならない。反対に、接続素量の数がそれほど多くなくても、それらが一つの方向へまとまり、Aへの直線性を安定して保持しているならば、Aの可能総量は強い。したがって、可能総量は単なる量ではなく、量と構造の双方を含む。接続素量の数だけではなく、その配列、方向性、保存状態、連続性が重要である。
この点を「実量」として理解する必要がある。実量とは、単なる形式的な量ではなく、現に作用する量である。可能総量が実量であるとは、それが単に頭の中で数えられる可能性ではなく、現在からAへ向かう実際の接続状態を示すということである。たとえば、ある計画が「可能である」と言われるとき、その計画の実質は、資源、人員、時間、知識、環境、制度、意思決定の接続がどれだけ保存されているかによって決まる。これらが揃っていれば、計画はまだ実行されていなくても、強い可能総量を持つ。逆に、言葉の上では可能でも、接続条件が失われていれば、その計画の可能総量は小さい。
このように考えると、「できる」という語の意味も変わる。「できる」とは、単に結果を達成する能力を意味するのではない。「できる」とは、現在からAへ向かう接続が十分に保存されていることである。したがって、「何ができるか」という問いは、「現在がどの未来へ向かう接続を保持しているか」という問いである。さらに、「何から何ができるか」という問いは、現在状態Sと未来事象Aとのあいだに、どのような直線的保存が成立しているかを問う。これが、本論文における可能理解の基本的な転換である。
ここで、存在としての直線性は、単にAへ向かう便利な道筋ではなく、Aが可能な事象として存在するための条件である。Aへの直線性がまったくないならば、Aは現在内部に可能として存在しない。Aへの直線性が弱く残っているならば、Aは弱い可能として存在する。Aへの直線性が強く保存されているならば、Aは強い可能として存在する。つまり、Aの可能存在は、直線性の保存度によって変化する。
このことは、可能と不可能を二値的に扱う理解を揺さぶる。Aは可能であるか不可能であるか、という単純な問いでは、Aへの接続がどの程度保存されているかを捉えられない。本論文では、Aは単に可能か不可能かではなく、どれほど直線的に可能であり続けているかが問われる。ここで「可能度」の問題が生じる。可能度とは、可能が現在内部でどの程度直線的に保存されているかである。可能総量とは、その可能度が構成する全体的な保存量である。
もちろん、本節の段階では、まだ可能度を数学的に定義することはしない。ここで必要なのは、読者が「可能」を単なる候補や確率ではなく、SからAへの接続として理解するための基礎である。可能とは、Aが現在から排除されていないことである。可能な事象の素量とは、SからAへの最小の接続単位である。可能総量とは、その接続素量が現在内部にどれだけ保存されているかを示す実量である。直線性とは、その接続が途中で不可逆的に分裂せず、Aへ向かう方向性を保持していることである。
この整理によって、本論文の基礎的な構図が見えてくる。世界は、最初から完成した結果候補の集合ではない。世界は、現在から未来へ向かう接続素量の保存場である。Aは、すでに固定された結果として世界の内部に置かれているのではない。Aは、現在からAへ向かう直線的接続の保存として、未分割の可能総量の内部に含まれている。したがって、Aが可能であるとは、Aという結果がどこかに待っていることではなく、Aへ向かう接続が現在からまだ失われていないことである。
この理解に立つならば、「存在」と「可能」は完全には切り離されない。すでに結果化した存在だけが存在なのではない。結果以前の接続として保存されているものもまた、ある意味で存在している。もちろん、それは結果存在ではない。Aはまだ起こっていない。しかし、Aへ向かう接続素量が現在内部に保存されているならば、Aは可能存在として存在している。これを、存在としての直線性と呼ぶのである。
存在としての直線性とは、Aがまだ固定点を持たないにもかかわらず、Aへ向かう接続として現在内部に保持されていることを意味する。Aは、点として存在するのではなく、方向として存在する。Aは、結果として存在するのではなく、到達可能性として存在する。Aは、分割済みの候補として存在するのではなく、未分割の可能総量の一方向として存在する。このように、可能は存在の外側にあるものではなく、存在が未来へ向かって保持している直線的形式なのである。
本節の結論をまとめるならば、次のようになる。
可能な事象の素量とは、ある現在状態Sから、ある事象Aへ向かう接続が、Aとしての方向性を失わずに保存されている最小の連続単位である。
可能総量とは、そのような接続素量が、現在内部においてどれだけ保存され、どれだけAへ向かう直線性を保持しているかを示す実量である。
直線性とは、SからAへの接続が、途中で「できる」と「できない」に完全分裂せず、なお一つの到達可能性として保存されていることである。
したがって、「何が可能か」を問うだけでは不十分である。本論文において問われるべきなのは、「何から何ができるのか」である。すなわち、どの現在状態から、どの事象へ向かって、どれだけの接続が保存されているのかである。
ここに、可能から可能度へ進むための第一の通路が開かれる。可能は、Aが排除されていないことを示す。可能度は、Aが現在からどれだけ直線的に接続されているかを示す。可能総量は、その接続の実質的な保存全体を示す。これらを区別することによって、世界はもはや「できること」と「できないこと」が最初から二つに分けられた場ではなく、有限でありながら未分割の接続可能性が保存されている場として理解される。
そして、この理解こそが、「実在とは何か」という本論文全体の問いへ向かう基礎になる。実在とは、単に結果として固定されたものではない。実在とは、現在から未来へ向かう接続が、なお失われずに保存されていることである。Aがまだ結果として現れていなくても、Aへ向かう可能総量が現在内部に保存されている限り、Aは実在へ向かう直線性を持つ。Aは、まだ固定点ではない。しかし、固定点になりうる接続を保持している。ここに、可能と実在をつなぐ最も基礎的な構造がある。




