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可能とは


【第一章】



■ 第一節 可能とは


——「起こりうること」は、すでに結果を前提していないか——



本章の目的は、「可能と可能度の差分について」という本論文全体の議論に入る前提として、まず「可能」とは何かを基礎的なところから問い直すことである。ここで重要なのは、「可能」という語を、単に日常的に使われる便利な言葉として受け取らないことである。私たちは普段、「それは可能である」「それは不可能である」「まだ可能性がある」「もう可能性はない」といった表現をほとんど無意識に使っている。しかし、そのとき私たちは、本当に何を指して「可能」と呼んでいるのだろうか。ある事柄がまだ起こっていないにもかかわらず、それを「可能である」と言えるのはなぜなのか。ある事柄が現実には起こらなかったにもかかわらず、それでも「可能ではあった」と言えるのは、どのような根拠によるのか。あるいは反対に、ある事柄を「不可能である」と呼ぶとき、私たちはその事柄が世界の内部から完全に排除されていることを本当に確認しているのだろうか。


この問いは、一見すると言葉の定義の問題に見える。しかし、本論文においてこの問いは、単なる語義の整理にとどまらない。なぜなら、「可能」という語の理解の仕方は、そのまま「世界とはどのように開かれているのか」「現在とは何を保持しているのか」「実在とは結果だけを意味するのか、それとも結果以前の接続可能性も含むのか」という根本問題に接続しているからである。可能を、すでに分割された複数の候補のうちの一つとして理解するならば、世界は最初からいくつもの選択肢へ分けられており、現在とはその選択肢の中から一つが現実化する場所であるという構図になる。しかし、可能を、まだ結果へ分割されていない現在内部の接続保持として理解するならば、世界は最初から「できること」と「できないこと」に分けられているのではなく、むしろ分裂以前の連続的な保存状態として理解されることになる。


したがって、本章で問われる「可能とは何か」という問題は、ただ「Aが起こりうるとはどういうことか」を問うだけではない。より正確に言えば、ここで問われるのは、「Aがまだ起こっていない現在において、Aはどのような仕方で世界の内部に含まれているのか」という問題である。Aがまだ結果として現れていないならば、Aは現実ではない。しかし、Aが完全に世界から排除されていないならば、Aは単なる無でもない。この「現実ではないが、無でもない」という中間的なあり方こそが、一般に「可能」と呼ばれてきたものの核心である。ところが、この中間的なあり方は、これまでしばしば曖昧なまま扱われてきた。私たちは「可能性がある」と言いながら、その可能性がどの程度保存されているのか、どこまで現在と接続しているのか、いつ不可能性へ転じるのか、そもそも不可能性は現在内部に一つの境界として存在しているのか、という点を十分に問わないままにしてきた。


本論文は、この曖昧さを放置しない。むしろ、この曖昧さこそが、実在と連続性を考えるうえで最も重要な入口になると考える。なぜなら、可能とは、結果以前の世界がどのように保存されているかを示す最初の言葉だからである。可能を単なる「起こるかもしれないもの」として理解するだけでは、まだ足りない。可能とは、Aがまだ結果化されていないにもかかわらず、Aへの接続が完全には失われていない状態である。より慎重に言えば、可能とは、Aが現在の内部から完全に切断されていないことを示す最も基礎的な概念である。


ここで、第一章の最初に置かれるべき問いを明確にしておきたい。


「可能」は、本当に最初から分割されているのか。


この問いは、本論文全体の出発点である。通常の理解では、可能性は複数の候補として把握される。サイコロを振るとき、私たちは一、二、三、四、五、六という六つの目を思い浮かべる。そして、そのうち一が出ることも可能であり、二が出ることも可能であり、三が出ることも可能である、と考える。このとき、可能性はすでに六つに分割されている。つまり、世界はあらかじめ六つの結果候補を持っており、サイコロを振るとは、その候補のうち一つが現実化することである、と理解されている。


しかし、この理解は本当に世界そのものの構造を表しているのだろうか。それとも、私たちが結果を数え、分類し、比較し、確率化するために導入した後付けの認識形式なのだろうか。サイコロがまだ振られていない現在において、世界は本当に「一が出る世界」「二が出る世界」「三が出る世界」「四が出る世界」「五が出る世界」「六が出る世界」へ分割されているのだろうか。あるいは、現在はまだそのような六つの結果へ分裂しておらず、ただ一つの未分割な接続可能領域として保存されているのだろうか。


この問いに答えるためには、まず「可能」という概念の基本的な構造を丁寧に取り出す必要がある。ここで本論文は、可能を次のように暫定的に定義する。


可能とは、ある事象Aが、現在の内部からまだ排除されていないことである。


この定義は、非常に基礎的である。しかし同時に、慎重に読まなければならない。ここで「Aが可能である」とは、「Aが必ず起こる」という意味ではない。また、「Aが高い確率で起こる」という意味でもない。さらに、「Aがすでに結果として存在している」という意味でもない。Aが可能であるとは、Aがまだ現在から切断されていないということである。つまり、Aが未来へ向かう接続の中に、なお含まれているということである。


このように定義すると、可能とは、現実と非現実の単純な中間ではなく、現在と未来の接続関係を表す概念であることがわかる。Aが現在において可能であるとは、Aが現に存在しているということではなく、現在がAへ向かう経路を完全には閉ざしていないということである。したがって、可能とは結果ではなく、接続である。可能とは出来事の完成ではなく、出来事へ向かう開かれである。可能とは、すでに固定されたものではなく、まだ切断されていないものなのである。


この定義は、本論文で後に導入される「可能度」と区別されなければならない。可能は、Aが排除されていないという最小条件を示す。しかし、可能度は、Aが現在からどの程度直線的に接続され続けているかを示す。つまり、可能は「Aがまだ世界から除外されていない」ということを示す概念であり、可能度は「Aがどの程度、どの範囲で、どの強度で、どの有限時間内に保存されているか」を問う概念である。この区別を急いで説明する前に、まず本節では、可能そのものがどのような問いを含んでいるのかを明らかにする。


可能という語を考えるとき、最初に確認しなければならないのは、可能が常に「未だ起こっていないもの」と関係しているという点である。すでに起こったものについて、私たちは通常「可能である」とは言わない。すでにサイコロの目が一として静止しているならば、「一が出ることは可能である」とは言わず、「一が出た」と言う。すでに物体が机の上にあるならば、「物体が机の上にあることは可能である」とは言わず、「物体は机の上にある」と言う。つまり、可能という語は、結果がまだ確定していない領域に属している。可能とは、結果以前の言葉である。


しかし、ここで注意しなければならないのは、可能が単なる無ではないということである。Aがまだ起こっていないからといって、Aがまったく世界の内部に関係していないわけではない。もしAが完全に世界と関係していないならば、Aは可能ですらない。たとえば、物理法則、状況、条件、時間、身体、環境、構造のすべてがAを排除している場合、Aは単に未実現なのではなく、不可能であると言われる。つまり、可能とは、未実現でありながら、なお世界に属しているという二重の性格を持つ。


この二重性が重要である。可能は、現実ではない。しかし、完全な非現実でもない。可能は、まだ起こっていない。しかし、まったく起こりえないわけでもない。可能は、結果ではない。しかし、結果へ向かう接続を持つ。可能は、固定点ではない。しかし、固定点になりうる方向性を持つ。このように、可能とは、存在と非存在の単純な中間に置かれる曖昧な概念ではなく、むしろ「まだ結果ではないが、結果へ向かう接続を失っていないもの」を示す概念である。


この地点から、本論文の問いはさらに具体化される。もし可能が「Aがまだ排除されていないこと」であるならば、何によってAは排除されるのか。Aが可能でなくなるとは、どのような状態なのか。Aはある瞬間に突然不可能になるのか。それとも、Aへの接続が徐々に弱まり、保存構造が崩れ、判定可能性が失われていくことによって、不可能性へ近づくのか。さらに言えば、不可能性とは、現在の内部にあらかじめ存在している一つの境界なのか。それとも、可能性の接続が失われていく過程の名なのか。


本論文は、ここで後者の立場を取る。すなわち、不可能性とは最初から存在する固定点ではなく、接続可能性が失われていく過程である。したがって、可能とは、不可能性がまだ一つの固定境界として成立していないことでもある。Aが可能であるとは、Aがすでに結果として存在していることではなく、Aを不可能にする一個の断絶点が、現在内部にまだ固定されていないことなのである。


この理解によって、「可能」は従来の二分法から解放される。通常、可能と不可能は対立概念として置かれる。Aは可能であるか、不可能であるか。この二分法では、可能と不可能は、世界の内部にあらかじめ用意された二つの領域であるかのように扱われる。しかし本論文では、この二分法そのものを疑う。なぜなら、可能と不可能の境界が現在内部で固定されていると考えるならば、現在はすでに分割済みの領域となってしまうからである。現在が分割済みであるならば、現在はもはや未分割の保存領域ではない。したがって、現在を未分割の接続可能領域として考えるためには、可能と不可能の境界を、最初から与えられた固定線としてではなく、接続の変化、減衰、崩壊、切断の過程として捉え直す必要がある。


ここで、サイコロの例に戻る。サイコロの目を一にすることは、通常「六分の一の確率で可能である」と言われる。しかし、この表現には二つの操作がすでに含まれている。第一に、サイコロの結果が一から六までの六つの候補へ分割されている。第二に、それらの候補が数えられ、比較され、確率として表現されている。つまり、「六分の一」という確率は、世界がすでに六つの結果へ切断された後に成立する記述である。


しかし、サイコロがまだ振られていない現在において、世界そのものは本当に六つの結果へ分割されているのだろうか。もちろん、サイコロという物体には六つの面があり、それぞれの面に一から六までの目が刻まれている。だから、結果を六つに分類することには実用的な妥当性がある。しかし、その分類が、現在の内部における可能性そのものの存在形式と同じであるとは限らない。私たちが「六つの結果」と呼ぶものは、あくまで結果を判定するための形式である。サイコロが止まった後、上面に何が出ているかを数えるための分類である。したがって、それは結果後の記述であって、必ずしも結果以前の現在性そのものを表しているわけではない。


本論文が「世界はまだ二回目のサイコロを振っていない」と言うとき、その意味は、世界が実際にサイコロを一度も振っていないということではない。この表現が示すのは、世界が可能と不可能、成功と失敗、一と非一、Aと非Aへ完全に分裂した後に現在が成立しているわけではない、ということである。現在は、結果の集計表ではない。現在は、まだ結果へ切り出されていない接続保存の場である。したがって、「一が出る可能性」は、最初から「六分の一」という完成した候補として現在内部に置かれているのではなく、まだ未分割の可能総量の中で、一へ向かう接続として保存されていると考えられる。


このとき、可能とは「六つの候補のうち一つが選ばれうること」ではなく、「一へ向かう接続がまだ閉じられていないこと」である。これが本論文の第一の転換である。可能を候補として理解するのではなく、接続として理解する。可能を分割済みの選択肢として理解するのではなく、未分割の現在性の内部に保存されている方向性として理解する。可能を確率の手前に置く。確率とは、可能がすでに数えられる形に切断された後の表現である。これに対して、可能そのものは、数えられる以前の接続である。


この区別を別の例で考える。ある人が明日、ある場所へ行くことが可能であるとする。このとき、日常的には「明日その場所へ行ける可能性がある」と言う。しかし、その可能性は単なる抽象的な言葉ではない。そこには、身体が動くこと、交通手段があること、道が閉ざされていないこと、時間が確保できること、目的地が存在していること、本人の意志が形成されうることなど、多くの接続条件が含まれている。もし道が完全に崩落し、交通手段がなく、身体も動かず、目的地も消滅しているならば、その場所へ行くことは不可能になる。つまり、可能とは、世界の中にAへ向かう接続条件が残っていることを意味する。


しかし、この段階でもまだ、私たちは可能度には踏み込んでいない。なぜなら、「行ける可能性がある」と言うだけでは、その可能性がどれほど強く保存されているのか、どれほど容易に到達できるのか、どの時点まで維持されるのか、どの条件が失われると接続が崩れるのかまでは明らかになっていないからである。可能は、Aが排除されていないことを示す。可能度は、Aへの接続がどれほど保存されているかを示す。この二つを混同すると、論理的には可能であるが、実在的な接続はほとんど失われている状態と、現実的に強い接続を持つ状態とを区別できなくなる。


たとえば、遠い未来に何かが起こることは、論理的には可能かもしれない。しかし、その未来へ向かう具体的な接続条件が現在内部にほとんど存在しないならば、その可能性は極めて弱い。反対に、まだ結果として現れていなくても、現在の状況、条件、構造、運動の連続がほとんどAへ向かっているならば、Aは強い可能度を持つ。このときAは、単なる抽象的な可能性ではなく、実在に近い接続構造として現在内部に保存されている。


したがって、第一章第一節において確認すべき最も基本的な点は、可能とは「結果ではないが、結果へ向かう接続が閉じていないこと」である。これをさらに厳密に言えば、可能とは、Aが現在の内部において、まだ非Aへ完全に切断されていない状態である。ここで「非Aへ完全に切断されていない」という表現が重要である。通常の二分法では、Aでなければ非Aであると考える。しかし、本論文では、現在内部においてAと非Aの境界はまだ完全には固定されていない。Aは、Aとして結果化されていない。しかし、非Aとして排除されてもいない。Aは、なおAへ向かう接続として保存されている。この未確定だが無ではない状態を、まず「可能」と呼ぶのである。


ここから、「可能とは何か」という問いは、「Aがまだ起こっていないにもかかわらず、Aが世界の内部に属しているとはどういうことか」という問いへ変換される。これは、実在の問題と直結している。なぜなら、もし実在をすでに結果化したものだけに限定するならば、可能は実在ではないことになる。しかし、もし実在を、現在内部で保存されている接続構造として理解するならば、可能は実在の外部ではなく、実在の未分割な前段階、あるいは実在の接続的形式として捉えられることになる。


この意味で、本論文は、可能を単なる仮定や空想として扱わない。可能は、現実化していないという点では結果ではない。しかし、現在との接続を保持しているという点では、世界の構造に属している。可能とは、まだ固定点を持たないが、固定点になりうる方向性である。可能とは、まだ「Aである」と指し示せないが、「Aでなくなった」とも言えない保存状態である。可能とは、現在が未来へ向かって開いていることの最小形式である。


このように考えると、可能は単なる「選択肢」ではなくなる。選択肢という語は、すでに複数の候補が並んでいる状態を想定している。A、B、Cの選択肢があり、その中から一つを選ぶ。この考え方では、世界は最初から候補へ分割されている。しかし、本論文では、選択とは未分割の可能総量を一つの方向へ直線化することである。したがって、可能とは、選択肢として陳列されているものではなく、選択以前に保存されている接続可能性である。Aが可能であるとは、Aという選択肢が棚の上に置かれていることではなく、現在がAへ向かう連続性をまだ失っていないということである。


ここで、「直線的」という語の最初の意味も現れる。直線的とは、単に幾何学的な直線を意味するのではない。ここでいう直線性とは、Aへ向かう接続が、途中で「できる」と「できない」に不可逆的に二分されることなく保持されていることを意味する。つまり、Aが可能であるとは、Aへの直線的接続が完全には失われていないことである。ただし、この時点では、直線性の強度や範囲や有限時間内の保持についてはまだ詳細化されていない。それらは可能度の問題である。本節では、可能とは少なくとも、Aへの直線的接続がまだ完全に閉じられていないことだと理解する。


この理解に立つと、不可能の意味も変わる。不可能とは、単に「Aが起こらないこと」ではない。Aが起こらなかったとしても、Aが可能であったことはありうる。たとえば、サイコロを振って二が出たとき、一は出なかった。しかし、そのことは、一が不可能であったことを意味しない。ここで重要なのは、結果として出なかったことと、現在内部で排除されていたことは同じではないという点である。結果後の非実現は、不可能性と同一ではない。ある事象が現実化しなかったからといって、その事象が現実化以前に不可能であったとは言えない。


この区別は、本論文において極めて重要である。なぜなら、私たちはしばしば、結果を見た後で、結果以前の可能性を読み替えてしまうからである。一が出なかった後で、「一は出なかった」と言うことは正しい。しかしそこから、「一は出ることができなかった」と言い換えるならば、結果後の事実を、結果以前の不可能性へすり替えていることになる。もちろん、ある条件が十分にわかっていれば、事後的に「その条件では一は出なかっただろう」と分析することはできる。しかし本論文が問題にしているのは、まさにその「できなかった」が、現在内部にどの時点で、どのような形式で、どの程度固定されていたのかという問いである。


ここから、本論文の中心命題に向かう道が開かれる。すなわち、直線的に「一つのことができる」と「一つのことができない」が、まだ固定的な一点として存在していない限り、AからAを行えないという不可能性は、現在の内部にはまだ一個として存在していない。これは、可能という概念を考えるうえで根本的な命題である。Aが可能であるとは、Aがすでに結果として保証されていることではない。Aが可能であるとは、Aを不可能にする一個の固定境界が、現在内部にまだ成立していないことである。


この命題は、誤解されやすい。これは「すべては可能である」という主張ではない。また、「どのような事柄も努力すれば実現する」という実践的な励ましでもない。さらに、「世界には不可能性が存在しない」という単純な否定でもない。本論文が言っているのは、不可能性を、現在内部に最初から存在する固定点として扱ってよいのか、という問いである。不可能性はある。しかし、それは最初から一個の断絶点として現在の中に置かれているのではなく、接続可能性の喪失、保存構造の崩壊、判定保持力の減衰として現れる。したがって、可能とは、不可能性がまだ完成していないことでもある。


このように可能を理解すると、現在という概念も再考される。通常、現在は過去と未来の境界として理解される。過去はすでに起こったもの、未来はまだ起こっていないもの、現在はその境目である。しかし本論文では、現在は境界ではない。現在とは、未分割の接続可能性が有限時間内に保存されている領域である。現在は、過去と未来を切り分けるナイフの刃ではなく、未来へ向かう接続がまだ切断されていない保存場である。したがって、可能とは、現在の本質に属する。現在が現在であるのは、そこにまだ可能が保存されているからである。


もし現在が完全に固定された一点であるならば、可能は存在しない。固定された一点には、すでに決定されたものしかない。そこでは、Aは成立しているか、成立していないかのどちらかであり、Aへ向かう接続は残らない。反対に、もし現在が無限に開かれた無限定な広がりであるならば、Aと非Aの区別も失われる。何でもありになるならば、可能は意味を失う。したがって、現在は無限でも完全固定でもない。現在は、有限でありながら未分割である。この有限な未分割性の内部において、可能は成立する。


ここで、可能の基礎的な定義をもう一度整理する。


第一に、可能とは、Aがまだ結果として現れていないにもかかわらず、現在から完全には排除されていないことである。


第二に、可能とは、Aへの接続がまだ閉じていないことである。


第三に、可能とは、Aと非Aの境界が現在内部でまだ完全には固定されていないことである。


第四に、可能とは、不可能性が一個の断絶点としてまだ成立していないことである。


第五に、可能とは、未分割の現在性の内部で、AがなおAへ向かう方向性として保存されていることである。


この五点を踏まえるならば、可能とは、結果後に数えられる候補ではなく、結果以前に保存されている接続であることがわかる。ここから本論文は、可能を「分割済みの選択肢」ではなく、「未分割の接続可能性」として扱う。


この転換によって、第一章の課題は明確になる。すなわち、可能を考えるとは、Aが起こるか起こらないかをただ判定することではなく、Aが現在内部でどのように排除されず、どのように接続され、どのように未分割のまま保存されているかを問うことである。可能は、結果の手前にある。可能は、確率の手前にある。可能は、選択肢の手前にある。可能は、固定点の手前にある。可能は、まだ世界がAと非Aへ完全に裂かれていないことの名である。


ただし、本章で最初に扱う「可能」は、まだ十分ではない。なぜなら、Aが排除されていないというだけでは、Aの実在的な強度を測ることができないからである。Aが論理的に排除されていないことと、Aが現在から強く接続されていることは異なる。たとえば、ある出来事が形式的には可能であっても、現在の条件から見ればほとんど到達不能である場合がある。逆に、まだ起こっていないにもかかわらず、現在の構造がほとんどその出来事へ向かっている場合もある。ここで必要になるのが「可能度」である。


しかし、可能度へ進む前に、まず可能の基礎を確立しなければならない。可能とは、Aが排除されていないことである。だが、この「排除されていない」という状態は、空虚なものではない。それは、現在がAへ向かう接続を保持していることを意味する。つまり、可能は最低限の接続概念である。可能度は、その接続の強度、幅、保存量、直線性、有限時間内の保持を問う。したがって、可能と可能度は連続しているが、同じではない。可能は入口であり、可能度は構造である。可能は開かれであり、可能度は保存の量と形式である。


この区別を誤ると、可能性をすぐに確率へ還元してしまう危険がある。確率は、分割後の記述である。可能は、分割以前の接続である。確率は、結果候補を数える。可能は、結果候補がまだ固定されていない現在の開かれを示す。確率は、選択肢を前提する。可能は、選択肢が成立する以前の未分割性を示す。したがって、本論文において可能は、確率よりも根源的な概念である。


もちろん、これは確率論を否定するという意味ではない。確率は有効な記述である。サイコロの目を予測し、統計的な傾向を把握し、結果の分布を扱ううえで、確率は重要である。しかし、確率は、世界がすでに数えられる結果へ分割された後に成立する記述である。本論文が問うのは、その分割以前に、可能はどのように存在しているのかという問題である。したがって、可能を確率へ還元することは、本論文の根本問題を見失うことになる。


本節の最後に、第一章第一ページの基本命題を提示しておきたい。


可能とは、Aがまだ現実化していないにもかかわらず、現在の未分割な接続領域から排除されていないことである。


この命題は、後の議論全体の基礎となる。Aが可能であるとは、Aが結果として存在することではない。Aが可能であるとは、Aが非Aへ完全に切断されていないことである。Aが可能であるとは、Aを不可能にする一個の固定境界が、現在内部にまだ成立していないことである。Aが可能であるとは、世界がまだAを「できること」と「できないこと」へ完全に二分していないことである。


したがって、可能とは、世界がまだ分裂しきっていないことの名である。


そして、この「まだ分裂しきっていない」という現在性こそが、本論文における実在と連続性の問題を開く最初の場所である。可能は、単に未来が不明であることではない。可能は、未来への接続が保存されていることである。可能は、単に候補が複数あることではない。可能は、候補へ分割される以前の総量が、なお現在の内部に保持されていることである。可能は、単にAが起こるかもしれないことではない。可能は、Aがまだ不可能性として一個に固定されていないことである。


この地点から、次に問われるべき問題は明らかである。


Aが可能であるとして、そのAは現在からどの程度接続されているのか。


Aは、どの範囲で保存されているのか。


Aへの接続は、どこまで直線的に保持されているのか。


Aは、単に排除されていないだけなのか、それとも実在に近い保存構造を持っているのか。


この問いに答えるために、次節では「可能度」という概念が導入されることになる。可能が「Aが排除されていないこと」であるならば、可能度とは「Aが現在からどれほど直線的に保存されているか」である。ここに、「可能」と「可能度」の決定的な差分が現れる。


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