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<8> 括られた縄は解かねばならぬ

 ただ、その日は夢見の悪い朝だった。

 奴隷落ちしたときに枕元にいたあの女神が、今日も夢枕に立つようにそこにいたから。


「お優しいご主人様よね。手は出さないって約束してるなら、当面は身の安全が確保されたようなものでしょう」


 そのオーシアという名の女神が、慈愛と豊穣という言葉を掲げている要素など微塵も感じられない。

 今のひと言にしたって、安心させる以上にどこか挑発的だった。


「安全かもしれませんが、いつまでも続く保証はありませんし、何より退屈で鈍ってしまいますわ」

「鈍るくらいどうってことないじゃない? それに、別に、好きでもない男に慰めてもらっても、それでできちゃったりしたら、それはそれでわたし的にとても喜ばしいけどね?」


 最低だ。

 子を成すというのは祝福されるべき尊い行為なのに、彼女のそれは淫蕩の果ての結果を喜ぶような響きに聞こえた。

 明らかに狂っている。


「もちろん堕ろすとか罰当たり、社会的に死ぬわよ。あのメイドの言う通り、おかしなことを考えないのが得策よ」

「おかしなこと、つまり脱走など」

「そういうこと。まあ脱走しても、その顔の呪いは誰もあなたを人としては扱わないわよ? きっとここにいたほうがマシってくらい、後悔するのが関の山よ」


 そうした助言らしい助言とも言い難い女神の発言が耳に残った状態で目を覚ました。


 あの女神の言葉を、私は有り余る時間の中で考えてみた。

 明らかに人の男女の営みに深く踏み込んでいる。

 豊穣の女神名乗ってるからといって、果たしてそれはどうなのかと疑問に思いたい。農業の豊かさを象徴する農村部での厚い信仰もあるが、何より跡取りが家の生命線である貴族の間でもその恩恵は深く敬愛されている。

 それを前提としても聞き捨てならない内容が盛られていて、ざまぁなどとのたまわれたあの日からずっと、不信感以外を彼女に抱くことはできなかった。


 寝覚めの悪い朝を迎えたとしても状況が好転するわけではない。相変わらずの幽閉同然の生活だった。すでにこの生活を送り始めてから1週間以上。着実に身体が衰えつつあるのを感じていた。

 起きて物思いにふけり、食事をして、ベッドメイクや清掃をするベリーダを眺めて可能な聞き出しして、食事をして、窓の外を伺って歩哨が交代する様子を眺めて、昼寝して、夕暮れを拝んで、食事して、身を清めて、犬の遠吠えを聞いたりしながら寝る。

 得られる情報は肝心な部分には触れられなかったが、私は暇を持て余す以外のことを一切許されなかった。それでも、あの女神の発言の不穏さと、経過期間を考えたら、今後私が受けるであろう仕打ちは容易に予想できた。

 私の価値は実家とのパイプにある。

 ベルサーネス公爵家に対して、「娘は無事保護している」と伝えた後、ここの主が口利きを行おうとすることは容易に予想できる。例えば、「娘を保護しているのでその安全確保料ないし保護費を徴収」などのような形で恒常的な商売に結びつけはしないだろうか。

 あの日の裁定で決められた中には、私と実家の結びつきの禁止も含まれていると言っていい。名目上、私はベルサーネス公爵家からも追放された身である。法的にはベルサーネス公爵家が私への支援を行う義務も、身分の保障もしなくてよいが、縁故は必ず発生する。

 もしその縁故を不用意に利用しようものなら私は、国に睨まれたら国家反逆罪の疑いを覚悟させられる。

 この屋敷がどこにあるか


 ただ、その成否の如何によっても、私の五体満足が約束されるとは限らない。この頬の印と、主従の契約は強力な枷として働くから。私はなんの申し開きの権利もなく、ここの主人に弄ばれることになる。


 しかもこの奴隷契約は、『契約分け』で奴隷が反抗不可対象を主人が拡張できるという。ベリーダや執事のセヴァンには拡張がなされていると思って間違いはない。

 今まで大人しくしていたのは、脱走を志向しようと考えていることを悟られないためのもの。また、脱走以外の活路を見出そうと考えていたため。

 その中で、『脱走以外の活路』は情報量が少なすぎて、待っているうちに取り返しのつかないことになる可能性を危惧して却下した。

 おそらく私が捕まっている間に父上は役職を解かれたことを理由として領都の城に戻ったと思う。イヴェルの働きかけが行われるには、少なくともアポを取って準備がいるはずだ。

 手紙をここから領都に送って返事が返るまでの時間を思えば、もう動かないと間に合わない。

 そのため、『脱走』の線で、計画を立てることにした。


 決行は夕暮れ後の身を清める時の後くらい。ベリーダが脱走を検知するのが次の日の朝になる。彼女に脱走防止義務はなさそうなので、私が逃げてもたぶん処罰されないと思う。

 脱走経路は窓からか、通常の出入り口か。いずれにせよ認識阻害や迷彩、消音あたりは発動させないといけない。ましてや庭に犬がいたのを見たから、消臭もセットしないといけない。

 イヴェルもセヴァンも、ベルサーネスの子女が弓術を主体とした厳しい鍛錬を積んでいることをどこまで把握しているだろう?

 鈍った身体がどれだけ足を引っ張るかわからないけれど、やらなければ身の危険を避けられないから。願わくば、我が家の家訓への理解が大きく及んでいないことを。

 シーツで簡易のフード作成を試みる。頬の奴隷印をすぐ見られないことにどれだけ貢献するかわからないけれど、無いよりはマシだと思う。

 この日と決めてかかった中で、ベリーダの午前のお勤め終わりを確かめてから、認識阻害をかけてそっとドアの外を伺う。するとあらかじめ雇われたと思しき鎧姿の男が2名、そこに立っていた。今まで、ベリーダの挨拶の声や交わす言葉も聞こえなかったので、おそらくこの近日の間に雇われたのだと思しき立哨だった。

 表ルートは危険と悟って静かに扉を閉めて部屋に籠もる。何かの違和感を感じたのを気のせいかと辿る声がした。どうやら気づかれずに済んだのでいったん安心だが、ドアを開ける動作だけで認識阻害が破れる危険性があると知っただけでも十分すぎる。

 ただ窓から抜けるとしても、2階半から3階ほどの高さから直接飛び降りるのはなかなかハードだ。鈍った身体では飛び降りるのに失敗しかねないし、そうすればまず足腰を痛めてしまう。当然脱出どころではなくなる。かといってシーツをロープ代わりにしたら、性奴隷印を隠すためのフードを失ってしまう。

 昼食を食べながら安全にこの高さを攻略する方法を考えてみたけれど、思い浮かばない。部屋にあるものを見回しても、シーツの他に縄の代わりとなりそうなものは見当たらなかった。


 取りうる選択肢は2つ。

 フードをつけて無理やり飛び降りる。

 フードなしでシーツをロープ化して降りる。


 前者は今の私の体力的にアウトだった。後者はどこかで頬を隠す布を見つけないとならないけれど、2階半が1階半〜2階程度の高さになるのでより難易度が落ちる。そのかわり括ったシーツは回収して持っていくことができない。

 姿を眩ませる魔法を使う時間は長く取れないけれど、夜の闇に紛れるとすれば、脱出成功率は格段に上がる。

 後者の案を主体とし、頬を隠す布は……灯台下暗しだった。

 賓客用の一時的な着替えで渡されたスカートは丈が長く、この裾を詰めれば頬を隠すだけの布くらいは作れる。それに、脱出時には裾の長さが災いする。足を見せる範囲を広げることは恥ずかしいし、破った布がほつれたらより危ない。けれど、このまま手をこまねいていたらもっと恥ずかしい想いをさせられるから、背に腹は代えられなかった。

 作戦方針が決まったので、シーツを斜めに引っ張ってロープ代わりに使えるかを見る。真ん中を縛ることになるけれど、2メートル半から3メートルくらいは確保できそうだった。

 あと、スカートの裾にはあらかじめ切れ込みを入れて、直前に捌けるようにしておく。これは、食事で渡される肉用ナイフを活用して綻びの穴を作った。

 あとは時間を待つ。

 夜通しで走るのでお昼寝は気持ち長めに。

 夕方になって、夕食と身の清めを済ませたら、今日までお世話してくれたベリーダにありがとうと心の中で呟いた。

 窓を開け、椅子と机を利用してシーツを括る足場を作る。

 認識阻害だけなら1時間、その他に維持する魔法を増やせばその数だけ維持できる時間が割られて減る。認識阻害と迷彩で30分、消音と消臭追加で20分。

 なるべく認識阻害の維持をベースとして、屋敷の庭の脱出までをうまく行う。ちょうど今日は月の明かりのない暗い夜であるのも幸いだった。

 部屋の出入り口に内側から鍵をかけておく。本当に、なぜこの部屋に入れたという疑問しかない、時間稼ぎしていいよと言わんばかりの扉だった。

 そして脱出に先立って、窓の外を暗視と望遠視覚で経路上を伺ってみる。庭に2組程度の歩哨と、出入り口に警備の立哨がいる程度。これまで確認した限りだと、あくまで盗みを防ぐための警戒だと思う。感知の魔法を使われないことだけが気がかりだ。でも、準備ができた以上、実行以外になかった。

 消音で脱出の仕掛けの音を探られないようにし、認識阻害を動作させて、窓から半身、そして全身を足側からくぐらせる。

 人ひとりが身体を通し切るには余裕の隙間をぬい終える。幸い胸は引っかからなかった。垂らしたシーツ縄を左手で保持し、静かに身体を下に下ろしていく。

 窓ガラスに張り付くところで迷彩をかけ、シーツ縄の端ぎりぎりまで右手を上に、左手を下に添えて降りる。最後の端は右手の握力だけで身体を支えてから、まだ3〜4mはある高さを頑張って飛び降りた。

 下が芝生だったのがより幸いし、足腰にかかる衝撃は小さく済んだ。目立った音もさせていない。ちらっと暗視で周囲を見たが、庭の歩哨に怪しい動きを探る様子を見せるものもない。

 身を低くとり、認識阻害と消臭の魔法を維持して、屋敷の出口付近まで走る。幸い、庭で見かけた犬らしい気配は感じられない。夜の番のこが、匂いも気配も感知できず、目を覚ましていないようだ。

 途中で庭の歩哨の一組とすれ違ったが、気づかれなかった。

 立哨らしき警備員が出入り口を固めていたけれど、彼らの隙間を迷彩と消音付きの認識阻害状態で通り抜ける。何か風が通り抜けたようなだけ程度の認識でしかないらしく、私の脱出を彼らはあっさり許していた。


 脱出については拍子抜けするほどうまく行った。うまく行き過ぎて不安すらよぎった。

 感知の魔法も、外側にはたぶん張り巡らせていて、屋敷に近づこうとするものを指向的に探っているのだと思う。そう想定した場合、あまり早く屋敷を離れると怪しまれるので、歩く速度で去ることにした。

 そう、私をここに閉じ込めたままにしなかったあの女神は、私のこの脱出作戦をどう考えているのだろう?


 安全圏と思しき場所まで退避した私は、あらかじめ作っておいたスカートのすそのほころびに指をかけて、その布地を裂いた。膝上からすこし高めに裂いたラインが来てしまっている気がするけれど、おかげで十分な布地を確保できた。頬を隠すことのできる覆い方を、頬の印の浮き上がりを指でたどりながら試行錯誤した結果、マスクやヴェールのように覆うのが妥当かつ安全だった。また、私がファーステスであると見破れるのは相応に親しんだ人間だけ。可能なら頭を覆えればいいが、贅沢は言っていられない。

 脱走元の屋敷があったのは、わずかに残っている外の景色の記憶を考えながら大通りに潜んで出て、それにつながる大広場を確かめるまでをたどってわかった。


 剣を携える建国王と、弓を携える私のご先祖様の像を見かける。

 それだけで、ここが王都であることを証明していた。


 また改めてそのお姿を拝することになったことは、とても恥ずかしい。

 誇りを失いつつある身である上で、貴族の慎ましさをかなぐり捨てたような今の姿は、ご先祖様に見られたくなかった。

 できれば、願わくば、ご先祖様に次お目見えするときには、誇りを取り戻した姿でありたい。そう誓って、私は城門まで身をひそめながら近づく。

 ご先祖様の像の体の向きを元に、その門が南門であることを割り出した。

 その門を守る衛兵の脇は認識阻害・迷彩・消音・消臭の隠密化フルセットで駆け抜けた。出入りには厳格な入退出手続きを必要にしたのは、ご先祖様と建国王の代からそうだったと思う。そのセキュアさを守っている衛兵の方々には感謝しつつも、元とはもうせ弟家の令嬢が率先して脱法することについて、「ごめんなさい」と心の中で謝罪することしかできなかった。

明日も投稿予定です。

読んでいただきありがとうございます。

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