<40> そして最初につなぐ
シェレネにああいった手前、その日は孤児院のベッドで早朝まで眠って過ごした。
できれば深い眠りにはつきたくないとおもったのだけど、そう都合よくはいかない。
「ねえ、シェレネ悲しませてまで何考えてるの?」
耳障りだ。
そう思った夢枕は、私が深めに眠ってしまった証左である。その妨害者の糞駄女神を認識した以上対処しなければならない。
「彼女の涙を無碍にはできませんが、私は前に進むことをやめられませんわ」
「猪突猛進、走り出したらもう誰にも止められないってこと? 気でも狂ったのね」
「そう受け取ってもらっても構いませんの」
ただ、あの日反撃の狼煙を上げた私は、何を聞いても穏やかに対処できる。
そう信じてやまない。心が動くはずなどないという確信があった。
「いいのかしら? そのまま突き進んだら、取り返しのつかないことになるわよ?」
「そのような脅しで止まるとでも?」
「これは警告。まあ、本当にそうなってから後悔して泣きっ面見せても構わないけどね?」
糞駄女神が、何かを知って私を遮ろうと試みているらしい。
彼女自身が、何らかの未来予知ができているというのを私が推測できている前提で、脅しをかけているようだった。
そのことを気にしない、というわけにはいかないけれど、たとえそれが取り返しのつかないことだとしても、それで手や足を止めることはできない。
「私としてはそれで泣き喚いてのたうち回るのが、楽しみなんだけど、ふふ、うふふふふ」
気持ち悪い笑みを浮かべる糞駄女神の、虫唾が走るそれを見やりながら、私は目を覚ました。
だめだ、孤児院で眠るのは寝覚めが最悪だ。
あの女神に負ける気がしなくなっている高揚感はあっても、あの女神の顔を見ることがそもそも嘔気につながる。
それくらいの邪悪さを、あと何回見ればいいだろうと気が重くなりながらも、今日の練習のために早起きした。
その日の練習に使っていたのは、エミナ・ノ・ユミハリではない、やや軽めの丸木弓だった。
血の約束のアジトに置いておくための意図で確保したそれは、エミナ・ノ・ユミハリほどの強い張りを必要としない。実際、弦の張り直しの負荷は身体強化で賄える程度の強さでも、あの領域より何割か軽かった。
でもそれで十分だった。
ダルグダを屠った矢、それを引ける弓という地点で、特に治安部隊に情報を与えてしまっている。
だから、ベルサーネスの領兵なら末端から広く使っている可能性のある、長めの丸木弓を購入した。金貨がいくばくか必要だったけれど、エミナ・ノ・ユミハリを買うのに比べたら格段に安かった。
使う矢、使う弓の感覚を体に覚えさせるために。また、そこに「私」に類似するものがいると思わせないために、私は丹念にそれを手に、肩になじませた。
有効射程こそ100m前後で推移する程度だけれど、今のところそんな遠距離を射抜く要件はない。
ただ「もしも」のときを想定した射程と感覚は、きちんと把握しなければならない。
朝の練習を終えて、朝食の準備を整える。
ここに来たばかりのころ大苦戦していた野菜の切りそろえは、今ではずいぶん手慣れた。
成果を見てもらいたい人、味わってほしい人が少し少ないけれど、今生きている人のために作らないといけない。そう、自分に言い聞かせて料理を形にした。
「リリせんせーぽくない」
「でもおいしくなったよ」
小さい子にだいぶ空気を守れなさそうな男の子がいた。悪ガキなままでいられなくなったプレスマーの代わりにそうなった彼は、カナギスといったか。私のぶつ切りお野菜に最初に文句を言っていたのも懐かしい。
優しい心を継いでくれたような子は、ロロマという名前だったかな?
より孤児院に向き合い、覚えた名前を反芻しながら、シェレネが大切にしたいものすべてに心を砕いていこうという決意は、きちんと改めた。
それから。
私は孤児院の日々を過ごすのと並行しながら、血の約束のアジトにおいて、別の意味で子供たち相当のふたりを抱えていた。
孤児院の職員としては朝から午前までを必ず拘束される。それからお昼すぎくらいまで、あるいはお昼過ぎからセラが夜の勤務に就くまでくらいの時間は、孤児院を離れて血の約束のアジトに通っていた。午前が空くか、午後が空くかは料理当番の都合で決まった。
シフト表をシェレネと検討して、孤児院を離れられる時間を作っても咎められないように、説得してここにこれた。
「これは?」
「しん、しつ?」
「しんしつ……抱かれる場所」
「セラ、覚え方」
「いいでしょ、許してほしい」
見取り図を作るセラと、確かめて仕掛けるミカナ。
その二人に、部屋の場所を図ではなく文字でわかるようにと教えていた。
「これは?」
「いま」
「居間……くつろいで撫で合う場所」
「これは?」
「よく、しつ」
「よくしつ……体を洗ってあげる場所」
「っっ」
読み書きに難のある二人に、ロヴァルドで公用の言語で場所の文字だけを提示して書いてある言葉を答えてもらいながら覚えてもらっている。
覚えてもらっているのはいいのだけど。
ミカナはただ文字を追っているのだけど。
セラは、その場所その場所と、逢瀬によって行われる行為を紐づけて覚えていた。
覚えるための方法に、その役割を関連付けることはとても効果的な習得方法ではある。けれど、それを言葉にされるとものすごくいやらしさが先行して、手を止めそうになる。
それでも、私が照れるのを見るのがミカナの覚えにもつながるらしく、ふたりは3日もかからずに見取り図に必要な文字の読みと書きを習得していた。
今回も、間違い一切なく、提示した文字を読みきっていた。
セラとミカナに読み書きを教えるにあたっては、血の約束のリーダーには反対された。
「なんだ? 今日も読み書きなど教えている?」
「仕事のために必要だからですわ」
「困るな? 血の約束の結束にほころびが生まれるんだが」
「教養は、必ず仕事だけでなく生活の豊かさとして幸せにつながりますわ。それにこれは、私が預かった作戦でもあります。成功率を上げるために必須なのですわ」
「そうだな、セラが潜入、ミカナが実行、ファーステスは見張りと陽動」
「なればこそ、作戦の成功には万全を期すのが、私の流儀ですわ」
ただ、私はリーダーのやり方にそのまま沿うのは、好まなかった。
彼なのか、彼女なのか、いまだにわからない曖昧な容姿。本当の名前もわからない。
リーダーは数人、たぶん奴隷出身のような獣人を囲って支援されている。読み書きのままならないミカナや、セラも垂らしこんでいる。
バレルさんは流民だと思うけれど教養はありそうだった。つまり、しかるべき軍事訓練を受けていそうな組織にいたことがある。そんな小さな隊を束ねている様子だった。
そう、血の約束のリーダーが、組織をまとめ上げている根拠は、何らかの弱みに近い物だ。それとも、恩を返したい心を利用しているのか。
その結束のきっかけを私は、とても気に入らなかった。
「それに、あなたはあくまで神官だと思いますの。聖職者としては知見が深そうですが、闇に生きる人を束ねるには、謎めいたところだけでは足りませんわ」
「ならば、リーダーを継ぐか?」
「お断りですわ。私は属したとはいっても、客人のつもりですの。それにこの組織の長は、ヘルガドの神官であることが条件のはずですわ。わたくしは、ヘルガドの信者には到底なれませんもの」
「なら、俺の望むままを許してもらおうか?」
「あなたの望みが、所属される皆様の今後のためにあるように、私は望みますわ」
「またお得意の詭弁か?」
「また、とは心外ですわね?」
リーダーはそうやってすぐに身を引いたふりをして、その流儀に私を従わせようとする。
強く帰属する気はなかったけれど、今の私には、目的を果たすためにはこの場所、この組織がどうしても必要だった。
「とにかく、作戦が成功すればいいのですわよね。ぬかりなく、痕跡らしい痕跡を残さずに仕留められるようにしますわ」
「それについては心配はしていない。まあ、おまえとやり合っていると疲れる。好きにしろ」
「お心遣いに感謝しますわ」
疲れるとは言っているが、私がここにいられることはヘルガドが担保している。あの方の支持を、信仰者であるリーダーが無視できないのは当然だ。
「続き」
「教えてファーステス」
リーダーに水を差されたけれど、すべてはあの女神を斃すため。
そのためには。
この組織のメンバーが皆成長してもらわなければならなかったから。
私は来る日に備えての教育の日々を、つつがなく過ごすことになった。
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次は8/8 17:00を予定しています。




