<18> その道端に咲き誇りし麗華
弓を射て練習する機会を得て、少しずつ体力が戻るのと同時に、さまざまな感覚が活力として戻ってきているような気がした。
その事実に気持ちは昂っていて、日々の生活に張り合いが持てるようになったと思ったのに。
そういう時に限ってあの女神は私の邪魔をするように、夢の中に出てくる。
ただ今日は、眠っているときの、どこか不自由な中で一方的に聞かされるのとは違う、体の自由が利く状態での相まみえであった。
「ふうん、弓だけでそんなに違うんだ?」
「ええ、違いますわよ。私の活力そのものですもの」
私の左手には、まるで示し合わせたかのようにエミナ・ノ・ユミハリが握られていた。
「そう」
オーシアには、荘厳な後光が覆いかぶさるように存在し、いまだに彼女自身を厚く加護しているように見える。
ただ、余裕に無防備にこちらに体を向けて、自然体にふるまっているオーシアなのに、一切隙が感じられない。
「で、撃ってみる?」
「何を言って」
「殺したいくらい憎いんでしょう、私のこと」
そう、確かに殺したいくらい憎い。でも、今のオーシアにはどう考えても、当たる気がしない。
構えも取らず、悠然とこちらを眺めているオーシアとの距離、その場の空気の様子を思えば、狙わなくても当たりそうなのに。
それこそ、『撃ったらどうなるかわからない』現状を、不用意に踏み越えるのは愚かの極みと言えた。
「やめておきますわ。無駄どころか罠以外何もないと思いますもの」
「そう? そういう割に、ずいぶんその気で狙ってるのね?」
「えぇ?」
なので、申し出をありがたくお断りしようとしたのに、私は左腕を上げて矢を番え、オーシアに矢じりをむけてしまっていた。
「どういうこと……」
「いいじゃない、叶えてあげるわよ。あなたの一番の願い」
「何を言って、それは今じゃないって」
「今でしょ?」
肩に心地いい位に強く弓の張りが伝わる。弓懸に掴む矢の穂が、耳の傍まで引き絞られる。
自分の意思を超えて私は、オーシアを射抜くことを試みようとしていた。オーシアの悪趣味は、どこまで私を弄んだら気が済むのか。
そう、弓引かれてもなお余裕さのある表情を崩さないオーシアの不気味さに、不安を感じないわけがない。でも、一度引ききられた弓体は肩を強く軋ませ、引ききられた弦は矢を解き放つ以外の方法を許しそうにない。
そう、絶対悪い予感しか、しないのに。
「もう、む、り……っ!」
私は、まっすぐ、ほぼ仰角なく、鋭さを重視した金属の矢じりの矢を、女神の胸部の中央にめがけて、丁寧に弓返りさせて矢を放っていた。
矢は風切りを鮮やかに飛び、一瞬でオーシアの心臓を捉えるように刺さった。
傍目にはとてもあっさりと。
でも、心臓に刺さったにもかかわらず、オーシアは表情一つ変えない。
途端に、視界がぼやけるとともに何か、感じてはいけないと本能が警告を感じさせるような痛みが、胸の中央に走った。
「んー?」
「く、あ……やっ、ぱり……」
「あーあ、あははは♪ 女神に弓引くなんておばかさんよね」
「ち、が……」
「違わないわよ。あなたがやろうとしているのはそういうこと。ふふ、あなたには絶対無理無理。おとなしく屈して性奴隷の務め果たしなさい♪」
「くっ、し……ないっ……」
私は、その死に瀕したかのような胸痛の凄絶さを感じながら、自分の谷間に視線をやった。
そこには、自ら放ったはずの矢が、その形のまま自分の心臓部を捉えて、深々と突き刺さっていたから。しかもすぐに意識を手放せない。息が詰まって、呼吸が呼吸を得られないのに。
矢を抜きそうになって、掴んだ矢にかきむしられるような胸痛が走る。その寸前で思い返して踏みとどまる。
矢を抜いたらおびただしい出血で助からなくなる。
そう逡巡しているうちに、視界が白黒を明滅させてぼやけていき。
それで私は、夢の世界から現実世界に引き戻されて。
幻の痛みのようなものを胸の間に感じながら、その時に吸い込めなくていた息を、手繰り寄せるように荒げていた。
もっとも、そんな夢見の悪さがあろうとなかろうと、朝ごはんの当番は訪れる。今朝は私が担当しなければならないのに、私を絶望させる気のオーシアの嫌がらせはその覚悟を折りに来た。それでも、まだ残ってそうな心臓の痛みに、息を落ち着けて臨む。
私は、お料理の経験はゼロではない。そもそも肉の解体と調理経験はある。でもそう、できるとは言い切れない。
特に野菜刻みなどは、未知の領域だった。
在りし日に、例えば他の軍人さんと演習していた時などは、おおよそ私は軍の階級も付けたしで高く設定されたので高級将校同等扱いとして、現場の料理を作らなかった。
そうでなくても、王妃のための教養についても、料理は料理人の領域で、私の領分から外れていたから。
「あっっつ!」
「リリさん、無理しなくていいよ?」
指はキッチンナイフの刃で浅い傷をいくつも刻まれ、スープのために具材を注げば跳ねたお湯でやけどをし、不用意に鍋を掴んでやけどをし。
手に弓を使う以外の生々しい傷跡が、いくつもつけられることになった。
シェレネが癒しの魔法を使ってくれて事なきを得たけれど、要練習事項だった。
オーシアへの祈りを捧げてからの食事は、教会のものらしい作法とは思う。王宮で食事会に招かれたとき以外は、オーシアへの祈りを改めて捧げた記憶が薄かった。
父上は「形だけ見せかければいい」と言って、その祈りをフリだけで済ませるよう私にも伝えていた。当時はそこまで厳格にオーシアを避けるのか分からなかったけれど、今は何も言われなくてもそうする。
言葉に発するのも憚られたけれど、祈りの言葉を捧げる側でその心の中ではオーシア許さない、オーシア死すべし、オーシアはこの世から消えてなくなるべしなどなどと垂れ流していた。
「リリお姉さん怖い」
「うぇぇ」
なので、子供たちを不用意に怖がらせてしまったのは言うまでもないため、それは謝る以外になかった。
「なにこれぇ」
「野菜の大きさばらばらぁ」
「芋ちゃんと向けてないしー」
「ご、ごめんなさいね……?」
「リリせんせーなのー?」
「もっとちゃんとやってよー」
あともう一つ、私の不器用さが招いた不揃いで皮残りな野菜を食べさせることになってしまった件も謝る以外になかった。ただ、割と遠慮なく文句を告げてくれるのは、思ったより心地よかったのだけれど。
その朝の食事を終えた後、当初の予定通りに私はカティナやシェレネに連れだって炊き出し活動に行くこととなった。院長は子供たちの面倒を見るお留守番となる。
借りた人力車にお鍋や食材を積み、交代で露払いと車を動かす人を振り分けながら現場に向かう。
聞けば、炊き出し活動自体が4か月5か月はできていなかったという。年計の予算不足があったから、という事情を加味した中、再開できたのは。
「まあ、リリには感謝するしかないよね」
「リリさん様様だよ」
「あはは」
私の口利きで、ベルサーネス公爵家を動かして寄付金増額を取り付けることができたから。
その決定が領主の名で派遣された役人から告げられた。前にエメルーから一時金を貰っていたのに加えて、増額された寄付金を改めて受け取れた。
この孤児院に作ることのできた足掛かりは、何もかもを失っていた私が得ることのできた安らぎ。まだひとときとしか言えない程度の時間とは申せ、その恩返しの一環は果たした。そこに一切の貸しはない。
ただ、ここまで感謝されるのは想定外ではあったけれど。
人力車で貧民街にたどり着く前。
貧民街と通りの近いところで、シェレネが少し視線を送っていた様子だった。
「どうしたのシェレネさ……」
「ああ、花街の前か」
カティナが私とシェレネを見て感想を漏らした。
いけない、女性が胸のまわりだけ布とか、短すぎる丈のスカートとか、そういう姿で公の道を歩くなんてそんなこと。朝帰りの客を送り出す娼婦を見て、私は思わず視線を伏せそうになってしまった。確かにはしたない、裸にも近い扇情的な衣装だったのだけれど、彼女らは合法なのだ。
「もしかしてシェレネさん、こういった」
「仕方なかったから、ね?」
「それは、うん」
前に困窮した孤児院運営のために、カティナとシェレネが働いていたことを話した際に、シェレネが花街務めを匂わせたことがあったので、失礼を承知で聞いたらそうだった。
自己満足かもしれないけれど、彼女に身売りのアルバイトをさせずに済むようになったのは、私としては歓迎すべき話だった。
「シェリー?」
「あっ、しーっ、しーっ!」
すると、花街の提供する側のひとりらしい、桃色三つ編みを肩から下げた女性がシェレネに声をかけてきた。たぶんシェリーとはシェレネの源氏名なのだと思う。ただ彼女に他の知り合いがいる中であまり特定されそうな趣きで問いかけるのはと、シェレネはその娼婦を制していた。
とりあえず聞かなかったことにする。
「そんな、お礼させてほしい」
「私何も感謝されることなんて」
「ううん。シェリー大人気で、リピーターいっぱいだったけど?」
「言わないでぇぇ」
聞かなかった。聞かなかったの。
それなのに、やけにはっきりという口調に反して、その桃色三つ編みの女性はどこか、抑揚に欠けているような、とても静かな言い方をする人であるのが、とても印象深い。
「初めまして。セラフィです」
「ど、どうも」
「初めまして。リリといいます」
「いつもしぇり、おっと……こちらではシェレネ、だったかな? が、お世話になってます」
あと、彼女の右頬に刻まれているのは、とてもなじみのある半曲線だった。
思わず、覆う布地の上から自分の刻まれを意識してしまう。
私のそれとは少し違うのは、あの奴隷商が言っていたきっかけ印の差だろう。
「そちらの方。えっと。リリさん? 気になる、気になり、ますよね」
「ちょっとリリ、それはあんまりかかわるべきじゃないわよ。性奴隷印……はわかるけど、娼婦なら普通にあり得ることでしょう?」
「それはそうですけど」
「そちらのもうひとりの……えっと」
「カティナよ。気にはなるけど、深くは聞かないわよ」
「はい、カティナ、さん……ありがとう」
私が言う前にカティナが種明かししていたけれど、私が言う言葉を先回りされてしまった。
セラフィさんはシェレネのかかわりである私たちに会釈のように軽く頭を下げてお礼を述べた。
「ふたりとも、あまり長居はできないわよ。ほら移動した移動」
「うん、またねセラフィ」
「機会があればまた会いましょう」
「ええ。みんながんばって」
カティナが煽って私たちを目的地に急がせようとした。
確かに、彼女の言う通り、長居は無用の話。教会の聖職者が娼婦とどんなつながりがあるかを探られることが良くないイメージが広がって、無法者が孤児院に入り込もうとするのはありえないわけがないから。
というのは、私個人の憶測にすぎないのだけれど。
ただ、セラフィは。何かとても、不思議な人だった。ありえない者同士が同居しているかのような、そんな落差を感じる雰囲気があった。
そう、どこか素朴さが抜けきらないのに、本来そのような場所に咲くはずのない花のような麗しさを湛えているかのような。
そんなセラフィに見送られて、私たちは目的地の貧民街の定位置に急ぐことにした。
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