第8章 返信と、小さな青いパッキング
朝、紡はいつもより早く目を覚ました。
アラームが鳴る前だった。
目を開けた瞬間、自分が何かを待っていることに気づく。
胸の奥が、落ち着かない。
眠りは浅かった。
夢を見たような気もするけれど、内容は覚えていない。
ただ、どこか知らない駅のホームに立っていたような感覚だけが、体の中に残っていた。
紡は枕元のスマートフォンを見た。
画面は暗い。
通知は、来ていない。
それを確認した瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でもよくわからなかった。
昨夜、セリにDMを送った。
その事実を思い出すだけで、胸が小さく跳ねる。
はじめまして。
突然のメッセージ、失礼いたします。
私は今、会社員として働きながら、いつか日本各地を旅して、その土地の歴史や文化、食、暮らしを発信したいと思っています。
でも、安定を手放すことが怖くて、まだ何も大きく動けていません。
送った文章は、今思い返しても少し恥ずかしい。
あまりにも正直だった。
母にも話していないこと。
美咲にも話せていないこと。
大学時代の友人たちにも、会社の誰にも言えていないこと。
それを、会ったこともないセリに送った。
どうして送れたのだろう。
紡はベッドの中でスマートフォンを伏せたまま、天井を見つめた。
たぶん、セリが遠くにいる人だからだ。
すぐ隣にいないから。
同じ会社にいるわけでも、家族でも、昔からの友人でもないから。
自分の生活に直接入り込んでこない距離にいるから。
だからこそ、本音をそのまま渡せたのかもしれない。
近すぎる人には、心配をかける。
期待させる。
反対される。
自分の言葉のあとに、現実的な質問が返ってくる。
会社はどうするの。
お金は大丈夫なの。
本当に食べていけるの。
何歳までやるの。
失敗したらどうするの。
それらは全部、大切な問いだ。
避けてはいけない。
でも、今の紡にはまだ、その問いを真正面から受け止めるだけの強さがない。
セリには、まず気持ちだけを送ることができた。
怖いです。
でも行きたいです。
見過ごされそうなものをちゃんと見られる人になりたいです。
その気持ちだけを、飾らずに。
紡は深く息を吸い、ようやく起き上がった。
カーテンを開けると、薄い朝の光が部屋に入ってきた。
テーブルの上には、深い青色のノートが置いてある。
昨夜、そこに書いた一文。
「セリさんにDMを送った」
その文字を見た瞬間、胸がまた少し熱くなった。
大きな決断ではない。
旅に出たわけでも、会社を辞めたわけでもない。
でも、自分にとっては確かに橋を渡った夜だった。
朝の支度をしながらも、紡は何度もスマートフォンに目をやった。
洗面所で顔を洗っているとき。
髪を整えているとき。
トーストを焼いているとき。
コーヒーを淹れているとき。
通知は、ない。
それでいい。
そう自分に言い聞かせる。
返信のお気遣いはなさらないでください、と自分で書いたのだから。
返事を求めないために、そう書いた。
でも、心はまったく正直ではない。
返事がほしい。
読んでくれたかだけでも知りたい。
既読になっているのだろうか。
まだ見ていないのだろうか。
迷惑だっただろうか。
長すぎただろうか。
考え始めると、きりがなかった。
紡はマグカップを持ったまま、小さく首を振った。
「見ない」
声に出して言う。
けれどその五秒後には、もうスマートフォンに手を伸ばしていた。
通知は、やはりない。
紡は自分に呆れて笑った。
夢に向かって歩き出したい、などと言っているくせに、今の自分はたった一通のメッセージの返事に振り回されている。
でも、その弱ささえ、少しだけ愛おしい気もした。
今、自分はちゃんと何かを待っている。
待つほどの行動をした。
それは、昨日までとは違う。
会社へ向かう電車の中でも、紡は落ち着かなかった。
吊り革につかまりながら、何度もバッグの中のスマートフォンを意識する。
通知が来たような気がして、画面を見る。
何もない。
またバッグに戻す。
数分後、また気になる。
その繰り返しだった。
車内の窓には、寝不足の自分の顔が薄く映っている。
紡はその顔を見て、少しだけ苦笑した。
セリから返事が来なかったら、どうなるのだろう。
きっと少し落ち込む。
でも、送ったこと自体は後悔しない気がした。
怖かったけれど、ちゃんと伝えた。
その事実は、消えない。
反応があってもなくても、自分が動いたことだけは残る。
それは、これまでの投稿でも少しずつ学んできたことだった。
豆大福の投稿。
夕焼けの投稿。
チャペルの空の投稿。
ちゃんとした大人になれないという投稿。
すぐに大きな反応が来るわけではない。
でも、置いた言葉はそこに残る。
いつ誰が見つけるかわからない。
そして時々、思いがけない誰かが「わかります」と言ってくれる。
会社に着くと、いつもの空気が紡を迎えた。
エントランスの自動ドア。
磨かれた床。
エレベーターの前に並ぶ人たち。
社員証を首から下げた自分。
現実は、変わっていない。
昨夜、セリにDMを送ったことなど、このビルの中では何の意味も持たない。
出社すれば、そこには仕事がある。
メール。
資料。
会議。
締め切り。
上司からの依頼。
真帆からの確認。
紡はパソコンを立ち上げた。
画面が明るくなり、業務用のチャットが次々と通知を表示する。
「おはようございます」
隣の席の美咲が声をかけてきた。
「おはよう」
「今日も眠そう」
「ばれてる?」
「うん。昨日も夜更かし?」
紡は少し笑った。
「うん。ちょっと」
「本、そんなに面白かった?」
昨日、美咲には本を読んで夜更かししたと言っていた。
紡は一瞬だけ迷った。
本当は、セリにDMを送った。
そう言いたい気持ちが、少しだけあった。
けれど、まだ言えなかった。
「うん。あと、少し調べものしてた」
「調べもの?」
「旅のこととか」
口に出してから、紡は自分で驚いた。
言った。
ほんの少しだけだけれど。
美咲がこちらを見る。
「旅?」
「あ、うん。最近、旅行記とか読むのが好きで」
「へえ。いいじゃん。どこ行きたいの?」
それは、何気ない質問だった。
でも紡の胸の中では、深い青色のノートのページが一気に開く。
金沢の朝市。
瀬戸内の小さな島。
長野の山の宿。
北海道の冬の町。
東北の祭り。
港町の朝。
古い商店街。
山間の集落。
言いたい場所はたくさんある。
けれど全部を言うと、自分の夢の輪郭が見えてしまう気がした。
紡は少し考えて答えた。
「金沢とか、瀬戸内の島とか。あと、古い町並みが残ってるところ」
「いいね。紡っぽい」
「私っぽい?」
「うん。派手なリゾートって感じじゃなくて、静かな町をゆっくり歩いてそう」
美咲は笑いながら言った。
その言葉が、紡には少し嬉しかった。
美咲の中にも、自分のそういう一面が少しは見えていたのかもしれない。
会社では、ちゃんとしている人。
安定している人。
落ち着いている人。
そんなふうに見られているのだと思っていた。
でも美咲は、静かな町をゆっくり歩いていそうな紡も、どこかで感じ取っていた。
「行ったら写真見せてよ」
美咲が言った。
紡は少しだけ笑った。
「うん。行けたらね」
行けたら。
その言葉を使った瞬間、胸の奥が少しだけ疼いた。
以前なら、そこで終わっていた。
行けたら。
いつか。
そのうち。
でも今日は、心の中でもう一つの言葉が浮かんだ。
少しずつ。
午前中の仕事は慌ただしかった。
紡はメッセージのことを忘れようとして、目の前の作業に集中した。
資料の誤字を直し、数値を確認し、上司への報告をまとめる。
忙しさは、こういうとき便利だ。
考えすぎる心を、一時的に目の前の作業へ戻してくれる。
それでも、ふとした瞬間にスマートフォンが気になる。
休憩時間に、そっと画面を確認する。
通知はない。
昼休みになっても、ない。
紡は少しだけ落ち込んだ。
期待しないと決めていたのに、ちゃんと落ち込んでいる。
自分は本当に面倒だと思った。
でも、セリは旅の途中かもしれない。
電波の届きにくい場所にいるのかもしれない。
移動しているのかもしれない。
そもそもDMをあまり見ない人かもしれない。
そう考えて、自分を納得させる。
昼食は、美咲と行かず、一人で休憩スペースに座った。
コンビニで買ったおにぎりと味噌汁。
窓際の席からは、ビルの隙間に細い空が見えた。
紡はスマートフォンを手に取り、セリの投稿ではなく、自分のアカウントを開いた。
「足音を聴く」
プロフィール欄に書いた言葉を読む。
日本各地を少しずつ旅しながら、その土地の歴史や文化、食、暮らしの記憶を記録していきます。
まだ会社員。
まだ旅の準備中。
心が動いたものを、なかったことにしないための小さな記録です。
まだ会社員。
その一文が、昼のオフィスビルの中で妙に現実的に見えた。
今、自分は本当に会社員だ。
社員証を首から下げ、休憩スペースでおにぎりを食べている。
でも、それだけではない。
昨夜、遠くを旅する人に、自分の夢を送った。
美咲に、ほんの少し旅の話をした。
それだけで、日常の輪郭が少し変わって見える。
紡はおにぎりを一口食べた。
梅だった。
朝の電車の中でぼんやり想像したことも、休日の部屋で旅費計画を見つめながら思い浮かべたことも、なぜかいつも食べものの記憶と結びついていた。
旅先の駅で食べるおにぎり。
地元の米で握られたおにぎり。
誰かが差し出してくれるかもしれない、温かい手の形をした食べもの。
まだ出会っていないのに、その存在が胸の奥にある。
紡はメモアプリを開いた。
「いつか旅先の駅で、おにぎりを食べたい。地元の米の味がするもの。誰かの手の温度が残っているもの」
そう打った。
投稿はしない。
今はただ、メモとして残す。
全部をすぐに外へ出さなくてもいい。
自分の中で育てる言葉もある。
午後、仕事はさらに忙しくなった。
取引先から追加の資料依頼が入り、急ぎで対応することになった。
真帆が困った顔で紡の席に来る。
「藤沢さん、すみません。この集計、どこから取ればいいかわからなくて」
「見せて」
紡は真帆の画面を覗き込み、手順を説明した。
「ここは前月比じゃなくて、四半期で見た方がいいかも。取引先が見たいのは推移だから」
「なるほど......ありがとうございます」
「大丈夫。焦らなくていいよ」
そう言ったあと、紡は自分の言葉に少しだけ引っかかった。
焦らなくていいよ。
真帆には自然に言える。
でも、自分にはなかなか言えない。
三十歳までに。
早く決めなければ。
早く形にしなければ。
早く会社を辞めるか決めなければ。
そうやって、自分を急かしてばかりいる。
でも、本当に焦らなくていいのかもしれない。
何もしないという意味ではない。
少しずつ動く。
小さく試す。
言葉にする。
誰かに届ける。
それを積み重ねることも、立派な準備なのだ。
夕方、紡は急ぎの作業を終えた。
肩が少し重い。
パソコンの画面を見すぎたせいで、目も疲れていた。
伸びをしようとしたとき、スマートフォンが震えた。
業務用ではない。
私用のスマートフォン。
紡の心臓が、どくんと鳴った。
画面を見る。
通知。
セリ|土地の記憶を歩く
からメッセージが届いています。
一瞬、周りの音が遠のいた。
キーボードを打つ音。
誰かの電話の声。
プリンターの動く音。
上司が誰かに話しかける声。
それらが全部、薄い膜の向こうに行ったようだった。
セリから返信が来た。
本当に。
紡はすぐに開きたい衝動をこらえた。
ここは会社だ。
オフィスの自席で、開いていいような気がしない。
きっと、普通の顔でいられなくなる。
紡はスマートフォンを伏せた。
深く息を吸う。
でも、視線はどうしても画面へ戻ってしまう。
「紡?」
隣の美咲が声をかけてきた。
「大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫」
「なんか一瞬、固まってたけど」
「ちょっと通知見てびっくりしただけ」
「そう?」
「うん」
紡は笑ってごまかした。
けれど手のひらは少し汗ばんでいた。
返信が来た。
その事実だけで、胸がいっぱいだった。
終業時間までの一時間が、ひどく長く感じられた。
資料を保存し、メールを確認し、明日のタスクを整理する。
普段なら機械的にできることが、今日はなかなか頭に入らない。
セリの返信が、スマートフォンの中にある。
まだ読んでいない言葉。
その存在が、バッグの中で小さく光っているようだった。
ようやく定時を少し過ぎ、紡はパソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
挨拶をして、オフィスを出る。
エレベーターの中では、他の社員が数人いた。
紡はスマートフォンを握りしめたまま、開けなかった。
エントランスを抜け、ビルの外へ出る。
夜の空気が頬に触れた。
駅へ向かう人の流れから少し外れ、ビルの脇にある小さな植え込みのそばで立ち止まる。
ここなら、一人だ。
紡はスマートフォンを開いた。
メッセージ画面を表示する。
セリからの返信は、長すぎず、短すぎない文章だった。
『紡さん、はじめまして。丁寧なメッセージをありがとうございます。旅の途中で読むにはもったいないくらい、まっすぐな言葉でした』
その最初の一文だけで、紡は泣きそうになった。
紡さん。
そう呼ばれた。
自分の名前を、セリが文字にしてくれた。
それだけで、胸の奥が静かにほどけていく。
続きがある。
『怖いまま立っていることは、決して悪いことではないと思います。怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということでもありますから』
紡は、息を止めるように読んだ。
怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということ。
その言葉が、胸に深く入ってくる。
これまで紡は、怖さを弱さだと思っていた。
勇気がない証拠。
覚悟が足りない証拠。
本気ではない証拠。
でもセリは、それを違う形で見せてくれた。
怖いのは、大切だから。
失敗したらどうでもいいものなら、怖くない。
失いたくない夢だから、怖い。
本気で手を伸ばしたい未来だから、震える。
紡は画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
セリの返信は、まだ続いていた。
『旅を始める前に必要なのは、大きな決断だけではありません。まずは、自分の心がどんな場所に反応するのかを知ること。どんな言葉なら自分の呼吸に合うのかを知ること。どんな景色の前で立ち止まりたいのかを、少しずつ集めていくことだと思います』
紡は、その一文を何度も読んだ。
自分の心がどんな場所に反応するのか。
どんな言葉なら自分の呼吸に合うのか。
どんな景色の前で立ち止まりたいのか。
少しずつ集めていくこと。
それは、紡がここ数日やっていたことそのものだった。
豆大福に立ち止まった。
夕焼けに立ち止まった。
チャペルの空に立ち止まった。
ちゃんとした大人になれない自分の気持ちに立ち止まった。
セリの港町の写真に立ち止まった。
全部、小さすぎると思っていた。
旅に出ることと比べたら、何もしていないのと同じだと思っていた。
でも、セリはそれを「集めていくこと」と言った。
準備として認めてくれた。
紡は、目の奥が熱くなるのを感じた。
続きの文章を読む。
『会社員であることも、旅の準備中であることも、隠さなくていいと思います。そこからしか見えない景色があります。出発前の人にしか書けない言葉もあります』
出発前の人にしか書けない言葉。
紡はその言葉で、とうとう涙がこぼれそうになった。
慌てて顔を上げる。
ビルの脇の植え込み。
夜の歩道。
人の流れ。
自動販売機の光。
少し冷たい風。
こんな場所で泣くわけにはいかない。
でも、胸の中はもういっぱいだった。
出発前の人にしか書けない言葉。
これまで紡は、まだ旅に出ていない自分をどこか恥ずかしく思っていた。
旅の発信をしたいのに、まだ会社員。
日本中を歩きたいのに、まだ東京のワンルーム。
夢を語りたいのに、退職届も出していない。
その中途半端さが嫌だった。
でも、セリはその場所にも言葉があると言ってくれた。
出発前の人にしか書けない言葉。
怖さも、迷いも、準備も、まだ言えない本音も。
それらは、旅に出る前だからこそ書けるものなのかもしれない。
メッセージの最後には、こう書かれていた。
『もしよかったら、まずは一泊二日でいいので、近すぎず遠すぎない町へ行ってみてください。観光地を回るためではなく、自分が何に立ち止まるのかを見るために。青い小さなノートがあれば、そこに書いてみるといいです。旅は、大きな荷物よりも、まず一つの空白から始まることがあります』
紡は、はっとした。
青い小さなノート。
セリは、紡のノートの色を知らない。
DMには書いていなかった。
深い青色のノートのことなど、何も。
それなのに、セリの言葉の中に「青い小さなノート」が出てきた。
偶然だった。
ただの偶然。
でも紡には、まるで自分の部屋のテーブルに置かれた深い青色のノートを、遠くのセリが見ているような気がした。
旅は、大きな荷物よりも、まず一つの空白から始まることがあります。
その一文を読んだ瞬間、紡の中で何かが静かに動いた。
一泊二日。
近すぎず遠すぎない町。
観光地を回るためではなく、自分が何に立ち止まるのかを見るために。
それなら、できるかもしれない。
会社を辞めなくても。
母に大きな宣言をしなくても。
三十歳までの人生計画を全部決めなくても。
まず一泊二日。
有給を使ってもいい。
土日だけでもいい。
今の自分の生活の中で、できる小さな旅。
紡はスマートフォンを胸に抱えた。
夜の空気が冷たい。
でも、胸の内側は温かかった。
セリの返信は、背中を強く押すものではなかった。
「今すぐ辞めなさい」とも、
「夢を叶えなさい」とも、
「勇気を出せば大丈夫」とも書かれていなかった。
ただ、今いる場所からできる一歩を差し出してくれた。
その優しさが、紡にはたまらなかった。
帰りの電車の中で、紡は何度もメッセージを読み返した。
怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということ。
出発前の人にしか書けない言葉。
まずは一泊二日。
青い小さなノート。
旅は、大きな荷物よりも、まず一つの空白から始まることがある。
読むたびに、心の中に小さな場所が空いていくようだった。
それは不安の穴ではなく、何かを入れるための空白だった。
次の休日。
行ける場所。
一泊二日。
紡はスマートフォンの乗換案内アプリを開きそうになって、やめた。
今すぐ調べ始めたら、止まらなくなりそうだった。
でも、もう心は動いていた。
家に帰ると、紡はまっすぐテーブルの前に座った。
コートも脱がず、バッグも置いたまま、深い青色のノートを開く。
セリからの返信を、一文ずつ書き写したくなった。
全部ではない。
自分の中に残したい言葉だけ。
「怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということ」
「出発前の人にしか書けない言葉がある」
「まずは一泊二日」
「旅は、大きな荷物よりも、まず一つの空白から始まる」
書いているうちに、胸の奥が熱くなっていく。
紡はページの上部に、大きく書いた。
「一泊二日のお試し旅」
その文字を見た瞬間、急に現実味が増した。
お試し旅。
その言葉なら、少し怖くない。
人生を変える旅、ではない。
会社を辞めるための旅、でもない。
三十歳までの夢を証明する旅、でもない。
まずは、自分が何に立ち止まるのかを見るための旅。
それなら行けるかもしれない。
紡はノートに候補地を書き出した。
遠すぎない場所。
でも、日帰りではなく一泊したい場所。
東京から行ける古い町。
海がある場所。
市場がある場所。
古い商店街がある場所。
地元の食堂がある場所。
歴史が残っている場所。
「小田原」
最初に浮かんだ。
城下町。
海。
かまぼこ。
古い商店街。
朝の市場。
「銚子」
港町。
醤油。
海。
ローカル線。
「川越」
古い町並み。
蔵造り。
食文化。
日帰りでも行けるけれど、一泊したら朝の顔が見られるかもしれない。
「甲府」
盆地。
ワイン。
ほうとう。
歴史。
「三島」
水の町。
うなぎ。
古い街道。
富士山の気配。
紡は書きながら、胸が少しずつ弾んでいくのを感じた。
行ける。
全部ではない。
日本中ではない。
まだ夢の本番ではない。
でも、行ける場所がある。
今の自分にも、選べる行き先がある。
その事実が、紡を静かに励ました。
ノートの隅に、小さく持ち物を書き始める。
一泊分の着替え。
充電器。
モバイルバッテリー。
カメラ。
財布。
折り畳み傘。
歩きやすい靴。
小さなポーチ。
薬。
ハンカチ。
そして、深い青色のノート。
紡はそのリストを見て、少し笑った。
本当に、旅支度みたいだ。
まだ行き先も日程も決まっていないのに。
でも、書き出すだけで、部屋の空気が変わった気がした。
引き出しの奥にしまっていた夢が、少しずつテーブルの上へ広がっていく。
それは、大きなスーツケースを開くような派手なものではない。
小さな青いノートの上に、必要なものを一つずつ並べていくような静かな準備だった。
紡は、返信を書かなければと思った。
セリに、お礼を伝えたい。
でも、今すぐ返すと感情が溢れすぎる気がした。
少し落ち着いてから書こう。
そう思いながらも、メッセージ画面を開いてしまう。
入力欄に指を置く。
何度か打っては消した。
ありがとうございます。
その一言では足りない。
でも、長すぎても困らせてしまう。
紡は深呼吸をした。
そして、短く、でも本音を込めて書いた。
『セリさん、ご返信ありがとうございます。何度も読み返しました。「出発前の人にしか書けない言葉がある」という一文に、胸がいっぱいになりました。私はまだ何者でもないと思っていましたが、今いる場所からでも書けることがあるのだと思えました。まずは一泊二日で、近すぎず遠すぎない町へ行ってみようと思います。青いノートを持って』
読み返す。
青いノートを持って。
その一文に、少しだけ笑みがこぼれた。
セリには、その意味はわからないかもしれない。
でも、紡にはわかる。
これは、自分にとって大切な合図だった。
送信する。
今度は、昨夜ほど手は震えなかった。
もちろん緊張はした。
でも、怖さの中に少しだけ嬉しさが混じっていた。
紡はようやくコートを脱ぎ、バッグを片付けた。
夕飯を作る気力はあまりなかったので、冷凍していたごはんと、インスタントの味噌汁で済ませる。
でも、食べながらも心はどこか旅先に向かっていた。
朝の市場。
古い商店街。
知らない駅。
小さな宿の窓。
地元の人が入る食堂。
夜のひとり部屋。
青いノートに書く言葉。
一泊二日。
それだけで、こんなに世界が広がるのだと思った。
食器を洗ったあと、紡はクローゼットを開けた。
奥に、小さなボストンバッグがある。
数年前に一泊の出張で使ったものだった。
紺色に近い青。
少しだけ色褪せているけれど、まだ十分使える。
紡はそれを取り出し、ベッドの上に置いた。
まだ荷物を詰めるわけではない。
行き先も日程も決まっていない。
でも、置いてみたかった。
ベッドの上に、小さな青いバッグ。
テーブルの上に、深い青色のノート。
それだけで、部屋の中に小さな旅の気配が生まれた。
紡はバッグのファスナーを開けた。
中は空だった。
その空っぽの空間を見たとき、セリの言葉がよみがえる。
旅は、大きな荷物よりも、まず一つの空白から始まることがあります。
本当にそうかもしれない。
バッグの中の空白。
ノートの余白。
週末の予定の空白。
自分の中の、まだ何も決まっていない場所。
そこに、これから少しずつ何かを入れていく。
紡はまず、青いノートをバッグの中に入れてみた。
それから、すぐに取り出した。
まだ早い気がした。
でも、その一瞬だけでも、胸が高鳴った。
このノートを持って、知らない町へ行く。
駅に降りる。
歩く。
見る。
聞く。
食べる。
書く。
紡は、ベッドの端に座ったまま目を閉じた。
最初の旅は、どこがいいだろう。
近すぎず、遠すぎない町。
自分が何に立ち止まるのかを見るための町。
観光名所をいくつ回るかではなく、自分の心がどこで足を止めるかを知るための旅。
その考え方だけで、旅の意味が変わる気がした。
夜が深くなっても、紡は眠くならなかった。
昨日とは違う眠れなさだった。
不安ではなく、静かな高揚。
急いで何かを決めたいわけではない。
でも、明日から少しずつ調べようと思った。
一泊二日。
お試し旅。
青いノート。
紡はその三つの言葉を、ノートの最後にもう一度書いた。
そして、その下に小さく付け加える。
「私は、出発前の人として書いていい」
書き終えた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
まだ旅人ではない。
まだ会社員だ。
まだ母にも話せていない。
まだ退職届もない。
まだ本当の意味での覚悟も足りない。
でも、その「まだ」は、もう自分を責める言葉だけではなかった。
まだ、だから書ける。
まだ、だから見える。
まだ、だから迷える。
まだ、だから準備できる。
紡は深い青色のノートを閉じ、ベッドの上の小さな青いバッグを見た。
空っぽのバッグ。
でも、その空っぽさが、今夜は頼もしく見えた。
何も入っていないのではない。
これから入れられる。
どこへでも行ける余白がある。
灯りを消す前に、紡はスマートフォンをもう一度見た。
セリからの新しい返信は、まだない。
それでよかった。
もう十分すぎるほど、受け取った。
紡はベッドに入り、暗い部屋の中で目を閉じた。
心の中では、もう玄関の方へ向かって歩き出している自分がいた。
急いではいない。
けれど、確かにそちらを向いていた。
まだ部屋の中にいる。
まだ靴も履いていない。
でも、バッグは出した。
ノートには行き先の候補を書いた。
一泊二日という小さな旅の空白を、心の中に作った。
それだけで、紡の世界は少し広くなっていた。
眠りに落ちる直前、紡は思った。
いつか日本中を旅したい。
その夢は、今も遠い。
でも、最初の一歩は、日本中でなくていい。
たった一つの町でいい。
一泊二日でいい。
青いノートを持って、自分が何に立ち止まるのかを見に行けばいい。
その小さな旅支度が、紡の胸の中で静かに始まっていた。




