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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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7/15

第7章 初めて送った、震えるダイレクトメッセージ

翌朝、紡はアラームの音で目を覚ました。

いつもよりも、まぶたが重かった。

当然だった。

昨夜、眠ったのは午前二時を過ぎていた。

真夜中のスクロール。

灰色がかった港の朝。

錆びた郵便ポスト。

作業用の手袋。

そして、セリという人の言葉。

それらが、眠りの浅い場所にずっと残っていた気がする。

紡はスマートフォンのアラームを止め、しばらく天井を見つめた。

体は眠い。

けれど、胸の奥だけがまだ起きている。

昨夜見つけたセリの投稿が、心の中に静かに灯っていた。

自由は、いつも軽いわけではない。

選ばなかった道の重さも、明日の宿が決まっていない不安も、全部一緒に背負って歩く。

それでも私は歩く。

立ち止まる場所を、自分で選びたいから。

紡は、その言葉を何度も思い出した。

旅に出る人は、もっと迷いのない人だと思っていた。

会社を辞める人。

知らない土地へ行く人。

ひとりで歩く人。

発信し続ける人。

そういう人たちは、自分よりずっと強くて、覚悟があって、不安をうまく乗り越えられる人なのだと思っていた。

でもセリの言葉には、不安があった。

怖さがあった。

選ばなかった道への重さも、明日の宿が決まっていない現実も、ちゃんと書かれていた。

それなのに、その文章は弱くなかった。

むしろ、だからこそ強かった。

怖さをなかったことにせず、持ったまま歩いている人の言葉だった。

紡はベッドの中でスマートフォンを手に取った。

昨日の夜、セリの投稿に残した自分のコメント。

『「続いている途中」という言葉に、胸が止まりました。私も、見過ごされそうなものをちゃんと見られる人になりたいです』

そのコメントには、セリからのいいねがついていた。

返信はない。

けれど、それだけで十分だった。

セリが読んでくれた。

自分の言葉が、ほんの一瞬でも、セリの画面に届いた。

その事実だけで、胸の奥が少し温かくなる。

紡はセリのプロフィールをもう一度開いた。

朝の支度をしなければいけない時間だとわかっているのに、指は自然に投稿をたどっていた。

港町。

雪の駅。

山間の集落。

古い商店街。

朝市。

民宿の食卓。

閉校になった小学校。

田んぼの端に立つ小さな石碑。

夕方のバス停。

どれも、誰かが見過ごしてしまいそうな景色だった。

けれど、セリの手にかかると、その場所に残っている時間が静かに立ち上がってくる。

紡は、ある投稿で指を止めた。

写真には、小さな食堂のカウンターが写っていた。

古い木の椅子。

湯気の立つ味噌汁。

焼き魚。

漬物。

小さな器に入った煮物。

華やかさはない。

でも、見ているだけで、朝の空気や、店の奥で誰かが動く気配まで伝わってくるようだった。

投稿文には、こう書かれていた。

『初めて入った食堂で、常連さんたちの会話に耳を澄ませる。畑の話、天気の話、隣町の病院の話。旅人の私には関係ないはずの話が、この町の今日を教えてくれる。観光案内には載らないけれど、朝の食堂には、その土地の心拍がある』

紡は、その一文を心の中で繰り返した。

その土地の心拍。

セリの言葉は、いつも何かを大きく飾るのではなく、そこにあるものの奥に耳を澄ませている。

紡はスマートフォンを胸に当てた。

こんなふうに書きたい。

強く、そう思った。

けれど同時に、自分との差も感じた。

セリは、すでに歩いている。

たくさんの土地を見て、たくさんの人の言葉を聞いて、たくさんの朝と夜を越えている。

一方で自分は、まだ東京のワンルームにいる。

会社へ行く準備をしなければならない朝に、ベッドの中で誰かの投稿を見ている。

投稿したのは、豆大福と夕焼けとチャペルの空と、自分の迷い。

まだ、何も始まっていないようにも思える。

けれど昨夜、セリのいいねを見たとき、紡は確かに感じた。

遠くの誰かと、ほんの少しだけ繋がった。

それは、ただ憧れるだけでは終わらせたくない感覚だった。

身支度をしながらも、紡の頭の中にはセリの言葉が残っていた。

洗面所の鏡の中、自分の顔は少し寝不足に見えた。

目の下に薄い影がある。

紡はコンシーラーでそれを隠しながら、小さく苦笑した。

真夜中にSNSを見て、憧れの旅人を見つけて、翌朝寝不足になっている。

まるで、学生時代に好きな小説を夜通し読んでしまった日のようだった。

でも、その寝不足は不思議と嫌ではなかった。

体は重いのに、心のどこかが起きている。

会社へ向かう電車の中でも、紡はセリの投稿を思い出していた。

吊り革につかまりながら、窓の外を見る。

いつものビル。

いつもの高架。

いつもの駅。

いつもの人混み。

でも、セリならこの景色をどう見るのだろう、と思った。

この毎朝の電車にも、誰かの暮らしがある。

眠そうに目を閉じている人。

学生服の裾を直す女の子。

吊り革を握ったまま、資料を読み込んでいる男性。

ベビーカーを押す母親。

イヤホンから漏れる小さな音。

何気ない朝。

けれど、誰にとっても今日という一日の始まりだ。

紡はスマートフォンのメモを開いた。

「朝の電車にも、土地の心拍はあるのかもしれない」

そう打ってから、少し照れた。

セリの言葉に影響されすぎている。

でも、消さなかった。

影響を受けることは、悪いことではない。

誰かの言葉に心が動き、自分の見方が少し変わる。

それもまた、出会いなのだと思った。

会社では、いつも通りの時間が流れた。

メールを確認し、資料を修正し、午前中の打ち合わせに出る。

昨夜セリの投稿で心が震えたことなど、誰も知らない。

紡はいつも通りの顔で仕事をした。

けれど、ふとした瞬間に、胸の奥でセリの言葉がよみがえる。

「自由は、いつも軽いわけではない」

会議で来期の目標について話しているとき。

上司が「安定的な成果」という言葉を使ったとき。

真帆が資料の修正で少し落ち込んでいたとき。

自由。

安定。

成果。

選ぶこと。

昨日まで何となく使っていた言葉が、今日は少し違って聞こえる。

昼休み、美咲とコンビニへ向かう途中、美咲が紡の顔を覗き込んだ。

「眠そう」

「ばれた?」

「ばれるよ。目が半分閉じてる」

紡は笑った。

「ちょっと夜更かしした」

「珍しい。何してたの?」

その問いに、紡は一瞬だけ迷った。

SNSで、すごく素敵な旅の投稿を見つけた。

土地の記憶とか、食卓の湯気とか、そういうものを発信している人。

その言葉が、自分の夢に近くて、眠れなくなった。

言おうと思えば、言えそうだった。

でも、まだ言えなかった。

「本読んでたら、止まらなくなって」

そう答えた。

嘘ではない。

昨夜の前に、旅行記も読んでいた。

でも、本当の中心はそこではない。

美咲は「わかる」と笑った。

「私もたまにやる。明日仕事なのに、あと一話だけってやつ」

「そうそう」

紡も笑った。

話はそこで終わった。

以前なら、また本当のことを言えなかったと自分を責めたかもしれない。

でも今日は、少し違った。

今はまだ、全部を話せなくてもいい。

自分の中で、言葉を育てている途中なのだと思えた。

午後、取引先との打ち合わせが長引いた。

画面越しの会話。

資料の共有。

修正点の確認。

次回までの課題。

紡は淡々と仕事をこなした。

発言もした。

質問にも答えた。

必要なことをまとめ、会議後すぐに議事録を送った。

仕事をしている自分は、きちんと機能している。

そのことに、紡は少し複雑な気持ちになった。

仕事ができるから、辞める理由が弱くなる。

仕事が嫌いではないから、夢を選ぶことがわがままに思える。

もし毎日が耐えられないほど苦しかったら、もっと簡単に辞めたいと言えたのだろうか。

でも、紡の日常はそこまで壊れていない。

だからこそ難しい。

このまま続けられる日々を手放してまで、行きたい場所があるのか。

その問いに、まだ胸を張って答えられない。

けれどセリの言葉を思い出す。

自由は、いつも軽いわけではない。

紡は思った。

軽くないから、迷っている。

大切なことだから、怖い。

そう考えると、自分の迷いも少しだけ否定しなくていいものに思えた。

定時を過ぎても、紡は少し残業をした。

急ぎの資料を仕上げるためだった。

オフィスの人は少しずつ減り、照明の白さが目立つ時間になっていく。

窓の外には、夜のビルの明かりが浮かんでいた。

紡は作業を終え、パソコンを閉じた。

「お先に失礼します」

返ってきた声もまばらだった。

会社を出ると、夜の空気が冷たかった。

駅へ向かう道を歩きながら、紡はスマートフォンを取り出した。

自然とセリのアカウントを開く。

新しい投稿が上がっていた。

写真は、夕暮れのバス停だった。

周囲には田んぼが広がり、遠くに山の影が見える。

バス停の小さな屋根の下には、誰かが置き忘れたような古い傘が立てかけられていた。

投稿文を読む。

『一日に三本しか来ないバスを待っていると、時間は急ぐものではなく、そこに満ちるものなのだと思う。都会にいると、五分の遅れに心が乱れる。けれどこの町では、一時間の待ち時間に、風の音や田んぼの匂いや、遠くの犬の声が入ってくる。何もしていない時間にも、土地はちゃんと話しかけてくる』

紡は歩道の端で立ち止まった。

駅へ急ぐ人たちが横を通り過ぎていく。

一日に三本しか来ないバス。

一時間の待ち時間。

風の音。

田んぼの匂い。

遠くの犬の声。

今の紡がいる場所とは、まるで違う時間の流れだった。

駅のホームでは、電車が数分おきに来る。

遅れが出れば、誰もが画面を見て眉をひそめる。

人は常にどこかへ急いでいる。

紡も、その一人だ。

けれどセリの投稿を読んでいると、自分の中の時間が少しだけゆっくりになる。

知らないバス停に、ほんの一瞬立ったような気がする。

紡はその投稿にいいねを押した。

そして、コメント欄を開いた。

何か書きたい。

昨夜より、その気持ちは強かった。

でも、やはり指は止まる。

セリにはたくさんの読者がいる。

コメントも、紡以外にいくつも届いている。

その中に自分の言葉を置くことが、少し怖い。

でも、怖いからといって何も書かないでいると、また自分の中だけで終わってしまう。

紡は短く書いた。

『時間は急ぐものではなく、満ちるもの。今日の帰り道、この言葉を読めてよかったです』

送信する。

今度は、少しだけ自然にできた。

消したくはならなかった。

駅へ向かう途中、紡はその言葉を何度も心の中で繰り返した。

時間は急ぐものではなく、満ちるもの。

二十七歳。

三十歳までに。

周りは進んでいる。

私だけ保留にしている。

最近、紡の中の時間は、いつも急かされていた。

あと何年。

あと何ヶ月。

いつ決めるのか。

いつ辞めるのか。

いつ旅に出るのか。

でも、時間は急ぐだけのものではないのかもしれない。

迷っている時間にも、何かは満ちている。

発信を始めたこと。

誰かの言葉に出会ったこと。

母にまだ話せないこと。

美咲にまだ言えないこと。

それでもノートに書き続けていること。

それらは全部、止まっているようで、自分の中を満たしている途中なのかもしれない。

家に着くと、紡はいつもより丁寧に手を洗った。

冷えた指先に、ぬるい水が触れる。

キッチンの電気をつけ、冷蔵庫を開ける。

夕飯を作る気力はあまりなかった。

昨日の残りの味噌汁を温め、冷凍ごはんを解凍し、納豆を出す。

簡単な食事。

それでも、湯気が立つ味噌汁を見たとき、紡は少しだけ心が落ち着いた。

セリのプロフィールに書かれていた言葉を思い出す。

食卓の湯気。

華やかな料理でなくても、そこには暮らしがある。

紡は味噌汁の写真を撮った。

豆腐とわかめだけの、何の変哲もない味噌汁。

投稿するつもりはなかった。

ただ、今この湯気が少しだけ愛おしく見えた。

食事を終えると、紡は深い青色のノートを開いた。

今日のセリの投稿について書く。

「一日に三本しか来ないバス。時間は急ぐものではなく、満ちるもの」

その下に、自分の言葉を書いた。

「私は今、時間に追われている。二十七歳。三十歳までに。周りに置いていかれる。早く決めなければ。早く形にしなければ。でも、迷っている時間にも、何かが満ちているのかもしれない」

書いているうちに、呼吸が少し深くなった。

セリの言葉は、紡を急かさない。

でも、止めもしない。

ただ、今いる場所で感じることを丁寧に見るよう促してくる。

それが不思議だった。

多くの言葉は、紡を急かす。

早く始めよう。

人生を変えよう。

好きなことを仕事にしよう。

一歩踏み出そう。

後悔しない選択をしよう。

どれも間違っていない。

でも、それらの言葉に触れるたび、紡は時々息苦しくなった。

早くしなければと焦り、焦るほど動けなくなる。

セリの言葉は違った。

歩きなさい、とは言わない。

でも、歩いてもいいのだと思わせる。

急ぎなさい、とは言わない。

でも、自分の足で時間を選んでいいのだと思わせる。

その静けさが、紡には必要だった。

ノートを書き終えると、紡はスマートフォンを手に取った。

セリの投稿へのコメントには、まだ反応はない。

それは当然だった。

セリは旅をしている人だ。

すぐに返信するとは限らない。

紡は自分のプロフィール画面を開いた。

「足音を聴く」

投稿は四つ。

今日、何か投稿しようか迷った。

味噌汁の写真。

帰り道に読んだセリの言葉に影響された感情。

時間に追われる自分。

迷っている時間にも何かが満ちるという気づき。

書けそうなことはある。

でも、すぐに投稿するのは違う気がした。

今は、自分の中に少し置いておきたい。

全部をすぐ外に出さなくてもいい。

発信は、焦って数を増やすことではない。

そう思えたのは、セリの投稿を読んだからだった。

夜、紡は買ってきた旅行記の続きを読んだ。

ページの中では、筆者が雨の町を歩いていた。

傘をさし、知らない商店街に入り、小さな食堂で温かいうどんを食べる。

紡はその描写を読みながら、自分がいつかそんな場所に立つことを想像した。

雨の日の町。

濡れたアスファルト。

地元の人だけが入るような食堂。

壁に貼られた手書きのメニュー。

湯気の中の声。

行きたい。

その気持ちは、以前よりも静かで、でも確かになっていた。

前は、焦りと一緒にあった。

三十歳までに。

周りに遅れないように。

自分を変えるために。

でも今夜の「行きたい」は、少し違った。

見たい。

聞きたい。

その場所に立って、そこにある時間を感じたい。

そして、誰かに届けたい。

その気持ちが、ゆっくり胸の中に広がっていった。

寝る前、紡はセリのプロフィールをもう一度開いた。

新しい通知があった。

セリからだった。

紡のコメントに、いいねがついている。

昨夜と同じ。

たったそれだけ。

でも、紡は嬉しかった。

そのまま画面を閉じようとして、ふと手が止まった。

DM。

セリのプロフィール画面には、メッセージボタンがある。

紡はそれを見つめた。

胸が、どくんと鳴る。

メッセージを送る。

そんなこと、考えていなかった。

コメントを残すだけでも十分緊張するのに、直接メッセージを送るなんて、あまりにも踏み込みすぎている気がした。

セリは忙しいかもしれない。

迷惑かもしれない。

知らない人から長いメッセージが来たら、困るかもしれない。

返事を期待していると思われるのも嫌だった。

でも、伝えたい気持ちがあった。

あなたの言葉に救われました。

私はまだ会社員で、旅に出る勇気もなくて、でも土地の歴史や文化や食を発信したい夢があります。

あなたの投稿を見て、怖いまま歩いている人がいることを知りました。

その言葉に、背中を押された気がしました。

そこまで考えて、紡はスマートフォンを置いた。

無理。

今は無理。

いきなりそんなことを送るなんて、重すぎる。

紡はベッドに横になった。

灯りを消す。

でも、目は冴えていた。

セリのメッセージボタンが、暗闇の中でも浮かんで見える気がする。

送りたい。

でも怖い。

読まれなかったらどうしよう。

変な人だと思われたらどうしよう。

返事がなかったら傷つくだろうか。

返事が来たら来たで、どうしたらいいのだろう。

考えれば考えるほど、送れなくなる。

紡は寝返りを打った。

自分はいつもそうだと思った。

投稿ボタンの前でも、コメント欄の前でも、母に夢を話す想像の前でも、同じように立ち止まる。

怖い。

だからやめる。

でも最近、少しずつ覚えてきた。

怖いまま押すこと。

怖いまま残すこと。

怖いまま、自分の言葉を外へ置くこと。

それをしなければ、何も始まらない。

紡は暗闇の中で、深く息を吸った。

もう一度スマートフォンを手に取る。

画面が明るくなる。

セリのプロフィールを開く。

メッセージボタンを押す。

入力欄が表示された。

真っ白な欄。

そこに何を書けばいいのか、紡はしばらくわからなかった。

最初の一文字が、重い。

いきなり「はじめまして」と打ってみる。

消す。

「突然のメッセージ失礼します」と打つ。

少し堅すぎる気がして、消す。

「いつも投稿を読んでいます」

まだ、いつもと言えるほどではない。

消す。

紡は小さく笑った。

たった一通のメッセージに、こんなにも迷う。

でも、それだけ大切にしたい相手なのだと思った。

もう一度、入力する。

『はじめまして。突然のメッセージ、失礼いたします。今日、セリさんの投稿を拝見して、どうしてもお礼をお伝えしたくなりました』

そこまで書いて、手が止まる。

お礼。

何に対するお礼なのか。

続ける。

『私は今、会社員として働きながら、いつか日本各地を旅して、その土地の歴史や文化、食、暮らしを発信したいと思っています。でも、安定を手放すことが怖くて、まだ何も大きく動けていません』

書きながら、胸が熱くなる。

これは、ほとんど誰にも話せていない本音だった。

美咲にも、母にも、友人にも言えていないこと。

それを、今、会ったこともないセリに書いている。

不思議だった。

けれど、画面の向こうのセリの方が、今の紡の気持ちを受け止めてくれるような気がした。

紡は続きを打った。

『セリさんの「自由は、いつも軽いわけではない」という言葉を読んで、怖いまま歩いている人がいるのだと思いました。旅に出る人は迷いのない強い人だと勝手に思っていたので、その言葉に救われました』

一度、読み返す。

重いだろうか。

長すぎるだろうか。

でも、まだ伝えたいことがあった。

『私も、見過ごされそうなものをちゃんと見られる人になりたいです。土地に残る暮らしや、食卓の湯気や、誰かが守ってきたものを、いつか自分の言葉で届けられるようになりたいです』

最後に、どう締めればいいのかわからなかった。

返事を求めるようにはしたくない。

ただ、お礼を伝えたい。

紡は少し考えて、こう書いた。

『突然長くなってしまい、すみません。返信のお気遣いはなさらないでください。ただ、セリさんの言葉に今夜とても励まされたことを、お伝えしたかったです』

入力欄に、文章が並んでいる。

紡は何度も読み返した。

恥ずかしい。

本当に恥ずかしい。

自分の夢も、怖さも、憧れも、全部出ている。

消したい気持ちが湧いた。

送らなくてもいい。

コメントだけで十分だ。

見知らぬ相手に、こんな長いメッセージを送る必要はない。

でも、消してしまったら、きっとまた「言えなかった」になる。

紡は画面を見つめた。

送信ボタンは、すぐそこにある。

ほんの小さなアイコン。

でも、それは今の紡にとって、知らない町へ向かう切符のように見えた。

押せば、何かが変わるかもしれない。

何も変わらないかもしれない。

返事は来ないかもしれない。

でも、自分が言葉を届けたという事実だけは残る。

紡は深く息を吸った。

指先が震えている。

その震えを止めようとは思わなかった。

震えたままでいい。

怖いままでいい。

紡は、送信ボタンを押した。

メッセージが送信されました。

その文字を見た瞬間、体から力が抜けた。

やってしまった。

そう思った。

すぐに画面を閉じたくなる。

いや、送信取り消しはできるのだろうか。

そんなことまで考えた。

けれど、紡は何もしなかった。

メッセージは、そこに残っている。

自分の言葉として、セリの元へ向かっている。

紡はスマートフォンを胸に抱えた。

心臓がまだ速い。

返事が来るかどうかはわからない。

既読になるかもわからない。

でも、今はそれでよかった。

初めて、自分の夢を誰かにほとんどそのまま伝えた。

それが、見知らぬ旅人へのメッセージだったとしても。

いや、見知らぬ旅人だからこそ、言えたのかもしれない。

すぐそばにいる人には言えない本音が、遠くを歩く誰かには届くことがある。

紡はノートを開いた。

真夜中にまた書いている。

そう思って少し笑った。

今日の日付の下に、ゆっくりと書く。

「セリさんにDMを送った」

たった一行。

それだけで胸がいっぱいになった。

続ける。

「怖かった。手が震えた。でも、送った。私は初めて、誰かに自分の夢をほとんどそのまま書いた」

ペン先が止まる。

紡は少し考えて、さらに書いた。

「大きな決断ではないのかもしれない。でも、私には大きかった。旅に出る前にも、越えなければいけない小さな橋がある。その一つを、今夜渡った気がする」

書き終えると、紡はノートを閉じた。

部屋は静かだった。

窓の外では、遠くの電車の音が夜に溶けていく。

明日になれば、また会社へ行く。

いつもの朝が来る。

でも、今夜の紡は、昨日の紡とは少し違う。

豆大福を投稿した自分。

夕焼けを投稿した自分。

チャペルの空に弱さを書いた自分。

ちゃんとした大人になれないと認めた自分。

セリの投稿にコメントした自分。

そして今、初めてDMを送った自分。

一つ一つは、本当に小さい。

でも、並べてみると、確かに道になっている。

紡はベッドに入り、スマートフォンを枕元に置いた。

返事を待たない。

そう決めた。

でも、少しだけ期待してしまう自分もいた。

それでいいと思った。

期待して、怖がって、落ち着かなくて。

それも全部、自分の足音だ。

灯りを消す。

暗闇の中で、紡は目を閉じた。

胸の奥に、小さな灯りがともっていた。

今夜の灯りは、少し揺れていた。

でも、消えてはいなかった。

遠くの港町を歩くセリの灯り。

真夜中の東京のワンルームで揺れる紡の灯り。

まだ出会っていない二つの光が、画面の向こうでほんの少し近づいた気がした。

紡はその光を見つめながら、ようやく眠りに落ちていった。


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