第7章 初めて送った、震えるダイレクトメッセージ
翌朝、紡はアラームの音で目を覚ました。
いつもよりも、まぶたが重かった。
当然だった。
昨夜、眠ったのは午前二時を過ぎていた。
真夜中のスクロール。
灰色がかった港の朝。
錆びた郵便ポスト。
作業用の手袋。
そして、セリという人の言葉。
それらが、眠りの浅い場所にずっと残っていた気がする。
紡はスマートフォンのアラームを止め、しばらく天井を見つめた。
体は眠い。
けれど、胸の奥だけがまだ起きている。
昨夜見つけたセリの投稿が、心の中に静かに灯っていた。
自由は、いつも軽いわけではない。
選ばなかった道の重さも、明日の宿が決まっていない不安も、全部一緒に背負って歩く。
それでも私は歩く。
立ち止まる場所を、自分で選びたいから。
紡は、その言葉を何度も思い出した。
旅に出る人は、もっと迷いのない人だと思っていた。
会社を辞める人。
知らない土地へ行く人。
ひとりで歩く人。
発信し続ける人。
そういう人たちは、自分よりずっと強くて、覚悟があって、不安をうまく乗り越えられる人なのだと思っていた。
でもセリの言葉には、不安があった。
怖さがあった。
選ばなかった道への重さも、明日の宿が決まっていない現実も、ちゃんと書かれていた。
それなのに、その文章は弱くなかった。
むしろ、だからこそ強かった。
怖さをなかったことにせず、持ったまま歩いている人の言葉だった。
紡はベッドの中でスマートフォンを手に取った。
昨日の夜、セリの投稿に残した自分のコメント。
『「続いている途中」という言葉に、胸が止まりました。私も、見過ごされそうなものをちゃんと見られる人になりたいです』
そのコメントには、セリからのいいねがついていた。
返信はない。
けれど、それだけで十分だった。
セリが読んでくれた。
自分の言葉が、ほんの一瞬でも、セリの画面に届いた。
その事実だけで、胸の奥が少し温かくなる。
紡はセリのプロフィールをもう一度開いた。
朝の支度をしなければいけない時間だとわかっているのに、指は自然に投稿をたどっていた。
港町。
雪の駅。
山間の集落。
古い商店街。
朝市。
民宿の食卓。
閉校になった小学校。
田んぼの端に立つ小さな石碑。
夕方のバス停。
どれも、誰かが見過ごしてしまいそうな景色だった。
けれど、セリの手にかかると、その場所に残っている時間が静かに立ち上がってくる。
紡は、ある投稿で指を止めた。
写真には、小さな食堂のカウンターが写っていた。
古い木の椅子。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
漬物。
小さな器に入った煮物。
華やかさはない。
でも、見ているだけで、朝の空気や、店の奥で誰かが動く気配まで伝わってくるようだった。
投稿文には、こう書かれていた。
『初めて入った食堂で、常連さんたちの会話に耳を澄ませる。畑の話、天気の話、隣町の病院の話。旅人の私には関係ないはずの話が、この町の今日を教えてくれる。観光案内には載らないけれど、朝の食堂には、その土地の心拍がある』
紡は、その一文を心の中で繰り返した。
その土地の心拍。
セリの言葉は、いつも何かを大きく飾るのではなく、そこにあるものの奥に耳を澄ませている。
紡はスマートフォンを胸に当てた。
こんなふうに書きたい。
強く、そう思った。
けれど同時に、自分との差も感じた。
セリは、すでに歩いている。
たくさんの土地を見て、たくさんの人の言葉を聞いて、たくさんの朝と夜を越えている。
一方で自分は、まだ東京のワンルームにいる。
会社へ行く準備をしなければならない朝に、ベッドの中で誰かの投稿を見ている。
投稿したのは、豆大福と夕焼けとチャペルの空と、自分の迷い。
まだ、何も始まっていないようにも思える。
けれど昨夜、セリのいいねを見たとき、紡は確かに感じた。
遠くの誰かと、ほんの少しだけ繋がった。
それは、ただ憧れるだけでは終わらせたくない感覚だった。
身支度をしながらも、紡の頭の中にはセリの言葉が残っていた。
洗面所の鏡の中、自分の顔は少し寝不足に見えた。
目の下に薄い影がある。
紡はコンシーラーでそれを隠しながら、小さく苦笑した。
真夜中にSNSを見て、憧れの旅人を見つけて、翌朝寝不足になっている。
まるで、学生時代に好きな小説を夜通し読んでしまった日のようだった。
でも、その寝不足は不思議と嫌ではなかった。
体は重いのに、心のどこかが起きている。
会社へ向かう電車の中でも、紡はセリの投稿を思い出していた。
吊り革につかまりながら、窓の外を見る。
いつものビル。
いつもの高架。
いつもの駅。
いつもの人混み。
でも、セリならこの景色をどう見るのだろう、と思った。
この毎朝の電車にも、誰かの暮らしがある。
眠そうに目を閉じている人。
学生服の裾を直す女の子。
吊り革を握ったまま、資料を読み込んでいる男性。
ベビーカーを押す母親。
イヤホンから漏れる小さな音。
何気ない朝。
けれど、誰にとっても今日という一日の始まりだ。
紡はスマートフォンのメモを開いた。
「朝の電車にも、土地の心拍はあるのかもしれない」
そう打ってから、少し照れた。
セリの言葉に影響されすぎている。
でも、消さなかった。
影響を受けることは、悪いことではない。
誰かの言葉に心が動き、自分の見方が少し変わる。
それもまた、出会いなのだと思った。
会社では、いつも通りの時間が流れた。
メールを確認し、資料を修正し、午前中の打ち合わせに出る。
昨夜セリの投稿で心が震えたことなど、誰も知らない。
紡はいつも通りの顔で仕事をした。
けれど、ふとした瞬間に、胸の奥でセリの言葉がよみがえる。
「自由は、いつも軽いわけではない」
会議で来期の目標について話しているとき。
上司が「安定的な成果」という言葉を使ったとき。
真帆が資料の修正で少し落ち込んでいたとき。
自由。
安定。
成果。
選ぶこと。
昨日まで何となく使っていた言葉が、今日は少し違って聞こえる。
昼休み、美咲とコンビニへ向かう途中、美咲が紡の顔を覗き込んだ。
「眠そう」
「ばれた?」
「ばれるよ。目が半分閉じてる」
紡は笑った。
「ちょっと夜更かしした」
「珍しい。何してたの?」
その問いに、紡は一瞬だけ迷った。
SNSで、すごく素敵な旅の投稿を見つけた。
土地の記憶とか、食卓の湯気とか、そういうものを発信している人。
その言葉が、自分の夢に近くて、眠れなくなった。
言おうと思えば、言えそうだった。
でも、まだ言えなかった。
「本読んでたら、止まらなくなって」
そう答えた。
嘘ではない。
昨夜の前に、旅行記も読んでいた。
でも、本当の中心はそこではない。
美咲は「わかる」と笑った。
「私もたまにやる。明日仕事なのに、あと一話だけってやつ」
「そうそう」
紡も笑った。
話はそこで終わった。
以前なら、また本当のことを言えなかったと自分を責めたかもしれない。
でも今日は、少し違った。
今はまだ、全部を話せなくてもいい。
自分の中で、言葉を育てている途中なのだと思えた。
午後、取引先との打ち合わせが長引いた。
画面越しの会話。
資料の共有。
修正点の確認。
次回までの課題。
紡は淡々と仕事をこなした。
発言もした。
質問にも答えた。
必要なことをまとめ、会議後すぐに議事録を送った。
仕事をしている自分は、きちんと機能している。
そのことに、紡は少し複雑な気持ちになった。
仕事ができるから、辞める理由が弱くなる。
仕事が嫌いではないから、夢を選ぶことがわがままに思える。
もし毎日が耐えられないほど苦しかったら、もっと簡単に辞めたいと言えたのだろうか。
でも、紡の日常はそこまで壊れていない。
だからこそ難しい。
このまま続けられる日々を手放してまで、行きたい場所があるのか。
その問いに、まだ胸を張って答えられない。
けれどセリの言葉を思い出す。
自由は、いつも軽いわけではない。
紡は思った。
軽くないから、迷っている。
大切なことだから、怖い。
そう考えると、自分の迷いも少しだけ否定しなくていいものに思えた。
定時を過ぎても、紡は少し残業をした。
急ぎの資料を仕上げるためだった。
オフィスの人は少しずつ減り、照明の白さが目立つ時間になっていく。
窓の外には、夜のビルの明かりが浮かんでいた。
紡は作業を終え、パソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
返ってきた声もまばらだった。
会社を出ると、夜の空気が冷たかった。
駅へ向かう道を歩きながら、紡はスマートフォンを取り出した。
自然とセリのアカウントを開く。
新しい投稿が上がっていた。
写真は、夕暮れのバス停だった。
周囲には田んぼが広がり、遠くに山の影が見える。
バス停の小さな屋根の下には、誰かが置き忘れたような古い傘が立てかけられていた。
投稿文を読む。
『一日に三本しか来ないバスを待っていると、時間は急ぐものではなく、そこに満ちるものなのだと思う。都会にいると、五分の遅れに心が乱れる。けれどこの町では、一時間の待ち時間に、風の音や田んぼの匂いや、遠くの犬の声が入ってくる。何もしていない時間にも、土地はちゃんと話しかけてくる』
紡は歩道の端で立ち止まった。
駅へ急ぐ人たちが横を通り過ぎていく。
一日に三本しか来ないバス。
一時間の待ち時間。
風の音。
田んぼの匂い。
遠くの犬の声。
今の紡がいる場所とは、まるで違う時間の流れだった。
駅のホームでは、電車が数分おきに来る。
遅れが出れば、誰もが画面を見て眉をひそめる。
人は常にどこかへ急いでいる。
紡も、その一人だ。
けれどセリの投稿を読んでいると、自分の中の時間が少しだけゆっくりになる。
知らないバス停に、ほんの一瞬立ったような気がする。
紡はその投稿にいいねを押した。
そして、コメント欄を開いた。
何か書きたい。
昨夜より、その気持ちは強かった。
でも、やはり指は止まる。
セリにはたくさんの読者がいる。
コメントも、紡以外にいくつも届いている。
その中に自分の言葉を置くことが、少し怖い。
でも、怖いからといって何も書かないでいると、また自分の中だけで終わってしまう。
紡は短く書いた。
『時間は急ぐものではなく、満ちるもの。今日の帰り道、この言葉を読めてよかったです』
送信する。
今度は、少しだけ自然にできた。
消したくはならなかった。
駅へ向かう途中、紡はその言葉を何度も心の中で繰り返した。
時間は急ぐものではなく、満ちるもの。
二十七歳。
三十歳までに。
周りは進んでいる。
私だけ保留にしている。
最近、紡の中の時間は、いつも急かされていた。
あと何年。
あと何ヶ月。
いつ決めるのか。
いつ辞めるのか。
いつ旅に出るのか。
でも、時間は急ぐだけのものではないのかもしれない。
迷っている時間にも、何かは満ちている。
発信を始めたこと。
誰かの言葉に出会ったこと。
母にまだ話せないこと。
美咲にまだ言えないこと。
それでもノートに書き続けていること。
それらは全部、止まっているようで、自分の中を満たしている途中なのかもしれない。
家に着くと、紡はいつもより丁寧に手を洗った。
冷えた指先に、ぬるい水が触れる。
キッチンの電気をつけ、冷蔵庫を開ける。
夕飯を作る気力はあまりなかった。
昨日の残りの味噌汁を温め、冷凍ごはんを解凍し、納豆を出す。
簡単な食事。
それでも、湯気が立つ味噌汁を見たとき、紡は少しだけ心が落ち着いた。
セリのプロフィールに書かれていた言葉を思い出す。
食卓の湯気。
華やかな料理でなくても、そこには暮らしがある。
紡は味噌汁の写真を撮った。
豆腐とわかめだけの、何の変哲もない味噌汁。
投稿するつもりはなかった。
ただ、今この湯気が少しだけ愛おしく見えた。
食事を終えると、紡は深い青色のノートを開いた。
今日のセリの投稿について書く。
「一日に三本しか来ないバス。時間は急ぐものではなく、満ちるもの」
その下に、自分の言葉を書いた。
「私は今、時間に追われている。二十七歳。三十歳までに。周りに置いていかれる。早く決めなければ。早く形にしなければ。でも、迷っている時間にも、何かが満ちているのかもしれない」
書いているうちに、呼吸が少し深くなった。
セリの言葉は、紡を急かさない。
でも、止めもしない。
ただ、今いる場所で感じることを丁寧に見るよう促してくる。
それが不思議だった。
多くの言葉は、紡を急かす。
早く始めよう。
人生を変えよう。
好きなことを仕事にしよう。
一歩踏み出そう。
後悔しない選択をしよう。
どれも間違っていない。
でも、それらの言葉に触れるたび、紡は時々息苦しくなった。
早くしなければと焦り、焦るほど動けなくなる。
セリの言葉は違った。
歩きなさい、とは言わない。
でも、歩いてもいいのだと思わせる。
急ぎなさい、とは言わない。
でも、自分の足で時間を選んでいいのだと思わせる。
その静けさが、紡には必要だった。
ノートを書き終えると、紡はスマートフォンを手に取った。
セリの投稿へのコメントには、まだ反応はない。
それは当然だった。
セリは旅をしている人だ。
すぐに返信するとは限らない。
紡は自分のプロフィール画面を開いた。
「足音を聴く」
投稿は四つ。
今日、何か投稿しようか迷った。
味噌汁の写真。
帰り道に読んだセリの言葉に影響された感情。
時間に追われる自分。
迷っている時間にも何かが満ちるという気づき。
書けそうなことはある。
でも、すぐに投稿するのは違う気がした。
今は、自分の中に少し置いておきたい。
全部をすぐ外に出さなくてもいい。
発信は、焦って数を増やすことではない。
そう思えたのは、セリの投稿を読んだからだった。
夜、紡は買ってきた旅行記の続きを読んだ。
ページの中では、筆者が雨の町を歩いていた。
傘をさし、知らない商店街に入り、小さな食堂で温かいうどんを食べる。
紡はその描写を読みながら、自分がいつかそんな場所に立つことを想像した。
雨の日の町。
濡れたアスファルト。
地元の人だけが入るような食堂。
壁に貼られた手書きのメニュー。
湯気の中の声。
行きたい。
その気持ちは、以前よりも静かで、でも確かになっていた。
前は、焦りと一緒にあった。
三十歳までに。
周りに遅れないように。
自分を変えるために。
でも今夜の「行きたい」は、少し違った。
見たい。
聞きたい。
その場所に立って、そこにある時間を感じたい。
そして、誰かに届けたい。
その気持ちが、ゆっくり胸の中に広がっていった。
寝る前、紡はセリのプロフィールをもう一度開いた。
新しい通知があった。
セリからだった。
紡のコメントに、いいねがついている。
昨夜と同じ。
たったそれだけ。
でも、紡は嬉しかった。
そのまま画面を閉じようとして、ふと手が止まった。
DM。
セリのプロフィール画面には、メッセージボタンがある。
紡はそれを見つめた。
胸が、どくんと鳴る。
メッセージを送る。
そんなこと、考えていなかった。
コメントを残すだけでも十分緊張するのに、直接メッセージを送るなんて、あまりにも踏み込みすぎている気がした。
セリは忙しいかもしれない。
迷惑かもしれない。
知らない人から長いメッセージが来たら、困るかもしれない。
返事を期待していると思われるのも嫌だった。
でも、伝えたい気持ちがあった。
あなたの言葉に救われました。
私はまだ会社員で、旅に出る勇気もなくて、でも土地の歴史や文化や食を発信したい夢があります。
あなたの投稿を見て、怖いまま歩いている人がいることを知りました。
その言葉に、背中を押された気がしました。
そこまで考えて、紡はスマートフォンを置いた。
無理。
今は無理。
いきなりそんなことを送るなんて、重すぎる。
紡はベッドに横になった。
灯りを消す。
でも、目は冴えていた。
セリのメッセージボタンが、暗闇の中でも浮かんで見える気がする。
送りたい。
でも怖い。
読まれなかったらどうしよう。
変な人だと思われたらどうしよう。
返事がなかったら傷つくだろうか。
返事が来たら来たで、どうしたらいいのだろう。
考えれば考えるほど、送れなくなる。
紡は寝返りを打った。
自分はいつもそうだと思った。
投稿ボタンの前でも、コメント欄の前でも、母に夢を話す想像の前でも、同じように立ち止まる。
怖い。
だからやめる。
でも最近、少しずつ覚えてきた。
怖いまま押すこと。
怖いまま残すこと。
怖いまま、自分の言葉を外へ置くこと。
それをしなければ、何も始まらない。
紡は暗闇の中で、深く息を吸った。
もう一度スマートフォンを手に取る。
画面が明るくなる。
セリのプロフィールを開く。
メッセージボタンを押す。
入力欄が表示された。
真っ白な欄。
そこに何を書けばいいのか、紡はしばらくわからなかった。
最初の一文字が、重い。
いきなり「はじめまして」と打ってみる。
消す。
「突然のメッセージ失礼します」と打つ。
少し堅すぎる気がして、消す。
「いつも投稿を読んでいます」
まだ、いつもと言えるほどではない。
消す。
紡は小さく笑った。
たった一通のメッセージに、こんなにも迷う。
でも、それだけ大切にしたい相手なのだと思った。
もう一度、入力する。
『はじめまして。突然のメッセージ、失礼いたします。今日、セリさんの投稿を拝見して、どうしてもお礼をお伝えしたくなりました』
そこまで書いて、手が止まる。
お礼。
何に対するお礼なのか。
続ける。
『私は今、会社員として働きながら、いつか日本各地を旅して、その土地の歴史や文化、食、暮らしを発信したいと思っています。でも、安定を手放すことが怖くて、まだ何も大きく動けていません』
書きながら、胸が熱くなる。
これは、ほとんど誰にも話せていない本音だった。
美咲にも、母にも、友人にも言えていないこと。
それを、今、会ったこともないセリに書いている。
不思議だった。
けれど、画面の向こうのセリの方が、今の紡の気持ちを受け止めてくれるような気がした。
紡は続きを打った。
『セリさんの「自由は、いつも軽いわけではない」という言葉を読んで、怖いまま歩いている人がいるのだと思いました。旅に出る人は迷いのない強い人だと勝手に思っていたので、その言葉に救われました』
一度、読み返す。
重いだろうか。
長すぎるだろうか。
でも、まだ伝えたいことがあった。
『私も、見過ごされそうなものをちゃんと見られる人になりたいです。土地に残る暮らしや、食卓の湯気や、誰かが守ってきたものを、いつか自分の言葉で届けられるようになりたいです』
最後に、どう締めればいいのかわからなかった。
返事を求めるようにはしたくない。
ただ、お礼を伝えたい。
紡は少し考えて、こう書いた。
『突然長くなってしまい、すみません。返信のお気遣いはなさらないでください。ただ、セリさんの言葉に今夜とても励まされたことを、お伝えしたかったです』
入力欄に、文章が並んでいる。
紡は何度も読み返した。
恥ずかしい。
本当に恥ずかしい。
自分の夢も、怖さも、憧れも、全部出ている。
消したい気持ちが湧いた。
送らなくてもいい。
コメントだけで十分だ。
見知らぬ相手に、こんな長いメッセージを送る必要はない。
でも、消してしまったら、きっとまた「言えなかった」になる。
紡は画面を見つめた。
送信ボタンは、すぐそこにある。
ほんの小さなアイコン。
でも、それは今の紡にとって、知らない町へ向かう切符のように見えた。
押せば、何かが変わるかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
返事は来ないかもしれない。
でも、自分が言葉を届けたという事実だけは残る。
紡は深く息を吸った。
指先が震えている。
その震えを止めようとは思わなかった。
震えたままでいい。
怖いままでいい。
紡は、送信ボタンを押した。
メッセージが送信されました。
その文字を見た瞬間、体から力が抜けた。
やってしまった。
そう思った。
すぐに画面を閉じたくなる。
いや、送信取り消しはできるのだろうか。
そんなことまで考えた。
けれど、紡は何もしなかった。
メッセージは、そこに残っている。
自分の言葉として、セリの元へ向かっている。
紡はスマートフォンを胸に抱えた。
心臓がまだ速い。
返事が来るかどうかはわからない。
既読になるかもわからない。
でも、今はそれでよかった。
初めて、自分の夢を誰かにほとんどそのまま伝えた。
それが、見知らぬ旅人へのメッセージだったとしても。
いや、見知らぬ旅人だからこそ、言えたのかもしれない。
すぐそばにいる人には言えない本音が、遠くを歩く誰かには届くことがある。
紡はノートを開いた。
真夜中にまた書いている。
そう思って少し笑った。
今日の日付の下に、ゆっくりと書く。
「セリさんにDMを送った」
たった一行。
それだけで胸がいっぱいになった。
続ける。
「怖かった。手が震えた。でも、送った。私は初めて、誰かに自分の夢をほとんどそのまま書いた」
ペン先が止まる。
紡は少し考えて、さらに書いた。
「大きな決断ではないのかもしれない。でも、私には大きかった。旅に出る前にも、越えなければいけない小さな橋がある。その一つを、今夜渡った気がする」
書き終えると、紡はノートを閉じた。
部屋は静かだった。
窓の外では、遠くの電車の音が夜に溶けていく。
明日になれば、また会社へ行く。
いつもの朝が来る。
でも、今夜の紡は、昨日の紡とは少し違う。
豆大福を投稿した自分。
夕焼けを投稿した自分。
チャペルの空に弱さを書いた自分。
ちゃんとした大人になれないと認めた自分。
セリの投稿にコメントした自分。
そして今、初めてDMを送った自分。
一つ一つは、本当に小さい。
でも、並べてみると、確かに道になっている。
紡はベッドに入り、スマートフォンを枕元に置いた。
返事を待たない。
そう決めた。
でも、少しだけ期待してしまう自分もいた。
それでいいと思った。
期待して、怖がって、落ち着かなくて。
それも全部、自分の足音だ。
灯りを消す。
暗闇の中で、紡は目を閉じた。
胸の奥に、小さな灯りがともっていた。
今夜の灯りは、少し揺れていた。
でも、消えてはいなかった。
遠くの港町を歩くセリの灯り。
真夜中の東京のワンルームで揺れる紡の灯り。
まだ出会っていない二つの光が、画面の向こうでほんの少し近づいた気がした。
紡はその光を見つめながら、ようやく眠りに落ちていった。




