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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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6/12

第6章 真夜中のスクロール

月曜日は、いつも通りに始まり、いつも通りに終わった。

朝の電車に乗り、会社へ行き、パソコンを開く。

メールを確認し、資料を修正し、会議に出る。

昼休みにコンビニで買ったサラダとおにぎりを食べ、午後は取引先とのオンライン打ち合わせに追われた。

いつもの一日。

それなのに、紡の中には、昨日までとは少し違うものがあった。

「足音を聴く」

新しくつけたアカウント名が、心の奥で何度も静かに浮かんだ。

誰にも言っていない。

会社の同僚も、母も、友人たちも知らない。

けれど、紡のスマートフォンの中には、もうひとつの小さな場所が生まれている。

豆大福。

夕焼け。

チャペルの空。

ちゃんとした大人になれない私。

投稿はまだ四つだけだった。

フォロワーも、片手で数えられるくらいしかいない。

それでも、そこには紡の本音が少しずつ置かれていた。

仕事中、ふとした瞬間にそのことを思い出す。

上司の説明を聞きながら。

真帆の資料にコメントを入れながら。

美咲と給湯室でコーヒーを淹れながら。

自分には、会社の外にもうひとつ、まだ誰にも知られていない場所がある。

その事実は、ほんの少しだけ紡を支えた。

それは、秘密を持っている高揚感とは少し違う。

もっと静かで、もっと切実なものだった。

たとえるなら、胸の内側に小さな灯りを隠しているような感覚。

誰にも見えない。

けれど、自分だけはその光を知っている。

その光があるだけで、いつものオフィスの白い照明も、少しだけ違って見えた。

昼休み、美咲と一緒にコンビニへ向かう途中、ふいに美咲が言った。

「紡、最近ちょっと雰囲気変わった?」

「え?」

紡は思わず立ち止まりそうになった。

「何かあった?」

美咲は、何気なく聞いたのだと思う。

けれど紡の胸は少しだけ跳ねた。

もしかして、何か見えているのだろうか。

投稿を始めたこと。

夢のノートを開く時間が増えたこと。

自分の本音を、少しずつ外へ出していること。

そんなものは、表情に出ているのだろうか。

「別に、何もないよ」

紡は笑った。

「ほんと?」

「うん。なんで?」

「なんとなく。前よりちょっと、考え込んでる感じもするけど、暗いわけじゃなくて」

美咲は言葉を探すように首を傾げた。

「何か、自分の中で動いてるみたいな顔してる」

紡は返事に困った。

美咲は時々、驚くほど鋭い。

仕事でも、人の表情の変化にすぐ気づく。

だからこそ、リーダー候補に挙がるのだろう。

「気のせいだよ」

紡はそう言った。

でも、完全な嘘ではなかった。

紡自身もまだ、自分の中で何が動き始めているのか、はっきりとはわかっていなかったからだ。

会社帰り、紡は駅ビルの書店に立ち寄った。

本当はまっすぐ帰るつもりだった。

でも、改札を抜けた瞬間、ふと本が見たくなった。

旅行の棚には、華やかなガイドブックが並んでいた。

週末で行ける温泉。

絶景ドライブ。

女子旅におすすめの宿。

ひとり旅入門。

日本の美しい町並み。

紡は一冊ずつ背表紙を眺めた。

どれも魅力的だった。

表紙には、青い海や、雪景色や、古い町並みの写真が使われている。

でも今日は、少し違和感があった。

きれいすぎる。

そう思ってしまった。

もちろん、旅のガイドブックなのだから、きれいでいい。

行きたくなるように作られているのだから、明るく整っていて当然だ。

けれど、紡が最近惹かれているものは、もう少し生活の匂いがするものだった。

観光用に磨かれた景色の裏にある、普通の朝。

食堂の湯気。

市場の床に残る水の跡。

古い店の棚に並ぶ、手書きの値札。

誰かが毎日使っている道。

町の人にとっては当たり前すぎて、わざわざ写真に撮らないもの。

紡はガイドブックの棚から少し離れ、旅行記のコーナーへ移動した。

そこには、個人の旅を書いた本が並んでいる。

派手な旅ではなく、ゆっくり歩く旅。

宿に泊まり、人と話し、食べ、迷い、ときどき立ち止まる旅。

紡は一冊を手に取った。

ページをめくると、知らない地方の小さな駅の写真が載っていた。

無人駅。

木のベンチ。

雨に濡れた線路。

遠くに見える山。

そこに添えられた文章は、とても静かだった。

駅前には何もなかった。けれど、何もないということが、その町の呼吸のように思えた。

紡はその一文を何度も読んだ。

何もないということが、その町の呼吸。

こういう言葉が好きだと思った。

大きく叫ばない。

でも、確かにそこにあるものをすくい上げる言葉。

自分も、いつかそんなふうに書けるだろうか。

紡はその本を買った。

レジでカバーをかけてもらい、バッグに入れる。

書店を出ると、駅ビルの窓の向こうに夜の街が見えた。

人々は急ぎ足で歩いている。

誰かと待ち合わせている人。

仕事帰りらしい人。

買い物袋を持った人。

イヤホンをして一人で歩く人。

同じ駅にいるのに、それぞれが違う場所へ帰っていく。

紡もその一人だった。

家に着く頃には、夜はすっかり深くなっていた。

部屋の明かりをつけ、コートを脱ぎ、バッグを置く。

テーブルの上には、深い青色のノートがある。

その横に、書店で買った本を置いた。

今日は疲れている。

そう思った。

夕飯は簡単でいい。

冷凍していたごはんを温め、味噌汁を作り、卵を焼く。

ほうれん草のおひたしを少し添える。

一人分の食卓は、静かだった。

テレビはつけなかった。

代わりに、買ってきた本を読みながら食べた。

行儀が悪いと思いつつ、ページをめくる手が止まらなかった。

地方の小さな町を歩く筆者の文章は、紡の心にゆっくり染み込んでいった。

有名な観光名所を巡るわけではない。

劇的な出会いがあるわけでもない。

ただ、駅に降り、歩き、地元の食堂に入り、店の人と少し話し、古い神社に寄り、夕方のバス停で空を見る。

それだけなのに、読んでいると胸の奥が静かに温まった。

旅は、特別な出来事を集めることだけではない。

見過ごしそうな時間に、ちゃんと立ち止まること。

紡は箸を置き、ノートを開いた。

「旅は、派手な思い出を作ることではなく、見過ごしそうな時間に立ち止まること」

そう書いた。

続けて、自分の投稿について考える。

豆大福。

夕焼け。

チャペルの空。

ちゃんとした大人になれない私。

どれも、見過ごそうと思えば見過ごせたものだった。

和菓子店の店主の言葉も、会社帰りの空も、結婚式での痛みも、自分の中の迷いも。

これまでは、そういうものをなかったことにしてきた。

仕事があるから。

疲れているから。

大げさだから。

人に話すほどではないから。

そうやって、心が動いた瞬間を何度も押し流してきた。

でも、今は少し違う。

立ち止まって、書いている。

その変化が、小さいけれど確かなものに思えた。

食器を洗い、シャワーを浴び、髪を乾かす。

明日も仕事だ。

早く寝なければいけない。

そう思いながらも、紡はなかなかベッドに入れなかった。

心が、少しだけ起きている。

本を読んだからかもしれない。

書きたい言葉が、胸の奥でまだ静かに揺れている。

紡はスマートフォンを手に取り、SNSを開いた。

「足音を聴く」のアカウントには、新しい通知が一つあった。

ちゃんとした大人になれない私、という投稿に、また一ついいねが付いていた。

コメントは増えていない。

それでも、誰かが読んでくれたのだと思うと嬉しかった。

紡は自分のプロフィール画面を見た。

投稿は四つ。

フォロワーは六人。

画面の上に、「足音を聴く」という名前がある。

まだ、とても小さい。

でも、そこにある。

紡はタイムラインをゆっくりスクロールした。

旅の写真。

料理の写真。

誰かの日常。

仕事の愚痴。

読んだ本の感想。

知らない土地の風景。

広告。

友人の近況。

綺麗なカフェの写真。

画面の中には、無数の人の生活が流れている。

誰かの幸せ。

誰かの宣伝。

誰かの記録。

誰かの本音。

誰かの見せたい自分。

紡は、スクロールしながら時々立ち止まった。

素敵だと思う投稿もあれば、眩しすぎて胸が疲れる投稿もある。

「好きなことを仕事にしました」

「会社を辞めて人生が変わりました」

「一年でフォロワー一万人達成」

「旅しながら暮らす私の一日」

そういう投稿を見ると、以前ならただ羨ましいと思った。

今も、羨ましい。

でも少しだけ、見え方が変わっていた。

その人たちにも、見えていない夜があるのかもしれない。

会社を辞める前に眠れなかった夜。

投稿が伸びなくて落ち込んだ日。

お金が減っていく不安。

誰にも言えない孤独。

画面の中の完成された姿だけが、その人の全部ではない。

そう思えるようになったのは、自分が小さく発信を始めたからだろう。

誰かの投稿の裏側に、少しだけ想像が及ぶようになった。

それでも、スクロールは時々、心を削る。

比べるつもりはなくても、比べてしまう。

自分はまだ四つしか投稿していない。

フォロワーは六人。

会社も辞めていない。

旅にも出ていない。

プロフィールには「まだ会社員」と書いた。

それが正直な自分だと思う一方で、画面の中にはもうすでに夢を叶えた人たちがいる。

きらきらした写真。

整った文章。

たくさんのコメント。

感謝の言葉。

仕事の依頼。

その中で自分の投稿は、とても小さく見えた。

紡は一度スマートフォンを伏せた。

もう寝よう。

そう思って、ベッドに入る。

部屋の灯りを消す。

暗闇の中で、遠くを走る電車の音がした。

でも、眠れなかった。

目を閉じると、今日読んだ本の中の無人駅が浮かぶ。

木のベンチ。

雨に濡れた線路。

何もないという町の呼吸。

それから、香織の白いドレス。

美咲の「ちゃんとして見えるだけ」という言葉。

母の「安定してるんだから」という声。

豆大福の店主の「毎日少しずつ違うの」という言葉。

いろいろな言葉が、胸の中で静かに重なっていく。

紡は寝返りを打った。

スマートフォンは枕元にある。

見ない方がいい。

真夜中のSNSは、心に良くない。

わかっている。

寝る前に見れば、誰かの人生を浴びすぎて、余計に眠れなくなる。

それでも、手が伸びた。

画面が暗闇の中で白く光る。

時刻は午前一時十二分。

明日の朝、きっと後悔する。

そう思いながら、紡はSNSを開いた。

タイムラインをゆっくりスクロールする。

夜更かししている誰かの投稿。

日付が変わったばかりの誕生日報告。

深夜のラーメン。

眠れないという短い呟き。

旅先の夜景。

猫の写真。

広告。

指先が画面を滑っていく。

何を探しているわけでもない。

ただ、眠れない心の置き場所を探すように、紡はスクロールを続けた。

すると、ふいに一枚の写真で指が止まった。

海だった。

けれど、よく見る旅写真のような青く輝く海ではない。

薄曇りの空の下に広がる、灰色がかった海。

波は小さく、岸には古い漁船が何艘か並んでいる。

画面の端には、錆びた赤い郵便ポストと、誰かが干したらしい作業用の手袋が写っていた。

派手さはなかった。

絶景、と呼ぶには地味かもしれない。

でも、紡はその写真から目が離せなかった。

なぜだろう。

そこには、誰かの暮らしの気配があった。

観光客のために整えられた景色ではなく、朝からそこで働く人たちの時間が、そのまま写り込んでいるようだった。

紡は投稿文を読んだ。

『港の朝は、観光地の朝より少し早い。午前五時半、まだ空が眠たそうな色をしているうちから、長靴の音が聞こえ始める。誰かが海に向かって歩く。その背中を見ていると、旅人である自分が、この町の一日を少しだけ分けてもらっているのだとわかる。ここには、私のために用意されたものは何もない。だからこそ、そっと立っていたいと思う』

紡は、息をするのを忘れた。

何度も読み返した。

ここには、私のために用意されたものは何もない。

だからこそ、そっと立っていたいと思う。

その言葉が、胸に深く入ってきた。

自分が書きたいものに、とても近いと思った。

いや、近いというより、ずっと先を歩いている人の足跡を見つけたような気がした。

紡はアカウント名を見た。

「セリ|土地の記憶を歩く」

プロフィール画像は、横顔でも風景でもなく、古い駅舎のベンチだった。

名前の下には、短い自己紹介があった。

「日本の町を、暮らすように歩いています。土地の記憶、食卓の湯気、名もなき人の言葉を少しずつ記録中」

紡の指が止まった。

土地の記憶。

食卓の湯気。

名もなき人の言葉。

まるで、自分のノートの中にある言葉を、誰かがもっと深く、もっと静かに育てているようだった。

紡はプロフィールを開いた。

投稿が並んでいる。

海沿いの港町。

雪の降る小さな駅。

古い街道沿いの民宿。

朝市の湯気。

商店街の閉店間際の灯り。

畳の上に置かれた膳。

山間の集落で撮られた、手作りの漬物。

誰かのしわの刻まれた手。

どの写真も、派手ではない。

けれど、一枚一枚に、静かな強さがあった。

紡は投稿を一つずつ開いて読んだ。

『この町の名物は、観光案内所でもらった地図には大きく載っていなかった。けれど、朝の食堂で隣に座ったおばあさんが「これを食べないと冬を越した気がしない」と教えてくれた。名物とは、誰かが誇らしげに差し出すものだけではなく、誰かが当たり前のように守ってきたものでもあるのだと思う』

別の投稿。

『古い街道を歩いていると、道の端に小さな祠があった。花は少し枯れていたけれど、水は新しかった。誰かが今日もここに来たのだと思った。歴史は博物館の中だけにあるのではなく、こうして誰かが水を替える手の中に残っている』

また別の投稿。

『旅をしていると「自由でいいですね」と言われる。けれど自由は、いつも軽いわけではない。選ばなかった道の重さも、明日の宿が決まっていない不安も、全部一緒に背負って歩く。それでも私は歩く。立ち止まる場所を、自分で選びたいから』

紡の胸が、静かに震えた。

自由は、いつも軽いわけではない。

その言葉に、これまで自分が抱えていた不安を見透かされたような気がした。

旅に出たい。

でも怖い。

安定を手放すのが怖い。

収入がなくなるのが怖い。

誰にも必要とされないのが怖い。

母を心配させるのが怖い。

自分の夢が、本物ではなかったと知るのが怖い。

そんな紡の不安に、このセリという人は、遠くから静かに頷いてくれているようだった。

大丈夫、怖くてもいい。

そう言っているわけではない。

無責任に背中を押す言葉もない。

ただ、怖さを抱えたまま歩いている人の言葉が、そこにあった。

紡はベッドの中で体を起こした。

暗い部屋の中、スマートフォンの光だけが顔を照らしている。

プロフィールの投稿をさらに遡る。

セリの写真には、本人の姿はほとんど写っていなかった。

足元だけ。

手だけ。

影だけ。

背負っているらしい古いリュックの一部。

宿の窓辺に置かれたノート。

年齢も、詳しい経歴もわからない。

でも、文章の端々から、若い人ではないような気がした。

焦っていない。

誰かに見せるために急いでいない。

流行りの言葉を使っていない。

それなのに、強い。

静かで、凛としている。

紡は、自分の投稿を思い出した。

ちゃんとした大人になれない私。

あの投稿に込めた気持ちは本物だった。

でもセリの言葉は、もっと遠くの場所まで歩いてきた人のものに思えた。

羨ましい、とは少し違う。

憧れ。

その言葉が近かった。

こんなふうに発信したい。

こんなふうに、土地に敬意を持って立ちたい。

こんなふうに、自分の弱さも含めて、言葉にできる人になりたい。

紡は、セリの最新の投稿に戻った。

灰色がかった港の朝。

錆びた郵便ポスト。

作業用の手袋。

まだ眠たそうな空。

投稿文をもう一度読む。

ここには、私のために用意されたものは何もない。

だからこそ、そっと立っていたいと思う。

紡はその投稿に、いいねを押した。

指先が、少し震えた。

コメントを書こうか迷った。

でも、何を書けばいいのかわからなかった。

素敵です。

心に響きました。

私もこういう旅がしたいです。

どの言葉も、軽すぎる気がした。

セリの投稿は、簡単な感想で触れてはいけないもののように思えた。

紡はコメント欄を開いたまま、しばらく迷った。

そして、何も書かずに閉じた。

代わりに、フォローのボタンを押した。

「フォロー中」

その表示に変わる。

それだけで、胸の奥に小さな緊張が生まれた。

セリの投稿が、これから自分のタイムラインに流れてくる。

それは、知らない旅人と細い糸で繋がったような感覚だった。

紡は深い青色のノートを手に取った。

ベッドサイドの小さな明かりをつける。

こんな時間に書き始めたら、明日の朝がつらくなる。

わかっている。

でも、今書かなければ、この震えが薄れてしまう気がした。

ノートを開き、今日の日付を書く。

時刻も書いた。

午前一時四十一分。

その下に、紡はゆっくりと書いた。

「セリという人の投稿を見つけた」

続けて書く。

「派手ではない港の朝。灰色の海。錆びた郵便ポスト。作業用の手袋。誰かの暮らしの気配。観光地ではなく、町の一日をそっと分けてもらうような旅」

書きながら、胸が熱くなった。

紡はさらに続けた。

「私が見たいものは、やっぱりこういうものだと思った。誰かのために用意された美しさではなく、そこにある暮らしの中に残っているもの。誰かが毎日続けてきたこと。名もなき歴史。食卓の湯気。人の手」

ペンを握る手に力が入る。

「こんなふうに書きたい。こんなふうに歩きたい。でも、まだ私は会社員で、まだ旅に出ていない。まだ母にも言えていない。まだ怖い。でも、怖いまま歩いている人がいることを知った」

そこまで書いて、紡は手を止めた。

怖いまま歩いている人がいる。

その一文が、今日のすべてだった。

これまで紡は、旅に出る人はもっと強いのだと思っていた。

迷いがなく、覚悟があり、自由を軽やかに選べる人。

自分とは違う人。

でもセリの投稿には、不安や重さも書かれていた。

それでも歩いている。

怖くないから進むのではなく、怖さも一緒に持って進んでいる。

そのことが、紡には救いだった。

ノートの余白に、紡はセリの投稿から受け取った言葉を、自分なりに書き写した。

「自由は軽いだけではない」

「立ち止まる場所を、自分で選びたい」

書いたあと、少しだけ息を吐く。

自分も、立ち止まる場所を選びたい。

会社にいることが悪いわけではない。

この部屋で暮らすことが嫌なわけでもない。

でも、流されてここにいるのではなく、自分で選んでここにいるのだと言えるようになりたい。

そして、旅に出るなら。

それもまた、自分で選びたい。

誰かに背中を押されたからではなく。

焦りに追い立てられたからでもなく。

現実から逃げるためでもなく。

自分の足で、見たいものの方へ向かいたい。

紡はスマートフォンに戻り、セリのプロフィールをもう一度見た。

過去の投稿の中に、ひとつ気になるものがあった。

古い商店街の写真。

夜の閉店後らしい。

シャッターが半分下りた店。

軒先に残る裸電球の光。

濡れた路面に映る看板。

投稿文には、こう書かれていた。

『人はよく、なくなってから価値に気づく。けれど本当は、なくなる前からそこに立って、ちゃんと見ていたい。寂れているのではなく、続いている途中なのだと、誰かが言葉にしなければならない場所がある』

紡は、その文章を読んで胸を押さえた。

続いている途中。

寂れているのではなく、続いている途中。

その言葉は、昨夜ノートの余白に書いたばかりの一文を、静かに呼び起こした。

私は、まだ途中にいる。

そう書いたとき、紡はどこにも辿り着けていない自分を、少しだけ許せた気がした。

そして今、セリの言葉を読んで、その感覚がもう一度胸の奥で息を吹き返す。

町も、人も、人生も。

完成していないから価値がないのではない。

途中だからこそ、そこにしかない呼吸がある。

まだ続いているものには、まだ失われていない温度がある。

紡はコメント欄を開いた。

今度は、何か書きたいと思った。

でも、指が止まる。

セリという人に、自分の言葉を届けるのが怖かった。

届かないかもしれない。

読まれないかもしれない。

軽いと思われるかもしれない。

それでも、今度は何も書かずに閉じたくなかった。

紡は深く息を吸い、短いコメントを打った。

『「続いている途中」という言葉に、胸が止まりました。私も、見過ごされそうなものをちゃんと見られる人になりたいです』

送信する。

画面に自分のコメントが表示された。

一瞬、消したくなった。

恥ずかしい。

大げさだったかもしれない。

知らない人の投稿に、急にこんなことを書いて変ではないだろうか。

でも、消さなかった。

怖いまま、置いておいた。

それは最近、紡が少しずつ覚え始めたことだった。

怖いから消すのではなく、怖いまま残す。

そのままにしておく。

午前二時を過ぎていた。

明日は確実に眠い。

それでも、紡はすぐに眠る気になれなかった。

セリの投稿をさらにいくつか読み、やがてスマートフォンを伏せた。

部屋は静かだった。

外の電車の音も、いつもより遠い。

真夜中の街は、昼間とは違う呼吸をしている。

紡はノートを閉じずに、もう一度ペンを取った。

「今日、私は誰かの投稿に救われた」

そう書いた。

「知らない人の言葉なのに、私の中にあったものが呼び起こされた。こういう出会いが、SNSにはあるのだと思った。比べて苦しくなる場所でもあるけれど、誰かの言葉で、自分の本音が目を覚ます場所でもある」

紡は少し考えて、最後にこう書いた。

「私は、まだ旅に出ていない。でも今夜、遠くの港町の朝を見た気がした」

書き終えると、胸の奥に静かな余韻が残った。

セリの投稿の中の港。

まだ見たことのない町。

灰色の海。

錆びた郵便ポスト。

作業用の手袋。

午前五時半の長靴の音。

その景色は、スマートフォンの画面の中にあった。

でも紡には、確かにそこへ少しだけ行ったような気がした。

発信は、旅を届けることなのかもしれない。

まだ行けない誰かの心に、景色の匂いや、人の気配や、土地の時間を届けること。

そして時には、その人の中に眠っていた願いを起こすこと。

セリの言葉が、今夜の紡にそうしたように。

紡はノートを閉じ、ベッドに横になった。

スマートフォンを枕元に置く。

もう見ない。

そう決めた。

けれど画面が一度だけ光った。

通知だった。

紡は反射的に手を伸ばしそうになり、止めた。

いや、見ない。

でも、少しだけ気になる。

誰からだろう。

「足音を聴く」の投稿に反応があったのかもしれない。

セリの投稿へのコメントに、誰かがいいねをくれたのかもしれない。

見たい。

でも明日にしよう。

そう思って目を閉じる。

数秒後、やっぱり気になって目を開けた。

紡は苦笑しながらスマートフォンを手に取った。

通知は、セリからだった。

正確には、セリが紡のコメントにいいねを押した通知だった。

たったそれだけ。

返信ではない。

フォローされたわけでもない。

ただ、いいねが一つ。

でもその表示を見た瞬間、紡の心臓が大きく鳴った。

セリが読んだ。

自分のコメントを、あの人が読んでくれた。

たったそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。

紡は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

遠くの港町を歩く人と、自分の言葉がほんの一瞬だけ触れた。

そんな気がした。

それは、今までのどのいいねとも違っていた。

憧れの人に届いたから、というだけではない。

自分の中にある夢が、外の世界に確かに存在する何かと繋がったような感覚だった。

紡はスマートフォンを胸に抱えた。

眠れない夜に、何気なく始めたスクロール。

いつもなら、誰かと比べて落ち込んだり、無駄に時間を使ったと後悔したりするだけの時間。

でも今夜だけは違った。

真夜中の画面の向こうに、道があった。

まだ知らない港へ続く道。

自分がいつか歩きたい場所へ続く道。

そして、怖いままでも歩いていいのだと教えてくれる、静かな足跡。

紡は灯りを消した。

暗い部屋の中で、深い青色のノートがテーブルの上にある。

そのノートの中に、今夜新しく書いた言葉がある。

セリという人の投稿を見つけた。

その一文が、これから何を動かすのか、紡にはまだわからない。

けれど、何かが確かに変わり始めていることだけは感じていた。

胸の奥で、また足音がする。

今夜の足音は、一人分ではない気がした。

遠くの港町を歩く誰かの足音。

過去の人々が残した土地の足音。

そして、まだ部屋の中にいる紡自身の足音。

それらが、真夜中の静けさの中で、かすかに重なって聞こえた。

紡は目を閉じた。

明日の朝は、きっと眠い。

会社では普通の顔をして、メールを返し、会議に出て、またいつもの一日を過ごすのだろう。

でも、もう知っている。

いつもの一日の外側には、まだ見ぬ町がある。

画面の向こうには、そこを歩いている人がいる。

そして自分もいつか、その景色の中へ入っていきたいと思っている。

真夜中のスクロールは、ただの暇つぶしでは終わらなかった。

それは、紡が初めて見つけた、遠くの足音だった。


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