第5章 「ちゃんとした大人」になれない私
結婚式の翌朝、紡は昼前まで眠っていた。
目を覚ましたとき、部屋の中には白い光が満ちていた。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、昨日の晴れやかな空とは少し違って、生活の中に戻ってきた光のようだった。
枕元のスマートフォンには、いくつか通知が届いていた。
友人たちのグループチャット。
昨日撮った写真の共有。
香織からの短いお礼のメッセージ。
そして、紡が新しく作ったアカウントへの通知。
紡はまだ半分眠った頭で、まず友人たちのチャットを開いた。
『昨日はありがとう!みんなに会えて嬉しかった!』
『香織、本当に綺麗だった』
『写真送るね』
『また集まりたいね』
『次は亜希の引っ越し祝いかな?』
明るい言葉が並んでいる。
写真も何枚も送られていた。
白いドレスの香織。
笑顔の友人たち。
料理の皿。
二次会で撮った集合写真。
その中に、自分も写っている。
くすんだブルーのワンピースを着て、少し控えめに笑っている紡。
悪い写真ではない。
楽しそうに見える。
ちゃんと祝福している人に見える。
でも、その笑顔の裏で何を考えていたかは、写真には写らない。
置いていかれたようで苦しかったこと。
香織の手紙の言葉が胸に刺さったこと。
チャペルの空を見上げながら、自分の人生を考えていたこと。
その気持ちを夜の店先で投稿したこと。
写真の中の自分は、何も語っていない。
紡は少しだけ画面を見つめてから、今度は新しいアカウントを開いた。
チャペルの空の投稿には、いいねが五つになっていた。
コメントは二つ。
昨夜の「わかります」というコメントのほかに、もう一つ新しいコメントが届いていた。
『私も友人の結婚式の帰り、同じような気持ちになったことがあります。うまく言えなかった気持ちを言葉にしてもらった気がしました』
紡は、ベッドの中でしばらくその文章を読んでいた。
うまく言えなかった気持ち。
それは、自分自身もそうだった。
祝福しているのに苦しい。
嬉しいのに焦る。
誰かの幸せを見て、自分の足元が急に心細くなる。
そんな気持ちは、あまり人に言えない。
言った瞬間、嫌な人間だと思われそうで。
心が狭いと思われそうで。
素直に喜べない自分を責めたくなって。
だから、たいていの人は飲み込むのかもしれない。
「おめでとう」と笑って、そのあと一人で帰る電車の中で、少しだけ泣きそうになる。
紡はスマートフォンを胸の上に置いた。
届いた。
昨夜のあの投稿は、誰かに届いた。
たった数人かもしれない。
本当に小さな反応かもしれない。
それでも、紡にとっては十分すぎるほど大きかった。
自分の弱さだと思っていたものが、誰かの孤独に触れた。
それは、豆大福の投稿についた初めてのいいねとは違う種類の温かさだった。
けれど、その温かさは長くは続かなかった。
グループチャットに、新しい写真が送られてきた。
香織と新郎が、両親と並んで写っている写真だった。
隣には、友人たちからのコメントが次々と並ぶ。
『素敵な家族写真』
『泣ける』
『こういうの見ると結婚式したくなる』
『香織、本当に幸せそう』
『次は誰かな?』
次は誰かな。
その軽い一言に、紡の胸が少しだけ固くなった。
誰かが悪気なく投げた言葉。
でも、その言葉はまるで、順番待ちの列に自分も並んでいるのだと告げられたようだった。
結婚。
同棲。
昇進。
転職。
家を買うこと。
子どもを持つこと。
二十代後半になると、誰かの近況は少しずつ人生の進捗報告のようになっていく。
何を選んだか。
どこまで進んだか。
誰と生きるか。
何を手に入れたか。
そんなつもりは誰にもないのに、会話の中に見えない物差しが生まれる。
紡は、その物差しの上でいつも自分を測ってしまう。
私は、今どこにいるのだろう。
会社員としては、悪くない。
でも、突出した成果があるわけではない。
恋愛は、今はしていない。
結婚の予定もない。
一人暮らしはしている。
でも、この部屋にずっと住むと決めているわけでもない。
夢はある。
でも、まだ会社を辞めていない。
発信を始めた。
でも、フォロワーはほとんどいない。
どれも途中。
どこにも到着していない。
紡はベッドから起き上がり、ぼんやりと部屋を見回した。
昨日脱いだワンピースが、椅子の背にかかっている。
バッグは床に置いたまま。
テーブルの上には、深い青色のノートと、使いかけのペン。
キッチンには、昨夜洗えなかったグラスが一つ残っている。
結婚式の華やかな世界から戻ってきた部屋は、いつもより少しだけ生活感が強く見えた。
紡は立ち上がり、まずグラスを洗った。
水を流しながら、昨日の香織の言葉を思い出す。
「自分で選んだ人生を歩いていきます」
その言葉は、朝になってもまだ胸の中に残っていた。
自分で選んだ人生。
紡は、今の生活を選んできたのだろうか。
それとも、選ばないままここまで来ただけなのだろうか。
大学を出て、就職して、会社に通い、仕事を覚え、一人暮らしを続ける。
その流れは、たしかに自分が歩いてきたものだ。
でもどこかで、紡はずっと「普通」と呼ばれる道の上にいようとしてきた。
親を心配させないように。
友人たちから浮かないように。
会社で扱いづらい人にならないように。
ちゃんとした大人に見えるように。
ちゃんとした大人。
紡は洗ったグラスを水切りかごに置きながら、小さくため息をついた。
その言葉は、いつから自分の中に住みついたのだろう。
子どもの頃は、もっと単純だった。
行きたい場所へ行きたいと言えた。
好きなものを好きだと言えた。
知らない町の駅に降りるだけでわくわくした。
旅行のパンフレットを見るだけで、胸が弾んだ。
けれど大人になるにつれて、願いには理由が必要になった。
それは将来に役立つのか。
お金になるのか。
安定しているのか。
人に説明できるのか。
失敗したとき、どうするのか。
そういう問いを、誰かに聞かれる前から自分で自分に向けるようになった。
そのたびに、夢は少しずつ小さく畳まれていった。
畳んで、畳んで、引き出しの奥へしまった。
それでも消えなかったから、ノートになった。
ノートになっても、まだ誰にも見せられなかった。
そして今、やっと小さなアカウントに三つの投稿を置いた。
豆大福。
夕焼け。
チャペルの空。
どれも、今の紡にできる精一杯だった。
でも、精一杯が小さすぎる気がして、また不安になる。
ちゃんとした大人なら、もっとはっきり決められるのだろうか。
会社を辞めるなら辞める。
続けるなら続ける。
結婚したいなら婚活する。
仕事を頑張りたいなら昇進を目指す。
夢を追うなら覚悟を決める。
そんなふうに、まっすぐ選べる人だけが、大人なのだろうか。
紡には、それができない。
進みたい。
でも怖い。
変わりたい。
でも失いたくない。
旅に出たい。
でも会社を辞めるのが怖い。
発信したい。
でも見られるのが怖い。
一人でいたい日もある。
でもこのままずっと一人なのかと思うと、急に心細くなる夜もある。
どの気持ちも本当で、どれか一つに絞れない。
その曖昧さが、自分を大人になりきれていない人間のように思わせた。
朝食とも昼食ともつかない時間に、紡は簡単なトーストを焼いた。
昨日の披露宴で美しい料理を食べたあとだからか、焦げ目のついた食パンとインスタントスープが妙に現実的に見えた。
けれど、その現実的な食卓に、少しほっとする自分もいた。
食べながら、紡はスマートフォンを手に取った。
昨夜の投稿へのコメントに返信しようと思った。
『私も、うまく言えない気持ちでした。読んでくださってありがとうございます。誰かの幸せを嬉しいと思う気持ちと、自分の人生に焦る気持ちは、同時にあってもいいのかもしれません』
打ってから、少し迷う。
言い過ぎだろうか。
重いだろうか。
知らない人にここまで返すのは変だろうか。
でも、紡は送信した。
その人が返事をくれるかどうかはわからない。
でも、届けてもらった言葉に、自分もきちんと言葉で返したかった。
送信したあと、少しだけ胸が軽くなった。
発信は、投稿だけではないのかもしれない。
届いた声に、返すこと。
誰かの小さな痛みを、雑に扱わないこと。
自分の言葉を、相手の心にそっと置くこと。
それもまた、紡がやりたいことに近い気がした。
午後、紡は母に電話をかけるか迷った。
昨日の結婚式のことを聞かれるだろうと思ったからだ。
案の定、昼過ぎに母の方から電話が来た。
画面に「母」と表示された瞬間、紡は少しだけ体を固くした。
「もしもし」
『紡?昨日、結婚式だったんでしょう?どうだった?』
「うん。すごく綺麗だったよ。香織、幸せそうだった」
『そう。よかったわねえ。写真見たかったわ』
「あとで送るね」
『お願い。香織ちゃんも結婚かあ。早いわねえ』
母はしみじみと言った。
そのあとに続く言葉は、なんとなく予想できた。
『紡は、そういう話はないの?』
やっぱり。
紡は窓の外を見た。
向かいのマンションのベランダで、白いシーツが風に揺れている。
「ないよ」
『そう。まあ、焦らなくていいけどね。でも、いい人がいたらちゃんと考えなさいよ』
「うん」
『仕事はどう?忙しい?』
「普通かな」
『無理してない?』
「大丈夫」
『今の会社、安定してるんだから、体を壊さないように続けられるといいわね』
安定してるんだから。
その言葉に、紡の胸がぎゅっと縮んだ。
母は、紡を縛ろうとしているわけではない。
むしろ逆だ。
東京で一人暮らしをする娘が、ちゃんと働き、ちゃんと暮らし、体を壊さずにいてほしい。
ただ、それだけなのだと思う。
その優しさがわかるから、紡は何も言えなくなる。
「うん。わかってる」
そう答えた自分の声は、少し小さかった。
母はそれに気づかなかったのか、それとも気づかないふりをしたのか、話題を変えた。
『今度帰ってくるのはいつ?』
「まだ決めてない。仕事の予定見てからかな」
『たまには帰ってきなさいね』
「うん」
電話を切ったあと、紡はしばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。
母に夢を話す日は、来るのだろうか。
三十歳までに会社を辞めて、日本中を旅しながら発信したい。
そう言ったら、母はどんな顔をするだろう。
反対するだろうか。
泣くだろうか。
それとも、黙り込むだろうか。
紡は、母を悲しませたいわけではない。
心配もかけたくない。
でも、母を安心させるためだけに自分の人生を選ぶことは、いつか母のせいにしてしまう気がした。
本当は旅に出たかったのに。
本当は挑戦したかったのに。
お母さんが心配するから、私は諦めた。
そんなふうに思う未来が、一番怖かった。
紡はノートを開いた。
昨日の結婚式のメモの次のページに、ゆっくりと書く。
「母の安心と、私の本音は、いつも同じ方向を向いているわけではない」
書いてから、しばらくその一文を見つめた。
ひどい言葉だろうか。
親不孝だろうか。
でも、嘘ではなかった。
さらに続ける。
「でも、母の優しさを言い訳にして、自分の人生を選ばないことも、たぶん違う」
ペンを置くと、胸の奥が少し痛んだ。
本音を書くことは、時々残酷だ。
誰かを責めたいわけではないのに、誰かの優しさと自分の願いがぶつかっていることを認めなければならない。
でも、書かなければ見えない。
見えなければ、選べない。
紡は、少しずつそのことを知り始めていた。
夕方、紡は昨日着たワンピースを丁寧にハンガーにかけた。
椅子に置いたままにしておくと、昨日の余韻まで脱ぎ散らかしているようで落ち着かなかった。
バッグの中を整理し、ご祝儀袋を入れていた袱紗を片付け、使ったハンカチを洗濯かごに入れる。
結婚式の一日が、少しずつ日常へ戻っていく。
特別な日のあとには、必ず片付けがある。
そのことが、少し不思議だった。
誰かの人生の大きな節目も、翌日には洗濯物や食器や仕事の予定に混ざっていく。
結婚も、旅も、夢も、きっとそうなのだろう。
始めた瞬間だけが特別なのではない。
そのあとに続く、地味で面倒で、でも確かな日々こそが本当なのかもしれない。
紡は洗濯機を回しながら、スマートフォンを開いた。
新しいアカウントのプロフィールを、まだ仮のままにしていることを思い出した。
プロフィール画像は未設定。
名前も、適当に入れた文字のまま。
自己紹介文も空欄に近い。
三つ投稿したのに、その場所にはまだ紡自身の輪郭がなかった。
「名前......」
紡は呟いた。
発信する名前。
本名を出す勇気はまだない。
でも、まったく無機質な名前でも、自分の言葉を置く場所には合わない気がした。
いくつか候補をメモに書いていく。
「旅の途中」
「町の余白」
「朝ごはんのある場所」
「小さな土地の記録」
「足音日記」
「紡ぐ旅」
どれもしっくり来るような、来ないような気がする。
紡は深い青色のノートを開き、これまで書いてきた言葉を見返した。
「いつか」ではなく「少しずつ」。
「旅は、心が動いたものをなかったことにしないと決めた日から始まるのかもしれない」。
「私が隠したかった弱さは、誰かがひとりで抱えていた気持ちと繋がることがある」。
自分は、何を発信したいのだろう。
土地の歴史。
文化。
食。
暮らし。
人の言葉。
そして、そこへ向かう自分の心。
きれいな旅ではなく、ちゃんと迷いながら歩く旅。
有名な場所を紹介するだけではなく、見過ごされそうなものに光を当てる記録。
そう考えたとき、ふと一つの言葉が浮かんだ。
「足音を聴く」
自分の足音。
土地に残る人々の足音。
昔そこに生きていた誰かの足音。
今、迷いながら歩く誰かの足音。
紡はその言葉をノートに書いた。
「足音を聴く」
じっと見つめる。
少し静かすぎるかもしれない。
派手ではない。
目立つ名前ではない。
一瞬で何のアカウントかわかるわけでもない。
でも、紡の心には近かった。
旅は、ただ遠くへ行くことではない。
その土地に残る音を聴くこと。
自分の中にある小さな願いの音を聴くこと。
誰かが言葉にできなかった気持ちに耳を澄ませること。
紡はSNSのプロフィール編集画面を開いた。
アカウント名の欄に、ゆっくりと入力する。
「足音を聴く」
しばらく見つめてから、保存した。
画面が切り替わる。
プロフィール欄に、その名前が表示される。
紡は少しだけ息を止めた。
今までより、そこが自分の場所になった気がした。
続けて自己紹介文を書く。
何度も書き直してきた言葉。
「日本各地を少しずつ旅しながら、その土地の歴史や文化、食、暮らしの記憶を記録していきます。まだ会社員。まだ旅の準備中。心が動いたものを、なかったことにしないための小さな記録です」
書き終えて、紡は何度も読み返した。
「まだ会社員」
その一文を入れるか迷った。
入れない方が格好いい気もする。
すでに旅に出ている人のように見せた方が、見栄えはいいかもしれない。
でも、それは今の自分とは違う。
紡はまだ会社員だ。
毎朝電車に乗って、オフィスへ行っている。
会議にも出るし、資料も作る。
母にも夢を言えていない。
退職届も書いていない。
でも、だからこそ書けるものがある。
まだ途中にいる人として。
まだ何者でもない人として。
同じように迷っている誰かに届く言葉があるかもしれない。
紡は「保存」を押した。
プロフィールが更新される。
投稿は三つ。
フォロワーは一桁。
名前は「足音を聴く」。
とても小さい。
でも、少しだけ始まっている。
夕飯を作る前、紡はもう一つ投稿を書きたくなった。
写真はない。
ただ、今日感じたことだけを短く残したかった。
けれど、文字だけの投稿は少し勇気がいる。
写真があれば、言葉の重さを少し隠せる。
でも文字だけだと、自分がそのまま出てしまう気がした。
紡は迷いながら、投稿画面を開いた。
「ちゃんとした大人になれていない気がする日がある。仕事はしている。生活もしている。大きく崩れているわけではない。でも、自分の本音をまだ誰にもきちんと話せていない。周りの人生が進んで見えるたびに、私だけ保留にしている気がする。それでも今日、保留のままでも書いていいのだと思った。迷っている途中にも、言葉はある」
そこまで書いて、紡は指を止めた。
これは投稿していいのだろうか。
昨日のチャペルの空の投稿よりも、さらに自分の内側に近い。
でも、今の自分が書けるのは、この言葉だった。
ちゃんとした大人になれていない気がする日がある。
その一文は、紡の胸の奥から出てきた。
もしかしたら、誰かも同じように感じているかもしれない。
そう思った。
紡は深く息を吸い、投稿ボタンを押した。
投稿が完了しました。
画面の中に、自分の言葉だけの投稿が表示される。
写真はない。
飾りもない。
ただ、言葉だけがそこにある。
紡は少し怖くなって、スマートフォンを伏せた。
夕飯を作る。
鶏むね肉を焼き、ほうれん草を添え、味噌汁を温める。
作業をしている間も、さっきの投稿のことが頭から離れなかった。
誰かに重いと思われるだろうか。
暗いと思われるだろうか。
何を言っているのかわからないと思われるだろうか。
でも、消したいとは思わなかった。
怖いけれど、置いておきたい。
それは、今の紡にとって大切な感覚だった。
夕飯を食べ終えた頃、スマートフォンが光った。
通知が一件。
紡は箸を置き、画面を開いた。
さっきの投稿に、いいねが一つ付いていた。
そして、コメントが届いていた。
『私も、ちゃんとした大人のふりだけ上手くなっていく感じがします』
紡は、その文章をじっと見つめた。
ちゃんとした大人のふりだけ上手くなっていく。
美咲が言っていた言葉と似ていた。
みんな、ちゃんとして見えるだけ。
ちゃんとしているように見せるのが、少しずつ上手くなっているだけ。
紡は目の奥が熱くなるのを感じた。
また、一人に届いた。
しかも今度は、写真ではなく、言葉だけで。
紡は返信した。
『わかります。私もそうです。でも、ふりをしながらでも、本音を少しずつ見つけていけたらいいなと思っています』
送信したあと、胸の中が静かに温かくなった。
発信は、まだ小さい。
でも、そこには会話が生まれ始めている。
見知らぬ誰かと、心の奥にある似た痛みをそっと確認し合うような、小さな会話。
紡は思った。
自分が届けたいのは、土地の美しさだけではないのかもしれない。
そこへ向かう人の心も、届けたい。
旅に出たいけれど怖い人。
今の生活を嫌いではないけれど、このままでいいのかわからない人。
友人の幸せを喜びながら、自分の未来に焦ってしまう人。
ちゃんとした大人のふりをしながら、本当は少し泣きたい人。
そういう誰かに、紡の言葉は届くのかもしれない。
夜、紡はノートを開いた。
今日の日付の下に、いくつかの言葉を書いていく。
「ちゃんとした大人、という言葉が苦しい」
「安定していることと、本音を生きていることは、同じではない」
「途中にいる自分を隠さなくてもいいのかもしれない」
「発信は、完成した自分だけがするものではない」
ペンを動かすたびに、心の中の絡まっていた糸が少しずつほどけていくようだった。
これまで紡は、旅に出てから発信するのだと思っていた。
会社を辞めて、トランクを持って、知らない町に降り立ってから。
そこから初めて、旅する自分の物語が始まるのだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
旅に出る前の迷いも、旅の一部なのかもしれない。
怖くて動けない日。
通帳の数字を見て不安になる日。
母の言葉に揺れる日。
友人の結婚式で焦る日。
ちゃんとした大人になれない自分に落ち込む日。
そのすべてが、いつか歩き出すための準備なのかもしれない。
紡はノートの余白に、大きめの文字で書いた。
「私は、まだ途中にいる」
その言葉を見て、少しだけ笑った。
途中。
今までは、その言葉が嫌だった。
どこにも着いていない。
何者にもなれていない。
決めきれていない。
そんな意味に感じていた。
でも今は、少し違って見える。
途中だから、まだ変われる。
途中だから、まだ選べる。
途中だから、まだ歩き出せる。
紡はペンを置き、窓を開けた。
夜の空気が部屋に入ってくる。
遠くで電車の走る音がした。
毎日聞いている音。
会社へ向かう朝にも、疲れて帰る夜にも、窓の外から聞こえてくる音。
以前は、その音を日常の繰り返しのように感じていた。
でも今は、少し違う。
どこかへ向かう音に聞こえる。
同じ線路の上を走っていても、乗る人によって目的地は違う。
同じ日常の中にいても、心が向かう先は違っていい。
紡はスマートフォンを手に取り、更新したプロフィール画面をもう一度開いた。
「足音を聴く」
その名前が、画面の上に静かに表示されている。
まだ小さな場所。
誰にも知られていないに等しい場所。
でも、そこには紡の本音が少しずつ置かれている。
豆大福。
夕焼け。
チャペルの空。
ちゃんとした大人になれない私。
それらは、ばらばらの投稿のようでいて、全部つながっていた。
見過ごしそうなものを、なかったことにしない。
自分の心が動いた瞬間を、なかったことにしない。
誰かに見せるのが怖い弱さを、なかったことにしない。
それが、紡の発信の根っこなのかもしれない。
ベッドに入る前、母に送る写真を選んだ。
香織のドレス姿。
友人たちとの集合写真。
会場の花。
チャペルの空の写真は、送らなかった。
それは、今はまだ自分だけのものにしておきたかった。
母には、香織が綺麗だったことを伝える。
自分がその空を見ながら何を考えたかは、まだ伝えられない。
それでいい。
全部を一度に話せなくてもいい。
紡は母に写真を送り、短いメッセージを添えた。
『香織、すごく綺麗だったよ』
すぐに母から返信が来た。
『本当に綺麗ね。紡も素敵。疲れたでしょう。今日は早く寝なさいね』
紡はその文章を見て、小さく笑った。
母の優しさは、いつも少し現実的で、温かい。
その優しさと、自分の夢がぶつかる日がいつか来るかもしれない。
でも今はまだ、その日までに、自分の言葉を少しずつ育てたいと思った。
いつか話すとき、ただの思いつきではなく、自分がちゃんと歩いてきたものとして伝えられるように。
灯りを消す。
暗い部屋の中で、深い青色のノートがテーブルの上にある。
スマートフォンの中には、「足音を聴く」という小さなアカウントがある。
会社の名刺とは違う。
履歴書に書ける肩書きでもない。
誰かに胸を張って説明できるほど、まだ育ってもいない。
でも、そこには紡がいる。
会社での紡でも、母に安心してもらうための紡でも、友人たちの前で落ち着いて見える紡でもない。
迷いながら、怖がりながら、それでも何かを見つけたいと願っている紡。
その自分を、少しだけ好きになれそうな気がした。
胸の奥で、静かな声がした。
それは、前よりも落ち着いていた。
でも、弱くはなかった。
ちゃんとした大人になれない私。
その言葉を、紡は暗闇の中でそっと思った。
そして続けた。
でも、ちゃんと迷っている。
ちゃんと怖がっている。
ちゃんと、自分の本音を探している。
それもきっと、私の声だ。
紡は目を閉じた。
明日になれば、また月曜日が来る。
会社へ行き、資料を作り、会議に出て、普通の顔で働く。
けれど、普通の顔の奥で、紡はもう小さな旅を始めていた。
遠くの町へ向かう前に。
まず、自分の心の奥へ。
しまい込んできた夢の場所へ。
誰にも見せてこなかった本音の場所へ。
その旅は、派手ではない。
誰にも拍手されない。
けれど、確かに始まっている。
紡は、その声を聞きながら、静かに眠りに落ちていった。




