第4章 友人の結婚式、置いていかれる心
香織の結婚式は、よく晴れた土曜日だった。
朝、紡がカーテンを開けると、窓の外には雲ひとつない淡い青が広がっていた。
眩しすぎない、やわらかな晴れ。
誰かの門出にふさわしい日だと思った。
窓を開けると、少し冷たい風が部屋に入ってきた。
まだ朝の匂いを残した風だった。
紡はしばらく窓辺に立ち、その空を見上げていた。
晴れてよかった。
心からそう思う。
香織には、幸せになってほしい。
大学時代からの友人で、泣き虫で、よく笑って、恋愛のたびに全力で傷ついていた香織。
その香織が、今日、自分で選んだ人と結婚する。
嬉しくないわけがない。
けれど、胸の奥には、祝福とは別の小さな重さが沈んでいた。
その重さに気づかないふりをするように、紡は窓を閉めた。
ベッドの上には、今日着ていくワンピースが広げられている。
くすんだブルーの、膝下丈のワンピース。
派手すぎず、地味すぎず、結婚式に着ていくにはちょうどいい。
数年前、別の友人の式に出るために買ったものだった。
あの頃は、二十七歳になった自分が同じワンピースを着て、こんなふうに胸の奥をざわつかせているとは思っていなかった。
二十代前半の頃、二十七歳はもっと大人だと思っていた。
仕事にも慣れて、将来の方向もなんとなく見えていて、恋愛も生活もそれなりに落ち着いている。
何かを選ぶときにも、今よりずっと迷わずにいられる。
そんなふうに思っていた。
けれど実際の二十七歳の紡は、会社に通いながら、深い青色のノートに夢を書き、誰にも見せないように守っている。
最近になってようやく、小さなアカウントに投稿を二つしただけだった。
豆大福と、夕焼け。
いいねは、一つ。
たった一つ。
でも紡にとっては、大きな一歩だった。
それなのに、今日これから向かう場所には、もっとわかりやすい人生の節目がある。
結婚式。
祝福され、写真に残り、誰の目にも「前へ進んだ」とわかる出来事。
自分の小さな投稿と、香織の結婚式。
比べるものではない。
頭ではわかっている。
それでも、心は勝手に比べてしまう。
紡はワンピースに袖を通した。
鏡の前に立つ。
いつも会社に行くときより少し丁寧に髪を巻き、薄くチークをのせる。
リップは、普段より少しだけ明るい色を選んだ。
鏡の中の自分は、悪くなかった。
きちんとしている。
清潔感もある。
年相応に見える。
でも、そこに映る女性が何を望んでいるのか、紡にはまだうまく説明できなかった。
結婚したいのか。
仕事を頑張りたいのか。
旅に出たいのか。
一人で生きたいのか。
誰かと生きたいのか。
全部が曖昧だった。
ただ一つだけ、胸の奥に消えないものがある。
日本中を旅したい。
その土地の歴史や文化、食を、自分の言葉で発信したい。
それだけは、ずっと残っている。
けれど、その夢はまだ、誰にもきちんと話せていない。
紡はバッグにご祝儀袋を入れた。
その横には、スマートフォンがある。
昨日の夜も、寝る前に投稿を見返した。
豆大福の投稿には、いいねが一つ。
夕焼けの投稿には、まだ何もない。
でも消さなかった。
消さずに眠れたことが、自分では少し誇らしかった。
「行ってきます」
誰もいない部屋に小さく声をかけて、紡は玄関の鍵を閉めた。
式場は、都心のホテルだった。
最寄り駅を出ると、同じ方向へ向かうらしい華やかな服装の人たちが何人も歩いていた。
男性はスーツ姿で、女性はワンピースやドレスを身にまとい、手には小さなバッグを持っている。
紡もその流れに混じって歩いた。
休日の都心は、平日のビジネス街とは違う顔をしている。
同じビルが並んでいても、どこか浮き立って見える。
街路樹の葉が光を受けて揺れ、カフェのテラス席には笑い声があった。
ホテルの入口に着くと、ガラス扉が音もなく開いた。
中に入った瞬間、外の空気がすっと遠ざかる。
高い天井。
磨かれた床。
白い花。
やわらかな照明。
どこか甘い香り。
ロビーには、結婚式に向かう人たちの華やいだ声が満ちていた。
紡は受付へ向かい、名前を告げ、ご祝儀袋を渡した。
「本日はおめでとうございます」
受付の女性にそう言われ、紡は軽く頭を下げた。
その言葉を聞いた瞬間、今日が本当に香織の結婚式なのだと、改めて実感する。
「紡!」
明るい声に振り向くと、大学時代の友人、亜希が手を振っていた。
淡いピンクのワンピース。
きれいにまとめられた髪。
左手の薬指には、細い指輪が光っている。
「久しぶり」
紡が近づくと、亜希は嬉しそうに笑った。
「ほんと久しぶり。元気だった?」
「うん。亜希も元気そう」
「なんとかね。最近、引っ越し準備でバタバタしてて」
「引っ越し?」
「そう。彼と一緒に住むことになって」
亜希は少し照れたように笑った。
「そうなんだ。おめでとう」
紡は自然にそう言った。
その言葉に嘘はなかった。
亜希が幸せそうで、嬉しい。
けれど、同時に胸の奥が少しだけ沈む。
亜希もまた、人生の次の場所へ進んでいる。
一緒に大学の講義を受け、試験前にノートを見せ合い、深夜のファミレスで将来の話をしていた友人たちが、少しずつ別の場所へ歩いていく。
紡だけが、あの頃の続きに立っているような気がした。
「紡は?最近どう?」
亜希の隣にいた美穂が聞いた。
「私は、相変わらずかな」
「仕事は?」
「続けてるよ。忙しいけど、まあ普通」
「紡って安定してるよね」
安定。
その言葉に、紡の胸がほんの少しだけ反応した。
褒め言葉だとわかっている。
きっと美穂に悪気はない。
むしろ、安心感があるという意味で言ってくれているのだと思う。
でも最近の紡には、その言葉が薄い膜のように感じられることがあった。
安定している。
たしかにそうだ。
毎月給料が入り、同じ部屋に帰り、同じ会社へ通う。
大きな波風はない。
誰かに心配されるほど崩れてもいない。
でも、その安定の内側で、心が少しずつ眠っていくような感覚を、どう説明すればいいのだろう。
「そうかな」
紡は曖昧に笑った。
「うん。昔からちゃんとしてる感じ」
ちゃんとしている。
また、その言葉。
紡は笑顔のまま頷いた。
ちゃんとしているように見えるのは、ちゃんとしていないところを見せていないだけだ。
本当は、昨日の夜も何度もSNSの投稿を見返していた。
いいねが一つ付いただけで、胸がいっぱいになった。
夕焼けの投稿に反応がないことに、少しだけ落ち込んだ。
今朝も出かける前、スマートフォンを開きそうになって、やめた。
そんなことは、この華やかなロビーではとても言えない。
やがて、チャペルへ案内された。
白い扉が開くと、そこには柔らかな光が満ちていた。
天井が高く、正面には大きな窓がある。
窓の向こうには、朝に見たものと同じ淡い青空が広がっていた。
椅子の背には白いリボンが結ばれている。
祭壇のそばには花が飾られ、静かな音楽が流れていた。
紡は友人たちと並んで席についた。
手元には式次第がある。
新郎の名前。
新婦、香織の名前。
その二つが並んで印刷されている。
それだけで、香織が別の人生へ進んでいくことが、紙の上にもはっきり表れているようだった。
音楽が変わった。
チャペルの扉がゆっくり開く。
最初に新郎が入ってきた。
少し緊張した表情で、それでもまっすぐ前を見て歩いている。
続いて、香織が父親に手を引かれて現れた。
白いドレス。
透けるようなベール。
やわらかくまとめられた髪。
紡は、息を呑んだ。
きれいだった。
本当に、きれいだった。
大学時代の香織を思い出す。
寝坊して髪を結んだだけで講義に駆け込んできた香織。
恋愛で悩むたびに、夜中に長いメッセージを送ってきた香織。
卒業旅行で道に迷って、それでも最後には笑い転げていた香織。
その香織が今、ゆっくりと祭壇へ向かって歩いている。
紡の目頭が熱くなった。
幸せになってほしい。
それは、心からの願いだった。
誓いの言葉。
指輪の交換。
ベールアップ。
誓いのキス。
一つ一つの場面が、まるで映画のように整っていた。
でもその整った美しさの中に、香織自身の緊張や、喜びや、不安や、覚悟が混じっていることが、紡にはわかった。
人生の節目は、外から見ると美しい。
けれど、その場所に立つ本人の心は、きっともっと複雑なのだろう。
それでも香織は、歩いている。
誰かと一緒に、新しい生活へ向かっている。
紡は拍手をしながら、自分の手のひらが少し冷たいことに気づいた。
式のあと、フラワーシャワーが行われた。
ホテルの中庭へ出ると、空はさらに明るくなっていた。
花びらが舞い、香織が笑う。
友人たちが一斉にスマートフォンを構え、写真を撮る。
紡も撮った。
白いドレスの香織。
隣で笑う新郎。
光の中に舞う花びら。
画面の中の香織は、本当に幸せそうだった。
その写真を見ながら、紡はふと思う。
この一枚は、きっとたくさんの人に祝福される。
香織が投稿すれば、たくさんのいいねが付くだろう。
コメントも届くだろう。
「おめでとう」「綺麗」「幸せそう」と、たくさんの言葉が並ぶだろう。
それは当然のことだ。
香織の幸せは、多くの人に共有される。
一方で、紡の豆大福の投稿に付いたいいねは一つ。
比べるものではない。
本当に、比べるものではない。
それなのに、紡は自分の小ささを思い知らされたような気がした。
自分が昨日やっと押した投稿ボタン。
自分にとっては大きな一歩だった。
でも、世の中から見れば、ほとんど誰にも気づかれない小さな点でしかない。
そのことが、少しだけ寂しかった。
披露宴会場は、華やかだった。
丸いテーブルには白いクロスがかかり、中央には花が飾られている。
席札には、香織の手書きらしいメッセージが添えられていた。
紡ちゃんへ
来てくれてありがとう。大学時代、夜中まで話を聞いてくれたこと、今でも覚えています。これからもよろしくね。
その文字を読んだ瞬間、紡の胸が温かくなった。
香織は、覚えていてくれた。
あの頃の自分たちを。
誰かの人生が新しい場所へ進んでも、過去が全部消えるわけではない。
そう思うと、少しだけ救われた気がした。
披露宴が始まる。
乾杯の挨拶。
料理。
友人たちとの会話。
スクリーンに映し出されるプロフィールムービー。
子どもの頃の香織。
学生時代の香織。
社会人になった香織。
新郎と出会ってからの香織。
写真が切り替わるたびに、会場から笑い声や小さな歓声が上がる。
紡も笑った。
懐かしい写真が出ると、亜希や美穂と顔を見合わせた。
「これ、卒業旅行のときだよね」
「若い」
「このとき紡、めちゃくちゃ荷物少なかったよね」
「そうだったっけ」
「そうだよ。みんなスーツケースなのに、紡だけ小さいバッグで来てた」
笑いながら、紡はその頃の自分を思い出した。
荷物が少ないのは、昔からだった。
必要なものだけで動きたい。
身軽でいたい。
どこかへすぐ行ける自分でいたい。
それは、今の夢と繋がっているのかもしれない。
会話は自然に、近況報告へ移っていった。
「亜希、同棲始めるんだって?」
「うん。来月から。家具見に行くの大変」
「美穂は仕事どう?」
「転職して半年。やっと慣れてきた。でも前より忙しい」
「菜々子、海外出張多いらしいよ」
「すごいよね。もう管理職候補なんでしょ」
「香織も結婚だし、みんな変わっていくね」
誰かが何気なく言った。
みんな変わっていく。
紡はグラスを持つ手に少し力を入れた。
「紡は?最近どうなの?」
亜希が尋ねた。
その場の空気は明るい。
ただの近況確認。
けれど紡の心臓は、少しだけ速くなった。
昨日投稿したことを、言ってみようか。
最近、発信を始めたんだ。
まだ二つだけだけど。
旅とか、食とか、土地の暮らしとか、そういうものを書いてみたくて。
言葉は胸の中にある。
でも、披露宴のテーブルの上に出すには、あまりにも小さく、頼りなく感じた。
ここには、結婚、同棲、転職、昇進、海外出張という、わかりやすい近況が並んでいる。
その中で「豆大福について投稿した」と言う勇気は、紡にはなかった。
「私は、相変わらずだよ。仕事して、家に帰って、たまに散歩してるくらい」
「紡らしいね」
美穂が笑った。
「落ち着いてる」
落ち着いてる。
安定してる。
ちゃんとしてる。
その言葉たちが、今日の紡の周りに何度も置かれていく。
どれも優しい言葉のはずなのに、紡には少しずつ自分を固めていく透明な壁のように感じられた。
本当は、落ち着いてなんかいない。
心の中では、ずっと遠くへ行きたがっている。
発信したい。
旅に出たい。
自分の言葉で何かを残したい。
けれどそれを言わなければ、誰にも見えない。
言わない限り、自分は「安定している紡」のままだ。
それは安全だった。
でも、息苦しかった。
料理が運ばれてくる。
前菜。
スープ。
魚料理。
肉料理。
どれも美しく盛り付けられていた。
紡は、魚料理の皿を見つめた。
白い皿の上に、ソースが細く引かれている。
彩りの野菜が添えられ、ハーブが飾られている。
美味しい。
でも、ふと昨日の豆大福を思い出した。
少し不格好で、紙袋に入れられて、店主の言葉と一緒に持ち帰った豆大福。
今日の料理は晴れの日の味だ。
昨日の豆大福は、日々の味だった。
どちらも美しい。
けれど紡が書きたいのは、たぶん後者なのだと思った。
誰かの特別な日のために整えられた料理ではなく、誰かが毎日食べてきた味。
暮らしの中にあるもの。
目立たなくても、続いてきたもの。
そういうものに、紡の心は強く惹かれる。
披露宴の終盤、香織から両親への手紙が読まれた。
会場の照明が少し落ち、静かな空気が広がる。
香織は手紙を持つ手を震わせながら、ゆっくりと読み始めた。
幼い頃の思い出。
反抗期のこと。
進路で迷ったこと。
社会人になって苦しかったとき、母親に電話したこと。
父親が何も言わず駅まで迎えに来てくれたこと。
紡は静かに聞いていた。
香織の声が少し詰まる。
「私は、これから自分で選んだ人と、自分で選んだ人生を歩いていきます」
その一文が、紡の胸に深く刺さった。
自分で選んだ人生。
会場の誰に向けた言葉でもないはずなのに、紡にはまるで自分に投げかけられた言葉のように聞こえた。
私は、自分で選んでいるのだろうか。
今の会社を。
今の暮らしを。
夢をまだ誰にも言わないことを。
投稿を始めたことを隠していることを。
三十歳までに旅に出たいと思いながら、何も決めないままでいることを。
それは、選んでいるのか。
それとも、選ばないことを選んでいるのか。
紡は膝の上で、そっと指を握りしめた。
涙は、香織への感動だけではなかった。
香織が自分の人生を歩き出すことへの祝福。
そして、自分がまだ歩き出せていないことへの痛み。
その二つが混ざって、胸の奥で静かに滲んでいた。
披露宴が終わり、ロビーへ出ると、空は少しずつ夕方の色に変わり始めていた。
友人たちは二次会へ向かう相談をしている。
「紡も行くよね?」
亜希に聞かれ、紡は一瞬迷った。
正直、少し疲れていた。
たくさん笑った。
たくさん祝福した。
たくさん近況を聞いた。
そのどれも悪い時間ではなかった。
でも、自分の中の何かが少し擦り減っていた。
それでも、ここで帰ると言うのも寂しい気がした。
「うん。行く」
二次会は、駅近くのレストランだった。
披露宴よりもくだけた雰囲気で、懐かしい顔も増えていた。
大学卒業以来会っていなかった人。
名前は覚えているけれど、何を話していたかはもう曖昧な人。
当時はよく一緒にいたのに、今ではSNSで近況を見るだけになった人。
「久しぶり」
「今何してるの?」
「結婚した?」
「どこ住んでるの?」
「仕事は?」
会話は、決まった質問から始まる。
紡は何度も同じように答えた。
「都内で会社員」
「一人暮らし」
「結婚はまだ」
「仕事は普通に続けてる」
そのたびに、自分の人生が短い説明で片付いていくような気がした。
都内で会社員。
一人暮らし。
結婚はまだ。
仕事は普通。
どれも嘘ではない。
でも、そこには深い青色のノートも、豆大福の投稿も、夕焼けの写真も、三十歳までに旅に出たいという夢も入っていない。
言わなければ、存在しないのと同じになってしまう。
それが少し怖かった。
途中で、紡は店の外へ出た。
夜の空気が頬に触れる。
昼間の晴れやかさとは違い、街には週末の夜のざわめきがあった。
飲食店の看板。
タクシーのライト。
笑いながら歩く人たち。
どこかへ向かう足音。
紡は店の入口の横に立ち、スマートフォンを取り出した。
結婚式で撮った写真を見返す。
香織の後ろ姿。
白い花。
友人たちの笑顔。
チャペルの窓から見えた空。
最後の写真で、指が止まった。
白い壁の向こうに広がる、淡い青空。
紡はその写真をじっと見つめた。
今日、香織は新しい人生へ歩いていった。
その姿は美しくて、眩しくて、少しだけ苦しかった。
置いていかれたような気がした。
でも本当は、誰かが紡を置いていったわけではない。
香織は香織の道を選んだだけ。
亜希は亜希の暮らしを選び、美穂は美穂の仕事を選び、美咲は美咲の不安を抱えながら進んでいる。
紡だけが、誰かに置いていかれたわけではない。
紡がまだ、自分の道を選ぶことを怖がっているだけなのだ。
そのことに気づくと、胸が痛かった。
けれど、少しだけ呼吸がしやすくもなった。
「紡?」
声がして振り向くと、美咲が立っていた。
今日は会社の同期としてではなく、大学時代の友人たちの輪に混じる一人として、少しだけ雰囲気が違って見えた。
「外にいたんだ。寒くない?」
「少しだけ。でも大丈夫」
美咲は紡の隣に並んだ。
二人で、しばらく夜の通りを眺めた。
「結婚式ってさ」
美咲がぽつりと言った。
「幸せなんだけど、ちょっと疲れるよね」
紡は思わず笑った。
「わかる」
「みんなの近況聞いてると、自分も何か報告しなきゃいけない気持ちになる」
「うん」
「別に誰も比べてないのに、勝手に比べちゃう」
紡は美咲を見た。
美咲はいつも明るくて、仕事もできて、人との距離感も上手い。
紡から見れば、ずっと前に進んでいる人だった。
その美咲も、比べている。
「美咲でもそう思うの?」
「思うよ」
美咲は小さく笑った。
「私、来期のリーダー候補の話が出てるって言ったじゃん」
「うん」
「あれもさ、周りから見たら順調なのかもしれないけど、本当は怖い。私にできるのかなって思うし、引き受けたらもう後戻りできない気がする」
紡は黙って聞いていた。
「でも断ったら断ったで、私は何がしたいんだろうってなる。進むのも怖いし、止まるのも怖い」
その言葉に、紡の胸が静かに震えた。
進むのも怖いし、止まるのも怖い。
それは、まさに今の自分だった。
「みんな、ちゃんとして見えるだけなのかな」
紡が呟くと、美咲は頷いた。
「たぶんね。ちゃんとしてるように見せるのが、少しずつ上手くなってるだけかも」
その言葉に、紡は少し笑った。
ちゃんとしているように見せるのが、上手くなっているだけ。
それなら、自分だけではないのかもしれない。
みんな、それぞれの場所で、見せていない不安を抱えている。
香織だって、今日の笑顔の裏には、結婚を選ぶまでの迷いや不安があったはずだ。
亜希にも、同棲を始める怖さがあるのかもしれない。
美穂にも、転職先での孤独があるのかもしれない。
美咲にも、リーダーになる怖さがある。
そして紡には、旅に出る怖さがある。
見えていないだけで、誰もが自分の人生の前で立ち尽くす夜を持っているのだと思った。
美咲が店に戻ったあと、紡はもう少しだけ外に残った。
スマートフォンの画面には、チャペルの空の写真が表示されている。
紡はメモアプリを開いた。
今日のことを、言葉にしておきたかった。
「友人の結婚式。幸せな一日だった。香織は本当に綺麗だった。心からおめでとうと思った」
そこまで打って、指を止める。
続きは、少し格好悪い。
でも、書かなければきっと消えてしまう。
紡はゆっくりと文字を打った。
「でも、私は少しだけ置いていかれたような気持ちになった」
画面の文字を見て、胸が痛んだ。
嫌な自分だと思う。
友人の幸せな日に、そんなことを感じるなんて。
でも、それも本当だった。
紡はさらに続けた。
「本当は、誰かに置いていかれたのではない。私はまだ、自分の道を選ぶことを怖がっているだけなのかもしれない」
その一文を書いた瞬間、喉の奥が熱くなった。
苦しい。
でも、少しだけ正直だった。
紡は写真をもう一度見た。
チャペルの窓から見えた空。
白い壁に切り取られた青。
紡は写真をもう一度見た。
チャペルの窓から見えた空。
白い壁に切り取られた、淡い青。
それは、数日前、会社帰りにビルの隙間から見上げた夕焼けとは違う空だった。
色も、場所も、そこに流れていた時間も違う。
けれど、どちらの空も紡に同じことを問いかけているように思えた。
このまま、見上げるだけでいいの。
そう言われている気がした。
会社帰りの夕焼けは、いつもの日常の中にある小さな入口だった。
今日のチャペルの空は、誰かの人生の門出を見届けるための、まっすぐな光だった。
どちらも遠くへ続いていた。
でも、その先へ歩き出すかどうかを決めるのは、いつも自分なのだ。
紡は迷った末、その写真を新しいアカウントの投稿画面に開いた。
場所は違う。
意味も違う。
でも、どちらの空も、紡にどこか遠くへ続く入口のように見えた。
紡は迷った末、その写真を新しいアカウントの投稿画面に開いた。
文章を少し整える。
「友人の結婚式で、チャペルの窓から見えた空。幸せな一日だった。心からおめでとうと思った。けれど同時に、少しだけ置いていかれたような気持ちにもなった。でもきっと、誰かに置いていかれたのではなく、私はまだ自分の道を選ぶことを怖がっているだけなのだと思う。誰かの門出は、自分の本音を照らすことがある」
読み返す。
投稿するには、少し正直すぎる気がした。
知り合いに見つかったらどうしよう。
香織に失礼ではないだろうか。
幸せな日に、こんなことを書くなんて暗いだろうか。
不安が次々に湧いてくる。
紡は投稿ボタンの上で指を止めた。
昨日、一昨日と押せたボタン。
でも今日は、また違う怖さがあった。
豆大福や夕焼けは、自分の感じた美しさを書くものだった。
けれどこれは、自分の弱さを書くものだった。
羨ましさ。
焦り。
置いていかれる感覚。
祝福の中に混じる痛み。
そんなものを外に出していいのだろうか。
発信するなら、もっと前向きで、きれいで、誰かを元気づける言葉にすべきではないのか。
紡はしばらく画面を見つめた。
でも、ふと思った。
自分が読みたい言葉は、きれいごとだけだろうか。
大丈夫。
夢は叶う。
一歩踏み出そう。
そんな言葉に励まされることもある。
でも、本当に苦しい夜に救われるのは、もっと格好悪くて、正直な言葉かもしれない。
置いていかれたように感じてもいい。
友人の幸せを祝福しながら、自分の未来に焦ってもいい。
その二つは、矛盾しない。
人の心は、そんなに簡単に一色にはならない。
紡は深く息を吸った。
そして、投稿ボタンを押した。
投稿が完了しました。
画面に表示されたその文字を見て、紡は少しだけ震えた。
怖い。
今までの投稿より、ずっと怖い。
でも、消さなかった。
店の中から笑い声が聞こえる。
紡はスマートフォンをバッグにしまい、二次会の会場へ戻った。
そのあとの時間、紡はちゃんと笑った。
友人たちと写真を撮り、香織に改めておめでとうと言い、昔の話で笑った。
心の中の痛みが消えたわけではない。
でも、それを自分で少しだけ認めたことで、無理に明るく振る舞う必要がなくなったような気がした。
二次会が終わったのは、夜遅くだった。
駅で友人たちと別れ、紡は一人で電車に乗った。
車内の窓には、少し疲れた自分の顔が映っている。
朝に整えた髪は少し崩れ、リップも薄くなっていた。
それでも、紡はその顔を嫌だとは思わなかった。
今日は、よく笑った。
よく祝福した。
少し傷ついた。
少し正直になった。
その全部が、今日の自分だった。
電車の揺れに身を任せながら、紡はスマートフォンを開いた。
投稿に通知が来ていた。
胸が跳ねる。
チャペルの空の投稿に、いいねが二つ付いていた。
そして、コメントが一つ。
知らないアカウントからだった。
『わかります。友人の幸せは嬉しいのに、自分だけ止まっている気がする日があります』
紡は、その文字を何度も読んだ。
わかります。
その四文字だけで、胸の奥がほどけていくようだった。
自分だけではなかった。
あの感情は、嫌な自分だけが持っているものではなかった。
どこかの誰かも、同じように感じたことがある。
友人の幸せを祝福しながら、自分の人生に不安になる夜を知っている。
紡の書いた言葉が、その誰かの中にあるものと、ほんの少しだけ重なった。
それだけで、泣きそうになった。
紡はすぐに返信しようとして、指を止めた。
何と返せばいいのだろう。
ありがとう。
私もです。
一緒ですね。
どれも少し足りない気がした。
迷った末、紡は短く返した。
『読んでくださってありがとうございます。私も今日、その気持ちに少し戸惑いました。でも、そう感じてもいいのかもしれないと思いました』
送信する。
返信したあと、胸の奥が温かくなった。
これが、届けるということなのかもしれない。
たくさんの人に届いたわけではない。
バズったわけでもない。
数字だけ見れば、まだほとんど誰にも知られていない。
でも、一人に届いた。
一人が、わかりますと言ってくれた。
その事実は、豆大福のいいね一つとはまた違う重さを持っていた。
家に着くと、部屋は暗く静かだった。
靴を脱ぎ、バッグを置き、ワンピースのままテーブルの前に座る。
深い青色のノートを開く。
今日の日付を書く。
その下に、ゆっくりと書いた。
「香織の結婚式。幸せだった。綺麗だった。嬉しかった。でも、置いていかれたようで苦しかった」
紡は少し迷ってから、続けた。
「その気持ちを投稿した。怖かった。でも、知らない誰かが『わかります』とコメントをくれた」
ペン先が、止まる。
胸の奥が静かに震えている。
紡は、さらに一行を書いた。
「私が隠したかった弱さは、誰かがひとりで抱えていた気持ちと繋がることがある」
書き終えた瞬間、紡は深く息を吐いた。
発信するということは、綺麗なものだけを見せることではないのかもしれない。
旅先の美しい景色。
おいしい料理。
歴史ある町並み。
温かい人との出会い。
そういうものを届けたい。
でも、それだけではなく、そこに向かう途中で揺れる自分の心も、きっと言葉になる。
怖い。
羨ましい。
迷う。
焦る。
でも、それでも歩きたい。
そんな不完全な気持ちこそ、誰かの胸に届くのかもしれない。
紡はワンピースの袖をそっと撫でた。
今日、香織は自分で選んだ人生へ歩き出した。
その姿は、眩しかった。
眩しすぎて、少し苦しかった。
でも、その眩しさは、紡を責めるものではなかった。
むしろ、自分の中にある本音を照らしてくれたのだと思う。
私も、自分で選んだ人生を歩いていると言える場所に立ちたい。
紡はノートの余白に、その言葉を書いた。
そして、しばらく見つめた。
自分で選んだ人生。
それは、結婚することだけではない。
昇進することだけでもない。
転職することだけでもない。
誰かにわかりやすく説明できる道だけが、正解ではない。
紡にとってのそれは、きっとまだ誰にも見えていない。
深い青色のノートの中にあり、三つの投稿の中にあり、胸の奥の足音の中にある。
まだ形にはなっていない。
でも、確かに始まりかけている。
シャワーを浴び、メイクを落とすと、鏡の中の自分は少し幼く見えた。
ワンピースを脱ぎ、部屋着に着替える。
特別な日の服を脱ぐと、いつもの自分に戻る。
でも、完全に昨日までの自分と同じではなかった。
ベッドに入る前、紡はもう一度SNSを開いた。
チャペルの空の投稿には、いいねが三つになっていた。
コメントは一つ。
それだけ。
でも、その一つのコメントが、紡の夜を静かに支えていた。
紡はスマートフォンを伏せ、灯りを消した。
暗い部屋の中で、今日の香織の姿が浮かぶ。
白いドレス。
花びら。
涙をこらえながら読む手紙。
自分で選んだ人生という言葉。
そして、画面の中に届いた「わかります」というコメント。
二つの出来事が、紡の中で不思議に繋がっていた。
誰かの門出は、自分の本音を照らす。
そして、自分の本音は、誰かの孤独を少しだけ照らすことがある。
紡は目を閉じた。
その夜、紡は深い青色のノートを閉じても、すぐには立ち上がらなかった。
胸の奥に、小さな灯りがともったような感覚があった。
はじめて怖いことを紙に書いた夜よりも、少し確かに。
豆大福の写真を投稿した夜よりも、少し明るく。
会社帰りの夕焼けに、誰かのいいねが届いた夜よりも、少し温かく。
その灯りは、紡の中で静かにともり続けていた。
まだ、どこを照らすためのものかはわからない。
けれど、もう見えないふりはできなかった。
紡はノートの表紙に手を置いた。
深い青色のその表紙が、今夜は少しだけ、遠くの空に似て見えた。
それはもう、ただ遠くへ行きたいと急かす光ではなかった。
誰かと比べて焦る光でもなかった。
自分の道を、自分で選びたいと願う灯りだった。
紡はその灯りを見つめながら、静かに思った。
私の門出は、まだ誰にも祝福されていない。
花もない。
ドレスもない。
拍手もない。
でも、もしかしたらもう始まっている。
誰にも見えないくらい小さく。
私だけが気づけるくらい静かに。
明日になれば、またいつもの日常が来る。
会社へ行き、仕事をして、普通の顔で過ごす。
それでも、紡はもう知っている。
普通の顔の奥に、誰にも見えていない旅支度が進んでいることを。
そしてその旅支度は、少しずつ誰かの画面にも届き始めていることを。
眠りに落ちる直前、紡は心の中で香織にもう一度言った。
おめでとう。
そして、そのあとに小さく、自分にも言った。
私も、いつか。
いや。
少しずつ。
自分の人生を、選びにいこう。




