第9章 一泊二日、わたしだけのお試し旅
翌朝、紡の部屋には、まだ小さな旅の気配が残っていた。
ベッドの横には、昨夜出したままの青いボストンバッグがある。
中身は空っぽだった。
けれど、その空っぽさは、昨日までの空っぽとは少し違って見えた。
何もないのではない。
これから何かを入れられる場所。
そう思える空白だった。
テーブルの上には、深い青色のノートが開いたまま置かれている。
「一泊二日のお試し旅」
昨夜、大きく書いたその文字が、朝の光の中で少し照れているように見えた。
紡はベッドの中からその文字を見つめて、しばらく動かなかった。
一泊二日。
たった一泊。
たった二日。
会社を辞めるわけではない。
人生を一気に変えるわけでもない。
日本中を旅する第一歩、と大げさに名づける必要もない。
けれど紡にとって、それは十分に大きなことだった。
これまで何度も旅行をしたことはある。
友人と温泉へ行ったこともある。
家族旅行で観光地を回ったこともある。
出張で知らない駅に降りたこともある。
でも今回の旅は、それらとは違う。
誰かと楽しむための旅ではない。
有名な観光名所を効率よく回るための旅でもない。
会社の用事でもない。
自分が何に立ち止まるのかを見るための旅。
セリからもらったその言葉が、胸の奥で静かに息をしていた。
紡はゆっくり起き上がり、カーテンを開けた。
空は薄く曇っていた。
朝の光はやわらかいけれど、少しだけ湿り気がある。
窓の外では、いつものように人々が駅へ向かって歩いている。
スーツ姿の男性。
小さな子どもの手を引く母親。
自転車で通り過ぎる高校生。
イヤホンをつけた若い女性。
いつもの朝。
いつもの街。
けれど紡は、自分の中に小さな別の時間が流れているのを感じていた。
旅先を決める。
今日は、それをする日だと思った。
顔を洗い、髪をまとめ、簡単な朝食を用意する。
食パンを焼き、ヨーグルトを器に移し、コーヒーを淹れる。
いつもと同じ朝食。
でも、テーブルにはノートがある。
その横に、スマートフォンとノートパソコンを置く。
紡はコーヒーを一口飲んでから、ノートを開いた。
昨夜書き出した候補地が並んでいる。
小田原。
銚子。
川越。
甲府。
三島。
どの町も、近すぎず遠すぎない。
日帰りでも行けるかもしれないけれど、一泊すれば朝の顔が見られる場所。
セリの言葉を思い出す。
観光地を回るためではなく、自分が何に立ち止まるのかを見るために。
紡は、まず小田原に丸をつけた。
東京から行きやすい。
城下町の歴史がある。
海がある。
朝の市場もある。
古い商店街もある。
かまぼこや干物、地元の食べものもある。
初心者のお試し旅には、ちょうどいいのかもしれない。
次に銚子を見る。
港町。
醤油の歴史。
ローカル線。
海。
少し遠いけれど、その分、日常から離れられそうな気がする。
川越は近い。
古い町並みが残っている。
蔵造りの通り。
菓子屋横丁。
うなぎ。
さつまいも。
けれど、日帰りで行ける近さが少し気になった。
お試し旅としては悪くない。
でも、紡が欲しいのは「泊まることで見える朝」だった。
観光客が来る前の通り。
店が開く前の静けさ。
宿の窓から見る知らない町の空。
そういうものを見たい。
甲府は、歴史も食もある。
盆地の空気。
ワイン。
ほうとう。
古い街道。
少し足を伸ばせば温泉もある。
三島は、水の町という響きが気になった。
湧き水。
川沿いの道。
富士山の気配。
うなぎ。
東海道。
どれも魅力的だった。
紡はノートを見つめながら、少し困ってしまった。
選ぶことは、楽しい。
でも、選ばなかった場所が生まれる。
それが少しだけ寂しい。
これまでもそうだった。
何かを選ぶことは、同時に他の可能性を一度脇に置くこと。
会社を続けることを選べば、旅に出る自分が遠ざかる。
旅に出ることを選べば、会社員としての安定を手放すことになる。
誰かに話すことを選べば、知られなかった安全を失う。
黙っていることを選べば、理解される可能性を失う。
選ぶことが怖いのは、選ばなかったものが見えるからだ。
一泊二日の旅先を決めるだけなのに、紡はまたそんなふうに考えていた。
「重いな、私」
小さく呟いて、苦笑する。
でも、そういう自分も嫌いではなくなってきていた。
何でも軽く決められる人に憧れる。
けれど、自分はたぶんそうではない。
一つの町を選ぶことにも、理由がほしい。
そこに行く意味を考えてしまう。
でもそれは、見方を変えれば、ちゃんと向き合いたいということでもあるのかもしれない。
紡はスマートフォンで、それぞれの町の写真を検索した。
最初に小田原。
城。
海。
市場。
干物。
かまぼこ通り。
古い商店街。
小さな路地。
観光地らしい明るい写真も多い。
けれど紡の目が止まったのは、朝の港の写真だった。
まだ人が少ない時間。
薄い光を受けた漁船。
濡れた地面。
発泡スチロールの箱。
遠くに見える海。
セリの港町の写真とは違う。
けれど、そこにも働く人の朝がある気がした。
次に、銚子の写真を見る。
海はもっと広く、風が強そうだった。
灯台。
ローカル線。
醤油工場の古い建物。
港の食堂。
少し遠い。
でも、旅らしさはある。
三島の写真には、水辺が多かった。
町の中を流れる川。
石畳。
水面に揺れる光。
古い神社。
朝の散歩道。
紡は画面を見ながら、胸の中でそれぞれの町を歩いてみた。
小田原なら、朝の市場へ行きたい。
干物の匂い。
かまぼこの店。
城下町の古い道。
海辺を歩く時間。
銚子なら、ローカル線に乗りたい。
海沿いの駅。
醤油の香り。
風の強い道。
港の食堂で食べる定食。
三島なら、水の音を聞きたい。
川沿いを歩く。
湧き水に触れる。
うなぎの店の前を通る。
古い街道の名残を探す。
どこへ行っても、きっと何かは見つかる。
でも、最初の一歩として選ぶなら。
紡はもう一度、小田原のページを開いた。
近すぎず、遠すぎない。
海もある。
歴史もある。
食もある。
朝の市場もある。
何より、初めてのお試し旅として、怖すぎない。
そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
怖すぎない場所。
それは、今の紡には大切な条件だった。
いきなり遠くへ行かなくていい。
いきなり自分を試すような旅にしなくていい。
まずは、安心して歩ける距離からでいい。
その中で、自分が何に立ち止まるのかを見ればいい。
紡はノートに書いた。
「最初のお試し旅候補:小田原」
その文字を見た瞬間、胸が小さく高鳴った。
候補、とつけたのは、まだ完全に決めきるのが怖かったからだ。
でも、ほとんど心は決まっていた。
午前中いっぱい、紡は小田原について調べた。
駅周辺の地図。
朝に開いている市場。
古い商店街。
小田原城の歴史。
かまぼこの店。
干物の店。
地元の食堂。
小さな宿。
観光モデルコースのページも見た。
けれど、紡はそこに載っている名所を全部回る気にはなれなかった。
旅の目的は、効率ではない。
自分が何に立ち止まるのかを見ること。
だから、予定は詰め込みすぎない方がいい。
ノートのページに、紡はゆっくりと旅程を書いていった。
一日目。
午前中、東京を出る。
昼前に小田原へ着く。
駅周辺を歩く。
古い商店街を見る。
地元の食堂で昼食。
午後、小田原城周辺を歩く。
夕方、海の方へ行けたら行く。
夜、宿でノートを書く。
二日目。
早起きする。
朝の市場へ行く。
干物か、地元の朝ごはんを食べる。
港を歩く。
午前中にもう一度町を歩く。
昼過ぎに帰る。
書いてみると、驚くほど地味だった。
映えるカフェも、話題のスポットも、人気の宿も、豪華な料理もない。
けれど紡は、その地味さが気に入った。
自分の旅らしいと思った。
派手な旅にする必要はない。
むしろ、派手にしようとすると、自分が本当に見たいものからずれてしまう気がした。
紡は昼食に簡単なうどんを作った。
鍋の湯気を見ながら、さっき調べた小田原の市場の写真を思い出す。
湯気。
匂い。
朝の声。
働く人の手。
自分は、本当に食べものに惹かれているのだと思う。
料理そのものだけではない。
その背景にある時間に惹かれている。
誰が作ってきたのか。
なぜその土地で食べられてきたのか。
どんな朝に食卓へ出されるのか。
どんな手が、それを守ってきたのか。
紡はうどんを食べながら、スマートフォンに小田原の宿泊予約サイトを表示した。
そこで、指が止まった。
宿を予約する。
それは、もう後戻りできない感じがした。
いや、キャンセルはできる。
一泊二日の小さな旅だ。
大げさに考えることではない。
でも、予約ボタンを押せば、その日は現実になる。
カレンダーの中に、旅の日が生まれる。
ただの夢ではなく、予定になる。
紡は急に怖くなった。
本当に行くの?
一人で?
知らない町に泊まるの?
何のために?
誰に頼まれたわけでもないのに?
投稿するため?
夢を試すため?
もし何も感じなかったら?
もし楽しくなかったら?
もし、自分は旅をしたいと思っていただけで、本当は向いていないとわかったら?
その可能性が、紡を一番怖がらせた。
旅先で何かトラブルが起きることよりも、お金を使うことよりも、自分の夢が思っていたほど自分を動かさないと知ることが怖かった。
ずっと大切にしてきた夢。
ノートに書き続け、貯金をし、勉強してきた夢。
それを本当に試したとき、もし胸が動かなかったら。
そのとき、自分は何を支えにすればいいのだろう。
紡はスマートフォンを伏せた。
小さな宿の予約画面。
ただそれだけの画面の前で、こんなにも心が揺れる。
自分は弱いのだろうか。
そう思った瞬間、セリの言葉が浮かんだ。
怖さがあるということは、それだけ大切なものを手にしているということでもありますから。
紡は、ゆっくり息を吐いた。
怖いのは、大切だから。
なら、この怖さは敵ではないのかもしれない。
この夢を手放したくないから、怖い。
本気で見に行きたいから、震える。
紡はもう一度スマートフォンを手に取った。
宿泊予約サイトを開く。
高級なホテルではなく、駅から少し歩いた場所にある小さなビジネスホテルを選んだ。
口コミには、建物は古いけれど清潔、駅から近い、朝の市場へ行きやすい、とあった。
それで十分だった。
むしろ、今の紡にはそのくらいが落ち着く。
予約日を選ぶ。
来週の土曜日。
日曜日に帰ってくる。
会社は休まなくていい。
母にも、まだ大きな説明はしなくていい。
「週末に少し出かける」と言えば済む。
それでも、紡にとっては十分に旅だった。
人数、一名。
部屋、シングル。
食事、なし。
現地で朝ごはんを食べたいから。
画面の下に、予約内容が表示される。
日付。
宿泊先。
料金。
キャンセル規定。
紡は何度も確認した。
間違いはない。
あとは、予約ボタンを押すだけ。
また、指が止まる。
投稿ボタンの前で指が止まった夜があった。セリにコメントを送る前、何度も文章を読み返した夜もあった。伝えたいのに、怖くて、けれど消したくなくて。紡はそのたびに、少しずつ震える指で先へ進んできた。
初投稿のボタン。
チャペルの空の投稿ボタン。
セリへのコメント。
セリへのDM。
そのたびに紡は震えた。
でも、押してきた。
怖いまま。
今回も、同じなのかもしれない。
紡は深く息を吸った。
そして、予約ボタンを押した。
画面が切り替わる。
予約が完了しました。
その文字が表示された瞬間、紡はしばらく動けなかった。
予約した。
本当に。
来週の土曜日、小田原へ行く。
一泊する。
青いノートを持って。
紡はスマートフォンをテーブルに置き、両手で顔を覆った。
泣くほどのことではない。
ただの一泊旅行だ。
週末に小田原へ行くだけだ。
そう思うのに、胸の奥が熱くなる。
嬉しさと怖さと、信じられなさが混ざっていた。
自分の夢が、初めてカレンダーに予定として刻まれた。
それが、たまらなく大きかった。
紡はノートを開き、震える手で書いた。
「予約した」
その下に、もう一度書く。
「来週の土曜日、小田原へ行く。一泊二日。青いノートを持って」
文字にすると、さらに現実味が増した。
紡はしばらくそのページを見つめていた。
夢は、突然大きく叶うものではないのかもしれない。
予約ボタン一つ。
カレンダーの一日。
小さな宿。
シングルルーム。
一泊分の荷物。
そういう小さな形を取りながら、少しずつ現実に近づいてくる。
夕方、紡は近所のドラッグストアへ行った。
特に必要なものはなかった。
でも、旅の準備に何か一つ買いたかった。
店内を歩きながら、小さな旅行用のポーチや、携帯用の化粧水、絆創膏、酔い止め、ウェットティッシュを眺める。
結局、紡が買ったのは、小さな詰め替え用のボトルと、青い歯ブラシケースだった。
本当に些細なものだった。
それでも、レジ袋の中に入ったそれらを見て、紡は少し嬉しくなった。
旅のために買ったもの。
その事実だけ




