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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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第55章 書かなかった旅(後編)

編集部へ返信を送ってから二日後の夕方だった。会社の仕事を終え、駅へ向かおうとしたところで、スマートフォンが静かに震えた。旅メディアの編集部からだった。改札を抜ける前に開くこともできた。けれど紡は足を止めず、そのままホームへ向かった。急ぐ理由はない。

電車へ乗り込み、窓際の席へ腰を下ろしてから、ようやく画面を開いた。

『ご連絡ありがとうございます。

お母様との旅を記事にしないというお気持ち、とてもよく伝わりました。

ぜひ、その時間は大切になさってください。

今回の特集につきましては、別の場所をご提案いただければ幸いです。

藤沢さんだからこそ見つけられる「もう一度訪れたい場所」を楽しみにしております。』

最後まで読み終えた紡は、小さく息を吐いた。胸の中で張っていた糸が、ゆっくりほどけていくようだった。理解してもらえた。その安心感もあった。けれど、それ以上に嬉しかったのは、自分の選択を後悔しなかったことだった。

母との旅を書かなかったことは、仕事を逃したことではない。自分にとって大切な時間を守ったという実感が、静かに残っていた。

電車が揺れる。紡はもう一度、メールの文面を読み返した。「藤沢さんだからこそ見つけられる」という一文が、胸の中で温かく響いていた。以前なら、こういう言葉を受け取っても、次の仕事のための評価としか受け取れなかったかもしれない。今日は違う。相手が紡という書き手を、条件ではなく人として見てくれている、そう感じられた。

窓の外には、夕暮れの街並みが流れていく。ビルの隙間から見える空は淡い茜色へ変わり始め、冬の早い日暮れが街をゆっくり包んでいた。紡はガラスへ映る自分の顔を見つめる。半年前の自分なら、どうしていただろう。迷わず母との旅を書いていたかもしれない。仕事として評価されることが嬉しかった。文章で誰かへ届けられることが誇らしかった。それは間違いではない。けれど今は、その前に考えることがある。

「これは、本当に書きたい旅なのか。」

その問いが、自分の中へ根付いていた。

週末の朝。冷え込んだ空気の中、紡は近所の公園を歩いていた。吐く息は白く、芝生には薄く霜が降りている。子どもたちの姿はまだなく、犬の散歩をする人が数人歩いているだけだった。ベンチへ腰を下ろし、温かい缶コーヒーを開ける。今日は取材ではない。写真も撮らない。ノートも持ってきていない。ただ外の空気を吸いたくなっただけだった。

木々を揺らす風の音を聞きながら、港町で母と座ったベンチを思い出す。あの日も、二人は長い時間、ほとんど言葉を交わさなかった。それでも不思議と気まずさはなかった。一緒に同じ景色を眺めるだけで十分だった。その時間を文章へ変えなかったからこそ、今も鮮やかに残っているのかもしれない。

そんなことを考えていると、スマートフォンへ母から電話が入った。

「おはよう。」

「おはよう。起きてた?」

「うん。散歩してる。」

「寒くない?」

「少しね。」

母は笑った。

「そういえば、この前の旅ね。」

「うん。」

「写真、現像したの。」

紡は少し驚いた。

「現像?」

「最近あまりしないでしょ。でも、残しておきたくて。」

「見たい。」

「今度来たとき、一緒に見よう。」

その約束だけで十分だった。データではなく、紙になった写真。アルバムへ貼る時間。その一枚一枚も、母にとっては旅の続きを生きる方法なのだろう。

電話を切ったあと、紡は空を見上げた。雲一つない冬空だった。

その日の午後、紡は本棚から旅行雑誌を何冊か取り出した。ページをめくりながら、「もう一度訪れたい場所」というテーマを考える。有名な観光地ではなくてもいい。派手な景色がなくてもいい。自分の足で歩き、自分の時間を過ごした場所。そんな町はどこだろう。

月曜日、会社で真帆に企画のことを話すと、真帆は興味深そうに尋ねた。

「藤沢さんの『もう一度訪れたい場所』って、どこですか」

「まだ決めてない。今、探してるところ」

「私は、学生時代に一人旅した町かな。何もない町でしたけど、なぜかもう一度行きたいって思います」

「何もないところが、逆によかったりするよね」

「わかります?」

「うん。派手じゃない場所の方が、案外覚えてる」

その会話が、紡の背中を少し押した。派手さより、記憶の濃さ。それを基準に選べばいい。

ふと、一冊の雑誌へ挟まれた古い乗車券が落ちた。数年前、仕事帰りに途中下車して立ち寄った小さな城下町。雨上がりの石畳。夕暮れの商店街。偶然入った和菓子屋。店先で話しかけてくれた店主。滞在時間は半日にも満たなかった。それでも、また行きたいと思っていた。

「ここだ。」

自然と声が漏れた。母との旅ではない。誰かとの思い出を借りる場所でもない。自分自身の記憶を、もう一度歩いて確かめられる町だった。

机へ向かい、新しい企画書を書き始める。文章は驚くほど素直に進んだ。港町を書けなかった穴を埋めるように書くのではない。その町を書きたいから書く。その違いは、自分でもはっきり分かった。

数日後、編集部から企画の採用連絡が届いた。

『ぜひ、この企画でお願いいたします。』

短い一文だった。紡は静かに笑った。採用されたことも嬉しい。けれど、それ以上に嬉しかったのは、自分で選んだ場所を認めてもらえたことだった。

その夜、母へ電話をかける。

「もしもし。」

「企画、決まったよ。」

「よかったね。」

「でも、お母さんと行った町じゃない。」

「そう。」

母の声は穏やかだった。

「少し残念?」

そう尋ねると、母はすぐに答えた。

「全然。」

「どうして?」

「だって、あの旅は私たちの旅だったでしょ。」

その言葉を聞いた瞬間、紡は目を閉じた。海風の匂い。宿の廊下。朝焼け。母の笑顔。どれも誰にも渡さなくてよかった。そう思えた。

「また行こうね。」

紡が言うと、母は嬉しそうに笑った。

「今度は春かな。」

「桜が咲く頃もいいね。」

「うん。」

約束はそれだけだった。けれど、その約束には仕事の予定も締め切りも関係なかった。純粋に、「また一緒に行こう」という気持ちだけがあった。

電話を切り、紡は深い青色のノートを開く。静かな夜だった。窓の外では、冬の風が街路樹を揺らしている。白いページへ、ゆっくりと言葉を書いた。

『書かなかった旅は、消えた旅ではなかった。

誰にも読まれないからこそ、私の中で静かに生き続ける時間がある。

その時間があるから、私はまた新しい町へ向かうことができる。』

ペンを置く。部屋には穏やかな静けさが満ちていた。旅を書くことは、これからも仕事として続けていく。その気持ちは変わらない。けれど、すべての旅を仕事へ変える必要はない。誰にも見せない景色。誰にも説明しない思い出。そんな時間も、自分の人生を支えてくれる。

紡はノートを閉じ、机の灯りを消した。暗くなった部屋の中で、港町の朝に見た静かな海が、もう一度だけ心の中へ穏やかに広がっていった。


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