第56章 選び続ける働き方(前編)
一月の朝は、まだ夜の続きを抱えたような暗さが残っていた。目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました紡は、布団の中で天井を見つめた。部屋の空気は冷え切っている。毛布から腕を出すだけでも勇気がいる寒さだった。小さく息を吐くと、窓ガラスの向こうは薄い藍色に染まり始めていた。
今日から新しい一週間が始まる。会社へ行き、仕事を終えたら、今度は取材の準備を進める。忙しくなることは分かっていた。それでも以前のような重苦しさはなかった。予定が詰まっていることよりも、自分で選んだ予定で一日が埋まっていることの方が、今は大きかった。
湯を沸かし、コーヒーを淹れる。香ばしい香りが部屋へ広がる。マグカップを持って窓辺へ立つと、向かいのマンションにも少しずつ灯りがともり始めていた。それぞれの朝が始まっていく。紡は静かに口を開いた。
「今日も、ちゃんと歩こう。」
誰へ向けた言葉でもなかった。ただ、自分自身へ確かめるように呟いただけだった。
会社へ着くと、真帆がすでに資料を広げていた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「寒かったですね。」
「今年一番かもしれない。」
二人で笑い合う。その何気ない時間が、以前よりも好きになっていた。始業前の慌ただしさの中にも、少しだけ余白がある。
紡はコートを脱ぎながらデスクへ座り、パソコンを立ち上げた。メールを確認すると、上司から会議室へ来てほしいという連絡が入っている。十分後、会議室へ向かうと、上司は資料を机へ広げて待っていた。
「座って。」
紡は静かに椅子へ腰掛ける。
「今年の改善企画だけど、正式に動かすことになった。」
「はい。」
「各部署との調整役をお願いしたい。」
紡は資料へ目を落とした。昨年より関わる部署が増えている。人数も多い。責任も自然と大きくなる。
「一つ相談があります。」
資料を閉じながら紡は言った。
「聞こう。」
「今の担当業務を整理していただけるなら、お受けしたいです。」
上司はすぐに頷いた。
「そのつもりだった。」
「ありがとうございます。」
「去年の藤沢さんなら、何も言わず全部抱えていたと思う。」
その言葉に、紡は少しだけ笑った。
「たぶん、その通りです。」
「でも、それじゃ続かない。」
「はい。」
「続けるための相談なら、遠慮しなくていい。」
その一言は、紡の胸へ静かに残った。続けるための相談。以前は、相談することを甘えだと思っていた。けれど今は違う。続けるために必要なことを伝えるのも、仕事の一つなのだと少しずつ思えるようになっていた。
昼休み、窓際の席で温かいスープを飲みながら、紡は旅メディアへ提出した企画書を読み返していた。採用は決まっている。次は取材の日程を決める段階だった。今回訪れる町は、数年前に一度だけ立ち寄った城下町。駅前に広がる石畳。古い商家。小さな和菓子店。夕方になると格子戸から漏れる灯りが柔らかく通りを照らす。
あの日は雨上がりだった。濡れた石畳へ街灯が映り込み、町全体がゆっくり呼吸しているように見えた。
「また歩いてみたい。」
そう思った場所だった。今度は仕事として訪れる。母との港町とは違う。誰かへ届けるための旅。その違いを、紡は大切にしたかった。
真帆がトレーを持って向かいへ座る。
「何を見てるんですか?」
「今度行く町。」
「旅行ですか?」
「仕事。」
真帆は少しだけ目を丸くした。
「でも、楽しそうな顔してます。」
紡は自分でも気づかないうちに笑っていた。
「楽しみだから。」
「いいですね。」
真帆はスープを飲みながら言う。
「仕事でそんな顔ができるって。」
その言葉に、紡は少し考え込む。会社でも、旅でも。最近は「やらなければ」よりも、「やってみたい」と思える仕事が増えてきた。それは環境だけが変わったからではない。自分自身が、仕事との向き合い方を少し変えられたからなのかもしれない。
帰宅後、机の上へ地図を広げる。今回の取材先までの路線を確認し、乗り換え時間を書き込む。観光案内所の営業時間。資料館の休館日。町歩きのルート。宿の場所。一つひとつ丁寧に整理していく。
美咲からメッセージが届いた。
『取材、いつだっけ』
『来週の週末』
『城下町だっけ。前に紡が話してた乗車券の町?』
『よく覚えてるね』
『紡がすごく嬉しそうに話してたから』
紡は少し照れくさくなり、地図から顔を上げた。誰かに覚えられているというのは、思っていたより嬉しいものだった。
以前なら予定を詰め込み過ぎていた。「あそこも見たい。」「ここも取材したい。」そう考えて、一日では回り切れない予定を立てていた。今回は違う。歩く時間を残す。偶然立ち止まる時間も残す。予定を空けることも、取材の準備だと考えるようになっていた。
深い青色のノートを開き、旅の目的を書き留める。
『町を急いで知るのではなく、もう一度歩くこと。』
その一文を書いたあと、紡はペンを置いた。旅は記事のためにある。でも、記事は旅を急がせるためにあるのではない。そのことを忘れたくなかった。
机の横には、小さな旅行鞄が置かれている。次にこの鞄を持つ旅は、母と行った港町とは違う意味を持つ。それでも、どちらも自分が選んだ旅であることに変わりはない。
窓の外では、冬の夜空が静かに広がっていた。紡はカーテンを閉める前に、遠くの街の灯りをしばらく眺める。その灯りのどこかにも、今日一日を終えた誰かがいる。そして明日になれば、自分もまた会社へ向かい、その先にある新しい町へ歩き始める。
焦らなくてもいい。立ち止まってもいい。選び続けることをやめなければ、その歩みはきっと自分らしい働き方へつながっていく。そう信じながら、紡は静かに机の灯りを消した。




