↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/63

第55章 書かなかった旅(中編)

その夜、紡は編集部から届いたメールを閉じても、すぐには机を離れなかった。部屋の中は暖房がゆっくりと効き始め、窓ガラスには外気との温度差で薄く曇りが広がっている。静かな部屋だった。時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいる。

ノートの上には、書きかけの一文だけが残っていた。

『仕事になる旅と、仕事にしない旅。その境界は、どこにあるのだろう。』

その下へ何かを書こうとして、ペンを持ち上げる。けれど、言葉は続かなかった。頭の中では、母と歩いた港町の景色が何度も浮かんでは消えていく。朝の港。波止場へつながる細い道。市場の前で干されていた魚。宿の廊下に漂っていた木の香り。朝食の湯気。母が窓の外を見ながら「また来たいね」と笑った横顔。

どれも記事にできる。むしろ、書きたいと思うほど魅力のある時間だった。だからこそ迷う。仕事だから書くのか。大切だから書かないのか。その答えは、まだ自分の中ではっきり形になっていなかった。

紡はノートを閉じ、立ち上がる。キッチンで白湯を入れ、湯気の立つマグカップを両手で包んだ。温かさが少しずつ指先へ戻っていく。窓の外では、向かいのマンションの明かりが一つ、また一つと消えていく。みんな、それぞれの一日を終えようとしている。自分も今日は終わりにしよう。そう思って机の灯りを消した。

翌朝、目が覚めると、枕元のスマートフォンには母から短いメッセージが届いていた。

『昨日、買ってきた干物を焼いたよ。やっぱり美味しかった。』

そのあとに、小さく笑う顔文字が添えられている。紡は思わず笑みを浮かべた。

『よかった。また食べたいね。』

返信を送り、布団を整える。それだけで少し気持ちが軽くなった。会社へ向かう途中、駅前のパン屋から焼きたての香りが流れてきた。母と泊まった宿の朝食を思い出す。焼き魚の香り。味噌汁の湯気。炊きたてのご飯。豪華ではなかった。けれど、心まで温まる朝だった。

信号待ちの間、紡はふと、あの宿の女将が語っていた「若い頃は宿の仕事に憧れていた」という母の一言を思い出した。記事にしないと決めた旅の中にも、まだ言葉にしていない出来事がいくつも残っている。すべてを書かないと決めたわけではない。ただ、今回は、誰にも見せない場所へしまっておきたかった。

「おはようございます。」

会社へ着くと、真帆が明るく声を掛けてきた。

「おはよう。」

「昨日、ちゃんと休めました?」

「うん。」

「旅行の疲れ、残ってないですか?」

「それより、余韻の方が残ってるかな。」

真帆は笑った。

「いい旅だったんですね。」

紡は頷く。

「すごく。」

「記事になるんですか?」

その質問に、紡は一瞬だけ言葉を失った。

「……まだ決めてない。」

真帆はそれ以上聞かなかった。

「藤沢さんなら、きっと納得する方を選びますよ。」

何気ない一言だった。けれど、その言葉は紡の胸へ静かに残った。納得する方。誰かに褒められる方ではない。仕事になる方でもない。自分が納得できる方。

午前中の仕事は、改善企画の進捗確認だった。資料をまとめながらも、ときどき頭の片隅へ港町の景色が浮かぶ。パソコンの画面から目を離し、窓の外を見る。冬の空は澄み切っていた。

「あの海も、今日みたいな空だったな……」

小さく呟いてから、自分で苦笑する。旅は終わった。それでも、心はまだあの町の空気を抱えたままだった。

昼休み、社員食堂はいつもより静かだった。年末が近づき、外へ食べに行く人が増えたからかもしれない。紡は窓際の席へ座り、温かいスープをゆっくり口へ運ぶ。食事を終える頃、スマートフォンが震えた。旅メディア編集部からだった。

『ご検討いただけていますでしょうか。ご無理のない範囲で構いません。』

急かすような文章ではない。むしろ、こちらを気遣う柔らかな文面だった。だからこそ、余計に迷う。断る理由はない。書けば喜ばれる。それでも、心のどこかが首を横へ振っていた。

食堂を出て、人気のない廊下をゆっくり歩く。窓から差し込む冬の日差しは柔らかく、廊下の床へ長い影を落としていた。紡はスマートフォンを開き、以前セリから届いたメールを読み返した。

『旅は、書くためだけにあるものではありません。

書かなかった時間も、あなたが歩いた時間です。』

短い文章。何度読んでも、新しい意味が増える不思議な言葉だった。以前の自分なら、この言葉をそのまま答えにしていたかもしれない。けれど今は違う。

「私は、どうしたいんだろう。」

静かに自分へ問い掛ける。セリはもう答えをくれる人ではない。そのことを、自分でもよく分かっていた。

仕事を終えて帰宅すると、紡は机へ向かう前に部屋を掃除した。床へ掃除機をかけ、本棚の埃を拭き、観葉植物へ水をやる。窓を少しだけ開けると、冷たい空気が部屋へ流れ込んできた。その澄んだ空気を胸いっぱい吸い込みながら、旅先の風を思い出す。似ているようで、少し違う。海の匂いは、ここにはない。

掃除の途中、押し入れの上段が目に入った。古い靴の箱。まだ開ける約束の一年には遠い。紡は箱には触れず、ただその場所を見上げただけで、また掃除機を動かし始めた。約束を守ることと、旅を書かないと決めたことは、どこか似ている気がした。どちらも、今すぐ答えを出さなくていいと自分に許すことだった。

机へ座る。編集部への返信画面を開く。指が止まる。しばらく画面を見つめたあと、紡はゆっくりと文字を打ち始めた。

『お声掛けいただき、ありがとうございます。

今回のテーマについて考えました。

実は、ちょうど「もう一度訪れたい場所」と思える町へ行ってきました。

けれど、その旅は母と過ごした大切な時間でもありました。

今回は、その旅を記事にはせず、自分の中へ残しておきたいと思っています。

もし可能でしたら、別の場所を改めて取材し、ご提案させていただけないでしょうか。』

書き終える。読み返す。飾った言葉はない。正直な気持ちだけを書いた。送信ボタンを押すまで、少しだけ時間が掛かった。それでも最後には、迷わず指を動かした。

送信が終わると、肩の力がふっと抜けた。仕事を断ったわけではない。母との旅を守ることを選んだだけだった。

スマートフォンが震える。美咲からだった。

『企画、どうした?』

『さっき、断った。というか、別の場所を提案させてもらった』

『後悔してない?』

紡は少し考えてから返信した。

『まだわからない。でも、今は正しい気がする』

『なら、それでいいんじゃない』

短いやり取りだったが、紡の心は少し軽くなった。

窓の外では、冬の夜空に小さな星が瞬いている。紡は静かにカーテンを閉め、深い青色のノートを開いた。新しいページへ、ゆっくりと書く。

『守りたい時間があるから、新しい旅へ行こう。』

その一文を書き終えたとき、不思議なくらい心は穏やかだった。母と歩いた港町は、誰かへ届ける文章にはならない。けれど、自分の人生から消えることもない。だからこそ、その旅はこれからも静かに心の中で続いていくのだと、紡はようやく信じることができた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。