第55章 書かなかった旅(中編)
その夜、紡は編集部から届いたメールを閉じても、すぐには机を離れなかった。部屋の中は暖房がゆっくりと効き始め、窓ガラスには外気との温度差で薄く曇りが広がっている。静かな部屋だった。時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいる。
ノートの上には、書きかけの一文だけが残っていた。
『仕事になる旅と、仕事にしない旅。その境界は、どこにあるのだろう。』
その下へ何かを書こうとして、ペンを持ち上げる。けれど、言葉は続かなかった。頭の中では、母と歩いた港町の景色が何度も浮かんでは消えていく。朝の港。波止場へつながる細い道。市場の前で干されていた魚。宿の廊下に漂っていた木の香り。朝食の湯気。母が窓の外を見ながら「また来たいね」と笑った横顔。
どれも記事にできる。むしろ、書きたいと思うほど魅力のある時間だった。だからこそ迷う。仕事だから書くのか。大切だから書かないのか。その答えは、まだ自分の中ではっきり形になっていなかった。
紡はノートを閉じ、立ち上がる。キッチンで白湯を入れ、湯気の立つマグカップを両手で包んだ。温かさが少しずつ指先へ戻っていく。窓の外では、向かいのマンションの明かりが一つ、また一つと消えていく。みんな、それぞれの一日を終えようとしている。自分も今日は終わりにしよう。そう思って机の灯りを消した。
翌朝、目が覚めると、枕元のスマートフォンには母から短いメッセージが届いていた。
『昨日、買ってきた干物を焼いたよ。やっぱり美味しかった。』
そのあとに、小さく笑う顔文字が添えられている。紡は思わず笑みを浮かべた。
『よかった。また食べたいね。』
返信を送り、布団を整える。それだけで少し気持ちが軽くなった。会社へ向かう途中、駅前のパン屋から焼きたての香りが流れてきた。母と泊まった宿の朝食を思い出す。焼き魚の香り。味噌汁の湯気。炊きたてのご飯。豪華ではなかった。けれど、心まで温まる朝だった。
信号待ちの間、紡はふと、あの宿の女将が語っていた「若い頃は宿の仕事に憧れていた」という母の一言を思い出した。記事にしないと決めた旅の中にも、まだ言葉にしていない出来事がいくつも残っている。すべてを書かないと決めたわけではない。ただ、今回は、誰にも見せない場所へしまっておきたかった。
「おはようございます。」
会社へ着くと、真帆が明るく声を掛けてきた。
「おはよう。」
「昨日、ちゃんと休めました?」
「うん。」
「旅行の疲れ、残ってないですか?」
「それより、余韻の方が残ってるかな。」
真帆は笑った。
「いい旅だったんですね。」
紡は頷く。
「すごく。」
「記事になるんですか?」
その質問に、紡は一瞬だけ言葉を失った。
「……まだ決めてない。」
真帆はそれ以上聞かなかった。
「藤沢さんなら、きっと納得する方を選びますよ。」
何気ない一言だった。けれど、その言葉は紡の胸へ静かに残った。納得する方。誰かに褒められる方ではない。仕事になる方でもない。自分が納得できる方。
午前中の仕事は、改善企画の進捗確認だった。資料をまとめながらも、ときどき頭の片隅へ港町の景色が浮かぶ。パソコンの画面から目を離し、窓の外を見る。冬の空は澄み切っていた。
「あの海も、今日みたいな空だったな……」
小さく呟いてから、自分で苦笑する。旅は終わった。それでも、心はまだあの町の空気を抱えたままだった。
昼休み、社員食堂はいつもより静かだった。年末が近づき、外へ食べに行く人が増えたからかもしれない。紡は窓際の席へ座り、温かいスープをゆっくり口へ運ぶ。食事を終える頃、スマートフォンが震えた。旅メディア編集部からだった。
『ご検討いただけていますでしょうか。ご無理のない範囲で構いません。』
急かすような文章ではない。むしろ、こちらを気遣う柔らかな文面だった。だからこそ、余計に迷う。断る理由はない。書けば喜ばれる。それでも、心のどこかが首を横へ振っていた。
食堂を出て、人気のない廊下をゆっくり歩く。窓から差し込む冬の日差しは柔らかく、廊下の床へ長い影を落としていた。紡はスマートフォンを開き、以前セリから届いたメールを読み返した。
『旅は、書くためだけにあるものではありません。
書かなかった時間も、あなたが歩いた時間です。』
短い文章。何度読んでも、新しい意味が増える不思議な言葉だった。以前の自分なら、この言葉をそのまま答えにしていたかもしれない。けれど今は違う。
「私は、どうしたいんだろう。」
静かに自分へ問い掛ける。セリはもう答えをくれる人ではない。そのことを、自分でもよく分かっていた。
仕事を終えて帰宅すると、紡は机へ向かう前に部屋を掃除した。床へ掃除機をかけ、本棚の埃を拭き、観葉植物へ水をやる。窓を少しだけ開けると、冷たい空気が部屋へ流れ込んできた。その澄んだ空気を胸いっぱい吸い込みながら、旅先の風を思い出す。似ているようで、少し違う。海の匂いは、ここにはない。
掃除の途中、押し入れの上段が目に入った。古い靴の箱。まだ開ける約束の一年には遠い。紡は箱には触れず、ただその場所を見上げただけで、また掃除機を動かし始めた。約束を守ることと、旅を書かないと決めたことは、どこか似ている気がした。どちらも、今すぐ答えを出さなくていいと自分に許すことだった。
机へ座る。編集部への返信画面を開く。指が止まる。しばらく画面を見つめたあと、紡はゆっくりと文字を打ち始めた。
『お声掛けいただき、ありがとうございます。
今回のテーマについて考えました。
実は、ちょうど「もう一度訪れたい場所」と思える町へ行ってきました。
けれど、その旅は母と過ごした大切な時間でもありました。
今回は、その旅を記事にはせず、自分の中へ残しておきたいと思っています。
もし可能でしたら、別の場所を改めて取材し、ご提案させていただけないでしょうか。』
書き終える。読み返す。飾った言葉はない。正直な気持ちだけを書いた。送信ボタンを押すまで、少しだけ時間が掛かった。それでも最後には、迷わず指を動かした。
送信が終わると、肩の力がふっと抜けた。仕事を断ったわけではない。母との旅を守ることを選んだだけだった。
スマートフォンが震える。美咲からだった。
『企画、どうした?』
『さっき、断った。というか、別の場所を提案させてもらった』
『後悔してない?』
紡は少し考えてから返信した。
『まだわからない。でも、今は正しい気がする』
『なら、それでいいんじゃない』
短いやり取りだったが、紡の心は少し軽くなった。
窓の外では、冬の夜空に小さな星が瞬いている。紡は静かにカーテンを閉め、深い青色のノートを開いた。新しいページへ、ゆっくりと書く。
『守りたい時間があるから、新しい旅へ行こう。』
その一文を書き終えたとき、不思議なくらい心は穏やかだった。母と歩いた港町は、誰かへ届ける文章にはならない。けれど、自分の人生から消えることもない。だからこそ、その旅はこれからも静かに心の中で続いていくのだと、紡はようやく信じることができた。




