第36章 会社の外で書くということ
日曜日の夜、活動用アカウントの受信箱に届いた一通のメッセージから、すべてが動き始めた。地域情報サイトの編集担当を名乗る人物からで、紡の投稿を見て記事執筆を依頼したいという内容だった。読み返すたび、胸の奥で何かが小さく跳ねる。喜びと同時に、これまでにない重さも感じた。趣味の発信とは違う。相手がいて、締め切りがあって、報酬が発生する。
その夜、紡は深い青色のノートに何度も同じ言葉を書いては消した。会社に黙って引き受ければ、規則を破ることになるかもしれない。断れば、自分から夢を遠ざけることになる。
書いては消すたび、紡は自分の中の矛盾に気づいていた。ずっと会社の外で書く仕事を望んでいたはずなのに、いざその入り口に立つと、逃げ道ばかり探している。夢が近づくことは、喜びだけをもたらすわけではなかった。近づけば近づくほど、失うものへの想像も具体的になる。今の生活、今の安定、今の自分——それらを賭けてまで、本当に踏み出したいのか。何度も自分に問いかけたが、答えは同じところへ戻ってきた。踏み出したい。怖くても。
迷った末、紡は黒いノートを開き、月曜日に上司へ相談すると決めた一文だけを残して眠った。
月曜日の朝、紡はいつもより早く会社へ着いた。
電車の中で、黒いノートに書いた項目を何度も読み返す。
個人的な発信を見た地域情報サイトから、記事執筆の相談が来たこと。
報酬が発生すること。
勤務先や業務内容は書かないこと。
執筆や撮影に会社の設備を使わないこと。
作業は勤務時間外に行うこと。
目で読むのと、上司へ口頭で伝えるのとでは違う。声に出した瞬間、夢の話ではなく、会社が判断すべき事柄になる。認められない可能性もある。
それでも、隠れて受けるという選択はなかった。知りながら黙って始めれば、どれだけ丁寧な文章を書いても、自分の中に後ろめたさが残る。
紡は上司の予定表を開き、午後三時半に相談の予定を入れた。件名は「副業申請に関する相談」。数分後、承認の通知が届いた。メッセージはない。それだけで、指先が少し冷たくなった。
九時を過ぎ、真帆が出社する。研修資料の確認を頼まれ、紡は以前のように書き直すのではなく、気になる箇所を一つずつ伝えた。
「真帆さんなら、初めて担当する人に口頭でどう説明する?」
真帆は少し考えてから、自分の言葉で説明を作り直した。読みながら、紡はいくつか質問を挟んだ。「ここで相手が止まったら、どう続ける?」「専門用語が出てきたら?」真帆はそのたびに考え、答えを重ねていく。以前の紡なら、答えを先に渡していただろう。今日は、真帆が自分で見つけるまで待った。
その姿を見ながら、紡はふと思う。読む人が何を知りたいのか。最初に何を伝えれば不安なく読み進められるのか——会社の資料作りで考えてきたことは、外で文章を書くときにも使える。会社にいた時間は、夢を遅らせただけではなかった。
「藤沢さん、今日何かあります?」真帆が資料を閉じながら尋ねた。
「午後に少し、相談ごとがあって」
「大変そうな顔してます」
「そう見える?」
「はい。いつもより真剣な顔」
紡は苦笑した。隠しているつもりでも、隠しきれていないらしい。
昼休み、美咲と食堂で向かい合う。
「今日、相談するんだよね」
「三時半から。断られるかもしれない」
口にすると、その可能性が急に現実味を持った。美咲はすぐに「大丈夫」とは言わなかった。
「断られたら、どうする?」
紡は箸を止める。許可が出なければ依頼を断る、そこまでは決めていた。けれどそのあとどうするかは考えていなかった。
「会社にも守らなきゃいけないことがあるでしょう。情報とか、働く時間とか」
「紡、大人になったね」美咲は少し笑った。「すぐ敵と味方に分けなくなった」
その言葉に、紡は胸を突かれた。会社は夢を止めるもの。母は安定を押しつける人。以前の紡は、自分の願いを理解してくれないものを、心の中で遠ざけていた。けれど母の過去を聞き、会社の制度を調べ、上司へ相談する中で、見え方が変わってきた。止める言葉の中にも理由がある。守ろうとしているものがある。どちらかを悪者にしなくても、話し合うことはできる。
「それでも、断られたら落ち込むと思う」
「それは落ち込んでいいでしょう。ただ、話を聞いてからにしたら」
三時二十五分、紡は黒いノートとスマートフォンを持って窓のない会議室へ入った。時差出勤を相談したときと同じ部屋なのに、今日は空気が違う。前回は会社にある制度を使いたいという相談だった。今回は、会社の外で報酬を受け取る仕事について話す。
上司が資料を持って入ってくる。
「予定に書いてくれた内容は読んだよ。どんな依頼なのか聞かせてもらえる?」
「個人で続けている発信を見た地域情報のウェブサイトから、記事執筆の相談をいただきました。働きながら身近な町を歩くことがテーマで、二千五百字から三千字ほどの記事と、写真を五枚程度提出する内容です。報酬が発生します」
「まだ受けてはいないんだね」
「はい。許可が出なければ、お断りするつもりです」
言葉にすると胸が少し痛んだ。本当に断る可能性がある。それでも、曖昧にしなかった。
上司は手元の資料へ視線を落とし、少しの間、何も言わなかった。その沈黙が、紡には長く感じられた。判断を待つ時間は、いつも実際より長く感じる。会議室の壁掛け時計の音だけが、やけにはっきり聞こえた。
上司は依頼の締め切りや報酬額を確認したあと、核心に入った。
「会社名や、今の仕事内容を書く予定は?」
「ありません。会社員であることには触れる可能性がありますが、勤務先がわかる情報、業種、部署、取引先などは一切書かない予定です」
「でも、読む人が藤沢さんのアカウントを見れば、勤務先を推測できる可能性はない?」
紡はすぐ答えられなかった。過去の投稿を重ねれば、住んでいる地域や働き方から、何かを推測される可能性はある。
「絶対に推測できないとは言い切れません。ただ、これまで勤務先や業種が特定できる情報は出していません。写真にも会社のロゴや社員証、通行人の顔、店舗名が不用意に入らないよう確認します」
「作業時間は?」
「平日は一時間を上限にして、毎日作業する予定はありません。休日に一度町を歩く時間を取り、締め切りの五日前までに初稿を完成させる予定です。本業が忙しくなった場合は記事の作業を減らし、早めに依頼主へ相談します」
「本業を優先するということ?」
紡は少し迷った。どちらも大切にしたい。ただ、今は会社との雇用契約があり、その勤務時間と業務へ責任がある。優先順位をつけることは、どちらかを軽んじることとは違う。今この瞬間に何を選ぶかという、ただそれだけの話だった。
「勤務時間中は、本業へ集中します」
上司は紡の顔を見た。「以前の藤沢さんなら、どちらも絶対に大丈夫ですって言いそうだったね」
「一度もやったことがないので。できるように予定は考えていますが、実際に始めたら想定より時間がかかるかもしれません。そのときは、生活や本業に影響が出る前に依頼の受け方を見直します。今回は一件だけで、継続の契約ではありません」
「そこは大事だね」
「今回の記事を書きたい理由は?」
紡は一瞬言葉に詰まった。会社の判断に個人的な思いは必要ないと思っていた。けれど上司は理由を聞いている。
理由を言葉にするのは、条件を説明するよりずっと難しかった。数字や時間なら、正確に答えられる。でも「なぜ書きたいのか」は、紡自身、まだ完全には言葉にできていなかった。それでも、ここで曖昧にごまかせば、この許可そのものが軽いものになる気がした。
「旅先や身近な町で感じたことを文章にして、発信を続けてきました。将来は、旅や地域の暮らしについて書く仕事を増やしたいと思っています。ただ、今すぐ会社を辞めて、その仕事だけで生活できるとは考えていません」
以前なら、夢を口にするだけで恥ずかしかった。今も緊張はある。それでも隠さず続けた。
「今回は、自分の文章が初めて外の仕事として求められた機会です。報酬は大きくありません。でも、期限までに書き、修正に対応するところまで経験したいと思っています」
「会社を辞めたい人へ向けた記事になるの?」
問いは穏やかだった。それでも紡の胸は強く鳴った。働くことから逃れる文章、会社への不満、退職を勧める内容——そう受け取られる可能性を、上司は考えているのだろう。
「いいえ。会社を辞めることを勧める内容にはしません」
「じゃあ、何を伝えたい?」
「働いていると、自分の時間は余った分だけ使うものだと思いやすいです。でも、制度を調べたり、周りと仕事を分けたり、自分から相談したりすることで、今の生活の中にも時間を作れることがあります」
話しながら、午後四時半の光を思い出した。
「その時間に何か大きなことを成し遂げなくても、町を歩いたり、普段見えない暮らしに気づいたりできる。遠くへ行かなくても、日常の見え方は変えられる、ということを書きたいです」
会議室が静かになった。上司はしばらく紡を見たあと、口を開いた。
「それなら、時差出勤を使ったこと自体が問題になるとは思わない。制度は、働きやすくするためにあるものだから。使って生活が整ったことを書くのは、会社を悪く言うこととは違う」
胸の奥に、温かいものが広がった。認められた、という単純な喜びだけではなかった。自分の言葉が、誰かにきちんと届いたという実感。それは、記事を書く前から、すでに紡の中で小さな成功として積み重なっていくものだった。
「ただし、会社が制度の利用を勧めたとか、藤沢さんの活動を支援しているとか、そういう誤解が生まれないようにしてほしい。個人の判断で制度を利用し、勤務時間外に個人の活動をしていることがわかる形にする。それから、会社の中で誰かから言われた言葉を、そのまま書くのは避けた方がいい」
「会話を使う場合は、実際の発言をそのまま引用せず、自分の気づきとして書きます」
「その方がいいと思う。私の判断だけでは許可できないから、人事へ申請を出す必要がある。申請書に、依頼元、業務内容、報酬、作業時間、契約期間を書いて。今回の記事の概要も添付して」
「ありがとうございます」
会議室を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。断られる想像もしていた分、肩から力が抜けた。それでも、まだ人事の判断が残っている。
席へ戻ると、真帆が心配そうな顔で待っていた。
「大丈夫でしたか」
「うん。条件付きで、人事へ申請することになった」
「よかったです」真帆は本当に安心したような声を出した。「藤沢さん、朝からずっと緊張してる感じだったので」
「そんなにわかりやすかった?」
「いつもよりコーヒーの減りが早かったです」
紡は思わず笑った。自分では隠しているつもりでも、周りにはちゃんと伝わっている。真帆のさりげない観察力に、紡は少し救われた気持ちになった。
上司から届いた申請フォームには、氏名、副業先、業務内容、契約期間、勤務予定時間、報酬、本業との関連性、申請理由と、項目が並んでいた。会社のパソコンでは申請書だけを作り、依頼内容の確認は自分のスマートフォンで行う——その境界を意識するだけで、作業の一つ一つが慎重になった。
作業予定時間の欄で、紡は手を止めた。少なく書けば実態と違う。多く書けば本業への支障を心配される。紡は「週に最大六時間、平日は一日一時間まで、締め切りまでの三週間に限る」と具体的に記した。申請理由の欄には迷った末、「将来的な働き方の選択肢を検討するため、契約・納期・修正対応を含む有償執筆の実務を経験したい。本業へ支障が生じない範囲で行い、業務終了後に時間配分や影響を確認する」と書いた。一度許可が出れば何件でも受けられると思わない。今回の経験を見て、次を考える——その方が誠実だと思った。
提出前に上司へ確認を頼むと、「会社との関連性の欄に媒体の掲載分野を、報酬の支払い方法と契約形態も」と修正点が返ってきた。契約書や発注書のことまでは確認していなかった。紡は退勤後、自分のスマートフォンから依頼主へ書面発行の可否を尋ねることにした。「今日中に出す」と言った約束にとらわれかけたが、上司は「必要な情報が足りないなら、出さない方がいい」とだけ言った。急いで形にすることより、会社が正しく判断できる情報を揃えることの方が大事だった。
退勤後、依頼主へ確認のメッセージを送った。夜、夕飯に肉じゃがを作りながら鍋を見ていると、返信が届いた。発注書を発行できること、報酬は掲載月の翌月末払いであること、そして「申請に必要なら概要書も発行できる」という一文。紡は胸をなで下ろし、概要書の発行を依頼した。翌日の午前中には届くという。
母へ「今日、会社に副業の相談をした」とメッセージを送ると、すぐに電話がかかってきた。
「怒られなかった?」
「怒られないよ。いろいろ確認されたけど、最近の仕事に問題がないことは伝えてくれるって」
「前より、ちゃんと考えてるのね」
「前も考えてたよ」
「前は、考える前にやりたいって言ってたでしょう」
否定できなかった。以前は、現実的なことを尋ねられると邪魔をされたように感じていた。今回は、会社も依頼先もある。自分一人の気持ちだけでは決められないと、素直に思えた。
「肉じゃが作ったの?」母が唐突に尋ねた。「ふたを開ける音がしたから」。副業申請の話から、夕飯の味を気にする会話へ。夢へ近づく相談をした日にも、いつも通りの母がいる。そのことが、紡には心地よかった。
「味付け、いつもと同じにしてる?」
「うん、教わった通り」
「じゃあ大丈夫ね」
母はそれだけ言って電話を切ろうとした。紡は少し慌てて呼び止めた。
「お母さん」
「なに」
「ありがとう。話聞いてくれて」
「話なんて、まだ何も聞いてないでしょう。会社に相談したって言っただけで」
「それでも」
母は少し黙ったあと、「いいから、肉じゃが冷めないうちに食べなさい」とだけ言って電話を切った。素っ気ない言葉の奥に、いつもの優しさがあることを、紡はもうよく知っていた。
夜、深い青色のノートへ書く。
『許可を求めることは、自分の夢を誰かに預けることではない。関わる人と、守るものを確かめること。結果を急がず、必要な順番を進む。』
明日、概要書が届く。人事から質問が来るかもしれない。許可が出ないかもしれない。金曜日に間に合わないかもしれない。不安は消えていない。それでも、今日上司へ話したことで、紡の夢は会社に隠すものではなくなった。すべてを理解してもらったわけではない。それでも、自分が何をしたいのか、説明できた。
灯りを消す前、紡はもう一度ノートを開き、小さく付け加えた。
『明日は明日の不安がある。今日の不安を、今日のうちに片づけただけで十分だ。』
窓の外を見ると、隣の部屋にはまだ灯りがついていた。誰かも、今夜何かと向き合っているのかもしれない。紡はカーテンを閉め、静かに目を閉じた。




