第35章 最初の依頼
日曜日の朝、紡はスマートフォンの振動で目を覚ました。
枕元の時計は、午前七時を少し過ぎている。
休日にしては早い時間だった。
カーテンの向こうから、淡い光が入っている。
昨夜、母と歩いた商店街のことをノートへ書いたあと、そのまま眠ってしまった。
まだ少し重いまぶたを開き、届いている通知を確認する。
投稿への反応がいくつか。
美咲からの短いメッセージ。
母から送られてきた、煮魚の写真。
その中に、見覚えのない名前からのメッセージが一通あった。
紡は画面を開いた。
『突然のご連絡、失礼いたします。地域の暮らしや文化を紹介するウェブサイトを運営しております、川辺と申します』
一行目を読んだところで、眠気が少し消えた。
続きへ目を移す。
『藤沢様の三島に関する投稿や、日々の暮らしを丁寧に言葉へされている文章を拝見しました。現在、働きながら地域を歩く人の視点を紹介する連載を準備しております。よろしければ、一度記事の執筆をご相談できないでしょうか』
紡は、画面を持ったまま動けなくなった。
記事の執筆。
相談。
何度か読み返す。
相手の名前。
ウェブサイトの名称。
依頼の内容。
どこまで読んでも、文字は変わらない。
自分に文章を書いてほしいという連絡だった。
胸の奥が大きく鳴った。
誰かに文章を届けたいと思い、投稿を続けてきた。
いつか、書くことを仕事へつなげられたらと思っていた。
その「いつか」が、何の前触れもなく、休日の朝に届いている。
紡は布団から起き上がった。
すぐに返信しなければ。
そう思い、文字を入力し始める。
『ご連絡ありがとうございます。ぜひお引き受けしたいです』
そこまで書き、指を止めた。
ぜひお引き受けしたい。
本当に、今すぐそう答えていいのだろうか。
相手がどんな人なのかも、まだわからない。
どのようなサイトなのか。
何文字の記事なのか。
報酬はあるのか。
期限はいつなのか。
取材は必要なのか。
写真も求められるのか。
書いた文章の権利はどうなるのか。
何も確認していない。
ただ、依頼が来たことが嬉しくて、目の前に出されたものをそのまま抱えようとしている。
会社で仕事を頼まれたときと同じだった。
まず、大丈夫ですと答えてしまう。
あとから時間と範囲を考える。
紡は入力した文章を消した。
スマートフォンを置き、深い青色のノートを取り出す。
新しいページの上に書いた。
「文章の依頼が来た」
その文字を見ただけで、また胸が高鳴った。
夢が、ほんの少し現実の側へ動いた。
けれど、その下にもう一つ書く。
「喜ぶことと、すぐに引き受けることは違う」
ペンを持ったまま、息を吐いた。
以前、図書館から借りた本に書かれていたことを思い出す。
依頼の目的を確認する。
条件を書面に残す。
報酬だけで選ばない。
書く範囲を明確にする。
当時は、まだ遠い世界の話に思えた。
今、その言葉が必要になっている。
紡は確認することを書き出した。
サイトの運営者。
記事の目的。
掲載場所。
テーマ。
文字数。
締め切り。
報酬。
修正回数。
写真の有無。
取材対象。
名前の掲載。
文章や写真の扱い。
会社への申請が必要か。
最後の項目で、胸が少し沈んだ。
報酬が発生するなら、会社へ事前に申請しなければならない。
キャリア面談で確認したばかりだ。
依頼が来たら、内容を見て申請する。
青いノートにも、そう書いてある。
まだ正式に受けたわけではない。
報酬があるかもわからない。
まずは詳細を確認する。
それから会社へ相談する。
一つずつ進めればいい。
紡は相手のアカウントを開いた。
投稿は数年前から続いている。
地域の小さな商店。
昔から残る祭り。
地元で働く人。
郷土料理。
観光地として有名な場所だけではなく、日々の暮らしに近い記事が並んでいた。
どの記事にも、書き手の名前がある。
店や人物を扱った記事には、本人の言葉が丁寧に紹介されていた。
強い見出しで人を煽るような印象はない。
少し安心した。
ウェブサイトも開いてみる。
運営会社の情報。
問い合わせ先。
過去の記事。
執筆者の募集要項。
すべてがある。
見覚えのない相手ではある。
それでも、正体のわからない場所ではなさそうだった。
募集要項には、記事ごとに報酬を支払うと書かれている。
その文字を見た瞬間、紡の胸がまた強く鳴った。
報酬。
自分の文章に、お金を払う人がいるかもしれない。
まだ何も決まっていない。
それでも、その可能性が目の前にある。
喜びがこみ上げた。
同時に、怖さも戻ってきた。
お金を受け取るなら、趣味ではない。
期限がある。
求められる形がある。
自分の好きなことだけを書けばいいわけではない。
以前ノートに書いた問いが浮かぶ。
好きなことが仕事になったら、好きなままでいられるのか。
紡は両手で顔を覆った。
嬉しい。
怖い。
信じられない。
逃げたい。
さまざまな気持ちが一度に押し寄せる。
まだ朝の七時半だった。
誰かに話したかった。
最初に思い浮かんだのは美咲だった。
けれど、休日の朝に電話するのは早い。
母に話せば、相手は信頼できるのか、会社は大丈夫なのかと心配するだろう。
それは必要な言葉でもある。
ただ、今はもう少し自分の中で整理したかった。
セリに聞けば、きっと何か言葉をくれる。
でも、以前と同じように、すぐに答えを求めるのは違う気がした。
まず、自分で確認する。
自分で考える。
紡はもう一度、依頼のメッセージを読んだ。
相手は「一度記事の執筆をご相談できないでしょうか」と書いている。
今すぐ引き受けるかを決める必要はない。
相談したいという段階だ。
紡は返信文を作った。
『川辺様
はじめまして。ご連絡いただき、ありがとうございます。
投稿をお読みいただき、執筆についてお声がけいただけたことを大変うれしく思っております。
ぜひ一度、詳しいお話を伺いたく存じます。差し支えなければ、記事のテーマ、想定文字数、掲載時期、報酬、修正回数、写真や取材の有無についてお知らせいただけますでしょうか。
内容を確認したうえで、改めてお返事をさせていただければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。』
何度も読み返す。
冷たくないだろうか。
細かいことばかり聞いて、面倒な人だと思われないだろうか。
初めて声をかけてもらったのだから、もっと感謝を強く伝えるべきではないか。
そんな迷いが生まれる。
しかし、条件を確認することは失礼ではない。
引き受けてから、できませんと言う方が相手にも迷惑をかける。
自分の時間を守ること。
相手の時間も守ること。
どちらも、最初に確かめることから始まる。
紡は送信した。
画面には、送信済みの印がつく。
その瞬間、胸の奥に小さな震えが走った。
引き受けたわけではない。
断ったわけでもない。
ただ、詳しい話を聞きたいと伝えた。
それだけなのに、大きな一歩を踏み出したように感じる。
紡はベッドから降りた。
カーテンを開ける。
朝の光が部屋へ広がる。
雲の間から薄い青空が見えていた。
昨日、母と商店街を歩いていたときには、今日こんな連絡が届くとは思わなかった。
投稿した言葉が、どこで誰に読まれているのかはわからない。
一つの文章が、知らない人の画面へ届き、その人が紡へ連絡をくれた。
発信とは、こういうことでもあるのだ。
自分から外へ出した言葉が、予想していなかった形で戻ってくる。
うれしい反応だけではないかもしれない。
誤解されることもある。
批判されることもある。
悪意のある連絡が来る可能性もある。
けれど今日は、仕事の入り口になるかもしれない言葉が戻ってきた。
紡は朝食を作った。
トーストを焼き、目玉焼きを作る。
いつもと同じ朝食なのに、手元が少し落ち着かない。
スマートフォンを何度も見てしまう。
返信はまだ来ていない。
送ってから、十分も経っていない。
相手にも生活がある。
すぐに返事が来るとは限らない。
わかっていても、気になる。
紡はスマートフォンを伏せた。
朝食を食べ、洗濯機を回す。
床を拭く。
植物に水をやる。
休日の朝にすることを、一つずつ進めた。
依頼が届いても、暮らしは同じように続く。
洗濯物はたまる。
食器は洗わなければならない。
植物の土も乾く。
夢へ近づいた日にも、生活はなくならない。
むしろ、こういう日常を整えながら続けなければ、書くことも長くは続かないのだろう。
午前九時を過ぎた頃、美咲からメッセージが届いた。
『起きてる?』
紡はすぐに返信した。
『起きてる。話したいことがある』
電話の着信は、その直後だった。
「何?」
美咲の声には、まだ少し眠気があった。
「朝早くにごめん」
「もう九時だから大丈夫。それより、何かあった?」
紡は一度息を吸った。
「文章の依頼が来た」
電話の向こうが静かになる。
「依頼?」
「うん。地域の暮らしを紹介するウェブサイトから、記事を書かないかって」
「えっ」
美咲の声が一気に大きくなった。
紡は思わずスマートフォンを耳から少し離した。
「すごいじゃん」
「まだ決まってないよ。一度相談したいって連絡が来ただけ」
「それでもすごいでしょう。投稿を見て連絡してきたんだよね?」
「三島の投稿とか、普段の文章を読んでくれたみたい」
「紡の文章が仕事になるかもしれないってことでしょ」
美咲の言葉に、胸の奥が熱くなる。
自分で考えると、怖さが先に立つ。
でも、誰かの口から聞くと、嬉しさが戻ってくる。
「うん」
紡は小さく答えた。
「うれしい?」
美咲が聞く。
「うれしい」
正直に言った。
「すごくうれしい。でも、怖い」
「何が?」
「ちゃんと書けるか。相手が求めるものに応えられるか。仕事にしたら、今までみたいに書けなくなるんじゃないか」
「まだ何も決まってないんでしょう」
「うん」
「だったら、今は声をかけてもらったことを喜んでもいいんじゃない?」
紡は黙った。
すぐに、できるかどうかを考えていた。
失敗する可能性。
会社への申請。
期限。
責任。
それらは確かに大事だ。
でも、誰かが紡の文章を読み、頼んでみたいと思ってくれた。
その事実を、喜ぶ前に不安で覆おうとしていた。
「そうだね」
紡は言った。
「喜んでいいんだよね」
「いいに決まってる」
美咲は少し笑った。
「それで、もう引き受けたの?」
「まだ。条件を聞く返信をした」
「紡が?」
「どういう意味?」
「前の紡なら、絶対すぐに引き受けてたから」
紡は苦笑した。
「私もそう思った」
「成長してるじゃん」
「仕事で失敗してきたからね」
「失敗っていうより、抱え込みすぎてただけでしょう」
同じことかもしれない。
引き受けることが誠実だと思っていた。
相手を待たせないこと。
断らないこと。
期待へすぐに応えること。
けれど、本当の誠実さは、自分にできることを確認してから返事をすることなのだろう。
「報酬が出るなら、会社に申請しないといけない」
紡が言うと、美咲は少し真剣になった。
「この前聞いてたやつ?」
「うん」
「いきなり役に立ったね」
「本当に」
規則を調べたときは、まだ依頼などなかった。
先回りしすぎているようにも思えた。
でも、あのとき確認していたから、今何をすればいいのかわかる。
準備は、いつ役に立つかわからない。
使う日が来ない可能性もある。
それでも、知っていたことで、怖さが少し小さくなる。
「相手から詳しい内容が来たら、会社に相談する」
紡は言った。
「通るといいね」
「うん。でも、まず条件を見ないと」
「ちゃんとしてる」
美咲の声が少し感心したように聞こえる。
「怖いから確認してるだけ」
「怖いのに、確認して進んでるんだから同じだよ」
美咲はそう言った。
その言葉を、紡は否定しなかった。
電話を切ったあと、洗濯物を干した。
ベランダへ出ると、風が少し強かった。
シャツの裾が揺れる。
遠くで電車の走る音がする。
紡は洗濯ばさみを留めながら、依頼が来た理由を考えた。
三島の文章。
会社員として働く日々。
余白を作ること。
母との距離。
何か一つだけが評価されたわけではないのだろう。
相手は、「日々の暮らしを丁寧に言葉へしている」と書いていた。
紡自身は、まだうまく書けないと思うことが多い。
投稿するたびに迷う。
言葉が強すぎないか。
きれいに整えすぎていないか。
自分をよく見せようとしていないか。
誰かの暮らしを使っていないか。
その迷いも含めて続けてきた。
完璧になってから届くのではない。
途中にいる今の文章を、誰かが見つけてくれた。
そう考えると、少し呼吸が楽になった。
昼前、母から電話があった。
「昨日の商店街の写真、送ってくれない?」
挨拶より先に、母はそう言った。
「どの写真?」
「団子とか、川とか」
「お母さん、写真撮ってなかったの?」
「撮ってないわよ。話してたから」
紡は少し笑った。
「あとで送る」
「顔が映ってるのはやめてね」
「顔は撮ってないよ」
「そうだった?」
「うん」
母との会話が昨日のまま続いている。
紡は少し迷ったあと、依頼のことを話すことにした。
「お母さん、今日ね」
「何?」
「文章を書いてほしいって連絡が来た」
電話の向こうで、母が黙った。
「誰から?」
予想していた通り、最初の言葉は喜びより確認だった。
「地域の暮らしを紹介してるウェブサイト」
「知ってるところ?」
「私は知らなかった。でも、運営会社も載ってるし、何年も記事を出してる」
「変なところじゃないの?」
「まだ詳しい条件を聞いてるところ。すぐには引き受けてないよ」
そこまで話すと、母の声が少しやわらいだ。
「それならいいけど」
「報酬が出るなら、会社にも申請する」
「会社は大丈夫なの?」
「内容を見てから確認する」
紡は自分でも驚くほど落ち着いて説明できた。
以前なら、母の心配に反発していたかもしれない。
せっかくの嬉しい話なのに、どうして最初に疑うのだろう。
そう思ったはずだ。
でも今は、母がなぜ心配するのかを少し知っている。
選んだあとに困ること。
お金。
仕事。
体調。
思い通りにならないこと。
母は、夢を否定したいのではない。
困ったときのことまで先に考えてしまう。
「やってみたいの?」
母が聞いた。
その問いは、紡を止める声ではなかった。
紡は少し考えた。
「やってみたい」
はっきり答えた。
「怖いけど」
「何が怖いの?」
「仕事として書くこと。相手が欲しい文章を書けるかとか、締め切りを守れるかとか」
母は少し黙った。
「会社の仕事は守ってるでしょう」
「うん」
「だったら、同じように一つずつやればいいんじゃないの」
思っていなかった言葉だった。
紡はスマートフォンを耳へ当てたまま、動けなくなった。
「お母さん、反対しないの?」
「まだ何も決まってないのに、反対も何もないでしょう」
いつもの少し素っ気ない言い方。
でも、その奥に小さな応援がある。
「ただし、変な契約はしないこと。会社にもちゃんと聞くこと。無理な締め切りは受けないこと」
条件が次々と加わる。
紡は笑った。
「わかってる」
「本当に?」
「確認してから返事する」
「ならいいけど」
母は少し間を置いた。
「あなたが書いたものを、誰かが読んで頼んできたんでしょう?」
「うん」
「それは、よかったじゃない」
声は大きくなかった。
それでも、その一言が胸に深く届いた。
「ありがとう」
紡が言うと、母は少し照れたのか、話を変えた。
「写真、忘れないでよ」
「はいはい」
「団子がきれいに写ってるやつ」
「送る」
電話を切ったあと、紡はしばらく画面を見つめた。
母に、よかったじゃないと言ってもらえた。
以前なら、会社を辞める話をするたびに不安そうな顔をされた。
それが嫌で、夢の話を避けた時期もある。
けれど今は、辞めるかどうかではなく、一つの依頼について話せている。
夢を大きな宣言としてではなく、具体的な行動として見せられたからかもしれない。
調べる。
確認する。
会社へ相談する。
できる範囲を考える。
母にも、その姿が少しずつ伝わっているのだろう。
午後一時を過ぎた頃、依頼主から返信が届いた。
紡はテーブルに座り、ゆっくりメッセージを開いた。
『早速のご返信をありがとうございます。確認事項を丁寧にお伝えいただき、助かります』
その一文を読んで、少し安心した。
細かく尋ねたことを、面倒だとは思われなかったらしい。
続きには、依頼の概要が書かれていた。
テーマは、会社員として働きながら、平日の身近な町を歩くこと。
想定文字数は、二千五百字から三千字。
写真は五枚程度。
掲載は翌月。
締め切りは三週間後。
修正は原則二回まで。
報酬額も明記されている。
取材対象を設ける場合は、本人の了承を得ること。
文章と写真はウェブサイトに掲載されるが、著作権は執筆者に帰属すること。
紡は一項目ずつ、ノートへ写した。
依頼内容は、紡が書いてきたものに近い。
遠くの観光地ではない。
会社員として働きながら、普段見過ごしている町を歩く。
午後四時半の町で感じたことを思い出した。
八百屋。
公園。
たい焼き。
明るい空。
自分の時間に慣れていなかったこと。
あの日の経験なら、書けるかもしれない。
でも、投稿を長くするだけでは記事にならない。
読む人が何を受け取るのか。
どの町でも試せる視点を、どう届けるのか。
考える必要がある。
報酬額は、紡が想像していたより少なかった。
二千五百字から三千字。
写真の準備。
修正。
やり取り。
かかる時間を考えると、会社の時給よりずっと低いかもしれない。
けれど、初めての依頼としては妥当なのか、紡には判断できない。
安くても、最初だから受けるべきなのだろうか。
お金より経験を優先した方がいいのだろうか。
それとも、時間に見合わない依頼は断った方がいいのだろうか。
また、わからないことが増えた。
紡は図書館で借りた本を開いた。
報酬を考えるページを探す。
執筆時間。
取材時間。
写真撮影。
連絡。
修正。
すべてを含めて考える。
金額だけではなく、実績として公開できるか、得意な分野につながるか、相手と信頼関係を作れるかも判断材料になると書かれていた。
今回の記事は、執筆者名が掲載される。
自分の実績として紹介することもできる。
紡が今後書きたい地域や暮らしの分野に近い。
無理な取材もない。
締め切りは三週間後。
会社の仕事と両立できる可能性はある。
ただ、会社の申請が間に合うかは確認しなければならない。
紡はカレンダーを開いた。
三週間。
平日の夜。
休日。
次の時差出勤の日。
時間を書き出していく。
記事の構成を考える時間。
町をもう一度歩く時間。
写真を撮る時間。
初稿を書く時間。
見直す時間。
修正に備える時間。
予定を詰めれば、できなくはない。
けれど、詰めすぎるとまた生活が崩れる。
紡はペンを止めた。
依頼を受けたいから、できるように予定を押し込もうとしている。
会社の仕事と同じ癖が、すぐに顔を出す。
空いている場所を探すのではなく、必要な時間を先に確保する。
続けるための生活設計で決めたことだ。
紡は一週間の予定を新しく書き直した。
仕事の日は、記事へ使う時間を一時間まで。
毎日書かない。
二日は何もしない日を残す。
休日の片方は、町を歩く。
もう片方は、生活と休息に使う。
修正が入る可能性を考え、締め切りの五日前に初稿を完成させる。
書き出してみると、ぎりぎりではある。
でも、不可能ではなさそうだった。
次は、会社への申請。
月曜日に、上司へ相談する必要がある。
依頼を受ける前に、内容を伝える。
認められなければ、断る。
その可能性もある。
せっかく届いた最初の依頼。
逃したくない。
その気持ちは強かった。
でも、隠れて受けることはできない。
会社との約束を破って始めれば、夢へ進むたびに後ろめたさを抱えることになる。
紡は、依頼主への返信を書いた。
『詳細をご共有いただき、ありがとうございます。
テーマや掲載内容を拝見し、ぜひ執筆を検討したいと考えております。
現在勤務している会社の規定上、報酬を伴う執筆活動には事前の確認が必要となっております。恐れ入りますが、社内確認のため、正式なお返事を数日お待ちいただくことは可能でしょうか。
確認が取れ次第、速やかにご連絡いたします。』
送信前に、何度も読み返した。
会社の規定を伝えることで、面倒な人だと思われないか。
別の書き手へ依頼されてしまわないか。
急いでいるなら、待ってもらえないかもしれない。
それでも、曖昧にしてはいけない。
紡は送信した。
数分後、返信が届いた。
『もちろんです。ご確認のうえ、今週金曜日頃までにお返事をいただけましたら問題ございません。どうぞよろしくお願いいたします』
待ってもらえる。
紡は大きく息を吐いた。
相手は、紡の事情を受け入れてくれた。
確認することは、機会を失うことではなかった。
むしろ、丁寧に進めるためのやり取りになっている。
青いノートに書く。
「条件を聞いても、待ってほしいと伝えても、扉は閉じなかった」
その一文を囲んだ。
紡はこれまで、断られることを怖がっていた。
質問すれば、面倒だと思われる。
時間が欲しいと言えば、ほかの人へ行ってしまう。
できる範囲を伝えれば、期待されなくなる。
だから、先に大丈夫だと答えてきた。
でも、今日の相手は待ってくれた。
必要な確認をしたことで、やり取りは止まらなかった。
すべての人が同じではないだろう。
急いでいる依頼もある。
条件が合わず、断られることもある。
それでも、自分を守る言葉を伝えた瞬間に、必ず関係が壊れるわけではない。
そのことを、紡は初めて実感した。
夕方、美咲と駅近くのカフェで会った。
朝の電話だけでは話し足りず、美咲が誘ってくれた。
「お祝いしよう」
そう言われたが、まだ引き受けられるかわからない。
紡は断ろうとした。
すると美咲は、
「依頼が来たお祝いだから、受けられるかどうかは別」
と言った。
二人は窓際の席へ座った。
美咲は小さなケーキを注文した。
紡は紅茶だけにしようと思ったが、結局同じケーキを頼んだ。
白いクリームの上に、薄く切った苺がのっている。
「改めて、おめでとう」
美咲がフォークを持ったまま言った。
「まだ決まってないって」
「だから、声をかけられたことのお祝い」
「ありがとう」
紡は少し照れながら答えた。
ケーキを一口食べる。
甘さが口に広がる。
朝から緊張していた体が、ようやく少し緩んだ。
「どんな記事?」
美咲が聞く。
紡は内容を説明した。
会社員として働きながら、身近な町を歩くこと。
写真を添えること。
三週間後が締め切りであること。
報酬があること。
「紡に合ってるじゃん」
美咲はすぐに言った。
「そう思う?」
「午後四時半にたい焼き食べた話、そのまま使えそう」
「そのままでは記事にならないよ」
「でも、始まりにはなるでしょう」
紡は頷いた。
確かに、あの日から始められる。
時間を作った。
何かをしなければと焦った。
町を歩いた。
遠くへ行かなくても、知らない時間があると気づいた。
そこから、働く人が自分の町を見直す文章へ広げられるかもしれない。
「会社、通るかな」
紡が言うと、美咲は少し考えた。
「会社のことを書くわけじゃないんでしょう?」
「うん。勤務先も仕事の内容も出さない」
「競合でもないし、本業に支障がない形なら大丈夫そうだけど」
「最終的には会社が決めるから」
「そうだね」
美咲はケーキを食べながら言った。
「でも、前もって聞いておいてよかったね」
「本当に」
「キャリア面談も受けて、規則も調べて。全部つながってる」
紡は紅茶の水面を見つめた。
あのときは、まだ何も起きていなかった。
それでも調べた。
遠回りのように見えた行動が、今日の紡を支えている。
三島で水を見たこと。
会社で任せることを覚えたこと。
生活設計を作ったこと。
就業規則を読んだこと。
キャリア面談を受けたこと。
時差出勤を試したこと。
午後四時半の町を歩いたこと。
一つ一つは小さかった。
でも、そのどれかが欠けていたら、今日の依頼へ落ち着いて向き合えなかったかもしれない。
「受けられたら、最初の記事になるんだね」
美咲が言った。
紡は頷いた。
「うん」
「緊張する?」
「する」
「書けそう?」
紡はすぐには答えなかった。
書きたい。
でも、書けると言い切るのは怖い。
以前なら、自信がないからと曖昧にしたかもしれない。
けれど今は、怖いことと、できないことは同じではないと思える。
「書いてみたい」
紡は答えた。
「それでいいじゃん」
美咲が笑った。
カフェを出る頃には、外が暗くなっていた。
駅前の灯りが、濡れていない歩道にも淡く映っている。
美咲と別れ、紡は一人で家へ向かった。
歩きながら、記事のことを考える。
まだ会社の許可はない。
正式に受けてもいない。
それでも、頭の中では言葉が動き始めている。
午前八時の静かな会社。
午後四時半の明るさ。
公園のベンチ。
たい焼き。
仕事の外に一日が残っているという感覚。
遠くへ行けない人にも、旅のような時間は作れるかもしれない。
そう書けば、働きながら自分の時間を失っている人へ届くだろうか。
考え始めると、すぐに文章へしたくなる。
でも、まだ急がない。
会社へ確認する。
正式な返事を受ける。
それから始める。
順番を守ることも、仕事の一部だ。
部屋へ戻ると、母から写真への返信が届いていた。
『団子の写真、きれいに撮れてるね』
その下に、
『文章のこと、会社にちゃんと聞いてから決めなさい』
と続いている。
紡は笑った。
『明日相談する』
と返す。
すぐに、
『緊張するだろうけど、聞くだけ聞いてみたら』
と届いた。
母も、以前とは少し違う。
心配しながら、聞いてみることを勧めてくれている。
紡の行動だけではなく、母の言葉も変わり始めている。
夜、青いノートを開いた。
今日の出来事を、順番に書いていく。
朝、初めての依頼が来た。
すぐに引き受けず、条件を確認した。
相手は丁寧に答えてくれた。
報酬がある。
会社への申請が必要。
金曜日まで返事を待ってもらえる。
美咲とケーキを食べた。
母が、よかったじゃないと言った。
最後の一文を書いたとき、また胸が温かくなった。
初めての依頼が来たことと同じくらい、母の言葉が嬉しかった。
紡は新しい見出しを書いた。
「受ける前に守ること」
会社の規則を確認する。
生活を壊す日程にしない。
書く範囲を明確にする。
相手の許可がない人や場所を扱わない。
写真を撮るときは、映り込みに気をつける。
修正の意図を確認する。
自分が書きたくない形へ変えられそうなら、話し合う。
難しいときは断る。
最後の「断る」を書く手が少し止まった。
せっかく来た最初の依頼。
多少無理でも、受けたい。
どんな修正でも応えなければ。
次につなげるためには、断らない方がいい。
そんな気持ちは、きっとこれからも出てくる。
でも、最初だからこそ、自分の境界を曖昧にしたくなかった。
一度、無理な条件を受け入れてしまえば、それが仕事の形になってしまう。
夢を守るために、境界を作る。
以前書いた言葉が、今夜も戻ってくる。
紡は「断る」の横に、小さく足した。
「相手を拒むためではなく、続けるために」
書き終えると、少し怖さが和らいだ。
依頼を受けることだけが前進ではない。
条件を確認すること。
会社へ相談すること。
できないことを伝えること。
必要なら断ること。
それらも、自分の文章を仕事へ育てるための行動なのだ。
投稿を書くか迷った。
まだ正式に決まっていない依頼を、公にしていいのだろうか。
相手の名前や内容を出さなくても、今は書かない方がいい気がした。
契約が決まる前に、誰かへ知らせる必要はない。
嬉しさをすぐに外へ出したい気持ちはある。
反応が欲しい。
祝ってほしい。
でも、すべての出来事を、その日のうちに投稿しなくてもいい。
今日は、母と美咲へ話した。
青いノートへ書いた。
それで十分だった。
紡はスマートフォンを伏せた。
発信を続けているからこそ、発信しない時間も必要なのだと思う。
まだ形になっていない出来事を、自分の中で温める時間。
誰にも見せず、喜んだり怖がったりする時間。
それがなければ、何かが起きるたびに、外からの反応で自分の気持ちを決めることになる。
最初の依頼が来た。
それをどう受け止めるかは、いいねの数で決めたくなかった。
寝る前、紡は仕事用の黒いノートを取り出した。
月曜日、上司へ伝える内容を書く。
個人的な発信を見た地域情報サイトから、記事の執筆相談が来たこと。
報酬が発生すること。
勤務先や業務内容は一切扱わないこと。
会社の事業と競合しないこと。
執筆と撮影は勤務時間外に行うこと。
締め切りまでの予定を確認していること。
申請に必要な書類を教えてほしいこと。
声に出して読んでみる。
まだ少し固い。
緊張で、言葉が出なくなるかもしれない。
それでも、話すしかない。
依頼が来たことを隠さず、自分から相談する。
キャリア面談で、副業について聞いた日の自分を思い出す。
あのときも怖かった。
でも、聞いたから今がある。
紡は黒いノートを閉じた。
深い青色のノートの最後に、一行を書く。
「夢に近づく知らせが届いた日ほど、足元を確かめる」
ペンを置く。
嬉しさは、まだ胸の中にある。
それを抑え込む必要はない。
怖さも消えていない。
どちらも持ったまま、月曜日に会社へ行く。
許可が出るかはわからない。
正式に依頼を受けられるかもわからない。
初めての記事が、思うように書けるかもわからない。
それでも、今日まで続けてきた言葉が、誰かの目に留まった。
その事実だけは変わらない。
紡は部屋の灯りを消した。
暗闇の中で、朝届いたメッセージの一文が浮かんだ。
記事の執筆をご相談できないでしょうか。
まだ入り口に立っただけだった。
けれど、その入り口は、紡が毎日の中で書き続けてきた言葉の先にあった。
明日は、その扉を開いてもいいか、自分の声で確かめに行く。




