第37章 返事の来ない時間
火曜日の朝、紡が目を覚まして最初に見たのはスマートフォンの画面だった。依頼主から概要書が届いているかもしれない。まだ届いていない。約束は午前中だ。何の不自然さもないのに、紡は受信一覧をもう一度更新した。
画面が変わらないとわかっていても、指が勝手に動く。この感覚を、紡は覚えていた。就職活動の結果を待っていたときの朝と、どこか似ている。あのときも、変えられない結果を、ただ待つことしかできなかった。違うのは、今回は自分から望んで、この不安な場所に立ったということだった。誰かに強いられたのではない。自分で選んだ不安。それでも、不安であることに変わりはなかった。
カーテンを開けると、外はまだ薄暗い。昨日、上司へ相談した内容が、頭の中で何度も再生される。会議室での上司の表情、自分が答えた言葉、申請書の項目。すべてが正しかっただろうかと、今さら不安になる。紡は布団から出て、いつもより丁寧に朝食を作った。急いでも、結果は変わらない。今日一日をどう過ごすかだけが、自分で選べることだった。
青いノートを開く。昨夜書いた「結果を急がず、必要な順番を進む」の下に、書き足した。
「待つことは、何もしないことではない」
続きは浮かばなかった。先に進めすぎれば、許可が出なかったときに、その時間も気持ちも行き場を失う。紡は「許可がなくても役立つことだけをする」と決めた——発信に使う写真の整理、過去の投稿に勤務先が推測される情報がないかの見直し。
写真の整理をしながら、紡は自分が投稿してきた数か月分の記録を見返した。最初の一枚は、ただ怖くて震える指で撮った空の写真だった。今は、記事として提出する前提で撮る写真も増えている。同じカメラで撮っているのに、撮る理由が少しずつ変わってきている。それは自然なことのはずなのに、紡はふと、あの日の震える指の感覚を忘れたくないと思った。
会社では、真帆が研修資料の修正で迷っていた。操作を間違えた場合の説明をどこへ入れるか。「最初は安心するための短い案内、最後に実際の戻し方をまとめたら」と伝えると、真帆はすぐに手を動かした。不安になる人には、最初に見通しが必要なのだ——自分も同じだった。許可が出なかったらどうするか、金曜までに返事が出なかったらどうするか。紡は黒いノートに、結果ごとの動き方を書き並べた。道が一つしかないと思うから、返事が来ない時間が怖くなる。
作業をしながら、真帆がふと尋ねた。
「藤沢さん、最近何か考え事してます?」
紡は少し驚いた。
「わかる?」
「なんとなく。いつもよりノートを見る回数が多い気がして」
「実は、会社の外で書く仕事の相談をしていて、今日返事を待ってるところ」
真帆は目を丸くした。
「すごいですね。頑張ってください」
「ありがとう。結果はまだわからないけどね」
「藤沢さんなら大丈夫だと思います」
根拠のない励ましだったが、紡には少しありがたかった。
午前九時半、バッグの中でスマートフォンが震えた。勤務中は確認しないと決めていたのに、意識の一部が引っ張られ、資料の同じ行へ何度も目が戻る。外の仕事を始める前から、本業に影響が出ている。紡はバッグを引き出しへしまい、今日終える仕事を紙へ書き出した。一つずつ目の前へ戻すうち、通知のことを考える回数は減っていった。
昼休み、届いていたのは依頼主からの概要書だった。依頼元、業務内容、想定文字数、報酬、支払い方法、権利関係——必要な内容が簡潔にまとまっている。紡はお礼の返信を送り、上司へも共有した。
美咲が向かいに座る。
「朝から何回スマホ見た?」
「起きてから二回。会社では見てない」
「えらい」
「でも気になって、集中できなかった」
「仕事用と分けたら? 通知切るとか、見る時間決めるとか」
紡はメモを取った。朝、昼休み、退勤後だけ確認する。まだ仕事を受けてもいないのに、決めることが増えていく。それを負担とは感じなかった。自分がどう働きたいかを、細かく選んでいる感覚があった。
以前の紡なら、こうしたルールを作ること自体を面倒に感じていただろう。今は違う。ルールがあることで、逆に自由になれる部分があると気づき始めていた。何も決めていなければ、いつでもスマートフォンに手が伸びる。決めておけば、決めていない時間は、堂々と気にしなくていい。制約が、安心につながることもある。
「美咲は、何か新しいこと始めるとき、どうやって不安と付き合ってる?」紡が尋ねると、美咲は少し考えた。
「私は、最悪のパターンを先に考えちゃう。それで、意外と最悪でもなんとかなるかもって思うようにしてる」
「私は逆かも。うまくいくパターンばかり考えて、いざだめだったときに立ち直れなくなる」
「じゃあ、最悪も考えといたら? 今日、もし許可が出なかったら?」
紡は少し黙ってから答えた。
「がっかりする。でも、断る理由を聞いて、次にどうすればいいか考える」
「それ、最悪でもなんとかなるパターンじゃない」
紡は思わず笑った。美咲の言う通りだった。
「美咲のキャリア面談、明日だっけ」
「異動のこと、聞いてみたい。転職しないと変えられないと思ってたけど、社内にも知らない仕事があるから」
紡が背中を押すと、美咲は少し真剣な顔になった。
「紡の副業、もし許可が出なかったらどうする?」
「今回は断る。理由を聞く。次に受けられる形を確認する」
「前より強くなったね。断られても平気って意味じゃなくて、断られるかもしれないのに聞けるようになったってこと」
強くなったとは思わない。今も怖い。でも、怖いまま確認する。断られたあとに理由を聞く。それなら、以前より少しできるようになった。
午後、紡は申請書を完成させ、上司へ確認を頼んだ。「この内容で出して大丈夫だと思う」と言われ、申請ボタンを押す。画面に「申請を受け付けました」とだけ表示された。特別な音も、大きな変化もない。それでも紡の中では、自分の希望が会社の正式な手続きへ渡った。
申請を終えたあと、紡はしばらく画面を見つめていた。ボタン一つで終わる作業に、これまでの何日もの迷いが詰め込まれている。真帆が通りかかり、紡の様子に気づいて声をかけた。
「終わりました?」
「うん、出した」
「お疲れさまです。あとは待つだけですね」
「待つだけ、か」
紡はその言葉を繰り返した。待つことは、これまで何度も苦手だと感じてきた。それでも今回は、待つ前にやれることを全部やったという実感があった。だから、以前より少しだけ落ち着いて待てる気がした。
退勤時刻まで、人事からの連絡はなかった。状態は「確認中」。許可でも不許可でもない、判断の途中。会社を出ると細かな雨が降っていた。傘を持っていなかったことに気づき、紡は駅までの短い距離を小走りで進んだ。肩が少し濡れる。判断を待つ一日は、こんな些細なことにも心がついていかない。
濡れた肩の感触に、紡はふと苦笑した。天気予報を確認する余裕さえなかった。それだけ、頭の中が申請の結果でいっぱいになっていたということだった。傘を忘れるくらい何かに集中できるのは、悪いことではないのかもしれない。それでも、生活の細部にまで手が回らなくなるほどの集中は、長くは続けられない。紡はその境界を、まだ探している最中だった。
駅の屋根の下でスマートフォンを見ると、セリからメッセージが届いていた。
『新しい投稿がしばらくないので、体調は大丈夫ですか』
紡は依頼が来てから投稿していなかったことに気づいた。正式に決まっていないことを外へ出したくなかった。『元気です。少し確認しなければならないことが続いていて』と返すと、
『書けない日と、書かない日を同じにしなくていいと思います』
と返ってきた。書けないのではなく、書かないことを選んでいたのかもしれない。結果が出る前に、外からの期待を増やさないために。『それなら、その時間も必要な仕事ですね』紡が送ると、セリからは少し間を置いて返信が届いた。
『はい。書いていない時間にも、考えていることはたくさんあります。私はそれを、見えない下書きと呼んでいます』
見えない下書き。紡はその言葉をノートへ書き写した。今、紡が待っているこの時間も、いつか記事の一部になるかもしれない下書きなのだと思うと、何もしていないという焦りが、少しだけやわらいだ。
翌朝、水曜日。結果はまだ届いていない。昨日より落ち込みは少なかった。少しずつ、待つことに慣れてきているのかもしれない。会社に着くと、上司が席へ来た。
「申請の件で、二つ質問が来てる。一つは、会社員としての働き方を書くことで、社内の実態に触れる可能性がないか。もう一つは、顔写真や本名を掲載する予定があるか」
紡は答えた。「会社の制度名や運用、社内の出来事には触れません。名前については媒体に確認します。顔写真は掲載しない予定です」
上司は頷きながらメモを取った。
「早いね、答えるのが」
「昨日も似たようなことを考えていたので」
「準備してたんだ」
「準備というか、考え続けてただけです」
上司は少し笑って、それ以上は何も言わずに自分の席へ戻っていった。
昼休み、依頼主へ確認すると、発信で使っている名前で問題ないこと、顔写真は不要であることがすぐに返ってきた。人事への回答を上司へ見せ、「これでいいと思う」と言われる。名前をどこまで出すか、いつか自分で考えなければならない問いが、静かに残った。
午後、真帆が「昨日の説明、うまくいきました」と報告に来た。「安心するための短い案内を先に置いたら、質問がほとんど来ませんでした」紡は自分のことのように嬉しかった。人事の返事を待つ間も、会社の仕事は普通に進んでいく。当たり前のことだが、その当たり前が、待つ時間を支えてくれていた。
退勤前、上司が紡の席へ来た。
「人事から、明日の午前中には判断を出したいと連絡があった」
「本当ですか」
「まだ許可されるとは限らないけど、確認は終盤みたい。今日はもうできることはないよ」
会社を出ると、雨上がりの空に淡い橙色が残っていた。母にも美咲にも伝えなかった。今夜は自分だけで待ちたかった。焼いた鮭と味噌汁で静かに夕食を取る。不許可だった場合の理由を想像し、そのときの自分の顔を想像し、朝書いた戻り方を思い出す。どちらの結果が来ても、明日の自分にはすることがある。
食事を終えたあと、紡は部屋を片づけた。散らかっていたわけではないが、手を動かしていたかった。本棚の並びを整え、洗濯物を畳み、シンクを磨く。結果を待つ時間を、何もしない空白のままにしたくなかった。片づけを終える頃には、部屋の隅々まで見慣れた景色になっていた。それだけのことで、少し心が落ち着いた。
青いノートに書く。
「今夜できることはない。眠る。食べる。明日の仕事へ行く準備をする」
あまりにも普通のことだった。でも、結果を待つ夜には、その普通のことが難しい。紡はスマートフォンを手の届かない机の上へ置き、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、頭の中に浮かんだのは、許可が出るか出ないかではなく、明日もまた同じように会社へ行き、真帆と話し、自分の仕事を続けるという、当たり前の光景だった。結果がどちらであっても、その当たり前は変わらない。そう思うと、不思議と呼吸が楽になった。




