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『旅するわたしの、足音を聴く』  作者: 久遠 睦


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29/63

第29章 三十歳までの地図

水曜日の夜、紡は白い花を片づけた。

数日前まで、グラスの中で静かに咲いていた花は、もう花びらの端が透けるように薄くなっていた。

茎も柔らかくなり、水を替えても、前のようにまっすぐには戻らない。

それでも、最後まで部屋に小さな明るさを置いてくれた花だった。

紡は新聞紙を広げ、花をそっと包んだ。

捨てる、というより、見送るような気持ちだった。

花屋の店員が言っていた。

花も頑張ったんですよ。

その言葉を思い出しながら、紡は小さく頷いた。

頑張ったものは、終わっても消えるわけではない。

白い花を買った日。

水を替えた朝。

茎を少し切った夜。

花びらが一枚落ちた日。

それらは、青いノートの中にも、紡の中にも残っている。

部屋のグラスは空になった。

けれど、その空っぽのグラスを見ても、寂しさだけではなかった。

また何かを入れられる。

水でもいい。

花でもいい。

ときには空のまま置いておいてもいい。

空白は、終わりではなく、次のものを迎える場所にもなる。

紡はグラスを洗い、棚に戻した。

テーブルの上には、昨日図書館で借りた本が三冊並んでいる。

郷土料理の本。

街道の本。

商店街についての本。

その横に、深い青色のノート。

紡は椅子に座った。

昨日書いたページを開く。

続けるための生活設計。

お金。

時間。

体力。

仕事。

そこには、朝の布団の中で怖がりながら書いた数字や、昼休みのカフェで書いた時間の使い方が並んでいる。

夢を現実に近づけると、少し怖い。

でも、紙に書かれた文字は、もう紡を責めてはいなかった。

むしろ、ここから考えればいい、と静かに示してくれているようだった。

紡は新しいページを開いた。

ペンを持ち、しばらく白い紙を見つめる。

三十歳までに、会社を辞める。

日本中を旅しながら、その土地の歴史や文化、食、暮らしを発信して生きていく。

その夢は、ずっと紡の中にあった。

でも、いつも大きな塊のままだった。

大きすぎて、どこから触ればいいのかわからなかった。

近づこうとすると怖くなり、結局また「いつか」の棚へ戻してしまう。

三十歳まで。

その言葉は、紡にとって焦りでもあった。

友人たちの結婚や昇進を見たとき。

母に安定を願われたとき。

通帳の数字を見たとき。

会社で来期の役割を渡されたとき。

何度も胸の奥で重く響いた。

もう二十七。

あと三年もない。

そう思うと、息が詰まった。

でも今日は、その言葉を少し違う形で見てみたかった。

三十歳まで。

それは、ただ迫ってくる期限ではなく、地図にできる時間なのかもしれない。

紡はページの一番上に書いた。

「三十歳までの地図」

書いた瞬間、胸が少し震えた。

地図。

旅のための地図ではなく、自分の時間の地図。

まだ行ったことのない未来を、少しずつ見える形にするための地図。

紡はページを横に使い、線を引いた。

今。

二十八歳。

二十九歳。

三十歳。

それぞれの場所に、小さく丸をつける。

たったそれだけで、時間が少し形を持った。

今までは、三十歳という数字が、遠くから自分を追いかけてくるように感じていた。

でも、こうして線にすると、その間にもいくつもの場所がある。

今日から三十歳までの間には、まだ日々がある。

朝があり、夜があり、給料日があり、旅に出られる週末があり、書けない日があり、また書ける日がある。

紡はまず、「今」の下に書いた。

会社員。

発信を始めたばかり。

小田原、三島へ一泊。

母の肉じゃがを書いた。

セリさんに会った。

暮らしの湯気をたどる。

旅積立あり。

まだ不安が大きい。

でも、止めたくない。

書き終えて、その欄をじっと見る。

まだ不安が大きい。

でも、止めたくない。

それが今の自分だった。

弱くもある。

でも、弱いだけではない。

小さく動いてきた跡が、そこにはあった。

次に、「二十八歳」の下へペンを移す。

何を書けばいいのか、少し迷った。

二十八歳の自分。

まだ想像しきれない。

でも、完璧に決める必要はない。

地図は、歩きながら書き足してもいい。

紡は思いつくままに書いた。

月一回の近距離旅、または日帰り取材。

週二回の記録時間を守る。

図書館を使う。

近所と実家の記録を続ける。

旅費の月額積立を見直す。

投稿を月に八本以上。

長めの文章を月に一本。

会社では残業を増やしすぎない働き方を作る。

真帆に任せる範囲を増やす。

母に少しずつ話す。

投稿を月に八本以上、と書いたところで少し緊張した。

できるだろうか。

忙しい月もある。

疲れる日もある。

でも、週二回なら月に八本。

写真一枚と短い記録でもいい。

長い文章でなくてもいい。

近所の花屋でも、昼の定食屋でも、通勤の水音でもいい。

そう考えると、絶対に無理というほどではなかった。

紡は隣に小さく書いた。

「短くてもよい」

その一言があるだけで、少し息がしやすくなった。

続けるには、逃げ道ではなく、余白が必要だ。

次に、「二十九歳」の下へ進む。

ここは、少し大きくなる。

紡はペンを握り直した。

二十九歳。

三十歳の前の一年。

きっと、その頃には今よりは多くの町を歩いている。

文章も少し増えている。

フォロワーがどれくらいになっているかはわからない。

収入につながっているかどうかもわからない。

でも、少なくとも、続けていたい。

紡は書いた。

旅と記録の蓄積を整理する。

長文記事をまとめる場所を作る。

収入の可能性を調べる。

仕事以外で書く実績を作る。

小さな依頼を受けられる形を考える。

半年分の生活費を目標に貯める。

働き方の選択肢を調べる。

副業のルールを確認する。

退職ではなく、まず働き方の幅を考える。

一人で抱えず、相談できる人を増やす。

副業のルール。

その言葉を書いたとき、紡は少し現実に引き戻された。

会社には就業規則がある。

勝手に収益化していいのかどうかも、確認が必要だ。

旅と発信を仕事にしたいと言いながら、そういう具体的なことから目を逸らしていた。

でも、これも大事な準備だ。

知らないまま怖がるより、調べた方がいい。

紡は「確認する」と赤いペンで小さく印をつけた。

退職ではなく、まず働き方の幅を考える。

この一文も、今の紡にはしっくり来た。

会社を辞めるか、残るか。

その二つだけで考えると苦しくなる。

でも、時短、部署異動、在宅勤務、副業、転職、業務委託、貯蓄期間。

働き方には、きっともっと幅がある。

まだ知らないだけだ。

知らないことは、怖い。

でも、調べれば少し形になる。

小田原も、三島も、最初は地図の上の名前だった。

調べて、予約して、歩いて、人の言葉を聞いたから、自分の中に場所として残った。

働き方も、同じなのかもしれない。

最後に、「三十歳」の下へ進む。

ペン先が、少し止まる。

三十歳。

ずっと、そこが目的地のように思っていた。

三十歳までに会社を辞めて、旅をして生きる。

それができなければ、自分は夢を叶えられなかった人になる。

そんなふうに、どこかで思っていた。

でも、三島の水も、母の肉じゃがも、セリの言葉も、紡に少し違うことを教えてくれた。

続けること。

変わりながら続けること。

怖いまま、丁寧に書くこと。

今いる場所からも書くこと。

夢を勢いだけで壊さないこと。

それなら、三十歳は終点ではない。

そこで全部が完成していなければいけないわけでもない。

三十歳は、ひとつの確認地点でいい。

紡はそう思った。

そして、ゆっくり書いた。

三十歳の時点で、会社を辞めるかどうかを自分で選べる状態にする。

旅と発信を続けている。

文章の蓄積がある。

最低一年分の生活設計を作る。

収入の見込みを複数持つ。

母に自分の考えを伝えている。

怖さを理由に止めない。

勢いだけで決めない。

自分の足で選ぶ。

会社を辞める。

そうは書かなかった。

自分で選べる状態にする。

その言葉を書いた瞬間、胸の奥が少しほどけた。

辞めることだけが夢の証明ではない。

辞められる準備をしたうえで、選ぶこと。

残るにしても、辞めるにしても、自分の足で選ぶこと。

それが、今の紡にとっては大切だった。

誰かに押されて辞めるのではなく。

苦しさから逃げるように辞めるのでもなく。

母の心配を言い訳に残るのでもなく。

会社の期待に流されて残るのでもなく。

自分の足で選ぶ。

そのための三年にしたい。

紡はノートを見つめた。

ページいっぱいに文字が並んでいる。

大きな地図ではない。

きれいな計画表でもない。

数字もまだ曖昧で、書かれていることの多くは、これから調べなければならない。

でも、何もなかった白いページに、道らしきものが見え始めている。

それだけで、息がしやすくなった。

紡はスマートフォンを手に取り、カレンダーを開いた。

今月の予定。

来月の予定。

仕事の会議。

母と会う日。

図書館の返却期限。

空いている日曜日。

その中に、ひとつ新しい予定を入れた。

「就業規則を確認する」

来週の水曜日の夜。

もう一つ、月末の土曜日。

「旅費計画を見直す」

さらに、来月の休日に、

「日帰り候補を三つ調べる」

予定として入れると、ただの思いつきではなくなる。

日付を持った行動になる。

小田原を予約したとき、夢が予定になった。

今日も少し似ていた。

三十歳までの地図が、カレンダーの中に小さく入り始めている。

紡は深く息を吐いた。

少し疲れた。

未来のことを考えるのは、体力がいる。

でも、逃げずに書けたことが嬉しかった。

翌日、会社へ行くと、いつも通り忙しかった。

新メンバーの受け入れ準備は最終段階に入っている。

真帆が作った全体図を、上司が褒めた。

「これ、わかりやすいね」

真帆は嬉しそうに、でも少し照れながら「藤沢さんに見てもらいました」と言った。

紡はすぐに首を横に振った。

「真帆さんが考えた流れがよかったんです」

真帆が驚いたように紡を見る。

紡は微笑んだ。

本当にそう思った。

自分が全部を抱え込んでいたら、真帆の考えた流れは見えなかった。

任せることで、生まれるものがある。

それは仕事でも、文章でも同じだった。

午前中の会議が終わったあと、上司が紡に声をかけた。

「藤沢さん、少し時間ある?」

「はい」

会議室ではなく、休憩スペースの端だった。

上司は缶コーヒーを手にしている。

「最近、来期の役割について、前向きに進めてくれて助かってる」

「ありがとうございます」

「無理はしてない?」

紡は一瞬、いつものように「大丈夫です」と言いかけた。

でも、昨日の年表のページが頭に浮かんだ。

会社員の自分を、仮の姿にしない。

働き方の幅を考える。

自分の足で選ぶ。

紡は少しだけ正直に答えることにした。

「忙しさはあります。でも、以前より分担できているので、前よりは無理をしすぎていないと思います」

「そう。それならよかった」

上司は頷いた。

紡は少し迷ってから、言葉を続けた。

「ただ、今後も今のように業務時間内で調整しながら進めたいです。残業前提になると、長くは続かないと思っていて」

言えた。

上司は少し考えたあと、頷いた。

「それはそうだね。藤沢さんに頼る部分はあるけど、残業ありきにはしないようにしよう」

「ありがとうございます」

「何かやりたいこともあるって言ってたしね」

紡は少し驚いた。

上司は深くは聞かなかった。

でも、覚えていてくれたのだ。

文章や旅の記録のことを、少しだけ話した日。

あのときの言葉が、会社の中にも残っている。

「はい。続けたいことがあるので」

紡は静かに答えた。

「いいと思うよ」

上司は言った。

「仕事以外に大事なものがある人の方が、仕事でも無理しすぎないで済むことがあるから」

その言葉に、紡は少し意外な気持ちになった。

仕事以外に大事なものがある人。

会社では、仕事を最優先にできる人が評価されると思っていた。

もちろん、責任を持つことは大切だ。

でも、自分の外側に大切なものがあることは、仕事をおろそかにすることとは違うのかもしれない。

「ありがとうございます」

紡はもう一度言った。

休憩スペースを出ると、胸の中に静かな安心が残っていた。

すべてを話したわけではない。

三十歳までの地図を見せたわけでもない。

でも、続けたいものがあると、また少し言えた。

昼休み、美咲とカフェへ行った。

いつもの定食屋ではなく、少しだけ静かな場所にした。

紡は、昨夜書いた三十歳までの地図のことを話した。

「年表を書いたの」

「年表?」

美咲がアイスコーヒーを混ぜながら聞き返す。

「今から三十歳まで。二十八歳、二十九歳、三十歳って」

「すごい。急に現実的」

「自分でもそう思う」

紡は少し笑った。

「でも、書いたら少し楽になった。三十歳までに会社を辞めなきゃって思ってたけど、そうじゃなくて、三十歳の時点で選べる状態にしたいんだって思った」

美咲は静かに頷いた。

「いいね、それ」

「うん。辞めるか残るかを、焦りで決めたくない」

「紡っぽい」

「慎重すぎる?」

「違う。大事にしてる感じ」

美咲はカップを置いた。

「夢を大事にしてるから、雑に扱いたくないんでしょ」

その言葉に、紡は胸がじんわり温かくなった。

夢を大事にしているから、雑に扱いたくない。

まさに、そうだった。

勢いだけで壊したくない。

怖いから先延ばしにするのでもなく、焦って飛び出すのでもなく。

大事に準備したい。

「美咲って、たまにすごくいいこと言うよね」

紡が言うと、美咲は笑った。

「たまに?」

「いつも」

「今さら遅い」

二人で笑った。

その笑いの中にも、少しだけ未来の話が混じっていた。

美咲が言った。

「私も書いてみようかな。三十歳までの地図」

「書いてみて」

「怖いな」

「怖い数字ほど、紙に出す」

紡が言うと、美咲は顔をしかめた。

「それ、効くけど痛い言葉」

「私も痛かった」

「でも、書いてみる」

美咲は少し真剣な顔で言った。

「今のままだと、なんとなく毎日が過ぎていく感じがするから」

紡は頷いた。

美咲の中にも、何かが動き始めている。

紡が書いたものや話したことが、少しだけ美咲の中にも流れているのかもしれない。

それが嬉しかった。

夜、紡は部屋に戻って、三十歳までの地図をもう一度見た。

昨日よりも、少し落ち着いて読めた。

書いたばかりのときは、胸がいっぱいだった。

今日は、その地図を少し離れて見られる。

今。

二十八歳。

二十九歳。

三十歳。

完璧ではない。

きっと変わる。

予定通りにいかないこともある。

体調を崩すかもしれない。

仕事が忙しくなるかもしれない。

投稿が怖くなる時期もあるかもしれない。

貯金が思うように増えない月もあるだろう。

でも、変わっていい。

水のように。

地図は、歩きながら書き直していい。

紡はその下に、新しい一文を書き足した。

「地図は、未来を縛るものではなく、迷ったときに戻る場所」

書いたあと、深く頷いた。

これなら、持っていける。

未来を固定するための計画ではない。

自分を責めるための表でもない。

迷ったときに、自分が何を大事にしたいのかを思い出すための地図。

それなら、何度でも見直せる。

何度でも書き直せる。

紡はそのページを写真に撮ろうとして、少し手を止めた。

これは、すぐに投稿するものではないと思った。

あまりに自分の内側に近い。

数字も、迷いも、母のことも、仕事のことも書いてある。

全部を公開する必要はない。

書くことと、見せることは同じではない。

セリの言葉を思い出す。

書かない選択もある。

紡はスマートフォンを置いた。

その代わり、地図から少し離れた言葉で投稿を書くことにした。

写真は、ノートを閉じた状態。

深い青色の表紙だけ。

横に置いた図書館の本の角が少しだけ写っている。

文章を書く。

「三十歳までにどうしたいのかを、初めて年表のように書いてみた。書く前は、三十歳という数字がただ怖かった。でも、今、二十八歳、二十九歳、三十歳と線を引いてみると、その間にも日々があるのだと少しわかった。焦って決めるためではなく、自分で選べる状態に近づくために。地図は、未来を縛るものではなく、迷ったときに戻る場所にしたい」

読み返す。

これなら、今の気持ちを伝えられる。

でも、細かい中身は守られている。

紡は投稿した。

しばらくして、コメントが届いた。

『三十歳が怖い数字に見えていたので、地図にするという考え方に救われました』

『未来を縛るものではなく、迷ったときに戻る場所。すごく響きました』

『私も年表を書いてみたくなりました』

紡は一つひとつ読んだ。

自分の怖さを少し外へ出すと、誰かの怖さともつながる。

それは何度経験しても、不思議だった。

夜、母からメッセージが来た。

『三十歳までの地図、いいね。でも無理しないでね』

紡は笑った。

母らしい。

『無理しないための地図にする』

そう返す。

少しして、母からもう一通届いた。

『それならいいと思う』

その短い返事に、紡は胸が温かくなった。

母も、少しずつ受け取ってくれている。

全部ではなくてもいい。

少しずつでいい。

寝る前、紡は青いノートを開いた。

三十歳までの地図のページに、最後にもう一行だけ書いた。

「私は、選べる自分になるために歩いている」

その文字を見て、静かに息を吐く。

会社を辞めるためだけではない。

旅に出るためだけでもない。

誰かに認められるためでもない。

自分で選べる自分になるために。

そのために、お金を見る。

時間を整える。

仕事の範囲を伝える。

母に話す。

旅に出る。

近所を見る。

書く。

怖いまま、丁寧に。

水のように、止めずに。

紡はノートを閉じた。

テーブルの上には、まだ読んでいない図書館の本がある。

カレンダーには、就業規則を確認する予定が入っている。

通帳アプリには、怖いけれど向き合うべき数字がある。

どれも、夢のそばにある現実だった。

以前なら、その現実を見たくなかった。

でも今夜は、少し違う。

現実があるから、夢を続ける形を考えられる。

そう思えた。

部屋の灯りを消すと、ノートの深い青色は闇に溶けた。

けれど、そこに書いた地図は、紡の中に残っている。

三十歳は、もうただ追いかけてくる数字ではなかった。

そこへ向かう道を、自分で少しずつ描き始めた。

そのことが、今夜の紡を静かに支えていた。


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